4. 前に会った
それから4週ほど経ったが、マリアンナは舞踏会に参加するたびに、エルヴィン・ゴットハルトと踊った。マリアンナが来ている舞踏会に、毎回彼も来ていることは驚きであったが、彼は貴族だけの舞踏会にもなぜか招待されていて、踊らなくともマリアンナのそばにいてばかりいた。
ただ、時々ふと真顔になって遠くを見つめたかと思うと、急にいなくなることもあった。
今もそうだ。エルヴィンは「ちょっとすみません、すぐに戻ります」と行って会場を出ていった。
マリアンナは肩をすくめて、会場をぐるりと見回した。今夜も人が多い。向こうの方で高笑いしているのは、叔母のアグネスだ。彼女はほんとうに社交的だわ。
ぼんやりとホールの景色を眺めていたが、ふと、二階の階段上で言い争いをする若い男女が、マリアンナの目に入った。
あれは……ルイーゼ様だわ。令嬢の方はマリアンナの友人だった。
2つ歳下で、少しわがままなところがあるが、根は優しい子爵令嬢だ。
相手の困ったような表情をした青年は誰かしら。話にきいていた婚約者?
と、怒ったような顔のルイーゼが、身をひるがえして彼の元から離れていってしまった。青年の方は膝をつき、両手で顔を覆っている。
「修羅場ですね」
突然近くで声がしてマリアンナはびくっと振り返った。
「エ、エルヴィン様。いつのまに帰ってらっしゃったのですか」
「つい今しがたですよ。それにしても」
エルヴィンはにやっと笑みを浮かべた。
「やはり人間はおもしろいですね。あの2人、ずっと昔から婚約していたのに、1人の邪魔が入っただけでもう壊れかけている」
マリアンナは驚いてエルヴィンの顔を見た。おもしろい? こんな状況でも、この人は一線を引いて見ているのかしら。
「……エルヴィン様はご存知なのですか? 私はご令嬢の方とはお友達なのだけど、男性の方はよく知らなくて」
「知り合いです。まあ、単純でわかりやすい男ですが、悪い人間じゃありません。事を起こしたのは、ご令嬢の方ですよ」
「ルイーゼ様が? 一体何があったというのです?」
マリアンナの問いに、エルヴィンはめんどくさそうに肩をすくめた。
「まあ、そんな他人のことはどうでもいいじゃありませんか。それよりもまた一緒にーー」
「どうでもよくありません」
こちらに伸ばしてきたエルヴィンの手を、マリアンナは払いのけてきっぱり言った。エルヴィンはびっくりしたようなショックを受けたような顔になった。
マリアンナは強い眼差しで言った。
「たしかにおせっかいかもしれませんが、彼女は私の友人です。できることはしなければなりません。ほら、ご覧になって」
マリアンナが促した視線の先には、まだ絶望しているあの青年がいた。
「もし、あれが自分だったらと考えてみてください。他人事だと笑っていられないでしょう」
エルヴィンは口を尖らせて小さく言った。
「私だったらあんなヘマはしないから……」
「そういう問題ではありません」
マリアンナは首を振った。
「彼はあんなに苦しんでいますのよ。誰にだってそういう時はあるのではなくて?」
エルヴィンはマリアンナにそう言われて、何かを思い出すかのように目を見開いた。
そうして静かに頷く。
「……そう、ですね。たしかに、そんな時に助けてもらえたら、救われるでしょうね」
そう言ったエルヴィンの方をマリアンナはぐるっと振り向いて嬉しそうに笑みを浮かべた。
「でしょう! とにかく、私はルイーゼ様と話します」
「わかりました、いいでしょう……ほら、あそこにいます、涙を浮かべてますよ」
エルヴィンがそう言って指した方を見ると、階段を降りたところにルイーゼが立っているのが見えた。
ルイーゼは、人気のない柱裏で壁際を向いて肩を震わせていた。
「ルイーゼ様」
マリアンナがそう声をかけると、彼女ははっと振り向いた。
「これは……マリアンナ様」
子爵令嬢は涙を拭いて向きなおり、マリアンナに正式なお辞儀をしてみせた。
「ルイーゼ様、突然話しかけてごめんなさい。でも気になってしまって……大丈夫ですか?」
マリアンナの優しげな言葉に、ルイーゼは眉を寄せて、再び目に涙を溜めた。
