ラブレター
久々に読み返してみて気になる個所があったので、少し修正しました。
恋をした。
たった一度だけ、廊下ですれ違いざまに彼の横顔が視界を掠めた瞬間、私は恋をしていた。
生まれて初めての、ヒトメボレという不思議な体験。
高校1年の初夏の出来事――。
◇◇◇
高校に入学した当初から、彼の存在だけは知っていた。カッコイイって評判の3年生だったから。
だから、その時既に彼には中学時代から付き合っている彼女が居ることも、噂で聞いて知っていた。
2年生の、小柄な美人。私の所属するESS(英会話部)別名洋画観賞部の副部長。
普通科の彼と、英語科の私。全く接点のない私たちにとって、彼女の存在だけが、彼と私の唯一の共通点だった。
私と彼が本当の意味で出逢う以前の、春の時点では。
「部長、今日は何の映画を見るんですか?」
「ステラだよ。知ってる?」
「あ、いえ……。古いヤツですか?」
「ああ、結構古いかも。えっと――何年作だったっけ、ステラって?」
部長は副部長に訪ねる。
彼女は新旧問わず映画にとても詳しく、知識が豊富だった。それもあって、いつも部活で観る映画は彼女が厳選している。
だから本来なら部長の筈なんだけど、気が乗らない時はサボれたりするから副部長っていうポジションが丁度イイらしい。美人だがイマイチ掴みどころのない変わった人だ。
そうでもないと、校内人気ランキング・ナンバーワン(何かホストみたいだ)と名高い人物と2年以上も付き合うことなんて不可能だろうけど。
「今日見るやつ?」
「そう」
「じゃ、1990年の主演がベット・ミドラーのやつ」
「じゃって、他にもあるの?」
「1925年のサイレントと、1935年の……」
「あーあー。解った、解った。さんきゅ」
説明を遮って部長が口を出す。
そうしないと、その映画の細部に至るまでの情報説明を延々と聞かされる羽目になるってことは、入部30分にして既に体感済みの部員一同。だから、間違っても部長が止めるのを阻止したりはしない。
副部長の好きなおやつをさり気なく差しだしたりして、寧ろ協力的だ。
映画観賞時にみんなでお菓子を持ち寄ってお茶をするのが、我がESSの伝統(?)なのだ。
映画を観終わった時、部員の全員が泣き腫らした真赤な眼をしていた。
みんな口々に「凄く好かったね」などと言いながら、副部長のチョイスに間違いはないと部員一同は改めて感じていた。
映画の内容は、シングルマザーが誰にも頼らずひとりで力強く生きて行く姿とその娘の20年間に亘る愛情に満ちた関係を描いた、見応えのある超感動ストーリーだった。
こんな作品を選んだ副部長の人間性にますます魅かれて、私は何故だか少し複雑な気分になった。
◇◇◇
彼女から奪おうとか、振り向いとほしいとか、そんなこと考えたこともなかった。
私はただ、彼の姿を見て居られればそれで好かった。彼らの仲の良い姿を見詰めて居られれば、それだけで好かったのだ。
セミの鳴き声がちらほら耳に付くようになって来た、初夏。毎年10月の頭頃に行われる体育祭の準備が始まった。運よく私たち英語科1年と普通科3年の彼のクラスが同じブロックになって、準備なども含めて一緒に体育祭の活動をすることになった。
必然、お互いのクラスへの行き来が多くなり、いつ廊下ですれ違ってもおかしくないような状態だった。
そんなある日の午後、普通科3年の彼の居るクラスに資材の追加を依頼するため、クラスメイトの実行委員に半ば押し付けられる形で、私が一人で3年生の教室まで行かなければらならくなってしまったのだ。
ただでさえ1年生の身で3年生の教室棟へ行くのは躊躇われるというのに、校内が忙しく味殺気立っている中一人で向かうのは、ある意味自殺行為に等しいのではないか……と恐る恐る足を踏み入れたその時。
少し汗ばむ程の初夏なのに、春風の様な空気が私の横を吹き抜けた気がして、とっさに風の吹いた方を振り向いてしまった。
するとそこには、目鼻立ちの揃った――所謂美形ってこういう人の事を言うんだな、と納得できるようなキレイな男の人――爽やかな雰囲気を纏った人物が通り過ぎて行こうとしていた。
瞬間、私の心臓がドクンッと大きく跳ねたかと思うと、今度は時間が止まったかのように全てがスローモーションのようにゆっくりと動きだす。私は自分に何が起こったのか理解できなくて、その場で暫く立ち竦んでしまった。ここが3年生の教室の廊下だったことも忘れて……。
これが、私と彼の出逢いだった。
◇◇◇
毎朝7時55分。
ホームルームが始まるぎりぎりの時間に、彼は登校してくる。裏門の坂を一気に駆け上がり、少し息を切らしながら西校舎の脇を走り抜けて、南校舎へ走って行く。
