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5. 人間でも悪魔でも


2週間後。

午後の日差しの中、マリアンナは自室で茶を飲みながら読書をしていた。メイドのリナが入ってきて言った。


「お嬢様、旦那様がお呼びになっております」


マリアンナは「え?」と不思議そうな表情を浮かべた。リナは続ける。


「旦那様は客間です。その、グルテア侯爵も来ております」


マリアンナは目を細めた。ここ数日の一連の流れを教えてくれるのかしら。小さく息を吐くと、マリアンナは立ち上がった。






マリアンナはあれきり舞踏会に行かなくなった。というより、父親が当分外出禁止と命じたのだ。


理由として考えられるのはただ一つ、ホルツ子爵のスキャンダルに他ならなかった。しかも、あれほど共通して若い令嬢をターゲットにしていたのに、結局要になったのは未亡人のシュヴァルツ夫人だったという話だ。

シュヴァルツ夫人といえば絶大な権力を持っており、社交界にあまり出向かないマリアンナでさえも知っていた。策士として有名、彼女の機嫌を損ねれば社交界から追放されるとも言われている。彼女が考えなしにスキャンダルになるような人物ではないことは明らかだった。


でも、なぜホルツ子爵がシュヴァルツ夫人と? 私がお父様に舞踏会に行くのを禁じられる理由は何?

そもそもスキャンダル自体もメイドのリナから聞いた話で、マリアンナは詳しい事情を知らなかった。





客間に入ると、マリアンナの父バフマン伯爵と、グルテア侯爵が上等な肘掛け椅子に座っていた。


「こんにちは、侯爵様。お元気そうでなによりです」


マリアンナの挨拶に、グルテア侯爵も微笑みを浮かべた。


「こんにちは、マリアンナ嬢。今日はあなたに話すべき事があって参りました」


グルテア侯爵は短く挨拶をすませ、マリアンナが椅子に座ると、早速本題に入った。


「マリアンナ嬢もご存知の通り、ホルツ子爵はどこか怪しかった。手当たり次第若い令嬢と関係を持とうとしていたでしょう。この前私がマリアンナ嬢と話した晩、あの舞踏会場で、ホルツ子爵はシュヴァルツ夫人の姪、ローゼンベルク嬢に求婚しました」


マリアンナは目を丸くした。ローゼンベルク嬢は、マリアンナが久しぶりに舞踏会に来た時ホルツ子爵と踊っていたあの若い公爵令嬢だ。あの日にそんなことが?


「で、でも、ホルツ子爵は、ルイーゼ様に……ルイーゼ・リンド子爵令嬢に求婚していたはずでは……」


グルテア侯爵は頷いた。


「その通り。2人だけではない、ホルツ子爵はそのほかにも6人ほどの令嬢に求婚していた」


「6人も……!」


なんとあさましいのだろうか。ルイーゼのように苦しんだ女性もいたはずだ。マリアンナは心を痛めた。

侯爵は続ける。


「それにいち早く気づいたシュヴァルツ夫人は、姪をそんな男の犠牲にしてなるものかと考えた。そこで夫人はホルツ子爵に架空の令嬢をあてがったのです」


「架空の……?」


「ええ。王家の血を引き、広大な敷地の所有権を公爵家から受け継ぐ、見目麗しい16歳の乙女がいて、夫を探していると、夫人は子爵に言ったらしい。まあ、言った通り全て嘘なのだが、夫人の話に子爵は飛びついた。そうして高額な結婚資金が必要だといい、爵位まで返上するように要求したんだ、結婚すればまた爵位を得られるのだからと言って」


マリアンナは侯爵の話にぞっとした。

幼い頃、兄が社交界は恐ろしいところだと言っていた。前はただ駆け引きや打算があるからだと思っていたが、シュヴァルツ夫人のように、陥れるような罠を簡単にしかけてしまう人間がいる世界だということを、マリアンナは改めて知った。


