なぜ死んだ!俊介は身の凍る思いでその事実を受け止めていた
❶
山々が一面紅葉が始まり始めた奈良吉野奥地の北山峡で、釣り人によって一人の遺体が発見された。
その遺体は死後数ヶ月経っていて、半ば白骨化している状態であった。
連日降り続いていた豪雨で流されたものと思われ、川原の隅の大きな石に引っ掛かり流れ着いている状態であった。
場所は奈良県吉野郡上北山村一之谷で、見上げれば大台ケ原を背負っている絶景の渓谷である。
登山者や渓谷釣りにも人気があり、しかし秘境と言う言葉が似合っている危険な場所でもあった。
既に過去には何人かの犠牲者が出ており、十分心得て入山しなければならない場所でもあった。
亡くなっていたのは、大阪郊外の和歌山県との境に在る大阪蓄産府立大学の学生で、幸村貞夫二十一歳で、既に白骨化が進んでいたが、着ている衣服から捜索願いが出ていたこともあり直ぐに確認出来た。
幸村貞夫が行方不明に成った時から、捜索願いが出されていたので、更に彼がその場所へ行った事も事前に分かっていたから直ぐに判明出来、車が国道の外れに駐車されていた事も手がかりに成った。
彼は釣りが好きだった事もあって、更に登山もどちらかと言えば好きな方で、大学の山岳同好会にも所属している事もあり、大学の仲間たちにとって大変ショックな出来事であった。
亡くなっていた幸村貞夫は大阪の大学に通ってはいたが、生まれは遥か遠くの九州熊本で、しかも相当田舎であったと本人は言っていたので、彼が魚を釣りに行っていた幼い頃の経験が、大学に行ってからも続けられていたようで、上北山の渓谷で釣りをすると言う事は、天の魚と言う魚を釣る事で、おそらく同じような渓谷の釣りを、幼い頃から九州でもしていた事が考えられ、皮肉にもその趣味が高じて、このような悲惨な結果になったのであろうと誰もが思う事になった。
その現実を一番辛く受け止めなければならなかった人物が二人居た。
その一人は同級生で親友であった田川俊介で、自分の事のようにその現実を、泣き崩れて受け止めなければならなかった。
三年以上も同じ寮で同じ飯を食い、幸村から教わった釣り、それから幸村に教えた登山、二人して何度も足を運んだ山々。あまりにも充実した三年余りであったから、まるで兄弟を失ったような気持ちにさせられた。
あと半年で大学も卒業し、二人とも就職も同じ所へと話し合っていた筈が、思いがけない事が起こったショックは計り知れないものであった。
田川俊介には大事にしている彼女が居た。
その名を磯村春華と言って、同じ大学の同級生でもあった。
田川俊介は男子寮で、そして磯村春華は女子寮で暮らしている。彼女もまた九州長崎生まれの女性で、二年前、詰まり二年の夏に北海道へ研修に行ったとき急接近して知り合い、それからは意気投合しまるで漫才コンビのような二人に成っていた。
だからと言って将来を語り合った訳ではなく、お互いの将来の夢を犠牲にしてなどとは考えてなく、むしろ尊重しあっていたから、今をエンジョイしている生き方を共に選んでいた。
しかしお互い誰よりも好きである事は間違いなかった。
骨になって九州へ帰ってしまった幸村貞夫の事を、毎日のように思い出していた田川俊介に、磯村春華が優しく声をかけた。
「俊介、もう帰ってこないからあの人は。諦めないと。貴方がめいってしまうでしょう。あの人は山が好きで釣りが好きで行ったのだから納得だった筈よ。
だから忘れてあげる事も貴方の役目じゃないの?何時までもしょげている事なんか、幸村さん望んでなんか居ないと思うわ。」
「あぁ時間が解決してくれればいいのだけど。」
「そうね。時間なのね、このような悲しい出来事は。」
「そう。でも悔やまれるんだ。何故あいつ一人であんな所へ行ったのか。結構危険な所って吉野警察の方も言っていたから、それを分かりつつあのような場所へ行ったのか不思議なんだ。」
「でも言っていたわよ幸村さん。以前貴方に。命綱つけて行くんだって。」
「そうだったかな?」
「ええ確かに。今度貴方と行きたいって言っていたと思うわ。危険だけど面白いって、それがその北山だったかは分からないけど。」
「そんな事在ったっけ。」
「ええ何処かの渓谷って言っていた事は間違いないわ。」
「あの日は釣りをしていて雨になり、しかもその雨は激しく成って来て、雨宿りをしながら止むのを待っていたが一向に止まず、若しかして陽が落ちて来て、無理に帰る事に決めたが、何処かで足を踏み外したか、谷底に落ちたか、それで・・・あの時僕が一緒に行っていれば、そんな事起こらなかったと思うと、今更だけど悔やまれるよ。何故一人で行ったのかと。あの頃僕が北海道へ研修に行っていたから、あいつ一人で、退屈していたのか知らないけど、そんな無茶な事をして。こんなことになって・・・」
「でも俊介、あの人は好きだから、渓谷で魚を釣る事が好きだから、貴方が何かを思う事など無い筈よ。貴方が居たなら、その様な所へは行かなかったかも知れないけど、あの人にしたら貴方を誘って行く事が嫌だったのかも知れないし、それって危険だから貴方は彼ほど釣りが好きではなかった筈、それは私も何度か聞かされているから。分かるでしょう?もし貴方と一緒なら、他の場所へ行っていたかも知れないし、みんなで行った鱒釣り公園とかとなるでしょう。」
「そうかも知れないね」
「だから彼はわざわざあの日に行ったのよ、貴方が居ない時に。詰まり今まで行きたかったから、心で常に思っていたから、あの日に実行したと思うわ。あの日、天候はあまり良くなかったにも拘らず。」
「もしそうなら少しは諦めが付くけど」
「多分、だから貴方が悔やむ事なんかないと私は思うわ。だから諦めて、あの人の事忘れるべきだわ。」
「随分きつい言い方するねぇ春華は。」
「そうかしら。私は貴方にとってその方が良いと思うから。将来あの人と同じ職場で働こうと考えていたのでしょう?だからこれからは、亡くなった人の事は忘れて、自分の将来を考えなきゃ?」
「そうだね。」
「幸村さんも付き合っている人が居たでしょう?」
「あぁ早瀬かおりさんと付き合っていた。」
「だから貴方はその人と係わり合いになる事なんか無いから、何もかもをリセットするべきなのよ。もしその彼女が気の毒でとか考えたら、変な風に脱線するかも知れないし、貴方には私が居るからね。」
「分かっているよ、そんな事。」
幸村貞夫の死で特に酷く心を痛めたのは、田川俊介と幸村の恋人早瀬かおりであった。
田川が幸村の死後何度か早瀬かおりと顔を会わす事になったが、いつものような活発な姿を見る事は無かった。常に無口で物思いに更けるような仕草で辛そうに思えた。
二人はどのような関係であったなど、田川にははっきり分からなかったが、大学生の男女が二人で何処かへ泊まり、寮へ帰らない事がしばしばであった現実を思うと、決してただならぬ関係であった事は確かで、田川俊介には早瀬かおりの心の内が十二分に察しられた。
男同士の関係より遥かに深い絆であると、自分の事を考えたときつくづく思わされた。
田川俊介がそんな早瀬かおりの事が気に成って、恋人の磯村春華から警告されていたが、それでも気になって声を掛ける事にした。
「かおりさん少しは落ち着きましたか?こんな時どのような言葉がいいのか僕には分かりませんが、この僕でさえあいつの事を思い出しているのが現実で、貴方の心の内を思うと、大変辛い事を察しします。でも忘れなきゃね、可哀相だけど。」
❷
「ええ私もその積りです。何時までも尾を引いていてもと思います。あの人は二十一歳で亡くなる運命だったのかと思います。あの日釣りに行くって言って『止めれば雨みたいよ』って言ったのに、何度も言ったのに、聞き入れなかった事を何度も思い出していますが、喧嘩してでも止めさせればよかったのかもしれませんが」
「かおりさん、その話は何度も聞かせて戴きました。貴女に何ら責任など無いのです。悔やまれるのは僕も同じで、北海道に行かなければ、こんな事に彼はなっていなかったかも知れませんが、それは貴方も今口にされた事も同じで、でも僕らは責任も持たなければならない大学生で、まして二十歳を越した大人なのですから、
お互い後に悔やまれる事は避けなければならないと思います。自分に責任を持たないととも僕は思います。」
「わかりました。あの人は九州へ帰ってしまいましたから、今度卒業した時私は彼のお墓を訪ね様と思っています。」
「そうしてあげて下さい。僕も行ける日が来たら訪ねてみる積りです。」
田川俊介は磯村春華に気を使いながら、親友幸村貞夫の恋人早瀬かおりに近づき、悔やみの言葉を口にしていたが、彼にしてみれば、どれだけ早瀬かおりが辛い思いをしているのか、計り知れないものだと思い込んでいたが、ある日その様な気持ちとは裏腹な光景を見る事になった。
早瀬かおりが高級スポーツカーの助手席に乗り込む姿を、見つけてしまったのである
場所はJR和歌山駅での事である。
田川はその駅に再三出かけているから、まさかこんな所で出くわすなどとは信じられなかった。
バスの乗り場近くに男が来ていて、僅かの内に彼女を乗せて走り去った。
その姿はまるで古くからの恋人同士のような様子で、あまりにも馴れ馴れしい彼女の動作に、田川俊介は心を震わせていた。
正に今まで何度も見て来た、幸村貞夫との間で、見続けていた彼女の振る舞いと、何ら変わらない格好で、ハンドルを持つ男が彼女を軽く抱き寄せてすぐさま走り去ったので在る。
『なんて事?』と田川俊介は憤りを感じながら、固まったようにその二人の姿を、目を凝らして見送っていた。
そのスポーツカーの男が、早瀬かおりを更に軽く抱き寄せて、重なる様な格好でアクセルを吹かせて消えていった。
田川俊介の知っているその助手席の女の恋人は、最近骨になって二十一年の人生を閉じ、九州のふるさとのお墓で眠っているのである。
しかも親友幸村の恋人であった筈の女が、あれから僅かの内に、他の男に身を預けて、しおらしく悲しげな言葉を口にしていた先日の態度とは裏腹に、他の男の車でドライブをしている。
今日は土曜日、詰まり明日は寮には帰らないかも知れない事が想像出来、田川俊介は亡き親友幸村を思うと、居てもたっても居られない気持ちに成っていた。
怒りのような空しさのような、何とも言えないものが、心に中から込上げて来る事を感じながら、田川俊介はJR和歌山駅を後にした。
この時田川俊介には、まさか親友幸村貞夫の死が、事件になるなどとは全く思って居なかった。
もし彼がJR和歌山駅で早瀬かおりを見る事が無かったなら、その後において何も起こらなかったのである。
詰まり親友幸村貞夫は永久に事故死で亡くなった事で終わっていたのである。
幸村貞夫が亡くなって遺体で発見されてから百日目に、山岳同好会で彼を偲んで雪山へ登る事を決めた。
田川俊介は同好会の幹事であったからルートを任されていた。
それで決して危険ではなく、しかし感動しなければ意味がないと言う事で、熟知している奈良県東吉野村の高見山の樹氷を見に行く事に決めた。
田川俊介はこの山は既に何度も行った事があり、決して危険な所で無い事も十分分かっていて、親友幸村貞夫とも二人で登った事があり、正に追悼登山に相応しいと彼は思って一番に推奨した。
そして田川俊介にとって、ちっちゃな事件がその時起こった。
早瀬かおりが不参加を口にした。
その事を知った同好会のメンバーは、誰もがびっくりして「何故?」と口にした。
それは誰もが亡くなった幸村と、恋人関係にあった早瀬かおりが、まさか参加しない事などありえないと思ったからであった。
むしろ彼女のための企画だとみんあが思い込んでいた話であった
田川には先日のJRでの事があり、瞬時に想像が出来たが、幹事である以上その旨を正す理由で、早瀬かおりに聞く事にした。
「行けないのですか?早瀬さん。この企画は貴方に一番喜んで頂く為にと思ってしたものなのですよ。
あんなに仲の良かったあなたと幸村の事を考えて、勿論僕も同じですが・・・貴方と幸村とは全く別な話。是非何とか考え直して頂いて参加して下さい。
貴方がいない幸村の追悼登山なんて変だから。」
結局何度か彼女を説得して参加して貰う事になったが、案の定、田川が予想していた通り早瀬かおりは、あまり気のりしていない素振りであった。
物悲しそうに周りの者には見えたようであったが、田川には早く帰りたいように心が映っていた。心ここにあらずと口にこそ出さなかったが、仕草から窺がえた。
「こんなサークルで居る事なんか意味がない。」と言わんばかりに田川には感じた。
しかし殆どの者は高見山の樹氷は始めてであったから、幻想的なその風景に、その感動振りは企画した田川にすれば大満足に終わる事が出来た。
しかし只一点の暗転をはっきり感じる事になったのは、それは早瀬かおりの動向が相当気に成り出したからである。
大学へ帰ってからそれからの休日は気になる事があった。
寮の窓から外をカーテン越しに見れば、女子寮が見える。当然玄関から出入りする生徒の姿などはっきり見る事が出来る。勿論早瀬かおりが出かけるときも見張れば直ぐに分かる。
登山から帰ってから田川は一点の曇り、詰まり早瀬かおりの動向を知る必要が在ると何故か気になって、彼女が出て行く事に興味を持つ事になり、そしてその日がやって来た。
早瀬かおりは颯爽と出かける。
多分バスに乗り、途中電車に乗り換えるか、そのままバスでJR和歌山駅にまで出て、例の彼氏と打ち合うのか、そのような事を想像しながら車で後をつける事にした。
バスは思った通り和歌山へ向かい、結局JR和歌山駅に着いて彼女は降りた。
思っていた通りであった。バスもまたJR和歌山駅行きと掲示されていた。
早瀬かおりは恋人幸村貞夫と死に別れをしてから、何時このような関係になったのかと、後ろをつけながら田川俊介は、色々なケースを創造していたが全く分からなかった。
バスを降り早瀬かおりは暫く待っていたが、想像していた通りスポーツカーが直ぐに遣って来てさっと乗り込んで消えていった。
多分同じ事を何度も繰り返しているのか、その動作にはつい最近知り合った仲とは思えない、大人の落ち着いた雰囲気さえ醸し出している二人であった。
大きな駅であるから、この事実を知っている仲間も居るのではないかと思いながら駅を後にした。
更にこの事実を幸村は知っていたのかと案じ、疑ってみたが、決して分かる事ではない事に気がつきながらその日は寮に帰った。
その日彼女が寮に戻っていたか居なかったかなど知る由もなかったが、悶々としたものを感じさせられていた。
そして田川俊介にしてみれば終わった事だから、構う事など余計な事であると、彼女の磯村春華に言われていた事も手伝って、封印する事にする積りでいた。
ところがそんな田川に、早瀬かおりが一枚の封書を持って来て、その中身は山岳同好会を退会したいとの内容であった。
田川は驚きもしなかったが、親友幸村の顔が浮かんで来て一言言いたく成り、
「辞めるのですか?残念です。幸村が悲しみますね。貴方が辞めると」
「でもこのようにして会に入っていると、何時までも尾を引くようで、環境を変えなければと思いまして。」
「そうですか。僕からは何も言えません。貴方が辞めたいのなら、そのようにして下さっても構いません。第一この会に入っていても、他の男連中も貴方には手を出せないですからね。
僕の顔もあれば、幸村が今まで貢献して来た事実もありますので。だから新しい出会いも難しいかも知れませんね。」
「分かって頂けますか?正直この会から抜け出す事が私の道だと思います。幸村さんとは思い出が一杯ありましたから・・・」
「分かりました。新しい環境で素敵な出会いをして、新たな恋をして、楽しい人生を送って下さる事を祈っています」
「ありがとう御座います。」
田川俊介は丁寧に言葉を選んで早瀬かおりと別れた。
喉まで出掛かっていた言葉を押さえて、
「先日JR和歌山駅で貴方をお見かけしましたよ。そして男の人と一緒に車で何処かへ行きましたね。」と言う余計な言葉を。
早瀬かおりが退会した事は直ぐに全員に伝わって、彼女の心情を思うと、痛々しくお気の毒にと全員が思う事になった。
まさか今他の男とデートを重ねている事など誰も知らないようで、だから彼女に関してその後も、誰一人として悪い噂を口にする者など居なかった。
寧ろ彼女に構わないようにとまで田川に忠告していた磯村春華でさえ、
「可哀相に幸村さんの彼女」と心情を思い口にしていた。
だからそんな磯村春華に田川は口にしたかったが、敢えて口にする事を避けた。
それは先日彼女を尾行して、JR和歌山駅までついて行った事も、口にしなければならなかったから、余計な詮索をされるのではないかと寧ろ避ける事にしていた。
しかし親友幸村を思い出すたびに、あのJR和歌山駅で颯爽と車に乗り込んで行った早瀬かおりの姿を思い出して来て、
ところが人の心などわからないもので、どうした事か早瀬かおりの女友達の二宮明日花は、さながら登山が好きとみえ、友達の早瀬かおりが退会したにも拘わらず、彼女は同好会に残っていて、その後も早瀬かおりの事を耳にする機会があった田川は何となく聞く事にした。
「二宮さんは退会した早瀬さんと仲が良かったですね?」
「ええ何時も一緒でした。でも最近は、最近と言うよりこの半年ほどの間は、結構別々に行動する事も多くなって」
「そうなのですか。それって彼氏が居るからとかなの?原因は?」
「それもあります。でもそんな事は年齢を考えたら当たり前で、それよりお互い趣味が少し離れて来たって事なのでしょう。だから別行動が結構増えてお互いに。」
「そうですか。でも山は何時も一緒に来られていたのじゃあないのですか?僕にはその様に思えましたが。彼女が何時も幸村といっしょだったから、幸村は僕の大の友達だったから、良く覚えていますよ。彼と彼女の行動は。」
「そうでしょうね。あなたはリーダーでも在るから、仰っている意味よく分かります。でもこの半年ほどの間には色々ありましたから。私は彼女の友達だから、なんだかんだと聞く事があって。」
「そうですか。そりゃ所詮他人同士だから色々在るでしょうね。僕も磯村さんと付き合いながら、良く彼女に人に構う事は良くないと言われます。それぞれ大人なのだからと。」
「でも貴方は役をしているから仕方ないですわね。」
「まあそうなのですが、気を付けないといけませんね。それぞれ個人だから。」
「かおりとは仲はいいのですが、次第に会わない所も出て来て、だからその部分はお互い見て見ぬ振りをして。結果距離が出てきて」
「そうでしたか。何時もハッピーなんて旨く行かないのですね。誰しも。」
「そうでしょうね。現にかおりともこのような形で、ある意味溝が出来たのかも知れないし、これから彼女と山の話しはしないほどいいのかも知れないし、勿論恋愛の話も男の話もご法度かも知れないから、難しくなりますね。」
「彼女誰かと、いい男を見つけて、幸村の事忘れられるような生き方をすればいいのですが」
「そうですね。でもどうなのでしょう?その様な心境ではないと思いますよ。何しろ幸村さんとは長い付き合いであった筈だから。簡単にはリセットなど出来ないと思います。只彼女案外割り切ったところがあるから、私なんかより立ち直りは早いと思いますが」
「では今は早瀬さん誰とも付き合っていないのでしょうか?」
「ええ多分、私は友達ですが何も聞いてないです。」
「そうですか。」
田川が早瀬かおりの事を友達の二ノ宮明日花から聞き出したが、スポーツカーで遣ってくる彼女の恋人の事は、何も知らないようである。