「私、どうしたら良いのでしょう」
マリアンナは泣いているルイーゼの話に耳を傾けていた。
「……つまりルイーゼ様は、ホルツ子爵に求婚されて、幼い頃から結んでいたディートリヒ様との婚約を解消しようとしている、ということですか?」
ルイーゼは頷いた。
「そうです。ホルツ子爵はとても優しく、それに財力もあるからと周りにも勧められて……私も贈り物をたくさんいただきましたの。ですから、まずはディートリヒとの婚約を解消したいと申したのです。だって、彼はあまり私に関心がないようだったから、そうするべきだと思って。彼は最初は冗談だと思って真面目に取り合ってくれなかったのですが、私が本気だとわかった瞬間に急に怒り出して……」
「それで、結局喧嘩のようになってしまったのですね」
ルイーゼが頷いたのを見ると、マリアンナは少し思案した。また子爵絡みだ。しかし、彼の悪口を言うつもりはなかった。
マリアンナは真剣な顔で言った。
「ルイーゼ様、ひとつお聞きしますが、きちんとディートリヒ様のお気持ちを確認したことがあるのでしょうか?」
「ディートリヒの気持ち? そんなの確認する必要もありませんわ、彼は私に無関心ですから……」
マリアンナはルイーゼの手を引いた。
「こちらに。今のディートリヒ様をご覧なさいな。あそこです」
ルイーゼは、マリアンナが指した方を見て、目を丸くさせた。
「まあ、あのディートリヒが……!」
ディートリヒはまだあの二階にいた。彼の横には、エルヴィンが立っていて、何か話しかけているように見えたが、ディートリヒの方は手すりに両手をついて絶望したようにずっと下を向いている。顔は絶望に濡れている。
マリアンナは言った。
「先ほど私が見たときも、とても悲しそうに見えましたのよ。あなたにもし、まだ彼を思う気持ちがおありなら……」
「マ、マリアンナ様」
ルイーゼはまた泣きそうな顔をしてこちらを向いた。
「ディートリヒはまだ、私と話をしてくれるでしょうか?」
マリアンナはほっとしたように笑みを浮かべた。
「きっと大丈夫です。さあ、行きましょう!」
「結局、ただのわがまま令嬢に振り回されただけでしたね」
エルヴィンは、向こう側で仲睦まじく手を握り合って話をしている、ルイーゼとディートリヒを見てぼんやり言った。
エルヴィンの横で、マリアンナも同じく彼らを眺めながら首を振った。
「あの2人にとっては過渡期だったのかと思います。少なくともルイーゼ様は、ディートリヒ様のお心を気にするようにはなりましたわ」
「まあ……それはディートリヒの方もそうでしょうね。決められた婚約者でしかなかったのに、別の人間に取られそうになって初めて自分の気持ちに気づいた、とかなんとか言っておりました。なんとも愚かな……」
「エルヴィン様」
マリアンナがエルヴィンの方を見る。
「エルヴィン様は、あの場を去ろうとする彼を引き止めておいてくださったのでしょう。そしてルイーゼ様と向き合うように言ってくださったのでしょう」
エルヴィンは肩をすくめた。
「まあ、あなたにああ言われてしまってはね。私にできることをやったまでです」
まるで仕方なくやったというような言い方に、マリアンナはくすりと笑い、笑みを浮かべた。
「ありがとうございました、私のわがままに付き合っていただいて。エルヴィン様は、やっぱりお優しい方ですね」
「えっ……」
エルヴィンはマリアンナの方を見た。礼を言われるとは思っていなかったようだ。
マリアンナは、あっと思いついたように言った。
「また、踊りませんか? エルヴィン様と踊るととっても楽しくて」
エルヴィンは目を丸くさせたが、すぐに「よよ、よ、喜んで」と首をガクガクと縦に振った。
相変わらず、エルヴィンのリードは完璧だった。優雅で、音楽に流れるように合わせ、見ている人々にも芸術のように映った。
だが、マリアンナの顔は浮かなかった。ルイーゼとディートリヒのことは解決したが、気がかりな事がまだ残っている。ほかでもない、ホルツ子爵のことだ。
