2. 気のつく友人
5年後。
マリアンナは、緊張した表情を浮かべてお茶の間の椅子に座っていた。後ろでメイドのリナが紅茶をすぐにいれられるように控えてくれている。
今日の午後2時に父の紹介で、ホルツ子爵と会うことになっている。理由はもちろん婚約者候補として、だ。父がどうして20以上も歳上の、しかも子爵を伯爵令嬢である自分に選んだのか、マリアンナには分からなかったが、とにかくそういう話らしい。
そろそろ時間だ。
お父様の顔に泥を塗ることのないように、失礼のないようにしなければ。
扉がノックされて返事をすると、父と男性2人が入ってきた。1人がホルツ子爵だとして、もう1人は誰なの?
同時にメイドのリナが目の前でお茶のカップも用意し始めてくれる。
マリアンナの父、バフマン伯爵はめずらしくにこにことしながら、娘のとなりに座って、ほんとうにめずらしく明るい声で紹介をした。なんだか心なしか目が虚ろに見えるのは気のせいだろうか。
マリアンナは、紹介されたホルツ子爵が聞いていた年齢よりも若い見かけであることに、心の中で驚いていた。髪の毛も目も、美しい栗色で、顔や手は皺一つなく、背もしゃっきりしている。声も若々しい。
ほんとうに彼は43なのかしら。
「はじめまして。マリアンナ・フォン・バフマンですわ」
驚きを隠しながらも、マリアンナは名前を述べて微笑んだ。
ホルツ子爵が白い歯を見せて言った。
「ヨーゼフ・フォン・ホルツです。この度はお美しいあなたにお目通り叶って嬉しい限りですなあ」
マリアンナは、がははという彼の笑い方は確かに年相応だと思った。
「ああ、こちらは」
ホルツ子爵はちらと隣の青年の方を向いた。
「私の友人、エルヴィン・ゴットハルトです。ただの付き添いですので、お気になさらず」
紹介された黒髪の青年は、整った顔に人好きのする笑みを浮かべてみせた。
「はじめまして。今日はお会いできて光栄です」
ひと通り自己紹介を終えると、父はすぐに立ち上がり、退却してしまった。リナを後ろで控えさせているが、いつもの父らしくない。マリアンナはほんとうに今日の父はどうかしたのかと疑問に思いつつも、ホルツ子爵のお世辞に微笑んでやり過ごしていた。
が、お茶の最初の一杯を飲み終わるか終わらないかという時だ。
ふとエルヴィン・ゴットハルトが「失礼」と立ち上がり、部屋を出て行ったかと思うと、すぐに戻ってきて、言いにくそうにしながら友人に耳打ちした。
ホルツ子爵は「なんだと!」と驚いた表情を浮かべると、迷ったようにうなった。まるで獰猛な動物のような唸り声だ。そして「よし、ではやはりそちらにしよう」と言った。
隣のエルヴィンが眉をしかめて「でもさすがに今すぐにというのは」と言い、それに対して子爵は「お前ならなんとかできるだろう」と肩を叩いている。
一体どうしたというのかしら。
マリアンナが不思議そうな顔をしているのに、ホルツ子爵は愛想笑いを浮かべて立ち上がった。
「いやあ、バフマン伯爵令嬢、大変申し訳ないが、私は急用ができてしまった。悪いがこの話はなかったことに……いや、私は席を外すが、このゴットハルトが残ってお嬢さんの話し相手をいたしますから」
そう言うと、マリアンナが驚いて何も言えずにいる間に、ホルツ子爵はあははと下手な笑いを浮かべたまま部屋を出ていってしまった。
部屋にはマリアンナと、ホルツ子爵の友人エルヴィン・ゴットハルト、そして後ろに控えたリナだけが残された。
嘘みたい。マリアンナはあっけにとられた。
なんて失礼な方かしら。この場に父がいたら激怒しているだろうが、彼は退却したままこちらには戻ってきていない。
部屋には沈黙が流れた。リナはおろおろとして、どうしたら良いのかわからないというように、マリアンナと客人を交互に見つめた。
と、その時。
「ほんとうに人間の塵みたいな奴だ」
マリアンナは、目の前のエルヴィン・ゴットハルトがぼそりとそう呟いたのを耳にした。
彼はマリアンナが自分を驚いたように見ているのに気づくと、すまなそうな表情を浮かべた。
「申し訳ありません。あんな失礼な男が世の中にいることに私も驚いております。その……代わりというのもなんですが、私があなたのお時間をいただいてもよろしいでしょうか? せっかくメイドの方がお茶を淹れてくれたので、それを飲むだけでも」
頭を下げてそう言った彼は、ほんとうに申し訳なさそうだった。
友人であると言った彼の立場なら、ほんとうならきっといたたまれなくてこの場を去りたいかもしれないのに。
「お優しいのですね、ゴットハルト様は」
そう言って微笑んだマリアンナに、彼は「えっ」と声を漏らした。
「あなたはあの方の友人というだけで、私に気を遣っても仕方がないのに。惨めな私と一緒にお茶をしてくださるなんて、お気持ちだけでも嬉しいですわ」
卑下した言い方に、エルヴィン・ゴットハルトは眉を寄せた。
「そんな、惨めだなんて! あなたは何も悪くありません、私はただ……」
彼は言葉を探したように目を逸らしたが、ぐっと拳を握ると再びまっすぐにマリアンナを見た。
「私はただ、あなたと一緒にお茶を飲みたいだけです」
マリアンナはそのまっすぐに見てくる黒い瞳に、おや、と既視感を覚えた。この目、どこかで見たことがあるわ。いつ、どこで?