只最近は別行動の時が多く成って来た事も確からしい。
そして退会した早瀬かおりの事を、誰も口にしなくなったが、田川俊介は今だに彼女の事が気に成っていた。
それはもしや親友だった幸村が、早瀬かおりに踊らされていたかも知れないと思うと、実に情けない事で可哀相であると思えていたからで、けしからんし許せないと幸村の気持ちになり、その心を思い浮かべていたのである。
もし本命が他に居て、幸村とは遊びだったのならと思うと、人の事とは言え許せなかったのである。
それは三年間も積み重ねている、切っても切れない友情であった。 更に彼から良く聞かされた事は、いかに彼が彼女を好きであったかかであり、将来の事も考えていたような口ぶりであった事も良く知っている。
それは田川と磯村の関係とは全く正反対で、お互いの人生や夢を尊重しようと言う関係ではなく、お互い助け合い生きようと言う関係であった事を聞かされていた。
それは若しかして結婚であると解釈したが、襲来伴侶の友とする事もまんざらではないような感じに田川には見えた。いや寧ろそのように考えていた。
だから今早瀬かおりが、他の男と深い関係に成っている事自体が、許せないように思えて来てしょうがないのである。
ところがそんな微妙な事を気にしている毎日が続いていたが、とんでもない出来事が起こった
東北大震災である。
東北一体のリアス式海岸の絶景が津波よって剥ぎ取られ無残な姿になった。
しかもその上に原子力発電所が被害を被る事になり、至る所に放射能が飛散して、家畜初め多くの動物が殺処分される運命になった。
若しくは危険が伴い構う事すら出来ずに置き去りに成った。
被災者は何十万人にも達し、未曾有の大惨事になった。
この事は大学にも大きなニュースとなり、家畜を相手にするような大学であったので、この出来事は衝撃であった。
将来の設計が狂った学生も何人かは居て、まるで他人事では済まされない出来事となった。
その頃は大学生活もあと僅かになって、お別れ登山を企画しなければならなくなった田川は、気が重たかったが、山岳同好会の村野哲と木下祐樹の三人で例年通り内容を考える事にした。
今までならそこに幸村が加わっていたのであるが、三人で話し合って、
恒例の金剛山へ雪山登山が常態化していて、それが当たり前のように粛々と準備を進める事を、満場一致で決める事が出来た。
田川にとって大学生活最後の登山である。四月から新しい職場で新鮮な気持で働く事になる事を思うだけでも心が弾む気がした。
動物好きの者ばかりがあつまっている大学であるから、その就職先も同じような所になり、先輩でも長い付き合いになる者が多く、好きこそものの上手なりと言う言葉の通り、実に人間味があり、心の豊かな環境で暮らす事ができる場所に就職出来る訳である。
その事は田川初め多くの卒業生が感じている事で、夢を膨らませて旅立ってゆくのである。
田川俊介は磯村春華と別れの日が近づいて来ている事を感じながら、東北の悲惨な話が重なって、気の重くなる日々を重ねていた。
しかしいよいよと言う時期になり、磯村春華は九州長崎出身であり、就職先に迷っていたが、心を転換するように田川との関係を重視して、和歌山で働く事を滑り込むように決めていた。
田川もまた和歌山で働く事が決まっていたので、二人の仲は更に深く急接近して行く事を、お互い感じながら毎日を重ねていた。
実は田川は何度か研修に行った北海道も候補に入れていて、雄大な風景が何よりで動物と暮らす事を考えると、何処よりも合っている所であると人並みに思っていた。
しかし田川と磯村が始めて譲り合って、二人の夢を少しずつ削って、共に和歌山の地で働く事を決めた。
そこには夢に匹敵する愛が生まれている事を二人とも感じてて、田川にとって幸村と何度も話しあった将来の夢の設計図とは少し違っていたが、幸村が居なくなり、恋人も居なくなると思うと、計画が変わっても仕方ない事だと感じていた。
それで田川は就職するまでに行きたい所があった。それは心のけじめをつけたからである。
そして磯崎春華に、
「今度働き出したら当分何処へも行けないから、僕九州へ行こうと思っているのだけど、君も実家へ帰るんだろう?」
「ええ勿論。」
「だったら僕九州へ行く事決めているんだ。幸村に報告したいから。」
「じゃあ私もお付き合いさせて貰います。ただし別行動で。」
「それって?君の家へ行かないほどいいって事?」
「そうです。だって皆心配するでしょう。男の人が突然家に来たら。まだ大学生だから。」
「ああ分かっているよ。だから僕は幸村の所へ行くだけだから、その時君が来るのなら来れば。」
「ええお墓参りに行かせて頂きます。」
「そうだね。」
三月半ば、
田川俊介と磯村春華は関西空港から飛行機で九州を目指していた。熊本空港で別れた二人はそれぞれ別行動になり、
田川俊介が幸村の故郷、熊本県阿蘇郡に着いたのは随分時間が経っていた。
磯村春華は長崎方面へ向かったので一人旅となった。
バスに揺られながら目的の地まで、突然田舎道に吸い込まれるように入って行き、長い田舎道は止め処もなく続き、やっとの事で幸村の実家に着く事が出来た。
初老の夫婦に迎えられた田川俊介は、強張りながらも笑顔を作って、二人を見つめたが、長旅の労を労って二人は笑顔で、
「遠い所まで来て頂いて、貞夫も喜んでいると思います。私が母親の小枝と申します。そちらがお父さんで清三、それに今は居ないのですが、あの子の妹が居まして美奈江と言います。」
「電話でお聞き戴きましたように僕は田川俊介で御座います。明日になると同じ山岳部の磯村春華さんと言う人も来させて戴きます。
彼女は九州長崎出身で、今日は実家に帰られているのですが、明日はお邪魔させて頂き、仏様に手を合わさせて戴きたいと」
「そうですか。こんな山奥までお越し戴きまして、さぞ倅も嬉しいでしょう。私も家内も貴方の事は、何度も倅から聞かせて貰っていましたから、とても嬉しいです。こんなに遠くまで。」
「そうですか。三年間同じ鎌の飯を突つき合った中ですから、とてもいい友達です。
実は卒業したら同じ職場で働く事も考えていましたが、こんな事に成って本当に残念です。」
「とにかくお疲れでしょう。中へ入って寛いでください。」
二人の言葉に田川は後について行き、幸村の真新しい写真が飾られた部屋に通された。
仏さんの前に正座して手を合わせた途端に、涙が滲んで来て、線香を持つ手が震えていた。
「貞夫、田川さんがわざわざ遠い所から来て下さったのよ。」
母がそう言ったが、田川は何も口に出来なかった。
つい最近見てしまった幸村の彼女が、悠然と男の車に乗っていく姿が、目に焼きついていたから、それが悔しくて怒りさえ覚えていたから、位牌に成った幸村が、この事を知ったらどれだけ辛いかと思うと、涙が止め処もなく出て来た。その涙につられて両親も同じように涙ぐんでいた。
「さぁ田川さん。お腹空いてないのですか?随分長旅でさぞお腹空かれたのじゃないのですか?今すぐ何かを見繕いますから。」
「お母さんご心配しないで下さい。適当に腹ごしらえして来させて貰っていますから。
それより天井に釣竿が掛かって居ますね。あれってお父さんが?」
「そう倅のも在るが、殆どが私の竿です。この辺は天の魚が盛んで。」
「天の魚?それって貞夫君が良く口にしていた魚と同じです。
体に斑点がある魚ですね?」
「そう十三個の斑点が在る綺麗な魚です。」
「それです。貞夫君が良く釣りに行って狙っていた魚は」
「そうだと思います。何もそんな遠くまで行って釣らなくっても良かったものを・・・
ここへ帰った時に釣れば良かったものを。」
「でも彼は向こうへ往って同じ魚を見つけて、この生まれた場所やお父さんやお母さん妹さん、それに何もかもを思い出していたのでしょうね。だから遠くで離れていても、近く感じる事が出来たんだと思いますよ。」
「でも死んでしまっては・・・今と成ってはあの子が好きな釣りをしていて死んだのだから、せめてもの救いなのかも知れませんが・・・」
❸
三人でお墓参り行く事にした。
両手を合わせながら三年間積み重ねた思い出を、一つ一つ思い出すように揺れ動く線香の煙を見ていると、お母さんが、
「明日来て下さる人は、かおりさんと言う方じゃないですね?」
と口にされたので田川はびっくりした
「いえ違います。磯村さんと言う方です。磯村春華さんと言う方です。山岳部の同好会の」
「そうですか。」
「そのかおりさんも山岳部だから知っていますが、勿論貞夫君と付き合っていた事も知っていますが、彼女来る事に成っているのですか?本人は機会があればお伺いしたいと言ってはいましたが。」 「いえそうじゃなく倅からその人の事を何度か聞いた事がありますので。」
「そうでしたか。」
「もし結婚する事に成ったらそちらへは帰れないからと言っていました。」
「そんな事まで話していましたか彼は?」
「ええ何度か。」
「その人は早瀬かおりさんと言いまして、貞夫君とは可成親しい仲だった事はみんなが承知していましたから、」
「そうでしょうね。でも電話が掛かって来る事もないから、だからもし明日来られる方がその人ならと思いまして」
「いえ違います。僕にはかおりさんのことは分かりません。」
この日は結局バスも既に無く、幸村家に泊めて戴く事になった田川は、彼が使っていた部屋が、今だそのままになっていると聞かされて、中を見せて貰う事にした。
案内する母の目から涙が零れているのを感じながら、目を回す様に何もかもを見つめていた。
「この辺に在るものは大学の寮から持って帰ったものばかりです。今も何も手を付けずにそのままにしています。
あの子がどのような生き方をしていたのか、この中に何もかもが記されていると思い、そのままにしてあげています。ここでまだ生きているように思いますから。」
田川はその本やノートを見渡しながら、その中から日記帳を見つけた
「へぇ、あいつ日記をつけていたのか。感心だな。」
「そうみたいですね」
「お母さんもし僕が読んでもいいのなら、見せて貰って構いません。
何故なら僕が北海道へ研修に行っていた時、彼が奈良の北山と言う所へ釣に行き、事故にあったのです。
もし僕が北海道へ等行かなかったら、彼はそんな危険な所へ釣に行かなかったかも知れないし、実はその事で僕なりに随分心を痛めました。
もしその事で何か書いてあるなら知りたいのです。彼がどのような気持ちで釣りに行ったかを。多分此方の家には何本もの竿が在るから、同じ気持ちで釣に行き、事故に遭われたと思いますが、このようにして日記を書いているのなら、何か知る事が出来るかも分かりません。」
「宜しいですよ。見てあげてください。」
「お母さんあと一個お願いがあります。
もし彼が生きていて僕がお邪魔したなら、彼はこの部屋で泊まれって言ってくれると思います。」
「そりゃそうでしょうね。」
「だからこの部屋で泊まらせて頂いても構いませんか?彼の事思い出しながら、今夜はここで眠ってみたいです。是非お願いします。」
「そうですか。倅喜びますわ。」
その夜田川俊介は幸村が生前書き綴っていた日記帳を恐る恐る開く事にした。
もし自分の悪口を書かれていたらと心配でもあったが、何故か取り付かれたように日記帳に目を落としていた。
平成二十二年六月五日曇り。今日は待望の釣りである
奈良県上北山村、大きな天の魚が釣れるかも知れない。尺者(三十センチ)が、多分無理だと思うが、でもその様に思うだけでもゾクゾクしてくる。それに珍しくかおりが弁当を作ってくれたから、万全である。こんな事は初めて。(雨になるかも。これは冗談)
美味しい愛情弁当を食って、でっかい天の魚を釣る
なんと俺は幸せな事か
ありがとう。かおり
これで彼の日記が終わっている
あくる日に、少なくともそのあと彼は亡くなっている。
そして誰にも発見される事なく、数ヶ月が過ぎ白骨化して発見されている。
多分お母さんはこの最後の名前を見て、更に彼から何度か彼女の事を聞かされていて、それであのような事を口にしたのだろう・・・
田川俊介は日記帳を見ながら、その最後の日に彼がどのような心境であったか、手に取るように分かる事が出来た。
更に前のページを見る事にした。
六月四日
今日はかおりと買出し 彼女が明日山へ行くから弁当を作ってあげるからと珍しい事を口にする。
その買出しを二人で
明日は楽しみである!
五月三十日
久しぶりにかおりとチョメチョメ かおり 最近香水の匂いが違って来た。何か心境の変化か
まるで大人の匂いが全身から漂ってくる。
これってどのように理解すればいいのか?少々気掛かり
五月二八日
かおり、まるであの芸能人のようなはしゃぎよう。まるであの美人女優のように、薬を打ったような幻覚を起こしているような感じ
でも四国の人だから、あの明るさも、遠慮が無いところも普通かも。
暗いよりはいいが
五月二十日
かおりとデート
最近のかおりは結構大胆
結構積極的
これは喜ぶべきか
それとも。
五月十一日
今度の登山は面倒だと言い出した。俺も少々
思っている
この暑さの中で登山
そろそろ趣味を変えなきゃ
いや、俊介に申し訳ない
俊介ご免、俺、変な事言って
五月三日
俊介夏季研修北海道を申し込んだ事を知る
俺は権利なし
今回は行く気がしない
例え権利があったとしても
釣りだ。釣りだ。
俊介頑張って来いよ
俺は釣りで頑張る
四月二十二日
とうとう最後の年、あと一年で俊介とも別れ
同じ職場へ行く事をあいつに言ってみようか?
これからもあいつと同じ飯を食って行けるかも知れないと思うとゾクゾクする。
俊介、考えてくれないか
俺たちは兄弟だ
後一年か、辛いなぁ
田川俊介は彼以上に心のこもった幸村の心を感じて、日記帳に込められた幸村の何もかもが嬉しかった。
とめ処もなく涙が頬を伝っていた。流石長旅で疲れたのか急に眠くなって来て、急いで電気を消したが、目を瞑ってからも中々眠る事が出来なかった。
俊介がそもそも遥々この地に来たのは、親友のお墓参りをしたかった事も大きな理由であったが、それ以上に何故幸村と大変深い仲に成っていた筈の早瀬かおりが、あのような振る舞いを出来るのかと、その一点がどうしても合点が行かなかった事が、何より知りたかったから、その何故かを捜しにこの地へ来たと言っても過言ではないと思っていた。
そして彼がまだ生きていた頃から、早瀬かおりが何故かはわからないが、変化して行く姿を、幸村の日記から感じる事ができた。
詰まりあのスポーツカーの男と掛け持ちをしていたかも知れないと、その時思わされた。
しかしその事を幸村は一度も口にする事はなかった事も確かで、彼の性格から言って、好きな彼女を疑う事などしたくなかったのかも知れない。
万が一一つの事を疑ってしまえば、二つの事を謝るような性格で、常に自責の念にかられてと言う様な考えであるから、何かを感じながらも、なかなか本当の事を知りたく無かったのかも知れない。
はっきり何かを摑む事が出来たとも思わなかったが、田川の心の中に大きなうねりのようなものを感じながら目を瞑った。
翌日の昼前
磯村春華が遥々訪ねて来て、幸村のお墓に二人して線香をたき、手を合わせた。
磯村春華は早瀬かおりの顔は知っていたが、直接話をする事は無かった。
そこには女同士の何かがあって、磯村春華から早瀬かおりに近づく事は今まで一度も無かった。
磯村はその事で田川俊介にこのように口にしていた。
「わたしねぇあの人苦手なの。なんか女の私から見て、近づきたくないって言うか、何かが違うのよね。
だから避けているって言うか、拘わりあいたくないって言うか、秀介の友達の彼女だからと思うのだけど、とにかくああいうタイプの人は、私は苦手だわ。」
その言葉に何が苦手なのか秀介にはまるで意味が分からなかったが、とにかくその様に言い続けるから、自然と近くでいながら遠い距離を保っていた。
昼ごはんをご馳走になり、二人は一日三本ほどしかないバスに揺られて長い田舎道を駅に向かっていた。 「随分田舎ね。私びっくりしたわ。今日中にたどり着くのか心配に成って来て」
「ほんとだね。こんな田舎から彼は出て来ていたんだね。卒業すると、本当はこの阿蘇の平原で牛かなんか飼って暮らしたかったんじゃないのかな。あんな大らかな性格だから、それに人を疑う事も知らない、純真無垢でいい奴だから。」
「そうでしょうね。俊介の友達だから何となく分かるわ。」
「昨日ね。あいつの部屋で寝させて貰ったんだ。そしてあいつが、思いもしなかったけど日記をつけていて、それを読ませて貰ったんだ。
そこに書かれていた事で気になる事もあったから、又大学へ戻ってあの人に合わないと。」
「あの人って?」
「だから幸村の彼女」
「なぜ?」
「だから幸村が日記をつけていて、あの行方不明になる日の日記が書かれていた事を。あの日に彼女が弁当を作って幸村に渡したらしいから、その事を聞きたくなって。彼女が何か知っていないかと思って。」
「でも今更そんな事聞いて、どうなるものでもないし・・・」
「でも聞きたいんだ。悔しいから。」
「悔しい?それどう言う意味?」
「春華、君に言っていなかったけど、君は興味が無いかも知れないけど、あの人の事調べてくれないかと頼むかも知れない。」
「何?その変な言い方?」
「だから彼女が出て行くときに後をつけて貰いたいって事なんだ」
「なぜ?何故その様な事するの?」
「寮へ帰ったらさっそく素行を調べてくれないかな。それから何を知りたいか話すよ。」
「でもあの人には、係わり合いにならないほどいいと私は思うの。今まで彼女の顔は良く知っていたけど、一度も話さなかったのは、結局話したくなかったって事なの。
あの人とお友達には成りたく無かったの。俊介の親友の幸村さんの友達で、大事な人である事は重々分かっていたけど、女の感って奴かな、要するに何かが怖いのあのようなタイプの人は。」
「・・・」
「分からない?」
「分かるんだ。僕は」
「ほんと、そしたらもうあの人の事忘れましょう。」
「だから一度でいいから、あの人がどのような人か確かめてほしいんだ。」
「わかった。何か知らないけど、俊介が言うようにするから。」
「帰ったら頼むから。」
「ええ。」
二人は熊本駅で別れて磯村春華は再び実家に向かい、田川俊介だけで大阪を目指した。
列車の中で、卒業までの残された日を思い、慌ただしくなる現実を思いながらも、やはり幸村が、つまらない女に引っかかったのかも知れないと思うだけで可哀相にと哀れんだ。
寮もそろそろ空け渡す時期になり、何もこの時期にと思いながらも、九州から二日遅れで戻って来た磯村春華に、早速連絡する事に成った。
「春華、ご免疲れているのに、早速で悪いのだけど、この前九州で言っていた事、実行して貰いたいんだ。」
「何時?」
「今すぐ」
「今すぐって?」
「だから今すぐに後を着けて貰いたいんだ。」
「あの人の?早瀬かおりさんの?」
「そう、今出て行ったから女子寮を。」
「・・・」
「多分JR和歌山駅に行くと思うから。もし見失った時はその様にしてくれる。」
「わかった。」
それから一時間ほどが過ぎ磯村春華から田川俊介に電話が入った。 やや興奮気味の声で、
「ねぇどうなっているの?あの人男の人の車に乗って何処かへ出かけて言ったわ。
東の方角って言うか、白浜の方に向かって行ったわ。どう言う事あの人。
だから怖いって言ったでしょう。何だか不気味だわ。なんか俊介は知っているのでしょう?だから私に見せたのでしょう?何があるの?