「だが、事はシュヴァルツ夫人の予想をはるかに上回った」


グルテア侯爵は苦い顔を浮かべた。


「爵位を失い、財産を失っても、とにかくその架空の令嬢と会いたいと考えた子爵は、シュヴァルツ夫人の屋敷に押しかけてきたそうです。そこまでは夫人も予想していたらしいが、なんとその後、夫人に拳銃を突きつけた」


マリアンナは嫌な予感がした。


「まってください、グルテア侯爵。今回のスキャンダルは、誰かが亡くなったなんてことは……」


「……銃口は、シュヴァルツ夫人に向いていたが、ホルツ子爵が引き金を引いた瞬間、咄嗟に近くにいた子爵の従者が夫人の前に出てきたそうです。そうして、弾は彼の脇腹に当たった」


マリアンナは呆然とした。子爵の……従者?


「驚いた子爵は、持っていた銃を取り落とし、拘束されました。驚いたことに、子爵は急に老けた容貌になっていたということです。夫人は無事で何事もありませんでしたが、脇腹を撃たれたその若者は、病院に搬送されました」


「侯爵様、彼は……もしかして……」


マリアンナが恐る恐る問うと、グルテア侯爵は頷いた。


「そうです。その従者というのが、あなたがこの前友人だと紹介してくれた、エルヴィン・ゴットハルト青年でした」


マリアンナは息をのんだ。


「侯爵様、彼は……彼は、無事ですの……?」


マリアンナの蒼白な顔に、侯爵は苦虫を噛み潰したような顔になった。


「それが……その、不可解なことに彼は病院から、忽然と姿を消してしまったそうです。どこを探しても見つからない」


その時、父であるバフマン伯爵が初めて口を開いた。


「グルテアから、彼がお前の友人だときいていたから、お前が舞踏会であらぬ噂をきいてショックを受けないよう、外出を禁じたのだ。彼の話はシュヴァルツ夫人から直接聞いた話、全て真実だ」


マリアンナは青い顔のまま呆然と立ち尽くしていた。

彼が撃たれた。そのことがマリアンナの頭をぐるぐると回っていた。


グルテア侯爵は言った。


「医者が見た限り、至近距離ゆえに傷は深かったそうです。シュヴァルツ夫人にとっても彼は恩人ですから、総出で彼の行方を追っていますが、3日たってもいまだ見つからず……。留置されているホルツ子爵の元にも来ていないそうです。一体どこへ行ったのやら」


「マリアンナ、お前は彼がどこにいるかなど検討がつかないか? 捜索しても生家さえもわからないらしいのだ」


マリアンナはぼんやりと首を振った。


「いいえ……存じません」


グルテア侯爵は、気の毒そうにマリアンナを見ていたが、やがて立ち上がった。


「とにかく、見つかったらすぐに連絡をよこしましょう。マリアンナ嬢、お気を強く持つのです」









グルテア侯爵が屋敷を去った後、バフマン伯爵は押し黙ったままの娘の前に座り、心配そうに見ていた。


「……お前には謝らねばなるまいな」


父の言葉に、マリアンナはふっと顔を上げた。バフマン伯爵は久しぶりに意志の宿った目をしていた。


「まず、ホルツ子爵をお前に紹介したことだ。あの時どうしてそんなことをしたのか、正直なところ全く覚えておらんのだ。ただ、あの時お茶出しをしていたリナを問いつめれば、子爵は早々に帰ったというじゃないか。まあ、被害に遭わずにすんでよかったが……」


マリアンナは下を向いたが、伯爵は続けた。


「その後も、お前になぜかしきりに舞踏会に行けと言っていた。悪い虫がついては困るから、フランツが王都に帰って来た時だけ参加させるようにしていたが……、ここ最近はなぜかお前に参加を強要していた。今となっては全くの疑問だ」