ルイーゼには子爵の話は避けたが、婚約者のいる彼女に求婚したとは一体どういうことだろう。元々恋仲であるならわかるが、ルイーゼから聞く限りでは、そうではなかった。やはり、彼は様子がおかしい。そう考えたマリアンナは、自分も彼と初めて会った日に失礼なことをされたのだと思い出した。
「どうかいたしましたか、マリアンナ様?」
あまり楽しそうではない彼女に、エルヴィンはダンスをしながら、不安げに話しかけた。マリアンナははっとした。
「ごめんなさい、私ったら」
「少し休みますか?」
エルヴィンの気遣いに、マリアンナは微笑んだ。
「いいえ、大丈夫ですわ。ありがとうございます」
しかし、マリアンナの顔が浮かないのを見て、エルヴィンは言った。
「心配事があるのなら、どうか教えてください。私にできることがあればなんでもいたします」
真摯な言葉とその瞳に、マリアンナは少し考えてから言った。
「あなたのご友人のことをお聞きしてもよろしいでしょうか……ホルツ子爵のことを」
すると、エルヴィンは明らかにぎくりとし、ダンスにもその動揺があらわれた。
「す、すみません。あなたの口からその名前が出るとは」
マリアンナはエルヴィンの顔色が変わったことに気づいた。やはり彼は、何かを隠している。
「あの、つかぬことをお聞きしますが」
マリアンナはターンを返しながら言った。
「あなたと子爵は、ほんとうにご友人同士なのですか? ご友人というより、あなたは……彼に雇われているのでは?」
エルヴィンは目を見開いた。足を止めることはなく、ダンスは音楽のままに続いたが、彼は明らかに動揺していた。エルヴィンはしばらく黙っていたが、やがて言った。
「……あなたの言う通り、私は彼と取引しています」
エルヴィンは、彼女の目を見ることはなく遠くを見ていた。
「彼の指示に従うのが常です。彼が何をしているのか、何を望んでいるのかも知っている」
マリアンナは表情のない彼を見つめたまま、彼のリードに従ってダンスを続け、話をきいた。
「今回の問題が、ホルツの気まぐれが原因だったということも知っていました。あなたはそれについて言及せずに解決してくれましたが」
マリアンナは目を細めた。
「いつ終わるのかはわかりませんが、私は彼に従い続けなければなりません。彼との契約が切れるまでは、私は彼の友人でもあるし、下僕にもなります。いいえ、それだけではなく、道化もやるし、殴られたりもする。弱味を握られているとかそういうんじゃなく、ただそういう契約だからです。でも……でも、きいてください」
エルヴィンは逸らしていた目を落としてマリアンナを見つめた。
「私があなたと……あなたとお茶をしたいと思ったり、ダンスをしたいと思っているのは、契約とは全く関係ない。私は、私の意志であなたの……あなたにとって特別な存在になりたいと望んでいます。どうか、どうか信じてください」
エルヴィンの懇願するような瞳が、マリアンナをまっすぐに見つめる。その色はどこまでも誠実で、強い思いが感じられた。
と、この時、彼の強い瞳を通して、マリアンナの脳裏に再び昔の記憶が蘇った。やはり見覚えのある目。あの少年の目とそっくりだ。
マリアンナは頷こうとして、抱いた疑問を口に出していた。
「エルヴィン様……、私達、もしかしてずっと前にお会いしたことがありますか?」
エルヴィンは今度こそ足を止めた。
顔面蒼白だった。しかし、マリアンナは質問を撤回することはなく、棒立ちする彼の前に立ったまま、彼を見上げた。
と、同時に音楽が終わった。ダンスをしていた人々が会場の中央から捌けるのと一緒に、エルヴィンとマリアンナも無言でそれに従った。
マリアンナは、彼が何も言わなくなってしまったので、このまま彼とはもうこれきりになってしまうのだろうかと不安に思った。
しかし、エルヴィンは彼女の腕を離すことはなく、ずっと組んだまま無言で歩いていた。そうしているうちに、ホールから回廊に出た。
今夜は雲が晴れ、月がきれいに浮かんでいる。
生垣まで来ると、エルヴィンは立ち止まり、マリアンナの方を見ずに生垣の方を向いたまま言葉を選んでいたが、とうとう口を開いた。
「以前も、お会いした事があるとお答えしたら、どうしますか」