あの人は幸村さんと付き合っていたんじゃないの?幸村さんが死んでしまったから、新しい人見つけたのかしら?貴方何か知っているの?何だか怖いわ。」
「大体分かった春華?」
「ええ何時から?あんな関係になっているのは?」
「分からないけど。この前幸村の日記を見させて貰った時、気が付いたのは、彼が生きていた時からかも知れないと思う節が在るんだ。
それは春華なら分かるかも知れないけど、例えばかおりさんが香水の匂いが変わったとか、今までに無かったようなテンションの高い日があるとか、とにかく今まで見た事が無い様な事が起こる事を気にしていたみたいだね。」
「それって男かも知れないね。それも遊びなれた人とか、
もしあの人がそうなら、あれって何処かのどら息子ね。結構遊ぶ金があるような。医者の息子とか。第一あの車相当高いのでしょう?」
「ねぇ、口で言うより見れば分かってくれるだろう?」
「ええ何か知らないけど、あの人が私たちの心配している心を踏みにじって遊んでいる事は確かのようね。 もし幸村さんが生きていた時から続いていたのなら、相当悪よ、あの人。」
百聞は一見にしかずと言う諺があるように、磯村春華は興奮気味で田川と電話をして来た。
あんなに冷静で覚めた所を心に潜ませている人が、今興奮気味で話している。
そこには彼女の心の底には、人知れぬ道徳観や倫理観、さらには常識や優しさが潜んでいるのだろうと田川は感じていた。
田川もまた同じ思いであったから、その微妙な心の内を読み取る事が出来た。
「気をつけて帰って来てね。腹が立って興奮して、事故にでもあったら大変だから。」
田川は磯村春華が、思いのほか興奮気味に電話で話している事が気になったので、電話を切るときにその様に口にしていた。
いよいよ大学の寮も明け渡す時期となり、毎日のように引越しの業者がトラックで来る様に成って来た。
田川も磯村も荷物を纏めて整理に追われる毎日が続いていた。
四年間慣れ親しんだこの寮も、出て行かなければならないと思うと、感慨深いものがあった。
そしてその時も、親友幸村とは二度と会えない事に落胆の色を隠せなかった。
本来ならこの地で写真の一枚でも撮るところを。
その幸村の死によって、田川の就職先が和歌山白浜の南紀アニマルパークランドに、そして同じくして磯村春華も同じ所へ就職が決まっていたので、二人して新しい社会人として、同じ場所へ旅立つ事になった。
嬉しさが殆どであったが、二人の趣旨はお互いを尊重すると言う事であったから、少しはお互い心に穴が開いた思いも感じながら、それでもトータルで夢に満ち溢れた将来と言えた。
翌日田川の男子寮を訪ねて来た磯村春華は、自分たちの就職先の事など気も触れずに、相変わらず前日の出来事を口にした。
「ねぇ、昨日あれから私、寮に帰ってと思ったけど、腹が立って腹が立って、それでスーパーへ行き余計な買い物をして、更にムシャクシャするから喫茶でケーキを食べて帰ったのよ。余計なお金使っちゃったわ。」
❹
そう言って苦笑いを浮かべて田川の顔を見た。
「へぇ春華らしくないね。君のような常に冷静な人が。」
「そう私は常に冷静。でも昨日は冷静で居られなかったわ。
私もともとあの早瀬さんて人受け付けなかったから、余計だったかも知れないけど、あの車に乗る格好といい、男を手玉に取るような動作と言い、只者じゃないって感じだったわ。車に乗る姿を一瞬見ただけで感じたから。」
「それって実は僕も彼女を君にして貰ったようにつけて行って、この目でその同じ光景を見ているんだ。だから言っている事がよく分かる。
なんか颯爽として堂々として、まるで水商売の女のような気に成った事は確かなんだ。」
「えぇ正しく」
「春華、僕九州から新幹線で一人で帰りながら、列車の中で感じた事が在るんだ。それは幸村が生前書き綴っていた日記帳の事が気に成っていたと言う事で、それが六月五日が最後に成っていた事が気に成って。」
「どのような事を書いてあったの?見せて貰ったのでしょう?」
「あぁ見せて貰った。彼が奈良県の上北山って所へ釣りに行く日に書いた、詰まり絶筆になるね彼の。」
「生きている時の一番最後の文章ね。」
「そう、そこに書かれた文字に、何かがあるかも知れないと思えて来たんだ。その時。」
「で、何が書いてあったの?」
「控えて在るんだ。彼が書き綴っていた事を。だからそれを見せるから・・
『平成二十二年六月五日曇り。今日は待望の釣りである
奈良県上北山村、大きな天の魚が掛かるかも知れない。尺者(三十センチ)が、多分無理だと思うが、でもその様に思うだけでもゾクゾクしてくる。それに珍しくかおりが弁当を作ってくれたから、万全である。こんな事は初めて。(雨になるかも。これは冗談)
美味しい愛情弁当を食って、でっかい天の魚を釣る
なんと俺は幸せな事か ありがとう。かおり』
これで終わり。」
「へぇー幸村さんの嬉しそうな姿が浮かんでくるわ。」
「でもね」
「でも?」
「でも幸村はあんな奴だから、単純に嬉しかったと思うんだ。大好きなかおりさんに弁当を作って貰って、でも・・・」
「でも、なによ?」
「でもそのかおりさんがあのかおりさんって事だから」
「そうね。何か引っかかるわね。まるで別人に思えてくるね。冷静に考えてみると。」
「そうだろう。万が一だよ、万が一その弁当に何かが混入していたらと考えた時、恐ろしくなるじゃない。それで幸村が死ぬような事に成ったと考えたとき。」
「まさか」
「でもそのまさかって事を、新幹線で九州からの帰りに思いついたとき、背筋から冷や水が流れているような気がしたよ。」
「でもそれは考え過ぎでしょう。」
「考え過ぎならいいけど。あいつが可愛そうだから、もしそうだとしたら」
「もし貴方が気に成っているのなら、卒業すればみんなばらばらになるから、早い内に手を打たなければいけないわね。
かおりさんが何処に行くかなんて分からないし、二度と会えないかも知れないから。」
「そうだね。でもデリケートな話だなぁこの事は。でも幸村の為に思い切って話してみるよ。かおりさんに。」
翌日早速女子寮を訪ね、早瀬かおりに面会した田川俊介は、
「すみませんわざわざ呼び出したりして。」
「いいえ引越しの準備も大方終わりましたので構いませんよ。」
「そうですかそれなら安心です。行き先も決まっているのでしょう?」
「ええ和歌山市内の動物病院へ行かせて頂きます。大学の関係者でその病院と親しい方がおられまして、その方にお世話戴きまして」
「そうですかそれは良かった。なかなか就職難で大変な時だから本当に良かったですね」
「はい。ありがとう御座います。ところでどのような御用です。山の事でも・・・」
「いえ貴方は同好会を退会されましたから・・・実は先日九州へ行って来ました。それで何をしに行ったかと言いますと、幸村のお墓参りに行って来ました。
親友だったから。それに彼と同じ職場を二人で考えていたから、その報告にと思いまして、貴方も随分親しくされていた事は僕は重々知っています。彼から何度ものろけ話を聞かされていましたから。
向こうのお母さんも、かおりさんて貴方の名前も言っていました。
だから貴方の事は彼の実家では承知していたようです。」
「そうだったのですか。私も行かせて戴こうと思いながら、何かと忙しくて、今だに行けていません。しかし私の名前が、あの人の実家に知れ渡っていたなんで」
「そのようです。長らく付き合っていたから、嫁さんに成ってほしかったんじゃないのですか、あいつの性格から言って、正直って言うか、純情って言うか、おっちょこちょいって言うか」
「そうですか」
「でも彼喜んでいたようですよ。」
「そうですか」
「あの日の事を日記に書き綴っていましたから。それを見せられた時は涙が出て・・・」
「日記ですか?あの日の事って?」
「そう彼は日記を書き続けていたようです。あの日、平成二十二年六月五日曇り、貴方に始めて弁当を作って貰って、浮かれて奈良県上北山村の渓谷へ釣りに行った事を、彼の最後の手記として書き綴っています。
そして最後の言葉は『俺はなんと幸せなんだ。ありがとう。かおり』と成っていました。」
「・・・」
「だからその日記を見た両親は、先日実は磯村春華さんをつれて九州へ行ったのですが、そのとき彼女は実家から別に遅れて幸村の所へ行ったのですが、彼女の事をかおりさんかと思ったようです。
幸村は僕の事とかおりさんの事を何度か口にしていたようですね。
だから貴方が遥々幸村を訪ねて見えても、なんら可笑しくないような言い方をされていました。
僕には、貴方と幸村が亡くなった頃は、どのような関係であったかなど分かりませんが、とりあえず彼の家へ行って来た事を、お知らせしておこうと思いまして、明日にもこの寮を出て行くかも知れない訳ですから。
ところで和歌山市の動物病院はどちらか教えて頂けませんか?」
「いいですよ。島谷動物病院と言いまして、スタッフ五人ほどでされている小さな病院です。場所は和歌山城が側に見えています。お城の北側です。」
「そうですかいいですね。環境がよくって。」
「ええ。」
「ではこれで。余計な事だったかもしれませんが、貴方にお知らせしておかないといけないと思いまして。
幸村は僕にとっても一番大事な奴でしたから。それに彼が最後に書いた文字が「俺はなんと幸せな事か、ありがとう。かおり」でしたから、又機会があれば行ってあげて下さい。随分田舎で大変な所ですが。ではこれで。」
部屋に戻った田川俊介は早瀬かおりが微妙に変化する姿を感じていた。
そしてさぞ聞き辛いだろうと思いながら、しゃべり続けた事を思い出していた。
JR和歌山駅で出会っている男が本命なら、彼女の心は微塵たりとも幸村を追懐する心など、かけらも残っていないと自然と思えて来た。
そして絶対幸村のお墓を訪ねる事など無いだろうと確信していた。
それは幸村の死が単なる事故死ではなく、殺人かも知れないと考えたとき、早瀬かおりが幸村を排除したい気持ちが、何時から育っていたかと思われる事が、一番の問題であるとそれだけが気に成っていた。
幸村と早瀬かおりが付き合いだしたのが・・・それをきっちり知る必要が在ると気が付いた田川が、あの九州へ行ったあの時は気が付かなかったが、幸村が残した日記が眼に浮かんできた。
《先日は突然お邪魔しまして、大変お世話になりありがとう御座いました。
彼の部屋で泊めて戴きまして、何だか彼と一晩過ごせた気分に浸る事が出来て、とても嬉しかったです。
尚あの時読ませて戴きました彼の日記を、今一度読み直したくなり、暫くの間お借り出来ないかと思いまして、手紙を出させて頂きました。
日記が、大学に入った時の物が全て残っているなら尚ありがたいです。
彼が本当に単純な事故であったのか、それとも何か隠されたものがあるのか、その様な事も気に成りまして、僕なりに調べ直したくなったわけです。
勿論警察が動いているとか全く御座いませんが、僕が出来る範囲で納得いくまで調べたく思っている次第です。
彼とは本当に大の親友でした。皆が彼を忘れたとしても、僕は決して彼と過ごした三年間は忘れる事は無いでしょう。そして僕が北海道に行っている間に、彼が帰らぬ人になってしまった事が、悔やんでも悔やんでも悔やみ切れないのです。
僕も働き出しますので、どれだけ動けるかも分かりませんが、必死で動いてみます。
ご両親に迷惑を掛けるような事は御座いませんので、よろしくお願いいたします。
田川俊介 》
田川俊介がその様な内容の手紙を幸村の両親に出した。
それから二週間ほど過ぎた日に、九州から小包が田川の元に届いた。
田川俊介の元に小包が届いた頃、田川も磯崎春華も慌ただしい毎日を過ごしていた。
南紀アニマルパークランドで新入りとして研修を受ける毎日であった。展示されている動物の名前すら把握出来ていない状態だったから、二人とも毎日が苦労の積み重ねであった。
大学で四年間も大好きな動物と拘ってきたにも関わらず、生き物を管理する事が、こんなに厳しい環境であるのかと関心する毎日が続いていた。
それでも一日一日と重ねていく事で、楽しみも感じるように成って来て、仕事が終わる時間に成ると、二人がお疲れさんと声を掛け合う、その瞬間の心地よさを感じていた。
担当の動物は全く違ったが、共通して言えることは、基本的には、陽が上ると同時に生き物は目を覚まし行動する事と、陽が落ちれば目を閉じ眠る事であった。
或は夜行性の動物を担当すれば、その反対になるのであるが、新入りにはまだ危険度から、その担当は外されていたので、同じような時間に仕事が始まり、同じような時間に仕事が終わると言う待遇であった。
だから結構話す事が出来て、共に力に成り合いながら毎日が進んで行っていた。
そして何時も動物の話しより先に口にした事は、やはり幸村と早瀬かおりの続きであった。
「昨日幸村のお父さんが小包送って来てくれたから、又一緒に見たいのだけど構わない。」
「小包って?」
「だからあいつが生前に書いていた日記を全部送って貰ったんだ。大学に入った時からのがあれば全部送ってほしいって言って」
「それで送ってくれたのね。幸村さんのおとうさん。でも良く送ってくれたわね。息子さんの大事なものを。」
「勿論見終わったら返す事は約束しているよ。
でもその時両親に書いた手紙の内容は、彼と僕は随分仲が良かったから、彼が亡くなった本当に理由を知りたいから、もし何か単なる事故じゃなかったらと、それで納得行くまで調べたいからと書いていたんだ。それでこの様にして送って下さったから、信じて頂いたと思うんだ。
これから仕事も在るから、大変なんだけど出来るだけ調べて、納得出来たら辞める事にするから、春華も手伝ってほしいんだ。」
「ええ分かっているわ。私もJR和歌山駅で見てしまったからねあの人を。だから何でも言って頂戴。」
「ありがとう。先ず彼の日記から何が読み取れるか、それが一番だから、それからかたずけ様と思っているんだ。その後、
彼が亡くなっていた現場へ行きたいとも思っている。
彼を見つけた第一発見者のおじさんに、話しを聞きたいとも思っているんだけど、地元で民宿をしている木下さん。この人の事は新聞に載っていたから、簡単に会えると思うから。
そして時間があれば、地元の警察へ言って聞きたい事も在るから、幸村が一旦事故で死んだと成っているものを、事件ではないかと覆そうと思っているのだから、大変な事だと思うけど、あいつの為に何か動いてやりたいんだ。九州のあいつの部屋に泊めて貰った時に、その事も誓って来たんだ。
それと僕の実家にも一度来て貰えないかな。周参見町って言って、この街から車で三十分も走れば着くから。でもそれは直ぐでなくていいから。女の子を家に連れて行くと言う事は、周りの者から見ると誤解されるかも知れないから、慌てなくていいから。」
「私は大丈夫ですよ。俊介が変な事考えなければ問題なから」
「春華こそ気をつけてね。」
「ふん。」
「まぁお互い晩節だけは守らないと。」
「晩節ねぇ、でもそれも時代と共に変化して来ているわね。」
二人はにこっと笑いながら軽く口づけをしてハグをした。
それから毎日、田川俊介は幸村が書き残した日記に目を通す日が続いていた。
既に亡くなって骨になった幸村であったが、毎日その日記を読み続けている田川にとって、幸村が部屋の何処かで座っているような思いに駆られた。
「おい幸、お前何故死んだんだ。事故で岩から落ちて死んだのか、それとも何か、そう、おにぎりを食べて、美味しいおにぎりを食べて、何も知らずに死んでしまったのか、言ってくれないか、なあ幸村、何とか言えよ。」
平成二十年六月十日
北海道を発つ日が来た。
多くの動物と友達になれた
アパカラは大の親友になれた。熊とも出会えた。
北海道の大草原は、故郷阿蘇のそれと似ていた。
俺はこの草原をまっしぐらに突き進む大らかな男でありたい。
何もかもを信じ切って歩く阿蘇の牛の様に人生を歩みたい。
今日恋が始まった。
ときめきが恋に変わった。
その人は、
早瀬かおり
まさにその人である。
田川はその文字を日記帳から見つけた時、身震いをしていた。何故ならその北海道行きは、彼も行っていたからである。
まるで気が付かなかった。たが彼もまた無頓着な所も在る男であったが、幸村がこそこそと早瀬かおりにアタックしていたなど全く知らなかった。
彼自身も多分磯村春華に、夢中になり始めた時だから、人の事など構っていられなかったと言うのが本根であった。まさかその時に彼らが始まったのかと今更驚いていた。
詰まり幸村と早瀬かおりは丸二年の歳月を重ね、幸村が死に早瀬かおりは他の男に身をゆだね、悲しい結末になったようである。
二人のスタートになった月日を読み取る事が出来たが、問題は何時三角関係のような状態になってしまったかを見つけなければならない。
もし幸村が死んでしまい気落ちしている早瀬かおりに、たまたま近づいて来たあの和歌山駅で見かけ男が、優しく彼女を慰め励まし、元気にさせていたのなら、
そして彼女が今幸せと感じているのなら、構う事など全く意味がない訳で寧ろ余計な事であるから、潔く幕を引くべきであると、俊介は常に思いながら、幸村の日記に目を擦りながら見つめている毎日であった。
結局二回ほど読み直したが、それらしい意味ありな言葉で幸村は書き表しているが、決定的な言葉は見当たらなかった。
もし後で真相が分かり再度読み直したなら、その時は、《なるほど》と声を出すかも知れないが、今の所は見つける事が出来ないで居た。
そのうちゴールデンウイークに突入して、アニマルパークは人人人でごった返す状態が続いた。
田川俊介は春華に会いたかったが、それすらも出来なく成って、お互い気にしながらも、現実のきつさにはどうする事も出来ないでいた。
何とか落ち着いたのは、五月も中ごろになってからの大雨が降った日までフル稼働が続いていた。
「きつかったねぇ、こんなの初めてだから参ったねぇ」
