写真の色
溜まっていた写真を
アルバムに整理する
パソコンの中でじゃない
そんな話じゃないんだ
どちらも物としてある
それは古い訳でもなく
家で
プリントアウトした訳でもなく
町の写真屋さんで
現像して焼いて貰ったんだよ
あれって
何で焼くって言うだろう
写真にするだけなんだけどね
その内
意味合いが消えるのかな
フィルムですら
驚くほど減っているから
当たり前かな
アマチュア無線みたいに
なったりするんだろうなぁ
そんな話をしながら
テーブルの上には
広がる彩り
何と睨めっこをするのか
同じ長方形でも
違う物だから
変な重さは無い
データ化されたら
みんな見るのか
物としてあるから
みんな見たいのか
意味合いが違うはずなのに
深くは考えない
抑揚がない世界に
新しく出来上がる抑揚は
危険物質と同じ扱いになるだろう
一つに纏まるというより
一つに纏まる事を楽しむ様な
さながらゲームであるからだ
理念も信念も無い
纏まりになってしまうからだ
最初の小さな球体だけが
理念や信念を内包するのだろうが
大きくなればなるほど
飽和していき
結局は
単純な物しか残らない
骨しか残らないのだ
頭が悪くなるのか
一部分だけが特化するのか
わからないけれど
置き換わった物が
代用品として
納得いく物になるかは
また別物なのだろう
小さなニーズは
マニアと置き換わって
個々の個性と
同じ扱いになっている
一つに繋がりながら
個々を大切にする事は
人類には不可能なのだ
心情は複雑であり
1と0の組み合わせを狂わせる
地球のバグに近い人間の心情は
インターネット空間で
食物連鎖を既に始めている
人間は生物だと言える
人間は獣だと言える
無かった空間が出来上がり
その中で
一つの種の心情が
食物連鎖を
行なっているのだから
間違いなく言える
自然の摂理だって
人間が学んだ事だけれど
学んだから違う事が出来るとは
誰も言えないのだ
人類には不可能な事が
科学以外でも
まだある
それを悲しいと思うか
それを受け入れるか
それを拒絶するか
どれを行なっても
結果は変わらないだろう
一瞬という時間を
作れたとしても