伯爵はほんとうにわからない、というように肩をすくめた。


「だが、ほんとうに謝らねばならないのは、ほかにある。何かわかるか、マリアンナ」


マリアンナは父を見た。真剣な表情をしている。


「わかりません、お父様。でも私は、お父様に対して不満に思ったことなど……」


「そういう教育をしてきたということだ」


マリアンナは目を見開いた。伯爵は続ける。


「私はお前が幼い頃から、貴族とはどうあるべきなのかということを説いてきた。しかし、そうすることでお前が意見を持つことを諦めてしまったと早いうちから気づくべきであったのだ。まさかそれを、大量の舞踏会の招待状を渡すまで気づかなかったとは」


マリアンナは首を振った。


「い、いいえ、いいえ! お父様は私を宝のように育ててくださいました。自分の意志を持つのをやめたのは、私が私自身を守るためですわ!」


そう、マリアンナは絶望の淵に立たされるということが恐ろしくて仕方がなかった。苦しんでいる人がいたら助けたい、と以前エルヴィンに言ったが、彼らのように苦しむのは耐えきれないと思っていた。それゆえに、できるだけ望まないように、与えられたものだけで満足するようにしてきたのだ。

なんて臆病なのかしら。エルヴィン様が知ったら笑われてしまいそうね。マリアンナは、思い通りのままに生きる彼を思い出していた。そう、自分の思う通りに生きている彼が、マリアンナにとてもまぶしく映ったのはそうした理由があった。


バフマン伯爵は静かに言った。


「どちらにせよ、私はそういう環境をお前に強いてきたのだ。だが……その、お前の友人は違ったようだな。お前がさっきのように動揺するのを、私は初めて見た。私は、彼を知らぬが、お前の認めた相手なら……構わないと思っている。彼が……無事であるといいな」


マリアンナは、はっと息をのんで父の顔を見た。

バフマン伯爵はめずらしく娘に微笑んでいた。しかし目にはしっかり意志が宿っているのが見える。

マリアンナは呼吸の仕方を忘れたように息が浅くなっているのを感じた。父の言っている言葉の意味は、わからないようでしっかりと理解できた。私が……私が彼を選んでもいいの? もうすでに客間を出ようとしている父の背中をマリアンナは慌てて呼び止めた。


「あの、お父様!」


伯爵が振り返ると、マリアンナは少し躊躇したが、拳を握りしめると父親に言った。


「その……教会へ行くことをお許しいただけませんでしょうか」








マリアンナは町の教会に来ていた。

もう晩鐘がなる頃で、夕日がステンドグラスをきれいに照らし、床にその美しい色が反射しているその光景は見事で、付き添いのリナは目を輝かせて見ていたが、マリアンナはただ跪いて一心不乱に祈っていた。


悪魔はどのように死ぬのだろうか。そもそも死ぬのだろうか。怪我をしていたのは見たことがある。人間と全く一緒のように見えた。前にどこかの本で、悪魔は実態がないゆえに消えてなくなると読んだ。また別の本では、世にも恐ろしい姿になってしまうと書いてあった。とにかく、祈ることはただ一つしかなかった。


神様、こんなことをあなたに頼むのはお門違いかもしれません。ですが、お願いです、彼の命をどうか助けてください。この先、どんな境遇でも嘆いたりはいたしません。ですが、今回だけはお願いです。どうか、どうかエルヴィン様をお救いください。


空に一番星が輝く頃、リナと神父が声をかけるまで、マリアンナはずっと祈り続けた。






その日の夜。

マリアンナはなかなか寝つけなかった。


食事はあまり喉を通らず、父もメイドも執事も心配そうな顔を浮かべていた。

「必要なら、フランツを呼ぶぞ」と、父は言ってくれたが、マリアンナは微笑んで首を振った。


何度目かの寝返りをうったときのことだ。

ガタン、と窓の方で音がした。

マリアンナはふっと目を開けて窓の方を見た。


暗闇であったが、月明かりによって影が床にうつっているのが見えた。

マリアンナは一瞬身を固まらせたが、ぐっと拳を握りしめて上半身を起こした。


「誰……?」


返事はなかった。だが、何者かの息遣いは聞こえるし、窓には何かの影が見える。まさか、エルヴィン様? 一瞬そう思ったが、影は人型ではない。手すりのところに“何か”がいるのだ。