「ええ辞めたく成って来たわ。だって私たち動物を管理する事がメインなのに、これじゃ人の管理ねお客さんの管理じゃない。」
「でも仕方ないって商売なんだから。」
「そりゃそうだけど。」
「でもこれから暑くなって来たら、動物なんか臭いもするし、見たくないってなるから、これでいいんじゃないの。忙しい事もあり、暇な時もありで」
「そうでしょうね。贅沢は言わないって事ね。」
「そうだよ。新米さん。」
「何よ、自分もでしょう。」
「この連休中に友達が何人か来ていたよ。山岳部の連中が。陣中見舞いだって。村野と木下が」
「私も出会ったわ。百谷由美ってこと三枝みのりって子と甲谷忍って子と、何時もあの子ら、くっついているみたい。
そして春華と同じ仕事に就けないかって聞いていたから、
もしかしたら臨時採用とかで、入ってくるかも知れないね。えーと甲谷忍ちゃんが。」
「へぇーそうなんだ。ここへ覗きに来る連中は、ここで働きたいと思っているかも知れないね。だから偵察って言うか覗き見って言うか。と言う事は大学の後輩も可成来ているかも知れないな」
「かもね。私たち注目の的かも知れないね。」
「そうかもね。だったら辞めたく成って来たなんて弱気な事言わないで下さいね。新米さん。」
「又夏休みに同じこと言いそう・・・何しろきつすぎたから」
「ところで少々慣れて来たから又始めたいのだけど、幸村の事を。毎日彼の日記を見ているのだけど、これって言うものは、かおりさんと恋に落ちた事ははっきり分かったけど、それ以外はたいして決定的な言葉を見つける事は出来なかったんだ。
今度君が見て何か思う事が無いか目を通して貰いたいんだ。
このノート渡すから、寮に帰ってから目を通してくれる」
「えぇそうする。女と男は少し違う感覚が在るかも知れないからね。」
「僕もその様に思う。だから」
「わかったわ。」
「それで今度の休みに、奈良の彼が亡くなっていた所へ行きたいと思うのだけど、二人が休める日に、もし春華が無理なら僕一人で行ってくるから」
「それは駄目よ。」
「駄目?」
「だって幸村さんに引っ張られたら大変でしょう。」
「まさか」
「でも行っちゃ駄目、私がついていける日にして。」
「分かった。じゃぁ何時?」
「六月の第二月曜日と火曜日なら空いているわ。」
「そうだね。その日にしようか?」
「ええわかった。」
六月第二月曜日の朝、磯村春華はラフな井出達で、列車に飛び乗った。
僅か四つの駅白浜から栄、椿、紀伊日置、周参見と乗るだけであったから、僅かで田川の待つ駐車場に着いた。
中古の車であったが、二人にとって随分重宝してる車であった。
HONDAのヒットという車で、未だに何ら故障の無い、更に燃費の良さも元貧乏学生にとっては、捨てがたい条件であった。
快調に紀州路を熊野方面に走り続けた。あっと言う間に本州最南端串本の街に着いた。
春華はその風景に見とれているのか、無口になって、涼しそうに景色を見つめ続ける顔が、幸せである事を物語っているように俊介には見えた。
暫くして春華が更に興奮する姿を見る事になった。 その景色は橋杭岩の全景であった。
「凄いねこの岩」それだけを口にして黙ってしまった春華に、
「将来こんな所で住みたいと思いませんかお嬢さん」と俊介が口にして笑顔で春華の顔を覗きこんだ。
「考えておきます。」と春華も笑って答えた。
串本を過ぎ車は紀伊田原から、勝浦へと進んで行った。
那智大社がある事を説明しながら、更に新宮市へと車は進んだ。
新宮市から長い海岸が続くのであるが、その名も七里美浜と言って約三十キロにも及ぶ絶景が続く事に成る。
そして熊野へ到着して海岸のベンチで一休み。
春華はまるで別人に成ったように、はしゃぎながら砂利の浜を裸足に成って駆けている。
熊野を後にした二人は大泊の海岸から国道四十二号線を東に走り、三百九号線に入り、更に百六十九号線に、下北山村、上北山村、吉野、橿原、奈良方面に車を走らせた。七色ダムの側道を通り、池原ダムの側道へと進み、上北山村に到着した時は、周参見を出てから既に三時間が過ぎていた。
「疲れただろう?春華」
「ええ、でも大丈夫結構楽しかったから。」
「そうだね。二人でこんなに遠い所まで来た事無かったから新鮮だね。」
「そう、楽しいわ。又機会があれば」
「そうだね。上北山村小井の背って所探さないと。さっきの信号を過ぎてから、僅かなんだけど地図では。」
「そうね。こんな田舎だし直ぐに分かるでしょう。」
「多分この辺だと思うからとりあえず車を止めるから。」
「あった。あそこ」
「そうだね。民宿木下って書いてあるから間違いないと思うな。」
「そうよ、多分。」
「ご免下さい。先日電話させて頂きました田川と申します。」
「あぁお待ちしておりました。それはそれは遠い所を、木下で御座います。」
「申し訳御座いません。ご無理言いまして」
「いえ暇ですから。お客さんも今日はいませんから遠慮無く仰って下さい。」
「ありがとう御座います」
「では早速、遅くなるより早いほどいいでしょう。お疲れですかな?」 「いいえ大丈夫です。若さだけが取りえですから。」 「じゃあ参りましょう。」
三人は車に乗り、走り始めたが、三十分ほど上り坂ばかりの道を登り続けていると、民宿の木下さんが、
「ここで止めて下さい。」と大きな声で口にした。
「その空き地に停めておきましょう。あの方がここへ車を停めていたからです。だから同じ様にしましょう。」
木下さんが言うように田川は従った。
「この道は車で降りていけるのですが、都会から来た人は怖いのでしょうね。だからこの場所へ停めるようです。それって言い換えると、魚を釣りに既に私がすでに行っていますからって示しているようなもので、だから後から来ても無駄ですよと成るのです。」
「それは何故なのですか?」
「はい雨の魚と言う魚は警戒心が強く、人の姿を見るとその日は警戒して何処かへ隠れてしまい、釣れなくなるからです。
誰かが先に川へ入っていれば、後から来る人はまるで掛からないわけで、だから車が停まっていたなら、その日は諦めるか他の場所へ行く事に成るのです。
もし下まで車が行っていて停めていたら、後から来る人は下まで下りてから、悔しがる事になるから、暗黙の内にそのルールが出来たと思われます。」
「それで彼もこの場所に車を停めて降りたのですね」
「そのようです。では歩いて降りていきましょう。お嬢さんも気をつけて下さいね。中々歩き憎い所ですから」
「はい。私は九州の田舎ですから慣れて居ます。このような道は」
「そうですか」
「でも残念です。僕たちは何時も同じように授業を受け、同じようにご飯を食べ、同じように遊び、でもこのようにして一方は元気なのに、一方は骨に成ってしまったのですから無念です。」
「そうでしょうね。このようにしてここまで来られるのですから、大変仲が良かった事が分かります。悔しい事だと思います。」
「えぇ」
「もう直ぐ川原に着きます。ほら見えて来ましたね。あそこからほんの僅かの所で仏さんを見つけました。
一部が骨が見えていて当事は私も震えて来る思いでした。こんな事初めてだから。
以前何度か同じ事が起こっているようですが、私が直接見る事になったのは、初めてですからびっくりした事を覚えています。
この坂をどのようにして登って行ったのかさえ覚えていない状態でした。あと暫くで着きます・・・」
川原の裾野の細い道を体を細めて一列になって歩き始めてから、5分ほど歩いた所で木下さんが止まった。
そして川原の隅を見つめながら、
「この場所です。幸村さんって方が亡くなられていた場所は。この場所でうつ伏せになり、石に纏わり付くようにくの字に成っていました。
多分この石に引っかかってここで止まったのだと思われます。何処で亡くなったかなど分かりませんが、上の方で滝つぼに落ちたか、岩の上から足を滑らせて落ちたか、何しろここは危険な所です。
それにもし上へ上へ登って行き、雨になれば急流ですから、水かさが極端に増え、登るとき行けた所は、増水した水の中に成って、降りてくる事が出来なくなるのです。
あの日この当たりは急に雨が降り、あっと言う間に増水した筈です。慣れない人が来て、ガイド役の人もいなかったようですから、このような結果になったのかも知れません。お気の毒にまだお若いのに。
親御さんは相当残念でしょうね。」
田川俊介は手に持っていた花束をそっと置いて、木下さんの言う事を聴きながら、静かに涙を落としていた。
春華もその俊介の姿につられて涙ぐんでいた。
大きな石に纏わり付くように、引っかかり朽ち果てた幸村の姿が、眼に浮かんで来て、悔しくて悔しくて堪らなかった。
「木下さん。僕が今日こちらへ来させて貰ったのは、幸村が亡くなった所へ花を供えてあげたいと思った事と、先日彼の実家へ行かせて貰いました。彼は九州の熊本と言う所で、此方のような可成田舎で、子供の頃から、此方でも獲れる天の魚と言う魚が釣れるようです。
だから故郷を思い出しながら来させて貰ったのだと思います。
❺
ただ彼は、此方へ来た六月五日を日記を書き残している事が分かりました。それは九州の実家に、大学の寮から引き上げた彼の荷物から出て来た訳です。
その日記帳に此方へ来た日の事が書かれていて、その中で腑に落ちない文面が在る事が分かったのです。
だからこれはあくまで僕の推論ですが、彼は何者かに殺されたかも知れないと思うのです。
日記から推測する事ですから、此方へ来て喧嘩をしたとか、出発してから何かトラブルに巻き込まれたとかと言う話ではなくて、以前から続いていた何かが在るのではないかと、今調べ始めたわけです。」
「へぇーそのような事が在るのですか。しかしこの方は多分警察は、事故で単なる釣り人の事故で処理していると思いますよ。私には分かりませんが」
「だから警察でも聞かせて貰う積りです。何しろ素人ですから」
「でも偉いですね。そのように友達の事が忘れられなくて、頑張ってあげるのって、中々今の世に中誰にも出来る事じゃないから、まぁ頑張ってあげて下さい。何かが分かればいいのですがねぇ。」 「はい。ありがとう御座います。今日はご足労頂きまして、このように大切な時間を割いて戴きまして、ありがとう御座いました。
この後警察へ行って来ます。木下さんがもし何かお気づきの事が御座いましたら、お電話戴けると大変嬉しいです。僕のような者には、何も出来ないかも知れませんが、気の済む所まで頑張ってあげようと思っています。」
木下さんを家まで送り届けて、二人は警察へと車を走らせた。警察と言っても吉野警察の本署ではなく駐在所で、おまわりさんが眠そうにしている所にお邪魔したから、びっくりされていた。
昨年友達の幸村が亡くなっていた事を聞く事にしたが、すでに三月で移動に成っていて、その時のおまわりさんではなく、新しく赴任された方だったので、何も分からないと思い、三月まで居られたおまわりさんの名前を聞かせて貰う事にした。
「彼の名は岩田健次です。」
「では貴方はこの時どちらで勤務されていましたか?」
「吉野警察の本署です。場所は吉野郡吉野町上市。
吉野山ってご存知ですか?その近くです。」
「ええ僕は良く知っています。吉野へ行った事も御座います。登った事は御座いませんが、電車から見た事があります。この渓谷で亡くなっていた幸村って奴と行った事があります。」
「そうですか、そこでこの三月まで勤務していました。そして此方で勤務していた岩田健次と言う男は、今本署で勤務しています。私はちなみに吉村隆文と申します。」
「おまわりさんはあの時の事故を覚えておられますか?僕の連れが亡くなっていたときの事を。昨年の六月五日です。上の方の渓谷に釣に来ていて」
「ええ覚えていますよ。岩から落ちてか事故に遭われてでしたね。半ば白骨化していた方ですね。」
「そうです。幸村貞夫って言う男です。亡くなっていたのは」
「そうでしたか。貴方のお友達ですか。お気の毒でしたね。まだ若いのに」
「でも今日此方へ来たのは何か聞かせて戴けるかも知れないと思いまして」
「それなら本署に行けば、岩田がいますから、何なりと聞いて貰えると思いますよ。ここには対して資料も残っていませんから。一度見てみますが・・・」
「お願いします。」
「これですねぇ六月五日
これです。
上北山村一之谷で大阪畜産府立大学四年生幸村貞夫二十一歳(本籍九州熊本)が一部白骨化して発見される。発見者は上北山村大字小井の背一の十八民宿経営木下敏文六十三歳、検視の結果は未定、釣による転落死、若しくは滝つぼに落ち溺死か。
しかし不明詳しくは後日・・・
これだけですね。まだ何も分からない段階でしたから当日はこんなものです。只この人の場合は、捜索願いが出ていましたから、他の例に比べて可成分かっているようですね。とにかく更に詳しく知りたいのなら本署に行って下さい。」
「分かりました。そのようにさせて頂きます。」
田川俊介と磯村春華は駐在所を後にした。
田川は喉から手が出るほどおまわりさんに言いたかった事があったが、言えなかったのは、それは朝車に乗るとき磯村春華から返された幸村の日記のことであった。
春華に向かって、おまわりさんに言う積りで田川は口にしていた。
「《おまわりさん、これは彼の日記です。亡くなる日まで書き綴っていた日記です。この所を見て下さい。この最後の日に始めて作ってくれたおにぎりに僕は疑問を感じるのです。
二年も付き合っていて、初めておにぎりを作った事自体が、何か裏が在るように思えるのです。
もしこのおにぎりに毒でも入っていたなら、彼はいちころに殺される訳です。何故なら、彼はこのおにぎりを作った早瀬かおりと言う女性を、愛していて感謝していたからです。
そして皮肉にも最後の言葉に成っている、ありがとうかおりと、そのような気持ちだったから、最後の一粒まで彼は美味しそうに、嬉し涙さえ流しながら食べたと思われます。
もしこの中に梅干じゃなくて毒が入っていても、彼は喜んで食べる訳です。そんな男でしたから。
それだけならまだいい。彼が亡くなって気を落としていると思いきや、かおりさんは他の男と派手にデートを繰り返しているのです。
まるで邪魔者が居なくなって清々したかのように僕には見えます。
幸村って奴は心の優しい奴でした。
大らかで田舎者で正直で、だからもし狡猾な性格なかおりさんだとしたら、簡単に騙される事が考えられます。一度調べ直して下さい。きっと何かが在る筈です。》 こんなところかな・・・」
こんな言葉を必死に熱弁したかったが、それは相手があるもの。万が一警察が動けば一人の女性を傷つけかねない話であるから、口に出来なかった。
「春華悔しいね。今君に言った事を警察に言いたかったのだけど、今は言えないからね」
「時期が来たら、同じ事を言わなければならない日が来ると思うわ。
勿論間違いであれば良いけど。
私の勘じゃそのようになりそう。だってあの和歌山駅で見た姿、忘れられないわ。少し前に彼氏を亡くした人の態度では決してないわ。」
「だからこれから、あの彼女の勤め先の島谷とか言った動物病院が休みの日に、彼女が動くかも知れないね。JR和歌山駅で待ち合わせるか、それとも彼女は既に和歌山市で暮らしているかも知れないから、案外もっと近くで待ち合わせるか、とにかく休みの日に何かが起こりそうだね。」
「又調べますか。彼女は大学に居てた時は寮だったけど、案外近い所から来ていたと思うんだけど。」
「そう確か四国の高松とか言っていなかった?」
「確かそのような事を聞いた事があったね。あれは山岳部で自己紹介をした時だったか、薄っすら覚えているよ。」
「だったらその病院の世話で、和歌山市で住んでいるわね。」
「そう言う事になるね。」
「まさか同棲とか成ってないでしょうね。あの雰囲気ならありうるかも。卒業して自縛が解けて風通りが良くなって、今迄の様な遠慮は要らないから。正に自由の身になって。」
「春華それ以上言わないでくれる。僕幸村の顔が浮かんでくるから辛いから。」
「あぁごめんなさい。遠い所まで帰らなければならないのに。ごめんね。」
真っ直ぐ帰っても三時間の道のり、正直幸村の事を忘れながら走りたいと田川は思った。こんなこと考えずに、春華を横に乗せてドライブをするほど余程楽しいだろうにと思えた。
まだまだ六月の日差しは、容赦なく降り注いで、二人の顔に遠慮もなく照らし続けていた。
串本まで帰ったとき、ふと親戚のおじさんとおばさんと、釣りに行った所を思い出した田川は、近くのスーパーでアイスと飲み物それにパンを買って港へ逸れて行った。
調度潮岬の半島の入り口付近であった。
釣道具やさんがあり、そこで餌などを調達した事を思い出しながら、半島に向かって走り続けた。防波堤は行き止まりで、調度腰をかけられる所で腰を下ろしアイスを口にした。
戦いの続いたような、長かった一日が終わろうとしていた。
「美味しいわ このアイス」
「スッとするね。ここへ何年か前、親戚のおじさんに連れて来て貰った事があるから良く覚えているんだ。
おばさんも一緒だったから、みんなでご飯を食べた事、おじさんが大きなイカを釣り上げた事も、それにおばさんが夜大きな鯵を何匹も釣った事も。
だから何となく来てみたんだ。いい所だろう?」
「ええ気持ちいいわ。私の田舎もリアス式海岸で有名だから綺麗だよ、いくつも島が在るから。」
「ハウステンボスも在るしね。」
「そう。」
「この前帰ってよかった?」
「良かったって言っても三日もいたら飽きてくるね田舎は」 「そうでも田舎はいいと思うよ、みんな優しいから何となく。」 「それは言えるけど、でも私はきりきりとした所ほど性に合っているから」 「そうかも知れないな。」
❻
「これ見る?」
「なに?」
「見て」
「これ、かおりさん?」
「そう、この前JR和歌山駅で撮ったの。」
「まさか?」
「まさかじゃないわ。これ位の事はしなきゃ、私探偵でしょう?」
「探偵?」
「そうよ、探偵じゃない。 貴方が依頼者じゃない。」
「何枚も撮っているんだ」
「そう十枚位在るかも。」
「でもおかしいと思わない。」