先ほど踊っていた時とは違って、静かで穏やかな声だったが、マリアンナはやっぱり! と嬉しくなって彼の方をぐるっと向いた。
「では、あなたはあの夜の……! 嬉しい、ずっとお会いしたいと思っていたのです!」
エルヴィンは、彼女の反応が予想外だったのか、ぽかんとこちらを見ている。
急に組んでいた腕の力がなくなった。
「え……? う、嬉しい……?」
マリアンナは笑みを浮かべて大きく頷いた。左腕が解放されたので、きちんとエルヴィンの方を向いて彼の右手を両手で握った。
「ええ! だって朝起きたらあなたはいなくなっていたんですもの。でも、エルヴィン様はあの時とずいぶん変わりましたわね、黒い翼はありませんし、声は低くなってらっしゃるし、目の色も赤ではないから、あなただってわかりませんでしたわ。物腰も柔らかくなって……!」
「ちょ、ちょっと、まってください!」
エルヴィンは目をぱちくりさせて、握られた手に顔を赤らめながら自由である方の手の平をマリアンナの前に広げた。
「あなたは、怖くないのですか? あの時の生き物が私だと知っても?」
今度はマリアンナの方が目をぱちくりさせた。
「怖い? 何が怖いのでしょう? それよりも教えてください、翼はどうしたのです、目は? なぜ黒くなったのですか」
「わ、わかりました、わかりました! ちゃんとお答えしますから!」
エルヴィンは質問を並べたてるマリアンナを遮った。
「翼は……小さくたたんで仕舞えるんですよ。完全に消すこともできます。目もほんとうは赤いのですが、赤いままでは人間に警戒されるので黒に変えています」
マリアンナは「まあすごい」と感心したように頷いた。それと同時に、やはり彼は人間ではなかったのだと確信した。
「あなたは……一体何者なんですの?」
エルヴィンは皮肉げに笑い、冗談めかしたように言った。
「その問いの答えを聞いても、あなたは両手を離さないと約束してくれますか?」
マリアンナは「え?」と自分の手を見下ろして、両手で彼の手を強く握っていたことに気づくと、「私ったら!」と顔を赤らめ、さっと手を後ろに引っ込めた。
「ごめんなさい、気づかないうちにあなたの手を握っていたのですね、痛かったでしょう……エルヴィン様?」
エルヴィンは左手で目元を覆っていた。「いや……予想外にあっさりしているといいますか……そうですよね、伯爵令嬢ですもんね」とつぶやいている意味は、マリアンナにはわからなかった。
しかしこれで、エルヴィン・ゴットハルトという人物が、マリアンナの今まで見てきた貴族男性と違う理由がわかった。そもそも違う世界に住む生き物なのだ。
「……エルヴィン様が、人間はおもしろいと達観していたのは、人間ではなかったからなのですね」
マリアンナは自分が気になっていたことを言うと、エルヴィンは頷いた。
「そうです。やわじゃないと言っていたのも、殴られても回復できる力があったからです。……昔はそんな力がなかったから、あなたに手当てをしてもらった」
「回復できる力なんて……あなたは魔法使いですの?」
エルヴィンは力なく笑った。
「魔法使いに翼はありませんよ、彼らも人間ですからね……私は……」
エルヴィンはぎゅっと眉を寄せて言った。
「私はね、悪魔なんですよ、マリアンナ様」
マリアンナはぽかんと目の前の青年を見つめた。
「あ、悪魔……?」
彼は憂いを帯びた表情で頷く。
「ええ、そうです。冗談ではなく正真正銘の悪魔ですよ。ご存知の通り、悪魔は人間を破滅に導き、害をなす存在、契約を持ちかけ、うまくいけば魂をいただいている。この姿は仮の姿、ほんとうは今とは似ても似つかない、恐ろしい姿をしております」
マリアンナは信じられないというように聞いていたが、一歩踏み出して彼の顔をまじまじと見た。
「あなたが悪魔……? ほんとうに?」
だが、悪魔ならば大体の謎が解明する。ここ数日の不可解なことは彼の術なのだろうか。
「で、では、ホルツ子爵は……あなたの契約相手ということでしょうか」
エルヴィンは頷いた。
「そうです。だから、望み通り彼は若返り、財を成した。今は結婚相手を探しています。彼があなたと会いたいと言った時も、お父上であるバフマン伯爵に催眠をかけてあなたを紹介するようにしたのは私です」