マリアンナは燭台に灯をともし、それを持ってベッドを出た。

おそるおそる窓の方に近づいていく。


マリアンナは窓の前に立ち止まった。

目の前にいたのは、見たこともないような怪物だった。

およそ3メートルはある大きな黒い身体で、後ろには身体と同色の大きな翼が生え、鋭いかぎ爪の脚で手すりの上に立っている。細長い2本の腕の先にはそれぞれ指は3本しかなく、そちらにも大きなかぎ爪が生えていた。大きすぎる赤い目と、口は大きく尖った耳まで引き裂かれ、ちらと歯が見えた。

マリアンナは驚いて燭台を落とし、言葉を失った。

床に落ちたろうそくの火が消えても、暗闇になれたマリアンナには、月明かりで十分その姿は見えた。


怪物は、マリアンナが後ずさるのを見て、手すりからばっと飛び降りると、爪の音を鳴らしてマリアンナの部屋には入ってきた。

マリアンナは呼吸の仕方を忘れたように、浅い息遣いで、ただただ目を見張るばかりだった。

しかし、しばらくその状態が続いたが、怪物は何かをしようとする様子はなかった。マリアンナに掴みかかろうとすることもなく、ただそこにいるだけだ。


一体何しに来たのだろうか。

マリアンナは震える自分の手を握った。


マリアンナは「誰なの?」と聞こうとしてやめた。前にも同じようなことがあったのを思い出したのだ。

彼は何と言っていただろうか。翼は生えているが、人間の姿の時には仕舞えるし、消せると言っていた。


『この姿は仮の姿、ほんとうは今とは似ても似つかない、恐ろしい姿をしております』


マリアンナは恐る恐る怪物の顔を見上げて赤い目を見た。

赤い目もじっとこちらを見下ろしている。


マリアンナは一歩踏み出して勇気を振り絞って言った。


「あなたは……エルヴィン様?」


怪物は唸るだけで、何も言わない。マリアンナはまた一歩踏み出して、その細長い腕に手を触れてまた見上げた。


「エルヴィン様なのでしょう?」


その時だ。突然しゅうーっと怪物から音が出て、もくもくと白い煙が立ち込めたかと思うと、マリアンナの周りが見えなくなった。

なにこれ……蒸気? まるで霧のようなそれに、マリアンナは身を強張らせて目をぎゅっとつぶったが、左手で触れている怪物の腕は離さなかった。


やがて音は止み、目を開けると、煙はほとんど消えていた。と、左手で触れているのが怪物の腕ではなく、上等な黒いジャケットになっている。

はっとして顔をあげると、すぐ目の前には満面の笑みを浮かべたエルヴィン・ゴットハルトが立っていた。目は先ほどの怪物と同じで赤く光っている。


「お久しぶりですね、マリアンナ様」


「エ、エルヴィン様……!」


生きている。

彼は生きているのだ。

その事実を目の前で知り、マリアンナは嬉しさのあまり、彼を見つめる目から涙を溢れさせ、唇を震わせた。


一方エルヴィンは突然泣き始めたマリアンナに驚いて「え? ちょ、ちょっと、そんな……な、泣いてる!?」とあたふたしている。


「ごめんなさい」


マリアンナは涙を拭った。


「あなたが……死んだかもしれないと思って……こうしてまた会えて、ほんとうに嬉しくて……」


そう言って微笑んだマリアンナに、エルヴィンは目を見開いていたが、苦笑いを浮かべた。


「言ったでしょう、私はそんなにやわじゃありませんって。一度銃で撃たれたからって死ぬわけじゃないんです」


マリアンナはほっとしたように、また涙を流した。そしてエルヴィンの片手を取って両手で握り、その手にキスをして自分の頬に当てる。


「よかった……ほんとうによかったわ……」


エルヴィンはそんなマリアンナの様子に、顔を真っ赤にさせて大きく咳払いをした。


「とと、と、と、とりあえず、座って話しましょうか」