「何が?」
「かおりさん、この彼氏と眼を合わせているのに、どの写真も笑っているような写真無いじゃない?」
「そうかしら」
「ほら見て。笑ってないだろう。僕らが出会ったら、又はデートをする時、待ち合わせをしていたら、その時はお互い笑顔で近づくだろう。
でもこの写真のかおりさん、全く笑顔を見せていないじゃない。これって恋人同士?」
「そう言えばそうかも知れないね。私たちなら思い切り笑顔でって事になるわね。何故だろう?私分かんない。」
「このかおりさんて人は、気にすれば気にするほど、ミステリアスな人だね。
よく幸村は二年も付き合っていたものだと思えて来たよ。
あんな純真無垢な奴だから、付き合えたのかも知れないね。」
「付き合っているのじゃなく何か他の関係じゃないの?」
「そんな事はない。僕が以前見たときは、男が彼女の肩に手を掛けて抱き寄せていたから、男と女の関係には間違いないと思うな。」
「そう、ならそうなのかな・・・」
「パンでも齧って考えますかお嬢さん。」
田川がそのように言った途端、糸が切れたように、二人は車で着いた時から気にしていた捨て猫が、いよいよ気に成って来て、パンをあげたが食べて貰えなかったので、追い駆けていた。
二人は一時間ほど気晴らしに過ごしたが、彼女を寮まで送り届けて、周参見まで帰らなければならなかったから、早い目に車を走らせた。
最後に見せられたスマホに写った写真に、疑問を抱いた二人は、あまりにも大きな事を解こうとしているように感じて来て、心の中に重いものを感じていた。
わざわざ潮岬の半島を一周したのに、その絶景を存分に見る事も出来ずに、国道へ戻った二人は、少々お疲れ気味であった。
翌日又急がしい仕事が待っていて、田川も磯村も新人の域を抜ける事が出来ず、相変わらずおこられながら仕事に励んでいた。
しかし二人とも心は晴れやかで、やる気も十分持ち合わせていたから、辛い事も何ら気にならなかった。それが為に四年間大学で、いやと言うほど学んで来たのであって、動物に関わって生きる事の素晴らしさを肌で感じる毎日であった。
しかしその頃になると季節は梅雨、雨の日が多く成って来て、客足も鈍りだし、先輩の話では、夏休みが来るまでの一休みだと、誰もが口にしているので、この間に心に詰まっている悶々としたものを、取り除くべきと考えた田川は、早速磯村春華に相談した。
「二日も電話しなかったら随分前の事の様に思うね。まだ二日だね・・・今日は何時に終われる?」
多分六時には終われます。」
「じゃあ何時もの喫茶店で話ししよう。」
「ええいいわね。」
「積もる話があるから。それに頼みたいことも」
「いいわ。どんな事でも引き受けます。私は貴方の探偵ですから」
「へぇー案外こんな事に向いているかも知れないね。動物の世話をしているよりか。」
「そうかもね。でも怖いのよ、こんな事するの。だからこれが仕事なら絶対嫌」
「そうだね。この前の続きになるのだけど」
「そうでしょう分かっているわ。私も考えが在るからお互い話し合いましょう」
二日ぶりに二人は落ち合った。
雨が降っていた。その雨が激しさを増して、コンクリートに叩きつける勢いであった。
「幸村がこんな雨に出会っていたら、あの谷底で逃げる事も出来ず、辛かったと思うね。僕らが行った所なんか問題にならない位。上に行けばもっと厳しい勾配に成り、一歩誤れば崖から落ちるかも知れない。そりゃ大変だと思うよあんな所へ行けば、なんであんな所へ行ったのか、今でも信じられないよ。」
「でもね。私たちは登山同好会で可成の山に登ったわ。でも皆簡単な山ばかり、でもエベレストへ登る人もいるんだから、俊介は誘われたら登る?費用も全部出してあげるからって言われたら。それに帰って来たら、仕事もきちんと保障するって言われたら、小遣いもあげるって付け加えられたら」
「無理、無理。」
「そうでしょう。でも借金してでもエベレストへ行く人もいるのだから、人の気持ちなんか分からないわよ。親友の幸村さんの事が悔やまれるかも知れないけど、私何時の日か言ったように人は人だと思うわ。 彼はその危険な所で釣れる魚を釣りたかったのだと思うわ。
だからそこには危険がつき物で、取り返しのつかない事故も在るって事だと思うわ。貴方にも十分分かる筈よ。」
「あぁ十分わかる。でも僕はそのような事をしたくない人間だと思う。」
「そうね。」
「でもはなからこんな話をしても意気消沈するだけだから本題に入ろう。
春華、君の友達で和歌山市出身の子は居ないの?調べて貰いたいんだ」
「居てるか、どうかを?」
「それに居たなら、その子に、あの早瀬かおりさんが勤める島谷動物病院について、詳しく調べてくれないかと思って」
「かおりさんじゃなくって島谷病院を?」
「そう、何もかも」
「分かった。とりあえず聞いてみる」
「もし写真があれば尚良いのだけど。それって今スマホで調べられるのじゃないの?」
「じゃあ遣ってみる」
「出ました。島谷動物病院出ました。出ましたよ。
あれぇこの院長私見た事あるわ何処かで。まさか内の大学の講師?かも知れない。私見た事在るもの。俊介は?」
「見たかも知れないが、はっきり分からない」
「多分ね。多分講師と言うのか臨時なのか知らないけど、大学で見かけた事は間違いないわ。授業を見学して帰ったのか、何処かで見たわ。あ~ぁ思い出せないなぁ」
「でも見たんだね。」
「ええ間違いなく。」
「ねぇ大事なことかも知れないから毎日でも思い出して、思い出すまで頑張って」
「わかった。」
「君の友達に聞いてくれれば簡単に済む事かも知れないじゃない。」
「あっそうか、先ず和歌山市出身の友達がいるか先ず捜さないとね。」
「そう言う事だね。それから僕、今度奈良県の吉野警察の本署へ行って来ようと思うんだ。
まだ時期尚早だと思うのだけど、かおりさんの件が明らかになった時点で、あれは事故ではなく、詰まり疑念が限りなく濃くなった時点と言うべきかも知れないけど」
「その事は慌てないでね。人様の人権とか将来とか、社会的な風評とか左右する事になるから」
「分かっているよ。だから内密に相談すると言う事で。」
「でも私は探偵だから、あなたに忠告しておくけど、物的証拠を取らなければ話にならないわよ。物証よ。」
「何処で覚えた?そんなドラマのような事言うの。」
「当たり前でしょう。そんな事。」
「生意気な」
「だってそうでしょう。貴方はね、おサルを捕まえて注射撃てても、犯人は捕まらないわよ。」
「いいよ、僕春華を捕まえたからそれでいい。」
「何よ、それ。」
「文句ありますか?」
「私、捕まった覚えなんかないけど」
「でも僕の檻の中でいる事は確かだから、幸せそうにして」
「そんな事ないわ。」
「でも僕は幸せだよ。」
「あ~ぁ、わかった。もう止めにしましょう」
「君の負け」
「探偵辞めよ~かな」
「何言っているんだよ。君が居なかったら、この事件解決しないよ。頼むよ、頼むから協力して。」
「だから最初からもっと謙虚になりなさい。」
「はい。」
「私の勝ちね。」
「分かりました貴方の勝ちです。でも、でもこのまま僕たちが夫婦に成ったら、僕は完全に尻に敷かれるだろうな。いつか結婚申し込もうと思っていたけど考え直さないと」
「・・・」
磯村春華の友達で、和歌山生まれで和歌山市で暮らしている友達が直ぐに分かった。
東谷紀子と言う女性で、大学の時の生け花教室の仲間であった。
大学には通っていたので、何処の出身かを把握していなかったが、調べると直ぐに思い出す事が出来た。
その彼女に島谷動物病院の事を細かに教えて貰う事が出来た。
春華が言うには、
「島谷病院の島谷院長は、確かに大学に何度も来ているらしく、どのような用事かは知らないが、大学の事務をしている方、名前は篠原信利って言う人と大学が同じらしい。
それで二人で大学の食堂へ行く事があったり、グラウンドで歩いていたり、大学内でウロウロしているから、私も見かけた覚えがあったみたい。それにもう一つニュース。
あの島谷病院は紹介者がないと誰でも治療を受けられないようよ。
詰まり会員制って言うか、ビップを対称にしている動物病院らしいわよ。だから看護師さんも待遇が良いらしいわ。毎年、海外旅行も当たり前で、中々あの病院に雇って貰う事なんて出来ないって噂らしいわよ。」
「でもその病院にかおりさんが採用されたのだから、大したものかも知れないね。あのかおりさんて人は。」
「頭がいいか、何かがずば抜けているか、運がいいか、何かがあるのでしょうね」
「島谷の先生はこれで大体分かって来たから、それでいいのだけど、スポーツカーの男が、一考に出てこないのは何故でしょうかね?探偵さん。」
「うん、そうですね。私にも分かんない。」
「島谷先生と大学の事務局長さんと、スポーツカーの男と、何か関係が在るのじゃないかと考えるのが普通だろうね。」
「多分。私もそう思う。」
「あの車のナンバーから名前を割り出す事が素人でも出来るかな?」
「それは無理じゃないの。秘密保護法って奴も在るから、簡単に教えてはくれないと思うよ。」
「多分ね。だったら徹底的に突きとめるってどうですか探偵さん。」
「他に方法が無いのならやりましょう。地獄の果てまで」
「いよいよ二時間ドラマに成って来たね」
「でも解決するかな?何時までも「続く」に成らないかな」
「分からないけど気が済むまで頑張らないと」
「そうね。病院は木曜日が休みって言っていたから、日曜日も急患を受付って書いて在るらしいから、完全休日は木曜日だけのようね。
だからその日に絞ってと思うけど、私たちも結構無理ねそれは。」
「そうだね。首になるね、そんな事していたら。だから他の方法を考えないと。
警察関係者なら一分で分かる事なんだけど。そんな事。照会すれば直ぐに判るから。」
「でも何か方法が在ると思うわ。友達とかに聞き漁ろうよ。誰かが知っていると思うわ。単純な事だから。」
「あぁそうしよう。何とかなる積りで」
「ええ。」
「そうだ!若しかしてかおりさんの友達の二宮明日花さんなら、分かるかも知れないね。
卒業して遠慮しなくても良いから、何かを友達の彼女に口にしている事も考えられるから、幸せな事が起こると言いたくなるって事あるだろう。人って単純だから。」
「当たってみましょうか?」
「いや僕が当たるほどいいかも知れない。何故なら山岳部の同窓会を考えれば良いから。
もう直ぐ六月だから、彼が亡くなった五日にみんなが集まって偲ぶ会をすればいい、大学の近くの何処かで場を考えて。」
「でも会社大丈夫?休む事出来る土曜日か日曜日になると思うから。」
「今の内に休暇を申し込めば、何とかなると思うよ。大学の友達の一周忌で、幹事だったから抜けられないと言い訳をすれば。」
「そうね。貴方の名前で葉書を出せば、みんな集まってくれると思うわ。
幸村さんを偲んでって書けば。
だからその時かおりさんにも出せばいいのじゃない。山岳同好会って書いたら来ないかも知れないけど。」
「じゃあ僕が直接島谷病院へ行って手渡しするよ。
貴方も二年近く山岳部で居られた人ですから、それに幸村とはただならぬ関係であった事は皆知っているのですからと言って声を掛けるよ。」
「そしてスポーツカーでドライブをしている事を見たって言うわけ?」
「いや~それは・・・第一来ないと僕は思うな。」
「じゃあどうして声を掛けるわけ?来ないなら。」
「そうして突破口を見つけるんだよ。もし何かがあるなら、彼女も動き出すかも知れないから。勿論警察に言って色々な疑問を話せば、又違う予定外の事が起こるかも知れないし、例えば警察がこのスポーツカーの男の事を調べる事になれば、この男に何か疚しいものがあれば、アクションを起こす事が考えられるから、何もなければ何も起こらないだろうし。」
「それじゃあ近々大学へ行って、山岳部の同窓会だと言って、就職先を調べておきますね。それなら直ぐに分かると思うから。まして幸村さんの一周忌だと言えば。」
「じゃあ一緒に行こう。僕は幹事だったから、それも僕が行くほどいいと思うから。
今度六月の五日に何かを摑めるかも知れないね。みんなが集まれば、でもその時、今懐いている疑問を、口にする事なんか出来ないから、気をつけないとね、あらぬ疑いを掛けられたと成った時、訴えられる事も考えられるからね。」
「こんな事するの本当に気が引けるね。俊介まだまだ頑張って納得したい気持ち持っている?揺ぎ無い気持ち?」
「あぁ持っている。僕は九州の彼のお墓にもう一度行きたい。そして報告したい。内容によっては彼が喜ばないかも知れないけど、真実を告げてあげたいと思っている。」
「そう、それなら大丈夫ね。」
「あぁ頑張る。」
「わかったわ。」
「六月五日まで後一ヵ月半近く在るから、なんとかしたいね。一種の賭けだな、僕らのする事は。」
「そうね。何もなければ私たちの取りこし苦労だけど、何かがあれば、それは殺人事件に発展するかも知れないし、私たちは今その様な事をしているんだと思うと、武者震いがしてくるわ。」
「ほんとうだね。」
大学で快く名簿を知らせて戴く事になり、
*幸村貞夫君を偲ぶ会開催のご案内*
早いもので早一年、幸村貞夫君の命日が近づいて来ました。私たちは既に新しい生活を見つけて、新しい道を歩き始めましたが、彼は未だに眠っています。二十一歳のまま。六月五日は彼が亡くなって調度一年の日です。言わば彼の二十二歳の誕生日です。私たち皆で偲んであげて、二十二歳を祝ってあげようと思われます。どうぞこぞってご参加ください。
六月五日(日)
場所「和炉亭午前十時
山岳同好会OB
世話係 田川俊介
❼
田川の和歌山県周参見の自宅に、数日の内に何通もの葉書が舞い込んだ。
二宮明日花、百谷由美、三枝紀美、甲谷忍、村野哲、木下祐樹、磯村春華、結局卒業した者みんなが、参加を表明してくれた。早瀬かおり以外は。
そして後輩などがそこに参加を言って来ているので、総勢十五人程に成る計算を立てる事が出来た。
大学近くのこじんまりとした所で執り行うように予約をした。大学に通っていた頃からのお付き合いで、特別割安で何時も応じてくれていたから、その点は何一つ気を使う事は無かった。
俊介は毎日来る葉書にほくそ笑んでいた。
実は大変心配していた事は確かで、大学を出たからと言っても日本中の経済が冷え込んでいて、簡単に就職が出来ない時代であり、葉書が来るか実は可成心配であった。
それと言うのも、大学を出る事が出来ない者も相当居て、それでも四回生だから、寮からは退去しなければ成らない現実に悩んでいた者も居て、時代の背景に苦しめられている者も多くいた。
政治を変えよう。世の中を変えようと、誰もが大いに期待をして、不在者投票にまで行った、有権者が沢山いた総選挙で、見事民主党が大勝利して、世の中が変わる事を大いに期待したが、まるで泣かず飛ばずで、寧ろ後退の毎日で、素人の集まりが騒いでいる程度の政治に成りを変えていた。
【ご両親にお伝えだけさせて戴きます。今度の六月五日私達山岳同好会で貞夫君を偲ぶ一周忌と彼の二十二歳の誕生日を祝う集いをさせて戴きます。場所は大学近くの小料理屋さん『和炉亭』で行う事を計画しています。
朝十時から昼過ぎ迄と思っております。
これは私たちが勝手に貞夫君を偲んでする事ですから、
ですからその日にお父さんたちはお墓に行って戴いて、線香をあげて戴きたく思います。『今友達がみんなで貞夫を偲んで、集まってくれているよ』と報告して戴けたらと思います。
田川俊介ほか山岳同好会一同】
結局早瀬かおりは葉書すら来なかった。
田川俊介はそれでも待ち続けたが、締切日の七月三十日に成っても何の音沙汰も無かったので、辛抱しきれなくなって島谷病院を訪ねた。
白浜から高速で飛ばして来たと言うと、かおりは目を丸くしながらも、迷惑そうな顔も見せた。
「貴方は山岳部じゃない事は重々承知していますが、何しろ幸村の一周忌だから、貴方が居ないと、みんなが納得いかないと思いまして、それで押しかけて来ました。申し訳ないのですが、是非参加して頂きたく思いまして」
「でも私は山岳部を退会した立場ですので、今更そのような所へ行くのは変だと思いましたから、葉書を頂いていたのは承知しておりましたが、申し訳ありませんが、行きたくありません。
貴方は違うと思いますが、他の皆さん方は彼の事を偲んで、笑って騒いで飲んで、明日には忘れる事が出来るのでしょう。それで又一年が過ぎれば、又同じようにあの場所に集まって、騒いで飲んで、同窓会のような楽しく時を過ごすのでしょう。
私はそのような立場と違いますから、正直係わり合いになりたくありません。」
「そうですか。他の者はともかく、幸村の事を思うと僕なら出席するように考えますが、無理は言いません。
でも幸村、貴方の事が本当に好きだったのだと思いますよ。彼が書き綴って来た日記に、何もかもが書いてありますから。一年の時から全部。当然貴方の事も一杯。」
「これで失礼させて頂いてもよろしいでしょうか?私今用事が立て込んでいますから申し訳ありませんが。欠席と言う事で。」
「分かりました。」
「失礼します。」
「もし気が変わったらお願いします。」
早瀬かおりはぴりぴりと、体全体で拒否反応を起こすように、声を震わせて眉間に皺を寄せ頭を深く下げた。
田川俊介はその事を翌日磯川春華に話していた。
「昨日ね、ぼく早瀬かおりさんの所へ行って来たんだよ。例のあの動物病院へ」
「それでどうだった?」
「駄目だった門前払いって感じ。あのような所に行けば、騒いで飲んで、あくる日には幸村さんの事など忘れる人ばかりが集まるから、そして又一年が過ぎたら、又集まって飲んで騒いで、それだけだから行きたくないって言われたよ。」
「じゃああの人は何?幸村さんの事を一日も忘れる事無く、偲んでいるって解釈すればいいの?」
「そう言う意味の事を言いたかったのかも知れないけど。そうか逆に、一日も早く忘れてしまいたいから、係わり合いに成りたくないって言う意味かも知らないね?