マリアンナは納得した。だからここ最近の父は彼らしくなかったのだ。しかし、疑問が残る。
「でも、私は子爵と会ってすぐに嫌われてしまいましたのに、その後も、舞踏会には何度も行くように言われましたわ。あれが父の意志とは思えないのですが」
エルヴィンは「あー」と下を向いて頭をかいた。
「その……それは、ホルツは関係ありません。私が独断でそう仕向けたのです。私が、あなたに会いたかったから」
「え……?」
マリアンナは目を丸くさせた。
「でも、子爵との契約に影響があるのでは?」
「ありません、そんなこと気にしてたら何にもできませんよ」
エルヴィンはマリアンナからは目を逸らしたまま肩をすくめた。
「我々は基本的に私欲で動きます。あなたが自分の心よりも貴族令嬢としての義務を優先させるように、私は契約よりも自分の望みを優先させるのです」
マリアンナはそれをきいて吹き出し、くすくすと笑った。まるで逆じゃない。たしかに、悪魔から見れば自分の意志を優先させないのは、愚かでおもしろいと思う対象なのかもしれない。
「そうでしたの、それであなたとは正反対の私に興味を持ったというわけですのね」
「え? ちがいますよ」
エルヴィンは心外だというように言った。
「もっと前です。私は、5年前にあなたと会った時から、あなたに助けてもらった時から、あなたにほ……ほ、惚れているんです」
思いがけず最後まで言ってしまって、エルヴィンはまたそっぽを向いてしまった。
マリアンナは言われてきょとんとしたが、少し嬉しそうに微笑んだ。
「そうでしたの。光栄ですわね。私と会うのを優先させてもらえるだなんて」
エルヴィンは少し顔を赤らめて横目で睨むようにマリアンナを見た。
「ほ、ほんとうにそう思ってるんですか? その割には……」
と、その後もエルヴィンはマリアンナが聞こえないくらいの小さな声でぶつぶつ言っている。
マリアンナは睨まれたことで、また懐かしさを感じた。そう、あの時少年の姿だった彼はマリアンナのことを思いきり睨みつけていた。何かを話そうともしなかったし、寝るように勧めても「余計なお世話だ」と言われたことを覚えている。あの時に比べると、彼はずいぶん態度が軟化したものだ。
「エルヴィン様は物腰も柔らかくなりましたのね」
「え?」
「最初にお会いした時は、少し尊大な印象を受けましたが、今はその……お優しいし、優雅でいらっしゃるでしょう? 一体なぜかしら、とーー」
「あなたに嫌われないためですよ!」
そっぽを向いていたエルヴィンは、赤い顔のままマリアンナをまっすぐ見て答えた。
「あんな態度のままじゃ、生粋の伯爵令嬢には絶対に嫌われますからね。頑張ってばかばかしい社交界の知識も増やしたんです」
「まあ……私のために?」
「ええ、そう……」
エルヴィンは腕を組んで自信満々にそこまで言って、自分で言っている事が恥ずかしくなったのか、またぐるっとそっぽを向いて「そうですよ」と答えた。
マリアンナはその様子に笑みをこぼした。
「なんだか嬉しいですわね。ここまで私の事を考えてくださっているなんて方、初めてですわ。私の魂はそんなに値打ちのあるものなのかしら」
そっぽを向いていたエルヴィンが眉を寄せて振り返った。
「あなたの魂? なんでそんな話になるんです」
「あら、あなたは私の魂が欲しいのでしょう? 悪魔とはそういうものだと先ほどエルヴィン様が……」
「ちがいます!」
エルヴィンは少し声を荒げた。
「確かにそう言いましたが、それは契約を結んでいる相手との話です。言ったでしょう、契約とは関係なく、私は私の意志であなたの特別な存在になりたいと。もちろんあなたの魂は非常に綺麗で魅力的ですが、欲しいものはそれじゃない。私は……あなたの心が欲しいんです」
「私の、心……?」
マリアンナは驚いたように手を口に当てた。
「で、ではあなたは、ただ純粋に私の事を……?」
エルヴィンはまた顔を赤らめて口を尖らせたが、今度は彼女から目を逸らすことはなかった。
「そ、そうですよ。さっきから何度もそう言っているじゃないですか」