「バフマン伯爵令嬢……?」
ぼうっとしている彼女にエルヴィン・ゴットハルトが不安げに呼びかけたのに、マリアンナははっとした。
「ありがとうございます。では、おしゃべりにお付き合いくださいな。私のことはマリアンナとお呼びください」
「で、では、私のことも……そのエルヴィンと」
黒髪の青年は少しだけ照れたように言った。
「あなたとお茶が飲みたい」と言った割に、エルヴィン・ゴットハルトは、何を話したら良いのかわからないようで、カップを手にしたままそわそわと目を泳がせていた。
マリアンナは、常套句や世辞を並べ立てる舞踏会の貴公子とは違うようだと少しほっとして言った。
「それでは、こうしましょう、エルヴィン様。私とあなたで交互に自分の好きな事を話すのです。一杯お茶を飲み終わるまではその話題を話す。そうすれば、お互い何に関心を持っているのかわかりますでしょう?」
マリアンナの提案に、エルヴィンは一瞬きょとんとした顔をした後に、内容を理解したのかゆっくり頷いた。
マリアンナは微笑んだ。
「では、私から。そうですね……私は読書が好きなので、いつも何かしらの小説を読んでいますわ。前は、恋愛やら友情やらを読んでいましたが、最近はスパイの小説に凝っていますの」
「ああ……最近話題になっている『ポートのスパイ』ですか?」
「そうです! お読みになられまして?」
エルヴィンは頭をかいた。
「そう……ですね。読んだというか、まあ内容は知っています。その作家と関わる機会があったので」
「まあ!」
マリアンナは目を見開いた。
「それはほんとうですの!? 確か、フランスの貴族女性が書いているのですよね?」
「ええ。ご主人が気の毒になるくらい自己主張の強い方でしたが、まあ、だからこそ作家になったのでしょうねえ」
「まあまあ……」
マリアンナは驚きを隠せずに目を丸くしていた。
エルヴィンは、少し考えてから口を開いた。
「マリアンナ様は、今までいろんな小説を読んできたんですよね? その……魔法とか天使とか、悪魔なんて類いのものはお読みになられたんですか?」
マリアンナは頷いた。
「もちろんですわ! 昔の伝説は特に魔法が要となっているでしょう。胸が踊ります。天使と悪魔に関しては、それこそ聖書の知識ですが……エルヴィン様は興味がありまして?」
「いや、興味があるというか、ただその、少し身近に感じるといいますか……」
「天使と悪魔を身近に? まあ、そんなおもしろい事を言う殿方には初めてお会いしましたわ!」
マリアンナは嬉しそうに笑った。と、その時、マリアンナはカップが空になったのに気づいた。
「さあ、今度はエルヴィン様の番ですわ。あなたの好きなものを教えてください」
エルヴィンは少しぼうっとしていたが、彼女に名を呼ばれたのに、はっと我に返った。
「わ、私? 私の好きなものですか……うーん、そうだな……」
エルヴィンは少し考え込んだようにしてから言った。
「まあ……人間ですかね」
マリアンナは飲んでいた紅茶を吹き出しそうになった。慌てて咳き込んで気管に空気を送る。
「マ、マリアンナ様、大丈夫ですか!?」
慌てたように立ち上がったエルヴィンに、マリアンナは咳をしながら手を上げて大丈夫だとサインを送って座らせる。
「ごめんなさい。でも、あんまり驚いたものですから……ふふっ」
気管が落ち着いてくると笑いがこみ上げてきた。大抵男性が好む話と言ったら、政治や経済、酒などの類だと思っていた。それが何? 人間ですって?