とにかく迷惑そうないい方だった事は確かだね。」
「そうだったの。嫌な役しなければ成らないのね俊介は。」
「でも彼もみんなと同じように歳をとって、みんなの心の隅で生きて行ってくれればいいと僕は思うんだ。違う?」
「それでいいと思うわ。そんな俊介の事尊敬するもの。」
「まあ春華だけかも知らないけど、僕を尊敬してくれるのは。」
「一人でいいでしょう。仮に貴方が好きなAKBのみんなに尊敬されたら大変だよ。みんなに構ってあげないといけないし。だから一人でいいの。でしょう?」
「はい分かりました。奥さん。」
「違うでしょう?」
「あっ探偵さんだった。」
「うふぅ。」
とうとう六月五日が遣って来た。
その後も俊介の元にかおりさんからは何一つ言って来なかったので、結局来ない事が確かに成った。
十時前皆が集まり始めて、懐かしい顔が一杯に成ってきて、賑やかになる中で、幹事の俊介と磯崎春華、それに村野哲が少し緊張気味にぴりぴりしていた。
始まった。
「今日はお忙しい中、多くの皆様がお集まり戴きまして、幸村もさぞ慶んでいると思われます。早いものであれから矢の如く一年が過ぎ、この一年間の間に数々の事がございました。
僕は彼のふるさと九州熊本のお墓にも行かせて頂く事が出来、又亡くなっていた奈良県上北山村の現場にも花束を捧げに行く事が出来ました。
僕が北海道に行っている間に起こった事故でしたので、とても悔やまれる出来事でした。親友を突然亡くすと言う事が、こんなに辛いものであるかと言う事を知る事となりました。
これは僕の人生勉強の中で一番大きな出来事で、一番勉強になった出来事だったと今思います。
彼は今日二十二歳を迎えたものと、案内にも書かせて頂きましたように、僕は理解しています。
これからも末永く彼の誕生日を迎え、祝ってあげればと思います。時間が許す限り、僕らはこの場所で彼を偲んであげるのが、山岳同好会として何よりも供養だと思われます。今日は彼を偲んで有意義なひと時を過ごして下さい。長々と成りましたが挨拶とさせて戴きます。」
田川俊介は幹事として挨拶をしたが、思いのほか上手く話せた事に満足していた。
皆がそれぞれ思い思いにガヤガヤと話が弾んでいたが、小一時間が過ぎた頃になると、村野などが酒の勢いで声を荒げて、こんなことを言い出す者まで出てきた。
「おかしいでしょう。この偲ぶ会は。だって早瀬かおりさんが居ないのなんて不思議じゃないの?田川お前かおりさんに言っただろうな?」
「でもあの人は退会しているから来る事なんかないじゃないの。」 「しかし幸村を偲ぶ会だから、来ないなんておかしいよ。只の関係じゃなかった筈だよ。それも今日や昨日の関係じゃなかった筈。何年も付き合っていたと思うよ。みんなそう思わない?」
「葉書見ていないかも知れないから、電話誰かしてみたら。多分気が付いていなかったら可愛そうだから。」
「誰かかおりさんの電話知らない?」
「貴方知っているでしょう?二宮さん、何時も一緒に居たから。」
「分かりますけど電話する?でも今日は彼女仕事かも知れないし。」
「とりあえず電話だけ入れてあげて、後で知って気まずくなってもいけないから。」
ややこしく成って来たと思った田川俊介は、その流れを見ながら、ちょっと大きめの声で、
「みんな聞いて、僕彼女の所へ行って、五日の日に来てほしいって言ったのだけど、正直締切日まで待っていたのだけど、来れないって言うか、来たくないって言うか、まぁそのような言い方をされていたから、多分今日は来ないと思う。
彼女をそっとしてあげて。彼女は彼女なりに苦しんでいると思うから。」
そのように皆が騒ぎ出した時に、田川俊介の言葉に静止されたみんなは又静かになった。
そのとき1階からトントンと二階に上がってくる足音がして、おかみさんの後から、二人の初老とその娘らしき女性が姿を見せた。 そしてその三人を制するように女将が、「お父さんたちがお見えになりました。」と大きな声が部屋中に響いた。
田川初め全員がその光景に驚き、何一つ口に出来ず只固まっていた。
「幸村のお父さんとお母さんです。それに妹さんですね?幸村の妹さんですね?。」
俊介は思わず噴出しそうな涙を抑えて、そのように大きな声で叫ぶように言った。三人は深々と頭を下げてみんなに会釈をした。
「さぁ一番奥へ行ってください。わざわざ申し訳御座いません。まさか来て戴けるとは思いませんでした。こんなに遠くまで申し訳ありません。余計な事を言ってしまいました。」
俊介は平謝りに三人に頭を下げていた。
早速幸村の父清三から挨拶の言葉が、
「皆さん今日は倅のためにこのようにお集まり戴きまして、さぞ倅は喜んでいると思われます。
私たちは九州の熊本の片田舎で、倅もそのような所で育っていますから、豪放磊落な所が生まれつきあり、このように皆様方から愛されているのだと思われます。
私の家は一日三回バスが来るだけで、熊本駅からでも三時間ほど山道を、走らなければ成らない所に家が御座います。
だから今日は、昨日から熊本駅前の旅館に泊まり、熊本空港から関空まで朝から来させて貰いました。
そんな遠い片田舎まで、先日田川さんと、長崎に実家が在ると言う事で磯村さんが、倅の線香を上げさせて貰いたいとお越しに成って戴きました。私たちも勿論倅もみんな田舎者です。
倅は僅か二十一年の命でありましたが、今日は二十二歳の誕生日を祝って戴けると、葉書を読ませて戴きまして感激しております。
本当に皆様のお気持ち、ありがたく感謝申し上げす・・・・・母さんも一言。」
「貞夫の母親で御座います。先日田川さんが来て頂きまして、貞夫の部屋はまだそのままで、何も整理など出来ていませんが、田川さんが、
『もし僕が彼を生前に訪ねて来たら、この部屋に泊まるように彼は言うでしょう。だから今日もこの部屋で泊めて戴けませんか』と言われて、貞夫の部屋で彼に泊まって戴きました。
そしてあの消えてしまっていた暗い部屋が、誰もいなくなっていた部屋に明かりが点いて、貞夫が又帰って来たような気持ちになりました。
今階段を上がって来て、皆さん方を見た途端、私は息子を捜していました。ごめんなさい。」
幸村の母、小枝さんがその言葉を最後に、俯いて涙を畳にぽたぽたと落とした。
二人のその姿に全員がつられて、クスクスと鼻をすする音が部屋中に響いた。
お酒で酔っていた者も一気に酔いが覚め、部屋の空気が一変したが、場を壊したように思えた幸村の父清三が、
「さぁ皆さん倅のために飲んであげてください。二階へ上がって来る時、お酒を頼んでありますから、どんどんと、倅もお酒はいけた方だと思いますから、皆さんも存分に飲んであげて下さい。倅も喜びます。
さぁ田川さんも飲んで下さい。」
父清三がそう言って俊介に近づいて来た。酌を済ますと、更に清三はみんなに順番に酌をして廻った。何とか又さっきまでのムードに変わり始めていた。
幸村の母小枝もいつの間にか笑顔になり、皆から囲まれて話し込んでいた。
更に幸村の妹も高校生だったので、新鮮で皆からちやほやされながら、和やかな時が流れていた。
幸村の性格を思うと、家族が皆幸村と同じであって、その穏やかな心が気持ちよく捉えられた。
「この中にかおりさんて方が居られるのでしょうか?」
母小枝がにっこり笑いながら、そのように口にして周りを見渡した。
女性が五人居たので確かめるように見渡したが、誰も黙ってしまい、小枝も俯いてしまった。
「お母さん今日はかおり来てないのですよ。」
「そうですか、残念ですね。一言お礼を申し上げたかったのですが、貞夫が何度か田川さんとかおりさんの事を口にしていましたので、それで何かとお世話に成っている事が分かっていましたので、この機会にと思いまして」
「今日は来られないような事を聞いています。」
「母さん、皆さん忙しい時間を割いて、こんなに来て戴いているのだから、かおりさんて方は、多分仕事で来られないと思うから、又の機会に。」
清三が場を読んで直ぐに言葉を被せた。
先日田川は幸村の父清三に、日記を送ってほしいとあらましを伝えていたので、父清三はその事を察して、話題を変えようとした。
時計の針は十二時近くを刺していて、本来これから昼になる時間であったが、既にお腹はみんな膨らんでいて、そろそろ場がだらけるような雰囲気に成って来ていた。
そして又かおりの話が今度は春華の口から飛び出した。
「みんな今日はね、皆に協力して貰いたい事があるの。
それは何かと言うと、かおりさんの事なの。
かおりさんがって言うより、幸村さんが亡くなって今日で一年。でも来年はと思った時、みんなは何れ忘れて行くと思う。勿論私も結婚もして、子供も出来て、そのように成ればいちいち構ってられないと思う。
幸村さんを偲んで毎年このようにするかは分からないけど、私は正直毎年来るかと言えば、それは分からないと思う。
彼の顔さえ何時の間にか忘れて行くと思う。
お父さんやお母さん、それに妹さんがここまで来て下さっているからと思うと、申し訳ないと思うけどけど、現実はその様なものだと思うの。
何故私が、今このような話をするかと言えば、最初に言った事なの。かおりさんが今日来られないのは、私には分かるような気がするの。何故って言うと、それは彼女が他の人とデートしている姿を見かけたからなの。
田川さんも見かけたようよ。だから彼女はもうここへは来ないと思うわけ。
山岳会を退会した時から、心はここにあらずだったと思うの
でも誰でも同じだと思うわ。自分の好きな人が突然居なくなってしまって、二度と帰らない人になってしまって、元気だせと言われても、誰でも無理。
でもそんな時に誰かに救われたら、ついて行くかも知れないし、私も今俊介とお付き合いさせて貰っているけど、彼が急に亡くなれば、この会を辞めると思うわ。
彼女は抜け殻に成ったような会で、多分来るのなんか嫌だと思う。
今日はその事で少し激しい口調に成った人も居たけど、解ってあげないとね。
でも今日は幸村さんを偲ぶ会だから、あえて言うわ。彼が去年の六月五日、正に去年の今日この日を日記を書いているの。その後亡くなったから絶筆に成ったわ。その時書かれていた事をこれから読みます。
【平成二十二年六月五日曇り。
今日は待望の釣りである
奈良県上北山村、大きな天の魚が釣れるかも知れない。尺者(三十センチ)が、多分無理だと思うが、でもその様に思うだけでもゾクゾクしてくる。それに珍しくかおりが弁当を作ってくれたから、万全である。こんな事は初めて。(雨になるかも。これは冗談)
美味しい愛情弁当を食ってでっかい天の魚を釣る
なんと俺は幸せな事か
ありがとう。かおり
このような文章を彼は最後に残していたの。これは九州へ行ったときに、俊介がお母さんから見せられた日記なの。
それを私も見せて戴き書き写しているの。本物は今俊介が持っているわ。
皆さん何か口を挟みたいと思うけど、最後まで話しを聞いてほしいの。
俊介、貴方に後の事頼むから、私が何もかも言ってしまうと、でしゃばりに成るからお願い。」
「わかった。こうなったら続けないと仕方ないね。みんな申し訳ないけど聞いてくれる。実はね、幸村の追悼登山をしただろう。奈良県の高見山へ樹氷を見に。その何日か前にJR和歌山駅でかおりさんが、かっこいいスポーツカーに乗ってデートしているのを見かけたんだ。
車に乗るなり抱き寄せられていたから、男と女の関係だと僕には見えた。
その後幸村の追悼登山が企画されたが、かおりさんは不参加を言ってきた。
でも僕が無理矢理って言うか、強引に来てくれるように話して、何とか参加して貰ったけど、その後彼女退会を言って来て、受理させて貰った事はみんなも知っているね。
だから最後のお別れ登山は、彼女は不参加に成ったけど、これは仕方ない事。
でもそれからも、彼女がデートをしている姿を、春華にも見られているから、でも僕は個人的な意見かも知れないけど、幸村の親友だったからかも知れないけど、去年の六月にこのような日記を書いている男のその彼女が、死んでしまったからと言って、直ぐに別な男に乗り変われるのかと、疑問に感じて来たんだ。
それは親友の幸村が可哀相で堪らなかったから。
大学に入ってからいつも同じ行動をしていたあいつと、たまたま何日か別行動に成ったその時に、死んでしまうなんて、悔やんでも悔やみきれなくて、九州へ行ったり、北山村へ行ったりしているんだ。
彼の日記の最後に書かれた文字に、悪いけど不謹慎だけど、疑いたく成って来て、
幸村とかおりさんが付き合いだしたのが、二十年の六月、詰まり僕と春華と付き合いだした時と同じで、二人は北海道で急接近したように日記に書かれているよ。だから間違いないと思う。
二年前に付き合いだして、何回も釣りに行っている男に始めて弁当を作ってあげて、その日に亡くなったと思うと、何か無いかなと思えて来たんだ。
近い内に警察にも話を聞いて貰おうと思っているのだけど、僕としては、はっきりしたいんだ。
かおりさんの事疑っている訳じゃないけど、事実を知りたいと思う気持ちは正直在る。
九州へ行って、彼の部屋で泊まらせて頂いて、彼に納得行くまで頑張るからって誓って来たんだ。まぁこんなことなんだけど。」
「田川さん。今大変な事を口にしているのじゃないですか。もしこの話が広がってかおりさんの耳に入り、変な風になれば、彼女人生が狂うかも知れないと私は思いますけど」
満を持したように怖い顔をして二宮明日花が口を切った。
村野哲も、
「おいおい大変な事になっているんだね。俺何も知らないから、かおりさんが来ないなんて、大きな声で言ったが、そんなことなら来る事なんかないよ。」
木下祐樹も、
「その二年間で始めて弁当を作ったって、その点が引っ掛かるねぇ。第一そんな事は付き合いだした頃に、詰まり時めいている頃に作る物だからなぁ。」
三枝紀美も、
「かおりさん何処へ勤めているのです。誰か知っている?」
「勿論知っていますよ。彼女は和歌山市のお城の北側にある島谷動物病院です」と田川が言うと、
「三年生の窟屋忠助が、
「そこってよく採用されましたね。凄い!」
「だって近くの者でも絶対受からない所で有名ですよ。
あそこに受かる事なんて考えられないと僕は思います。だって僕は近くですから。昔から父や母から聞いていますし、おばあちゃんも言っていましたよ。でもかおり先輩は受かったって事でしょう。本当に凄い。多分何かあるのだと思いますよ。実家が開業医をしているとか、大金持ちとか」
春華も、
「それは私の友達からも聞いているの。患者の動物は一流ばかりって、だから紹介者が無いと診て貰えないって、会員制だから」
更に窟屋忠助が、
「そうですよ。だから来る車は殆ど外車、ベンツとかBMWとかアウディーとか、それもセカンドカー。
皆さん知っていません、あの先生が、年に何回か僕らの大学で教壇に立っておられるのを。年数回だから分かりませんか?大学の事務をされている篠原さんと同じ大学のようですよ。
だからたまに学内を二人で歩いている姿、見かけた事ありません?」
「窟屋君又今度聞かせてね詳しい事を。電話番号教えておいて。」
「はい。」
田川は口を挟み、話を取りあげて、
「続けます。僕としては、かおりさんが、この場に来て戴きたかったと思います。今ではなく以前に何回か機会があったと思います。
それに彼女の口から、九州へ行って来ますと言われていたのに、多分行かれていないと思われます。お母さんも彼女の顔を知らないようですから。
疑問に思う事がある以上、彼女も大人として社会人として、釈明すべきだと僕は思います。
皆さんがこの話をどのように思われるか分かりませんが、亡くなってしまった幸村に、何かがあったのなら彼は無念だと思います。
どなたでもいいですので、力になって戴ければありがたいです。
僕も皆さん同様、厳しい環境で働かなければなりませんから、正直余計な事をしたくないのが現実です。
しかし彼の事を思うと、頑張ってあげたいです。宜しくお願いします。これは早瀬かおりさんの為にも成ると思います。
最後に幸村が書き綴った日記からもう一度絶筆に成った文面を読みます。
『平成二十二年六月五日曇り。今日は待望の釣りである
奈良県上北山村、大きな天の魚が掛かるかも知れない。尺者(三十センチ)が、多分無理だと思うが、でもその様に思うだけでもゾクゾクしてくる。それに珍しくかおりが弁当を作ってくれたから、万全である。こんな事は初めて。(雨になるかも。これは冗談)
美味しい愛情弁当を食ってでっかい天の魚を釣る
なんと俺は幸せな事か
ありがとう。かおり』
「ねぇこんな話で私たちは解散するわけ?私かおりに電話するわ」
二宮明日花が強い口調で言った。
甲谷忍も同調して、
「かわいそうじゃない。かおりさん。」
それに対して村野哲が、
「でもはっきりしないとね。二宮さんはっきり聞いてみたら。それに今付き合っている人の事もこの際。何も我々が邪魔するわけじゃないし、寧ろ応援させて貰うよ。みんな幸せになってくれればいいんだよ。
人間の最終目的は幸せになる事だと、拙者は思うがなぁお主はどうだ?」
「同じで御座います。先輩の仰る通りで御座います。」
みんなが村野のふざけたしゃべり方に少しだけ笑みを浮かべた。
「どうか皆さん僅か二十一歳で人生を閉じなければならなっかた幸村の事を考えてあげてください。色々思うものも在るでしょうが、彼の立場にたって最善な策を考えて頂ければと思います。
出来れば又来年も集まれればいいのにと思っています。我々が一つ歳を取る様に、彼にも取らしてあげたいです。僕はかおりさんを攻めているのではなく、真相を知りたいだけです。事実を。」
田川俊介の言葉で偲ぶ会は解散に成り、俊介と磯崎春華、そして幸村の父と母それに妹さんが同じ車に乗り、喫茶店に行く事にした。
「今日は妹さんの為に、僕の家に泊まって下さい。
夏休みだからいいのでしょう。是非そのようにしてください。
そして出来れば僕たちの職場へ行って戴けませんか。ご招待致します。
ご招待って行っても入園料位の事しか出来ませんが、是非お越しください。
もしかすると貞夫君も同じ所で働いていたかも知れません。
白浜と言う所の南紀アニマルパークランドと言う場所です。とっても綺麗ですから。」
「分かりました。お言葉に甘えてお伺い致します。」
「妹さんも喜んで戴けると思いますから」
「はい。ありがとう御座います。楽しみです。以前何回かテレビで見た事がありますので、少しは知っています。」
「帰りも白浜から飛行機が飛んでいますから、かえって便利かも知れません。」
俊介は幸村親子を乗せて白浜方面に走り出した。
高速道路だったので、然程時間も掛からない内に白浜について、春華を降ろして更に周参見まで車を走らせた。
実家に着いた時は夕方近くに成っていたが、夏の日差しの容赦のない暑さが遠慮なく照りつけていた。
「いい所でお住まいですな」
父清三がため息をつきながら恨めしそうにそう口にした。
「はい綺麗なところです。少し手前にあった日置川って所も、大変綺麗なところですから、明日又見て戴けると思います。
明日は妹さんが主役ですから、お父さんとお母さんは脇役で、何しろ動物園ですから。」
❽
「ええ分かっています。私とお父さんだけなら、今頃は関空から飛行機に乗って空の上でしょうね。でもこの子がとんぼ返りなんてつまらないと言うものですから、お言葉に甘えてしまって。」
「当然ですよ。楽しんで帰って下さい。学校も今は休みだし、兄さんなら間違いなく泊まって遊ぶと思いますよ。」
「そだろうね。倅はそんな奴だったからね。」
「そうですよ。疑う事の知らない奴でした。人間として一番大事なものを持っている奴でした。」 「ありがとう御座います。そのように言って戴ける友達が居た事だけでも、あの子は幸せだったと思います。」
「お母さん明日はもしかしたら貞夫君が勤めていたかも知らない所ですから、楽しんで下さい。」
「はいありがとう御座います。」
「田川さん。今日の貞夫を偲ぶ会に同席させて戴いて気に成りました。
貴方が倅のために無理をされ、深入りされている事が、倅の為に頑張って下さるのはありがたいのですが、法律の事を考えると何故か心配です。相手さんが在るような事ですから、十分気をつけて戴かないと、貴方の将来を先ず考えて戴かないと。死んでしまった者は帰らないのですから・・・」
暖かいムードであったが、父清三の言葉が重く圧し掛かった。
翌日遅くまで幸村家の三人は、存分に楽しみ夕方飛行機で九州へ飛び立った。
三人の動向を気にしながら一日仕事をしていた俊介は、くたくたになって家路に着いていた。
磯村春華に何か労いの言葉と思いながら、出会う事すら出来ずに家に帰ったので、彼女が仕事が終わる頃を見計らって電話を入れた。
「春華昨日はお疲れ。ありがとう。でも幸村のお父さんに釘を刺されたよ。あまり深入りしないほどいいって。」
「そうでしょうね。私が余計な事を言ったから、変な風に成ってしまって」 「でもよく切り出してくれたよ。僕は焦点がぶれていたかも知れないから・・・両親が来られたので少々パニクッて」
「そりゃあそうよ。あの場に現れるなんて、誰も思わないからね。あの熊本の田舎だと思うと、信じられないものね。」
「でもよく来てくれたと思う。嬉しかったよ。」
「だから私、お母さんが、貴方が彼の部屋で電気を点けているのを見て、辛かったのだと思うわ。それに二階に上がって来て息子さんを捜したって言った時、辛かったわ。だからあの時、この会は幸村さんを偲ぶ会には違いないけど、何か突破口を開かなきゃ意味が無いと強く思ったから、強引だったけど切り出したの。
貴方が余計な事を口にしてと言うような顔をしたので、後半の部分を貴方に譲ったの。」
「怖いね、春華は。まるで探偵さんって言うより刑事さんって感じだね。」
「おぉ昇格ですか。ありがたい。もっとびしびしと行きますか・・・・・」
「春華はどのように思っている?あの宴会の続きが、どのように進んで行くかを」
「そりゃ二宮さんがかおりさんに、何もかもを告げるわね。そこでかおりさんがどのような態度に出るかって事だと思うわ。貴方の所か、私の所へ、いちゃもん付けに来る事も十分考えられるわね。でも覚悟していなきゃ。それくらいの事」
「すごいね 春華の根性は。まるで男だね。本当に僕考えるよ。」
「なにを?」
「春華と結婚しても耐えられるかって」
「そう今申し込んで見なさい。百年早いって言ったあげるから。第一お給料幾ら?それで養っていける?行けないでしょう?赤ちゃんが出来ればなお更よ。赤字ちゃんになるよ。」
「そんな何もかも分かっている事を、突っ込むのは卑怯だよ。春華と同じだから給料は。でも二人分でなら何とか成るって」
「やだ~その気になって。貴方はおかしいよ。私と一緒に成ったら大変だって話なのでしょう。考え直さなきゃ成らないと思うのは。
でも早く手を打たないと躊躇していると逃げられるよ。何しろ彼女は持てるんだから。」
「じゃあ突然何かが起こっても知らないよ。」
「突然に」
「そうだよ。だから心の準備をしておいてね。」
「まぁ覚えてはおきますけど」
「冗談はともかく、もし僕らにかおりさんが何かを言って来たらどうする?」
「誤ればいいじゃない。あの人だって分かる筈よ。貴方の気持ちが。二宮さんだって結構腹を立てていたみたいだけど、でもあの場で居て九州から両親が来て、あのお母さんが言った「かおりさんはどなたですか?」と言った言葉を、みんなが聞いたのだから、彼女だって我々を攻められないと思うわ。 第一かおりさんから貴方に、九州へ行ってお墓参りをしたいって言ったのでしょう。でも行っていない。
だから何も怖がる事なんか無いと思うわ。それよりあの三年生の窟屋って子、何かを知っているかも知れないね。あなた電話するって言っていたから、番号聞いているんでしょう?」
「聞いているよ。だからあの子には、例のスポーツカーの持ち主が誰か調べて貰うから。その事も既に彼に頼んで在るんだ、あの日に。」
「そう、じゃあ楽しみね。」
「あぁ分かればいいんだけど」
「かおりさん怒って私たちを名誉毀損で訴えてやるってとか成るのかな?」
「わからない。でも乗り切らないとね。ここまで来たら徹底的に追求しないとね」
「そう俊介も力強く成って来たじゃない。その調子よ。」
「探偵さん任せておいて。」
「ふぅん。」
「いつか嫁に貰ってやるからな」
「ふぅん。百年早いって。」
六月の間はたいして何も起こらなかった。気にしていたかおりさんが怒ってくる事と噂で聞く事も無く、夏休みであったから、客が耐える事無く押し寄せて来て、毎日くたくたになるまで働かされていた二人であった。
新入りとして何もかも覚えなければ成らない事と、勤めだしてから、調度半年近くだったから、慣れて来たと言うより、責任を感じて来た事の重圧がきつかった。
人間以外の生き物が、百七十種類飼っているのであるから、動物園がそのようなものである事等十分理解している積りであったが、その内容はとてつもなく奥深い事を気付かされる毎日であった。
動物の表情も常に摑まなければならない仕事であり、便も理解し、体調も決して簡単に把握など出来ない事も分かった。
しかし大好きな世界
常に明るかった。
九月半ばになり、後輩の窟屋忠助が南紀アニマルパークランドへ遊びがてら姿を見せた。
「ちょっとだけ分かりました。その先輩が言っていたスポーツカーの人は、大学にもよく来ている人です。でも何時も来るのは白のライトバンで来ていますから、分からないと思います。
結構やり手で、多分大学の事務局長の篠原信利さんと、友達関係だと思います。
住居は和歌山の海南市で高校や大学の購買部に出入りしている業者のようです。もしかすると同級生かも知れません。詰まり篠原信利さん、そして動物病院の島岡先生、そしてスポーツカーの男、この人達、例えば全員同じ大学へ行っていて、今でも付き合っている中かも知れません。」
「そう言えばあのかおりさん、大学の方の世話で今の所を紹介され、採用されたと言っていた事を今思い出したよ。だからこの三人に何か在るって事だよね。」
「かも知れません。先輩僕らの大学の購買部、海南市から物を買っているって不自然でしょう。泉佐野市も近くに在るし貝塚市も大阪ならいくらでも、それに利便性を感がえて和歌山から買うのなら和歌山市じゃないですか?それを海南から取るって可笑しいでしょう?