マリアンナは目を瞬かせた。信じられないというように息をのんだ。
「困りますか、悪魔に好かれるなんて」
エルヴィンが投げやり気味にきいた。マリアンナは驚きを顔に浮かべながらも「い、いえ……」と言った。
「そうではなくて……その、打算もなしに、殿方からそのように言われたことがなかったので、びっくりしてしまって……」
マリアンナは頭を整理してから、エルヴィンの方をきちんと向いて真剣に言った。
「私は、貴族に生まれたからには、物語のような恋には縁のないことだと思っておりましたし、私自身にそれほどの価値があるとは思っておりませんでしたが……嬉しいものですね。その、ありがとうございます」
そう言って微笑んだマリアンナの頬は心なしか少し赤く染まっていた。
エルヴィンはそんな彼女を凝視し、固まったままだったが、またぐるっと後ろを向いてしまった。さっきからぐるぐると、忙しいことだ。
マリアンナは、月を見上げた。今夜はほんとうにきれいだ。エルヴィンと偶然再会したあの舞踏会の夜も、確かこんな月が浮かんでいた。
「あ、あの」
後ろを向きながらエルヴィンが言った。
「これからも、私と舞踏会でダンスを踊ってくれますか」
緊張したような声で言うエルヴィンの背中に、マリアンナは笑みを浮かべた。
「もちろんですわ。私もエルヴィン様とのダンスはとても楽しいですもの。でも……」
マリアンナはふっと思い出したように眉を寄せた。
「でも……なんですか?」
エルヴィンがまたぐるっとこちらを向いた。マリアンナは少し残念そうに言った。
「以前申し上げた通り、もし父が他に結婚相手を決めたら、私は……あなたから離れなければなりません。あなたとこうしてお話することもかなわなくなります」
女性の適齢期は限られている。マリアンナが社交界に出てもう数年経ったのだ。
しかし、エルヴィンはほっとした表情を浮かべ、「なんだそんなことですか」と笑いとばすように言った。
「私が力のある権力者になればすむ話でしょう。余計な杞憂ですよ。それよりも」
エルヴィンはぐっとマリアンナに近づいて余裕たっぷりに彼女の手を取った。
「あなたの心を手に入れる方が、私には何倍も難しい」
まるで魔法にかかりそうな、こちらを見つめてくる黒い瞳。マリアンナは圧倒されそうになったが、同時にまた別の事を思い出してくすりと笑った。
エルヴィンは驚いたような表情になって、顔を赤らめるとパッと手を離した。
「なな、な、ななんで急に笑うんですか……! し、しかも至近距離で……心臓に悪いな……」
「ごめんなさい、また思い出してしまったんです、あなたの赤い目を見た時のことを」
「赤い目? ……ああ、あれは悪魔の特徴の一つなんですよ。悪魔の目は赤いんです、だいたいみんな隠してますけど。それがおかしかったんですか?」
「そうなのですか。いえ……その、あなたの目を見た時、そう、あの時は叔母のブローチのルビーに似ていると思ったんです。とても色が美しくて、そっくりでした。それで、幼いながらも叔母のつけているブローチがほしいとねだったのです。その時は、それをつけていればあなたと同じになれる、もしかしたら翼も生えてくるかもと思っていたことがあって。ふふふ、おかしいでしょう……あら、エルヴィン様?」
見ると、エルヴィンは両手で顔を覆うようにしている。
「エルヴィン様? どうしたのですか?」
マリアンナの心配の声に、エルヴィンはくぐもった声を出した。
「あなたはまたそういうことを……しかも自覚なしに……」
少しの間エルヴィンはそうしていたが、突然さっと顔をあげて手を離した。彼の目は黒から赤に変わっていた。
「これから2人でいる時はこの目にしますね」
マリアンナが見たエルヴィンの赤い瞳は、黒い瞳よりも、そして少年だった頃よりもさらに怪しく輝いていた。
真っ直ぐにこちらを見るその目は、人間ではないことをマリアンナに感じさせたが、マリアンナはやはり恐ろしいとは思わなかった。悪魔だと自称するエルヴィンはなにを考えているのかわからないが、それでも彼はやっぱり優しい。マリアンナにとって、エルヴィンはなぜだかとてもまぶしく見えていた。