マリアンナは一息ついてからまだ笑みを隠せないままエルヴィンに言った。
「ほんとうにおもしろい方……! 人間がお好きとは、一体どういうことですの」
エルヴィンはさして笑いを取ったつもりはなかったようで、彼女の笑いに驚いていたが、それにつられるように笑顔を浮かべて答えた。
「そのままの意味ですよ……人間は自分の好きなまま生きたいと思っているのに、自分たちで勝手に作ったルールで好きなように生きられない。そういう愚かな面もあるのに、時々ぴかぴか光るような魂で他人のために生きようとする。単純なようでいて読み取れないような複雑な面もあるからおもしろい。非常に興味深いという意味で、好きと言ったんです」
マリアンナは感心したように頷いた。この黒髪のぎこちない笑みの青年は、マリアンナが今まで会ってきた男性とは違うようだ。
「驚いた。ずいぶん達観していらっしゃるのね。まるで何十年も生きてきたかのよう」
言われたエルヴィンはぎくりと肩を強張らせた。
「い、いえ! そこまで長いわけでは……!ひ、人並みですよ、少なくとも私は」
慌てたような言い方だったが、マリアンナは彼が悪い男ではないと感じ取っていた。何かを隠しているような感じはするけど、嘘を言っているようには見えないもの。彼の口からは取り繕うようなお世辞も吐かれていない。
エルヴィンはマリアンナが興味深そうにこちらを見ているのに照れたのか、すっと視線をカップに落として、「あっ」と言った。
「ほ、ほら! もう飲み終わりましたよ、今度はマ、マリアンナ様の番です」
それから2人はいくつか趣味の話をしたが、エルヴィンはマリアンナの思っているよりもずっと博識で、ポットがすっかり空になっても日が傾くまで話し込んでいた。
入室してきた執事が遠慮がちに時間のことを言うと、エルヴィンははっとした顔になった。
「お、遅くまで申し訳ありません。この辺で失礼します、ほんとうに、その、この度は、お詫びのしようもなく……!」
マリアンナは微笑んだ。
「お気になさらず。それに、あなたのおかげでとっても楽しかったですわ」
エルヴィン・ゴットハルトはぎこちない笑みを浮かべると、バタバタと音を立てながら帰っていった。
マリアンナがふふふと笑うと、メイドのリナが眉を寄せてカップを片付けながら言った。
「お嬢様! あんな失礼なことをされて笑ってすませるおつもりですか?」
「失礼なこと? あら、そうだったかしら」
「お嬢様ったら! ホルツ子爵は紹介を受けて婚約者候補としてお話をしにきたはずなのに、すぐにお帰りになってしまわれたではありませんか!」
マリアンナはああそうだったわねと思い出した。
「まあ、エルヴィン様に免じて見逃してあげましょう。別に公にしたところで恥をかくのは私だけなのだし」
「ですが、お嬢様のお心は……」
リナが眉を下げたのに、マリアンナは微笑んだ。
「ありがとう、リナ。でも私は正直あの方のもとに嫁ぐという可能性がなくなって嬉しいのよ。それに、エルヴィン様とはとても有意義なお話ができたわ」
「そう……ですね。お茶を一滴残らず飲んでいただけたのは、私としても嬉しゅうございました」
リナはこほんと咳払いをする。
「かしこまりました、では旦那様に御報告申し上げるのはやめておきましょう」
マリアンナはほっとした。
お父様に知れたらきっと大げさに怒るに決まってるもの。
マリアンナは父からホルツ子爵のことをきかれると思っていたのだが、驚いたことに父の口からは全く彼の名前は出てこなかった。それどころか、あの時のことを忘れてしまったかのように、それから舞踏会の招待状を何回も手渡してくるようになったのである。
今までは兄が王都に帰ってきた時だけ参加するように言われていたので、これにはマリアンナも驚きを隠せなかった。
「お父様、その……お父様は、私に早く結婚をしてほしいのですか?」
7回目の舞踏会の招待状をもらった時、マリアンナはとうとう父に尋ねた。
バフマン伯爵は、娘の問いに目を少しぼんやりさせた後、一瞬固まった。
「何を……なぜそう考える?」
「なぜって……、舞踏会に行かせようとするのは、そういう意図があるからと思っておりましたが……」
マリアンナは適齢期だ。それ以外に何の理由があって舞踏会に向かわせるというのだろう。マリアンナは続けた。
「私は幼い頃より、伯爵家の娘として教育されてまいりました。お父様のご意志によって婚姻を結ぶ覚悟はできております」
だから自分は苦しまないようにと、心を頑なに閉ざしてきた。恋に悩み、つらい結婚をする物語はたくさん読んだ。物語とは言え、あんな風につらい人生は歩みたくはなかった。もちろん物語以外でもそういう話はたくさん聞いている。
貴族の娘として恥じないよう、きちんとした会話や対応ができるように心がけてきたが、心を奪われることは決してないようにも努力してきたのだ。
バフマン伯爵は少し驚いたような表情で目を瞬かせていたが、咳払いをした。
「もとより婚姻相手は私が最終的に決定をくだすが、たしかに舞踏会でお前自身が見定めても良い。舞踏会にお前を行かせるのは……その、行かなければならないと思ったからだ。結婚してから社交術をつけるのでは遅い」
「社交……ですか」
確かにその通りではあるが、なぜ突然それを気にし始めたのだろうか?
「もしや、お父様は身分の高い殿方に私を嫁がせようとしていらっしゃるのですか?」
「そういうわけではない! 私もなぜなのか……とにかく! 舞踏会にはできるだけ出席するのだ。わかったな」
強い口調で父に言われれば、従うしかない。マリアンナは「かしこまりました」と膝を折った。