でもそこから取っているのは、そのスポーツカーの人が相当出来るか、やり手とかじゃないのですか?」
「でももっと知りたいなぁ三人の関係を。かも知れないじゃあ無くって、もっと具体的に。かおりさんが大学の誰かの紹介で、今の勤め先に行く事が出来た。でもその勤め先は簡単には行けないにも拘らず、彼女はいとも簡単に採用された。
大学の事務局長と出入りの業者、それにその二人に関わっていると思われる獣医、その獣医が事務局長の居る大学で時たま教壇に立っている。
絶対何か在るよ、間違いなく。かおりさんがその病院へ採用されていないなら、なんら疑問に思う事など無かったかも知れないけどね。何かの力が働いたから今のように成ったと思うな。
僕は幸村に拘り過ぎているかも知れないけど、でもかおりさんの動向は一人の女性として、この場合一人の人間としてと言うべきかな、あの気移りした姿は、僕は納得いかないよ。」
「わかりました。出きるだけ詳しい事調べますから、事務局長と親しい学生が居ないかも女子にも聞きますから。」
「頼むね。窟屋君」
田川俊介に取っって、果たして今している事が、幸村の死に繋がるものが在るのか、何もわからなかったが、湧き出ている疑問は何時になっても俊介の頭に中でウロウロしていた。
暑い夏も足早に過ぎ、被害を多く出す台風が近畿地方に何度か来て、世の中に当たり前のようにあった明るい空気が一変した。
南紀勝浦も川が氾濫して大打撃に見舞われ、熊野川も大反乱して河口の町が床上浸水すると言う悲惨なニュースも伝わって来た。
気候の激し過ぎる変化は、動物たちにとっても、その種類によっては打撃を受ける事となった。
動物に関わっている者はたった一頭でも居なくなればどれだけ悔しいか、そして悲しいか計り知れない。 それは獣医であっても、排便の世話をする者であっても同じで、皆共通した思いであった。
田川にとって、そんな事で毎日が気の張る日々に成っていたので、幸村の事も時間と共に心の中から少しだけであったが薄れていた。
それでも常に早瀬かおりの事が気になっていたので、確かな情報を知りたくなり、休みの日に奈良県の吉野警察署に行ってみようとなった。
藁をもすがる思いと言うような大層なものでもなかったが、心の中でもやもやしているものが、くすぶった状態が続いていた事が結構ストレスに成っていた。
その一つが、この行為を何時かはしなければと思い続けていたからである。
吉野警察署へ行って、当時上北山村の駐在所で勤務していた岩田と言うおまわりさんに、幸村の何もかもを問い訪ねたかったのである。
自宅の周参見を出て、串本町を過ぎ、やがて勝浦の町に入って、途端に驚きの光景が目に入ってきた。
先日の豪雨で街が大きく打撃を受けていて、住民の方が怖い顔に成りながら、後始末に追われていた姿が、印象に残って、心が高ぶってくるのが肌でわかる事になった。
更に新宮市に入って同じような光景を目にする事になったが、まさかと思う大橋が浸かっていたのには驚かされた。
動物と付き合う事も自然が基本である。先祖から培われて来た事を繰り返す事が、一番種族を保存する必須の条件である。それが何よりの未来永劫の安泰に繋がるわけであるが、最近そのような常識が変わろうとしている。
それは気性であると思え、又動植物であるとも言える。
串本の町は本州最南端として有名であるが、その為に沖縄などで生息する魚やサンゴがこの海でも生息するようになった。それは地球温暖化が影響しているからであると学者などが言っている。
しかしこの度の豪雨で海水温が急激に下がり、亜熱帯に成りつつあったこの海に居付き始めていた亜熱帯の魚の殆どが死んでいる。
動物でも魚でもまたは植物でも、更には人間が生きる事に於いても、激しさが増強され大変な世の中に成って来たような気がする。
田川は被災された街を見ながら、心を重くしながら車を知らせていた。
熊野街道に入り奈良県を目指しながら、更に被災した村を見ながら大台ケ原の近くまで車は着ていた。
何時の日か来た、幸村が車を停めていた最後の場所も、知らぬ間に通り過ぎていて、伯母峰トンネルを越すと、いよいよ奈良県の匂いのする風が、吹いているような気に成って来た。
やがて車は川上村を越え更に宮滝などを経て、奈良県警吉野警察署に着いた。
「岩田さんて方にお会いしたくて来させて頂ました。和歌山県周参見町の田川俊介と申します。実は僕の友達が昨年の夏、上北山村で遺体で発見され、白骨化していたと言う内容なのですが、その時上北山駐在所に勤務されていた方が岩田さんだと、現在同所で勤務されている、吉村隆文さんからお聞きしていましたので、一度本署へ行かれたらと薦められました。それでお邪魔した次第です。」
「わかりました直ぐに来て頂きます。」
愛想のよい事務員さんが応対してくれたので、田川は長旅の疲れが少しは安らいだ思いであった。
「岩田で御座います。貴方の事はいつの日だったか吉村から聞かせて貰っています。
しかし何もお話しする事など無いと思います。あの場所は今まで何度か同じような事故が起こっていて、大変危険な場所でありますが、それでも釣りマニアが警告を聞かずに入るようです。
山で遭難する人と同じなのでしょうね。お気の毒ですが仕方ありません。」
「それは分かっています。
でも岩田さん、これ見てください。実はこれは彼の日記です。亡くなる日まで書き綴っていた日記です。亡くなっていた幸村には二年間付き会っていた女性が居りました。大変仲が良かったと僕には見えました。この日記にその事が書かれています。」
「ほう、そんなものが・・」
「はい。この所を見て下さい。これは彼が上北山に行く朝に書いた箇所です。
ここです。この部分、
この消息を絶った最後の日に、始めて作ってくれたおにぎりに僕は疑問を感じるのです。二年も付き合っていて、初めておにぎりを作った事自体が、何か裏が在るように思えるのです。
もしこのおにぎりに毒でも入っていたなら、彼はいちころに殺される訳です。
何故なら彼は、このおにぎりを作った早瀬かおりと言う女性を、愛していて感謝していたからです。
そして皮肉にも最後の言葉に成っている、「ありがとう。かおり」と、そのような気持ちだったから、最後の一粒まで彼は美味しそうに、嬉し涙さえ流しながら食べたと思われます。
もしこの中に梅干じゃなくて毒が入っていても、彼は疑う事など知らない性格です。だから喜んで食べた筈です。そんな男でしたから。
それだけならまだいい。彼が亡くなって気を落としていると思いきや、このかおりさんは、他の男と派手にデートを繰り返しているのです。
まるで邪魔者がいなくなって清々したかのように、僕には見方によっては見えます。
死んでいた幸村って奴は心の優しい奴でした。
大らかで田舎者で正直で、だからもし狡猾な性格なかおりさんだとしたら、簡単に騙される事が考えられます。
一度調べ直していただけませんか?きっと何かが在る筈です。
早瀬かおりさんも同級です、まして同じ大学で同じ山岳部の仲間でもありました。
そのような事を重々承知で、それでも敢えてお願いしたくて、此方へ来させて貰いました。」
「そうですか。そのような事が御座いましたか。でもそれは何か裏付けがあり、はっきり立証できる話ではないのですね。それにあの件は検死はしていないと思われます。
一度調べますが場所が場所だけに、単純な事故である場合が普通と考えられますから、あえて面倒な検死などしないと思われます。
司法解剖と成ると厄介でもありますし時間も掛かります。第一懐疑性が先ず無い場合が多く、今までの事例から言っても、全て事故で処理されています。
寧ろ遺体に全く何も無い状態であったなら、全く別なのですが、よく女性が犠牲になる事件などで、全裸の遺体がとか言う場合は、何もかも調べる結果になりますが、この方のように捜索願が出ていて、その時の服装が一致していて、更にその服装に本人である証拠が備わっていると成ると、まず誰も疑わない訳で、全く懐疑性が無い訳ですので、司法解剖はしないケースが多いのです。
兎にも角にも、調べる事に致しますからお待ち下さい。」
暫く待つ事に成ったが、結局幸村の遺体は、単なる事故と言う事で荼毘に付されていたので、遺体から何一つ知る物は無かった。
それでも岩田巡査が、『貴方の言われた事を、もう一度検証させて戴きますよう報告しておきます。貴方の言われるような事実が実際あれば、警察としても放っておけませんからね。
よく分かりました。その日記帳をコピーさせて戴いても構いませんか?」
「はい構いません。この現物は九州の両親に返さなければなりませんので、大切に保管しておきますので、必要な時が来れば何時でも言って下さい。」
「そうですね。大切な証拠に成るかも知れないですからね。」
「成っても困るし、成らなくても辛いと言った所です。又振り出しに戻るわけですから。」
「分かります。言っている意味が。結構辛いですね。只近年プライバシーとか人権とか煩いですから、決して罪になるような事には成らないように。無実で何一つ疚しい物など無かったなら、逆に訴えられますからね。」
「だから正直僕の様な者が探偵の様な事をしなくても、警察の方に聞いて戴けたらと思いまして、それで僕の勘違いで、向こうさんに何ら不振な所が無かったら、納得も出来ますし諦めも付きます。」
「わかりました。もう一度検証させて貰うように上司に伝え、出来るだけの事はします。」
「あと一つ、実は早瀬かおりさんがデートしている相手と申します人の車の番号です。かっこいいスポーツカーですので。それでその車の持ち主が誰なのか、僕には分かりません。只警察の方なら照会すれば、直ぐに判る事は知っています。
不振車両などを見つけたとき、無線で照会している姿を映画だったか、本物だったか覚えていませんが簡単のように思われます。
果してこの男が誰であるか、とりあえずかおりさんが付き合っている事は確かだから、参考には成ると思います。勿論そこに何かあれば、尚話が捗ると思われます。」
「分かりました。参考にさせて貰います。」
田川俊介は吉野警察署を後にして帰り道についた。
自宅へ帰った時は既に午後五時前に成っていて、調度その頃に磯崎春華の仕事が引ける事が分かっていたので電話をする事にした。
「春華、今話せる?」
「ええ大丈夫。」
「今日ね、僕奈良の吉野警察署へ行って来たから、いつか春華に話したような事を聞いて貰いに。
それでかおりさんの今の彼氏の事も言って来たよ。何かがあるかも知れませんって」
「でも大丈夫、深入りして」
「だから警察の人にも言ったんだ。素人が探偵の様な事をするより、警察で調べてくださったら早いからって、そのような事を」
「そしたらなんて言ってるの?」
「いや分からないけど参考にするって、車の番号も伝えたから。だから直ぐに分かると思うよ。」
「すると警察は直ぐに動いてくれるのかしら?」
「分からない。」
「それより幸村を解剖していないようだからショックだったなあ。」
「解剖?」
「そう検死って言うか、司法解剖って言う奴、あれって、あいつのお腹に何が入っているか知りたかったけど、だけど、検死もしないで荼毘に付したらしいよ。それは事件性が全く無いと判断したからって言ってたね。」
「そうなの。でもそれほど事が上手く収まるかも知れないね。保険とか考えると、遺族にしてみれば、事が簡単に成るほどいいと思うわ。」
「かも知れないね。ややこしい事になれば、保険会社だって支払いがストップ掛かる事も考えられるからね。」
「でも幸村さんに関しては、全く収穫が無かったって事ね。遥々吉野まで行ったのに?」
「そうだね」
「残念ね。お疲れさま。」
「春華はこれからどのようにすればいいと思う?探偵さんとしては?
僕ねぇ最近、あの先日の幸村の誕生日の六月五日の事なんだけど、あれ以来何時も気になるのは、かおりさんが突然遣って来て、何か大きな声で喚き散らすのじゃないかと、何となく思って、若しかしたらビビッて居るのじゃないかと思うんだ。それだけ罪な事をしているのじゃないかと。」
「それは私も同じ、そのように仕向けたのは、あの時の事を言えば、寧ろ私だから、でもそのような事を言っていると埒が明かないわよ、
今更そんな弱気でいい子になろうなんて駄目よ。命を懸けて戦わないと、何事も大事な事に対しては、必死で頑張るって事でしょう。
それって必死と言うのは必ず死ぬって事なのでしょう。必ず死ぬ事に向かって行く事でしょう。
幸村さんがそうだったのじゃないの。だから彼は亡くなったのよ。必死だったから。
少なくとも現状を考えてみると、かおりさんは疑う余地は幾らでも在るわ。
それに問題の三人も誰一人として真っ白とは思わないわ。
寧ろ何かが在ると逆に思うわ。後輩の窟屋君って子何も言って来ないの?何かがあれば助かるんだけど」
「今の所何も無い。」
二人の間には何かがありそうに思いながら閉塞感もあった。
素人ではかなわないものが在ると思えて来ていた。もしこれが警察なら、あの人はどなたですか?お名前は、職業は、そしてどのような関係で、など聞ける訳であるが、又車のナンバーからでもすぐに照会すれば分かるわけで、素人の探偵ごっこには無理であるように思えて来ている事も確かであった。
田川にしても磯村春華にしても、新入社員としても頑張らなければならない時期であったので、両刀を遣わなければならない事が、非常にきつく感じる事も確かであった。
二人は幸村の事を話す事をご法度にして、一足先に秋の色合いに迫る高野山へ出かける事にした。
紅葉がどれほど綺麗か計り知れない所があり、その場所が俊介には分かっていたので、何はともあれその地を目指した。
空海が開祖したその霊験厳かな全景は、一本の大木だけとっても、奥ゆかしさを感じるのであるから、その中に佇む賢者たちのお墓に、心を奪われて行く自分を感じざるをえないのであった。
武田信玄、上杉謙信、豊臣秀吉、織田信長、、伊達政宗、暴れん坊将軍徳川吉宗 石田三成、明智光秀、
信長によって焼き討ちになっていても可笑しくなかった、歴史の背景を思うと、どれだけの深みが在るかと感慨深いものがあった
田川はそのような場所が結構好きな男であった。
山を愛すると言う事は、そこにある自社仏閣をも愛する事は誰もが同じで、そのような存在を無視する者など、決して居ないだろうと考えている極普通の日本人であった。
春華を紅葉の中に吸い込ませてうっとりさせながら手を取って、強い目に握り締めていた。
「ごめんね。幸村の事で君まで辛い思いをさせて。」
「いいのよ。貴方が納得するまでは、ほかの道は無いと持っているから。だからいいのよ。寧ろそのようにして、亡くなった友達の事を、大切に考えている貴方を尊敬するわ。何時かおまわりさんも言っていた通りだわ。」
「有り難う。そんな風に見てくれる春華を、僕は尊敬しているんだ。」
「有り難う。お互いを褒めあった所で食事にしない?