マリアンナは落とした燭台を拾って灯を灯し、テーブルに置いた。

初めてエルヴィンがこの部屋に来たときと同じように、彼はマリアンナのお気に入りの肘掛け椅子に座り、マリアンナはベッドに腰掛ける。


エルヴィンが言った。


「ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。傷も治ってぴんぴんしてますから、ご安心ください」


マリアンナは心配そうに眉尻を下げた。


「今までどちらに……? 捜索隊があなたを探しているとききました」


「まあ、この世にいたり、いなかったり、ですかね。病院ではさすがに人間のふりは難しいので抜け出したんですよ」


「その……シュヴァルツ夫人とのこと、何があったのかおききしてもよろしいのかしら? なんでもホルツ子爵が夫人に銃を向けたとか」


エルヴィンは苦笑いを浮かべた。


「奴はもう子爵でもなんでもないですよ。まんまとあのバ……夫人に嵌められたんです。無茶をしすぎたんですよ。流石の私も手を引きました」


「手を引くとは……? 契約が取りやめになったのですか?」


「ええ。私としてもいろいろ条件をつけているんです。その中で、契約者が私を殺したらその瞬間に契約は破棄されることにしています。無事彼とは関係も切れましたからね、今はもう奴は中年の男に戻っていますよ。いやあ魂は手に入りませんでしたが、せいせいしました」


マリアンナは頷いたが、彼の話をきいて、おやと思った。


「“私を殺したら”……? エルヴィン様、エルヴィン様は一度命を落としたということですか?」


エルヴィンは肩をすくめた。


「そうですね、まあ私自身が完全に死んだわけではないんです。悪魔がこの世から消えるにはそれ相応のパワーが必要ですから。ほんとうのことを言うと、エルヴィン・ゴットハルトという肉体は死んだんです。でないと、契約破棄にはなりませんからね。それで普通なら、別の人間で姿を現わす決まりになってるんですけど……」


エルヴィンは頭をかいて視線を下げた。


「その、あなたが……教会で祈ってくれたでしょう、私が助かるように。それで、向こうの連中から一度だけとお許しが出たんですよ」


マリアンナは目を見開いた。


「まあ! では、私の願いを聞き入れて……! そんなことって……」


ああ神様、ありがとうございます。マリアンナは胸に手を当てた。


「私も初めてですよ。いつもいつも向こうの連中からは、説教と嫌味ばかり言われていますからね。そうそう、この姿に戻れるのも条件つきだったんですよ」


「条件つき? 」


「ええ」


エルヴィンは「全く」と少し苛立ったように脚を組んで頬杖をついた。


「さっき私は化け物の姿だったでしょう? あれは……私の本来の姿なんです。連中はあの姿であなたの前に現れて、あなたが私だとわからなければ、このエルヴィン・ゴットハルトの姿に戻れないと定めたんです。どうせまた、見かけに騙されず中身で判断しなければ、とかいう道徳観念の押しつけなんでしょうけど。ほんっと意地が悪い」


マリアンナは、そのいかにも嫌そうな言い方に笑みをもらしたが、首を振った。


「でも私は人間ですから、人の顔が変わってしまうとあなたと思えなかったかもしれません。あなただとわかってよかった」


そのほっとした笑顔に、エルヴィンはまた驚いたような表情を浮かべて凝視していたが、はっとして慌てて目を逸らした。そして大きく咳払いをすると続けた。


「え、え、ええと、どこまで話しましたっけ。そうだ、ホルツが夫人に銃を向けたんでしたね。実はあれも私が仕向けたと言いますか、夫人に憎しみを持つようにさせたんですよね。まあ彼女もそれが目的だったみたいですけど。まさか銃口まで向けられるとは思っていなかったようでしたね。私は計算通りでしたが」


マリアンナは目を瞬かせた。


「仕向けた? エルヴィン様、まさか子爵が夫人を殺そうとしたのも、その弾に当たったのも、全てあなたの筋書きということですか……?」


「まあそんなところです。いろいろ予定外もありましたけどね。思いのほか至近距離でしたし、病院に搬送されるとは思わなかったので……」


「エルヴィン様!」


マリアンナは思わず立ち上がっていた。拳を握りしめてぶるぶると震わせている。こんなに怒りを覚えたのは久しぶりだった。


「は、はい……なんでしょう」


エルヴィンはびっくりした顔をしている。

マリアンナは怒鳴り声にはならずともそれに似た声で言った。


「あれほど……あれほど、ご自分を大事にしてくださいと申しましたのに! 自ら……自ら死のうとするなんて!」


気がつくと、マリアンナはまた涙を零していた。今度はエルヴィンが「わわっ! ま、また」と慌てたように立ち上がってわたわたとし始める。そうして思い出したようにポケットからハンカチを取り出してマリアンナに差し出したが、マリアンナは受け取らずに顔を背けた。


「わた、私、ほんとうに心配しましたのよ……あなたが……あなたが死んでしまったらと……」


マリアンナのその様子に、エルヴィンは心底驚いたような顔をしていた。

心配されたのは生まれて初めてだと言うように。否、実際のところ初めてだったのである。


エルヴィンは、しばらく彼女のすすり泣き声をきいていたが、やがて持っていたハンカチで彼女の涙を拭った。


「すみません。もう二度と無茶はしません」


今までの軽い言動とは違い、その言葉は真摯に感じられた。

マリアンナは顔をあげて、彼の顔を見た。真剣な表情をしている。

マリアンナはハンカチを受け取ると自分で涙を拭いて、また後ろのベッドの端に座った。


「ごめんなさい、取り乱してしまって。でも……一体なぜシュヴァルツ夫人の屋敷でそんな事が起こるように仕向けたんですの?」


エルヴィンは、彼女の怒りが収まったことにほっとした。そして椅子には戻らず、彼女の前に立ったまま答えた。


「シュヴァルツ夫人がホルツを罠に嵌めたのは、私にとって契機でした。奴とは手を切りたいと思ってましたから。それにご存知の通り、夫人は頭が切れることもあって絶大な権力をお持ちだ。助ければ私は大した大物になれる。それも狙いでした。現に今大掛かりで、恩人である私の捜索を行ってくれている」


マリアンナは、おやと思い彼を見上げた。


「夫人を助けたのは、社交界で権力を持つ彼女の後ろ盾を得るため、ということですか? まさか、それは……!」


エルヴィンは頬をぽりぽりとかいた。


「あなたに約束したでしょう、あなたのお父上のお眼鏡にかなう人物になってみせると。まあ、まだ爵位をもらうと決まったわけではありませんから、これからですけど」


言った。

確かに彼はそう言っていた。

だが、前に父に使ったような術を行うのかと思っていた。マリアンナがそう言うと、エルヴィンは、ああと苦笑いを浮かべた。


「催眠術は一時的な効果しか約束されていないんですよ。社交界は常に変化しているし、何より人数が多い。一人一人に術をかけるなんてそんな細かいこと、私はやりません。元々権力を持っている人間に、それも揺るぎない力を持っている者に頼るのが、一番安心できます。夫人はそういった点で価値がありました」


彼が自ら撃たれたのは、夫人に恩を着せるため? それは、私の父を納得させるための、地位を得るためだったからということなの? マリアンナはまたぐるぐると考えた。


「そうであるなら、あなたが命を危うくしたのは、私のせい……?」


そうこぼした言葉に、マリアンナはたちまち自己嫌悪にかられ、涙が溜まってくる。


「いやいやいや、ちょっとまってください!」


エルヴィンが慌てて言った。


「そりゃ、マリアンナ様のためにシュヴァルツ夫人に近づきましたがね、死ぬつもりではなかったんです。死んだのはあくまで契約を切るためというか……。ほら、私なら死ななくても彼女に恩を着せることはできますから! だからお願い、泣かないでください、もう十分反省してますから」