おそばとかなんか食べたくなって来たわ。霊験厳かな高野山のお蕎麦は美味しいのでしょう?何となくその様に思うわ。」
「分かった。じゃあお蕎麦奢らせて貰うから。」
二人で蕎麦を食べながら、
俊介が、
「暖かく成ったら今度釣に行こうと思っているのだけど、」
「釣って幸村さんを思い出す訳でしょう?」
「そうじゃなくって春になれば、串本の町の外れに姫って海岸が在るから、そこへ行きたいと思っているんだ。
キスって言う魚が釣れるわけで、その釣りは、それが可成やばいって言うか、とてつもなく面白いから、病み付きになりそうに思ったんだ。
親戚の叔父さんの友達で、学校の先生をしている人に教えて貰って、その人は相当上手いから、」
「でも私なんか釣りなんてした事がないから。」
「でも何とかなるって。その上手な先生は学校の事より、釣りの事が大事らしいよ。とにかく上手いんだから。
ところがこの釣りは旬が来れば簡単で、誰でも出来る本当に簡単な釣だから、波打ち際で面白いように掛かるから、とにかく暖かくなれば必ず行こうね」
「ええ分かったわ。楽しみにしています。」
「内の南紀アニマルパークランドも名こそ動物のイメージだけど、海の生き物も随分増えて来ているからね。場所柄当たり前と言えば当たり前だし、魚の名前も覚えておいて不足はないと思うよ。
今会社の方針に盾突くような考えじゃ、直ぐに首に成からね。民主党政権はいったいどうなっているのか、心配に成って来たね。
これだけ観光客が減少したから、正直打つ手が無いと言う業者も一杯出てくるような気がするよ。
震災、洪水、原発放射能、それに中国との軋轢の数々、一体日本中何が起こっているのかと心配になって来るね。
もし南海地震が再度起こるような事に成ったら、あの東北のような規模って成るから、それまでの命かも知れないね。
自分の命より動物の命ほど大事に、僕らは考えている節が在るから、彼らの世話をしても、どんなに排泄される物が臭くても気に成らない訳だから、多分自分の命すら犠牲にして頑張るだろうね。」
「そうね、この前にも言ったように必死になると思う。死ぬまで頑張ると思う。」
「でも僕が言うのもおかしな話だけど、海の魚がこの豪雨で、串本の魚なんかは相当死んでいるらしいよ。それは急に海水温度が下がり生きていけない環境に成ったかららしいよ。
その魚はもともと亜熱帯の魚で、沖縄とかにしか生息していない魚で、それが地球温暖化で串本に黒潮に乗って流れて来て、今回海水の温度が下がり、急変したから死んでしまったらしいな。
だから何を言いたいかって言えば、パークで飼っている例えばアパカラは、子供たちに人気があり集客力も凄いのだけど、アカパラは中南米の動物だから、環境に果たして合っているかと言えば、決して住み易くなんか無い筈。
❾
寧ろ元気に見えても現実は分からない事が一杯あって、もしかすると、生まれた所で暮らすより、遥かに寿命が短いかも知れない訳で、それって人間のエゴで、世の中の何もかもを、人間用に塗り潰しているのじゃないかと、僕は思っているんだ。
だから時たま人間にとてつもないお仕置きを神様が下すのだと思うわけ、大水害や大地震と言う形で。」
「そうね。そばの味が少し変わったから残念だけど、いい話ね。だから私たちは動物を犠牲にしている事を眼中に思いながら、彼らと接する事が大事じゃないかと思うわ。それが最低でも持たなければ成らない彼らに対する愛情でしょうね。
その気持ちが無いのなら、この関係の仕事から去るきだと私は思っているの。他人様の事はともかく私自身が。」
「そうだね。彼らの匂いが辛い日がとか何回もあった事も確か。風邪気味の日とか特に辛かったね。」
「私は何でこんな事をしているだろうと、自分に訪ねていた日があったわ。」
「同感。動物に関わっている者は、大なり小なりそんな日が在ると思うな。」
「ねぇまるで場所柄賢者になったような気持ちでこんな話ししてわたしたち何者?」
「動物好き人間」
「そうだね。」
帰り道まだ陽は少し高い目であったが、春華は海の近くに立つモーテルに入る事に同意した。 久しぶりの思いに興奮していた。
思えば俊介も春華も幸村が亡くなったその日から、彼らの心には、欠けてしまったものが在る事に気が付いていた。
俊介が心を痛めている姿を、春華にも十分解っていたから、二人ともまるで幸村の為に、自粛をしていたかのような日々を重ねていた感じであった。
そして今日沈み行く夕陽に包まれて、二人は愛を確かめ合う事になった。
ホテルの窓に差し込む夕陽をガラス越しに浴びながら、二人の関係は揺ぎ無いものに成って行くだろうと、少なくとも俊介にははっきりと感じていた。
「春華とこのまま松代までも結ばれれば、どんなに幸せか」と思いながら、夕陽を見つめる春華の背中に、そっと手をかけて同じように海を見つめていた。
『あいつも今の僕と同じ気持ちだったのだろう』と又幸村の日記の最後の言葉を思い出さずに入られなかった。
「ありがとう かおり」と書かれた絶筆を。
平成二十四年に年は塗り替えられたが、世の中は何一つ替わる事なく、日本中に萎縮ムードが今だ終わる事無く漂っていた。
民主党政権も鳩山由紀夫から、官直人に変わり、その姿は野田総理に変わっていたが、その全てに共通している事は、みんな素人の集まりであるとしか、言いようがない無力で体たらくさを見せていた。
動物園のような観光施設はばたばたと閉園して、現実の厳しさを物語っていた。
時は三月になり、東北大震災が起こってから丸一年を迎える事になったが、然程復興していない現状に、誰もがため息さえつく始末であった。人は時として、このような大が付く災害や困難に出くわさなければ生きて行けないのかと、教訓のような気にさせられていた。それを運否天賦と割り切るにはあまりにも辛すぎる現実であった。
鳴かず飛ばずの鬱積さえ感じる毎日が続き、田川俊介も磯村春華も、出口の見つからない幸村の事で頭を痛めていた。
そんなある日、一本の電話が俊介の携帯を鳴らせた。
「田川さんでいらっしゃいますか?わたくし奈良県警吉野警察署の巡査長岩田健次と申します。」
「はい、いつどやはお世話になりまして。何かお分かり戴けましたか?」
「ええ、それが貴方が言っていた男が、実は検挙されて逮捕されたのです。罪状は賄賂です。公立高校の学校の関係者にお金を渡して、便宜を図って貰っていたからです。
男の名は寺田洋介と言います。貴方が以前言っていた、上北山で亡くなった幸村さんの恋人、詰り日記帳に書かれていた、かおりと言う名の女性が付き合っていたと言うのがこの男な訳です。
検挙されたのは和歌山県の橋本警察署でありましたが、乗っていた車がシボレーの高級スポーツカーであったから思い出だした訳です。
貴方に以前その車の番号を言われ照会したのですが、その車の名前が難しく聞きなれない名前だったので、持ち主の名前と車の名前を大きな文字で書いたのを机に挟んでいて、事務の方が気が付いたわけです。
お役に立ちますなら、内の事務員に今度来られた時にお礼言って下さいね。
これは冗談ですが・・・それで何をいいたいかと言いますと、あの時日記帳をコピーさせて頂きましたが、最後の部分だけで、実際は可成何ページもあったように記憶しています。」
「ええ三年間の記録ですから」
「そうでしょうね。分厚かった事は覚えていますが、まさかこのように成る事など考えられなかったから、最後の所だけ写させて戴いたと思います。
それをもう一度見せて頂きたいと思いまして、もし何かがあればと思います。
今被疑者は橋本警察署で拘留されている筈ですから、万が一大きな山であったならと思いまして、幸村さんの件を今一度検証する必要があるのではと異例なのですが成りましたから」
「分かりました。速達で至急送らせて頂きます。」
思いがけない事が起こり始めたが、それで何が起こるなどとは俊介には見当もつかなかった。
只これからかおりさんがどのような選択をする事になるのだろうと思えた。
新聞を見直せば三面に小さな記事で寺田洋介が載っている。
学校に入り込む為の裏工作であった事があきらさまに書かれている。
実に悪い奴であると俊介は感じていたが、それは幸村が亡くなった事に関係があったのなら、とんでもない事件に発展するかも知れないと思うと身震いする気がした。
田川俊介の後輩の窟屋忠助に電話を入れて、一連の出来事を伝えた。窟屋忠助はびっくりしたような声を出し、興奮しているのが分かった。
「先輩は僕にあの島谷病院へ行って、かおりさんが今でも無事働いているか、見て来れないかと言う積りなのでしょう。幸村さんを偲んで、去年の六月にみんなが集まった『和炉亭』で色々ありましたが、何となく動き出した気がしますね」
「じゃあ頼んでおくね。何かがあれば電話くれる。但し無理のないように気をつけて、プライバシーの侵害とかに成ったら大変だから、警察に訴えれれるような事になれば、先ず会社は首に成るから、それに首になったら再就職なんて今出来ないと思う。派遣社員か臨時雇用になる位だから十分気をつけて。」
田川俊介は後輩窟屋忠助に電話をした後、二宮明日花にも電話を入れる事にした。
「二宮さん貴方はかおりさんの友達だから知っていると思いますが、彼女が付き合っていた寺田洋介さん、昨日逮捕されたと新聞に書いてありますよ。知らなかったですか?勿論昨日の新聞だからまだ見ていないかも知れませんが・・・」
「私は何も知りません。彼女とも最近余りお会いしていませんから、彼女変わりましたよ。だから次第に離れていっているって感じです。
貴方や春華さんが言っていた事が本当かも知れないと思うような事もありました。かおりってあんなに投げやりな性格ではなかった筈が、あの和炉亭で、かおりの事で色んな事があって、私も腹が立った事もあって、あの後彼女に電話を入れました。
貴方たちが随分強引に、彼女の事を苛めているように思いましたから。でも彼女は怒る事もなく淡々と聞いていました。
逆に私が腹が立って来て、根も葉もない事を言われているのなら、今の内に言い返すべきよと、言ってあげましたが、それでも何も反論しませんでした。
「いいから放って置いて」とその言い方が実に投げやりに思えて、悲しく成った事を覚えています。彼女から今付き合っている人がいるのかと、その時聞きましたが、何も聞けませんでした。
だから私もしぶとく聞き直す事などしませんでしたが、確かに彼女は変わって来ています。
ところで先ほど言われました、寺田洋介さんて何者ですか?何故逮捕されたのですか?」
「昨日の新聞に小さく載っています。学校の購買部に業者として入ろうと、賄賂を学校関係者に渡していた事が判明して、両名が告発されたようです。
その内こんな話が一杯になって学校関係者が、芋づる式で逮捕されるかも知れません。
実はこの人は我々の母校にも出入りしているから、何か在るのかも知れないですね。
多分かおりさんは、この人と大学の事務局長が関係があり、更に今勤めている島谷動物病院とも関係が在るから、おかしな繋がりが判明しなければいいのですが、何か悪い事に加担していないかとも心配です。
貴方は今まで可成仲がよかった友達だったと理解しています。何か彼女が苦しんでいるかも知れません。助けを求めているかも知れません。
聞いてあげれるものがあれば、聞いてあげて下さい。又僕らで何か役に立つ事があれば遠慮なく言って下さい。
実は一昨日奈良県の吉野警察署から電話が掛かりまして、寺田が逮捕されたことを知らされ、何か繋がっていると判断したようで、幸村が書き残した日記を全部見せてほしいって言われました。だから今日その日記を速達で送りました。
その中にかおりさんの名前が至る所に出てきます。
貴方も知っていた筈です彼女と幸村がどのような仲であったかは。だから警察が幸村が亡くなった事で、今一度検証をしたいと言って来ましたから、この後どのようになって行くのか大変複雑な思いです。
それだけをお伝えしておきます。何もなければいいのですが」
電話を切った田川俊介は、頭の中で蠢く何かを感じながら、危険に晒されるように感じる、かおりと言う女性が眼に浮かんできた。
彼女は被害者かそれとも加害者か、何故かその様に思えて来てしょうがなかった。
夕方になり磯崎春華の仕事が終わるのを待ちながら考え込んでいた俊介は、
『これから一体どのように成って行くのだろう』と整理が付かなく成って来ている事に気が付いて来ている事が辛かった。
田川俊介が、警視正になった方の演説を、大学の時聴く経験があったが、あの人のように六時間でも話した内容を、全部把握しているような頭に、成れないかなと思いながらも、自分自身を叱咤激励するのではなく完全に諦めていた。
磯村春華が仕事を追えてやって来た。思い切り笑顔で遣って来た。
「お疲れ。」
「はい」
「春華やっぱりそれだね。」
「なにが?」
「その笑顔だよ。僕も今春華の顔を見て、こぼれそうな笑顔を見て、同じように笑ったね。これが普通恋人と出会うときの表情だよ」
「そうよ。当たり前じゃない」
「そうだろう。かおりさんが付き合っている男と出会った時、全く笑っていなかった。何枚もの写真を見ても。だからあれは恋じゃないのかも知れないね」
「待って、もう一度見るわスマホに残っていると思うから。・・・あった、あったわ。
本当ね、あの時も貴方が言ったけど。」
「春華この何日間でめまぐるしく動き出した気がするよ。
先ず一つ目はかおりさんが付き合っていた男、詰りJR和歌山駅で我々が見た男、その男が逮捕された事が第一。」
「逮捕?なぜ?」
「それはこの新聞に書いてある。」
「へぇー学校関係者に賄賂。納入業者、便宜を図って貰う為に裏工作、学校関係者も共に逮捕。そうだったの。へぇー」
「それで後輩の窟屋忠助に島谷病院を見張るように言ってある。」
「見張る?」
「見張るは大げさだけど、その様な話。それに二宮明日香さんにも電話入れてある。
でも彼女びっくりしていたから、最近かおりさんと音信不通かも。
又吉野警察が日記帳を、全部目を通したいと言って来たから昨日送った。」
「へぇーかおりさん変な事に関わっていないか心配に成って来たね。」
「君も、だから同じ事を思ったから二宮さんに電話をしたんだ。力に成ってあげてほしいって。
そう、こう成ったら出来るだけ早くはっきりさせないと、とんでもない事が起こるかも知れないね。」
「よもやそんな逮捕だなんて怖いわ、私。」
「もしこの寺田洋介が一部始終を口にしたら、僕らの大学も関わっているかも知れないだろう。事務局長と友達関係である寺田洋介だとしたら、何もないと考えるほど不自然に思うからね。
それにあの島谷病院も関わっているかも知れないからね。芋ずる式に解明されるかも知れないと言う事に成るね。」
「こわ!」
それから五日後、地方紙であったが紀州新報と言う新聞に寺田洋介の逮捕劇の続きがコラムの欄に報じられた。
【この事件は何を語る】
『背景に不景気による深刻な社会情勢と雇用状況。若者の甘さと軽さ。更に見えない将来、事件から見る現代の実状』
この事件は、先日逮捕された公立高校へ学用品、食品や衣料品を納入する事を手がける業者、㈱寺田商事、代表寺田洋介(和歌山県海南市)が、賄賂を送った罪で逮捕された事件である。
賄賂を受け取っていたのは、県立紀の国工業高校(和歌山県橋本市)事務局員赤木泰蔵五十三歳(大阪市河内長野市在住)であった。
この赤木泰蔵が橋本警察署で、自供した内容は深刻なものであった。
一年ほど前から寺田洋介が近付いて来て、気が付けば呑み屋でお酒を飲む様に成っていた。
もともと隙があったのかも知れないが、寺田の巧みさに翻弄され、気が付けば抜き差し成らぬ状態に成っていたと言う。
そして飲み代のほか、金銭を包まれ、更に女性を紹介して貰う事になり、当然結婚していたが、ついその甘い言葉に付いて行った様である。
そして赤木が口にした言葉は驚きの言葉であった。
現役女子大生を用意すると言われて、現実にその様に成った事が、罪の意識もさる事ながら、寺田に関心さえしたのであると自供したようだ。
その理由として就職難で困っているから、何とかなると言っていたと、また大学の関係者を大勢知っているから、問題なく女の子を用意出来ると豪語していたようである。
相当の小遣いをあげるか、又は就職の目処をつけてあげるか、寺田洋介はそれぞれの弱みに付け込み、巧みに捌いて鮎の如く生きていたようである。
これが現時点の全容である。
こんな時代が続けば、悪い奴はなお狡猾に成り、弱い者は常に犠牲になる。又は狂わされる事になる。
この赤木泰蔵も寺田洋介が近づかなかったら、多分罪を犯しては居なかったと思われる。一年前まで極普通に、幸せな家庭を河内長野市で続けていた筈である。
近いうちに彼の家は、セールの看板が掛かる事になるだろう。
これが現実である。
今後寺田が何もかもを口にすれば、多くの知られては困る話が、晒されることになるのであろう。
早く景気が良くなり、このような狂った陰湿なルールで成り立つ世の中から、一日でも早く脱却して貰いたいものである。
コラム担当 大林幸一
「ねえ読んだ今日の新聞?紀州新報」
「あぁ読んだよ。」
「それでどうなの?これからもかおりさんに突っ込むように頑張るの?何もかもを調べ上げるの?」
「多分僕が頑張らなくっても噂で色々伝わってくるように思うな。勿論今までの立ち位置を変えたりはしないよ。
そんなことしたら幸村に失礼だろう。彼が書き綴って来た日記を見ている事だけでも、プライバシーの侵害じゃない。
でも正直かおりさんが逮捕されるかも知れないから、素人は素人らしくしていなきゃ駄目だと思うよ。それが僕らにとって嬉しく等ない話だから。」
「そうね。これから何が起こるかも分からないから、無茶だけは無い様にしないとね」
「それは君も気をつけないとね、たまに暴走しそうになるのは春華だから。」
「そうね。気を付けるわ。俊介、こんな話して良いのか分からないけど、かおりさんのあの時の顔、新聞を読んでいると頭に浮かんで来たの
あれって何処かの男の所へ連れて行かれる日だったのじゃないかと思えたの。
嬉しくも無く仕方ないっていうか、緊張しているような顔だったと瞬時に思えて来たわ。私の推測間違っている?」
「僕はなんとも言いたくないな。春華が口にしたから二人で同じ事口にすると、あまりにも悲し過ぎるじゃない。だから真相が分かるまで黙っているよ。」
「何よそれ、卑怯じゃない?」
「卑怯かも知れないけど、女の子はどの子でも最悪に成ってほしくないんだ。僕の希望だけど。」
「最悪?」
「そう最悪。男として辛いから。春華にもかおりさんと同じ判断が出来る子なら僕は去る。」
「私は出来ないわ。だって嫌だもの、そんな事するの。枕交渉って言うの。枕営業って言うの?はっきり知らないけど、そんな言い方ね。」
「でもまだ何が事実かなど分からないから、この話は時期尚早って事にしておこう。」
「そうね。ご免なさい余計な事言って、これが暴走ね、私の悪い所ね。」
「よくお分かりで奥様。」
「違うでしょう。探偵でしょう。」
寺田洋介の逮捕と新聞報道は田川の母校にもその噂が大きく広がる事となった。大学の食堂でもグランドでも再三見かけれれていた、寺田洋介と事務局長の篠原信利の姿が波紋を呼んでいた。
スポーツカーの男は分からなかったが、白いライトバンで購買部に出入している業者なら誰もが知っているからであった。
憶測が憶測を呼び、あの後輩窟屋忠助などは、その噂の発信元に成っているだろうと俊介は思っていた。
その窟屋忠助から俊介の元に電話が入り、
「先輩最近あのかおりさん見かけないのですが、何か情報入っていないですか?
寒いからかも知れませんが、表の道からガラス越しに見える事が良くありますので、今までなら見かけていたのですが、最近見る事が全く無い様に思います。
寒いから窓を明ける事など無いから、中の事は全く分かりませんが少し気になっているのです。
勿論先輩から言われているから、もともと気にはしていましたが、でもこの所の出来事は可成深刻だと思います。
そんな事が影響しているのじゃあないかと思いまして」
「大学へ刑事が来たとかそのような事はない?」
「それは分かりません。でも多分無いでしょう。感単には自供していないでしょう。この男、第三者に迷惑かけるような事を絶対口にしないでしょう。
その部分を残すから、豚箱を出てから又悪い事を出来るのじゃないのですか。恩を受けた者は忘れない、忘れる事が出来ない。橋本の事務員さんとは真逆で」
「まるで悪の世界の輪廻転生だね。」
「その言い方面白いですね」
年の瀬も押し迫り平成二十三年も終わりかけていた時、南紀アニマルパークランドはクリスマスの準備に追われていたので、田川俊介も磯村春華も、毎日慌ただしく走りまわしていた。
まさに師走であった。
それに春華の誕生日が三十日であったので、二人とも大人気なかったが、興奮する毎日と成っていた。
クリスマスそして誕生日と二人と言うより、俊介にとって可成大事な時期であった。
しかし以外にも先駆けて和歌山を後にして、故郷高松へ里帰りして行った女性がいた。
早瀬かおりである。
四月に勤め始めて僅か九ヶ月で島谷動物病院を後にしていた。
俊介がその事実を知ったのは、後輩窟屋忠助からの電話であって、
「先輩前に言っていた事が現実に成りました。かおりさん昨年暮れに仕事を少し休んでいたみたいですよ。それで実家に帰っていたようで、その結果あの病院を辞める事になったと他の看護師さんが言っていました。
年配で随分長く勤めている看護師さんが居て、その方は気さくだから何もかもを話して下さって」
「そう辞めたの。何故辞めたのか知りたいなぁ。それは勤めていられない事情があったと言う事だと思うけど、あまりにも早いからなぁ。寺田が逮捕された事が原因だと思うが、でもその年配の看護師さん、かおりさんの事で気になる事を言っていなかった?」
「気になる事?」
「何か今回の一連の出来事に繋がるような事を。何でもいいから」
「わかりませんが、もし在るとしたら、『誰よりも頑張っていたのに残念と思うわ。誰でも採用なんてして貰える所じゃあないのに』と言っていました。それ位かな。」
「それでは何も分からないね。」
「でも長らく勤めていると言う事は、逆に相当狡猾な女かも知れないと思いますよ。見掛けと違って絶対余計な事は口にしないし、不利になる事も言わないと思いますよ。それは自分の為にも病院の為にも」
「おおぅ鋭いね。成程。だから何も聞き出せないって事かな?」
「だから人は、見かけで判断してはいけないのでしょうね。疑ってしまえば切りが無いですが・・・
でもかおりさんが辞めたと言う事は、絶対何かがあると言う事だと思いますよ」
「そうだね。又気に成った事があったら教えて。ありがとう。」
「わかりました。」
田川俊介は電話を切るなりやや興奮気味に磯川春華に電話を入れた。
「春華、かおりさんはもう和歌山に居ないんだって。この何日間の間に、辞めて多分田舎に帰ったらしいよ。」
「田舎って彼女何処だっけ」
「高松だった筈。四国の」
「なぜ辞めたか分かるの?」
「そこまでは分からない。」
「多分寺田が逮捕された事と関係あるのでしょうね。先日貴方と話していて、私が言っていた事が現実かも知れないわね。」
「そうかも。しかしもし春華の言うように考えたら、この時期に辞める?。体を張ってまで頑張って来て、今の状態を掴んだのに、僅か九ヶ月で辞める?何時までもしぶとく食い下がるのじゃないの?
もし春華が同じ事をして採用された時に、その何もかもを知っている人が逮捕されたら、逃げるようにする、それとも隠れるようにする?」
「しないよ絶対意地でも勤めるわ。」
「そうだろう。春華のような裏表のない性格の者でも、そのような言い方をするのだから、かおりさんがこの時期にあっさり辞める事など信じられないと思うね。
この現実はこの出来事の裏にまだ他の出来事が潜んでいるのだと思えて来るね。
それは何か?」
「俊介、貴方前に奈良の吉野警察が日記帳を見たいと行って送ったって言っていたわね、
次話に続く
次話
に続きます。