マリアンナはエルヴィンの必死な言葉に少し安堵して涙を拭った。


「ごめんなさい、私、あまり泣かないのです。なので、一度出してしまうと止まらなくて」


マリアンナは大きく深呼吸した。泣いてはだめ。エルヴィン様が困っているじゃない。

息を吸って吐く。3回繰り返すと、もうすっかり大丈夫な気がした。


エルヴィンも大丈夫だと微笑んでみせた彼女に、ほっとした笑みを浮かべて続けた。


「ようやくこの姿に戻れたので、とりあえず明日は夫人のところへ行こうと思っております。その待遇がどこまでなのか、わかりませんがね。命がけで守った恩人ですから、悪くはないと思うんですが。まあ大したことがなくても、地道に恩を着せて出世していけば……」


渋い顔でそう続けるエルヴィンに、マリアンナは胸に込み上げてくる何かを感じた。

そうだ、私は彼に言わなければならない。


「エルヴィン様、私の、父ですが」


マリアンナはすっくと立つと、まっすぐ彼の顔を見た。エルヴィンはきょとんとした表情をしている。


「今日、父とあなたの事を話しましたの」


「えっ」


エルヴィンは引きつった表情を浮かべた。


「ま、まさか、私が術を使ったことを……」


「いいえ、その事ではありません」


マリアンナは微笑んで首を振った。


「父は、私が意志を持たないようになったことを詫び、私の認めた相手なら構わないと言ってくださいました。そして、あなたが無事であるといいとも」


エルヴィンは目を見開いた。


「え……、そ、それは」


マリアンナは少し頬を赤らめ、微笑んで頷いた。


「エルヴィン様、私はあなたを愛しています。あなたの正体が人間でも悪魔でも、私を望んでくださるのなら、私はあなたと添い遂げたいのです」


マリアンナがそう言った後、数秒たったが、エルヴィンは固まったまま動かなかった。息もしていない。


「あの……エルヴィン様?」


そう呼ばれて、彼は止まっていた息を大きく吸い込み、赤い目を見開いたままマリアンナの目を覗きこんだ。


「嘘じゃないですよね? まさか私を騙そうなんて考えていないと信じていいんですよね? あなたは、私のことを……その、す、す、好きだと信じていいんですよね?」


その確認に、マリアンナは笑みを浮かべて頷いた。


「ええ」


「その、り、理由をきいてもいいですか? だ、だって、最初に言ってた時みたいに、優しいからとか、博識だから、とかダンスが上手だからとか言われても……。そんなの、悪魔だからなんでもできるに決まってるんですからね!」


マリアンナはくすくす笑った。


「そうでしたわね、なんでもできるあなたも好きですが……あなたが自分の思いのままに生きている姿が素敵だと思いますし……」


「は……?」


エルヴィンはぽかんと口を開けた。


「思いのままに? そんなのほかの悪魔どころか、誰だってそうですよ、あのホルツだって!」


エルヴィンはふてくされたように顔を背けてしまった。一緒にされたと思い、不服なのだろう。


「全然違います」


マリアンナは首を振った。


「ただ欲望を求めるのではなく、あなたは一つの望みのために様々な努力をしていらっしゃいます。それは、皆ができることではありませんわ」


「そう……ですかね」


エルヴィンはいまいちピンとこないような表情だった。マリアンナは続けた。


「それに優しいというのも、なかなかできることではありませんのよ」


マリアンナはそっぽを向いているエルヴィンの頬に、そっと手を当てて視線を合わせた。


「あなたは私の意志を尊重してくださる。環境や外堀を問題とするのではなく、私の心があなたに傾くのを願ってくれたでしょう。私にはそれがとても嬉しいことでした。あなたはほんとうにーー優しい悪魔ですわ」


エルヴィンは赤い目を見開き、顔も赤くさせて彼女の目を食いいるように見つめていたが、とうとう言った。


「あ、あの……あとでちゃんと……ちゃんと正式に屋敷に来ますけど……その、い、一度だけ、一度だけ、あなたにキ、キスをしてもいいですか」


とたんにマリアンナは顔を赤く染めたが、蚊の鳴くような声で「はい」と言ったのを、エルヴィンは聞き逃しはしなかった。





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