私たち1年生の教室は、西校舎の1階に位置している。
最初は、何気なく登校してくる生徒たちを見ていただけだった。なのに、ある日予鈴ぎりぎりで駆け込んで来た彼の姿を見付けてしまった。以来いつの間にか、毎朝西校舎の裏庭側の窓から彼の姿を見付けるのが日課になってしまった。
ただ、見詰めるだけの毎日。
ただ、彼を見て居たかった。自分でも、何故だか解らないけれど。
私はストーカーか、と自分に突っ込みを入れたくなった。この頃の私はまだ、彼への恋心に気付いていなかったから――。
「今帰り?」
不意に背後から話しかけられてとっさに振り向くと、我がESSの副部長と彼女の少し後ろに彼が立っていた。
突然2人セットで現れたことと、一緒に帰る所だったらしい2人の雰囲気に、私は一瞬にして固まる。
何故か心拍数が一気に上がって行くのがわかる。まるで、50メートル走を全力疾走した直後みたいだ。
「……え、いえ、は、はい」
「どっちなの?」
副部長は可笑しそうにクスクスと笑いながら言った。
「あの、友達を待ってるので、帰る所ではあるんですけど、まだです」
私は緊張の余り変な事を口走った気がしたが、そんな事に構っては居られない。心臓が悲鳴を上げている方が気掛かりだった。ドキドキは一向に治まってくれない。
「そう。私たちはこれから帰る所なの、ね」
と、首をかしげるようにして振り向いた彼女は、彼の方を見遣った。
彼は小さく頷くと、
「そろそろ行こうぜ」
ぶっきら棒に言うと、顎で校門の方を示した。
私はそんな彼の様子を見て、カッコイイ人はどんな仕草も格好良く決まるんだな……などと間抜けな事を思う。心臓の鼓動は相変わらず早鐘のようだったが、もうあまり気にならなくなっていた。
「もうっ。ちっともじっと待ってられないんだから。折角、可愛い後輩とお話してたのに……」
ブツブツ言いながらも、彼女は彼の元へと踵を返して歩き出す。
1、2歩進んだところで振り向いて、
「じゃ、また明日ね!」
副部長が私に向って大きく手を振ってくれた。
その隣で、かなり面倒臭そうにではあったが、彼も軽く片手をあげる。
あれは、私に挨拶をしてくれているのだろうか……?
再び私の心臓が踊り始めたのがわかる。その音がうるさくて、周りの音がよく聞こえない。
2人は既に10メートル程向こうを歩いていて、彼女が何か言うと、彼は照れくさそうに素早く手を下してしまった。
かなり解り辛かったが、私の願望は現実だったらしい。その事実で、また私の心拍数が上がった気がした。
それから暫くして待っていた友達がやって来るまでの間、校舎横の階段に座ったままの態勢で、私の心臓は限界と闘いながらフルマラソンを続けていたのだった。
お陰で、顔が真っ赤で汗だくの私を見た友達に熱でもあるのかと心配され、保健室に連れて行かれそうになってしまったのだけれど。
こうして私は、漸く彼への恋心に気付き始めたのだった。
◇◇◇
木々の葉が落ちて気温が下がり始めて来たころ、少し遅い文化祭のシーズンがやって来た。
私たちの学校は受験生の事を考えているのかいないのか、毎年12月の半ばに学園祭を行っているのだ。勿論、3年生は自由参加だしクラス毎の出店もしなくて良い訳だから、毎年殆どの3年生が受験勉強の息抜きに下級生主催の模擬店などを冷やかしているのは、言うまでもない。
例の彼も、他の3年生と同じ様に模擬店などを散策して受験勉強の合間のささやかな息抜きをしているらしい。そこここで下級生の女生徒達があそこで見掛けたよ、などと情報交換をしている。相変わらずの人気ぶりに、感心してしまう。
午後1時を少し廻ったところで休憩時間になった私は、足りなくなった食材を教室という名の倉庫から持ち出して来るべく、校舎棟の方へと歩いていた。
模擬店の出店は全てグラウンド内か校庭内と義務付けられているので、校舎内は必然的に物置状態になっているのだ。
因みに、私のクラスの模擬店は「タコ焼き屋」だった。何の捻りもない簡単なものだが、クラスメイトに関西出身者が2人ほど居て、彼らによって作られた本場のたこ焼きは売れに売れていた。正に嬉しい悲鳴状態で、このまま行けば学園祭終了前に品切れになるかも……という勢いだった。
そういう理由で、休憩がてら足りない食材を取りに公舎へ足を向けたのだった。
東校舎の角を曲がって西校舎へと向かおうと渡り廊下を歩いていた時、誰かの声が聞こえた気がして、何気なく校舎裏を覗いて見る。すると、そこには副部長と彼が向き合って何やら言い争っているようだった。
距離があるので会話は聞き取れないが、何やら揉めているらしい事は解る。
彼が一言二言何かを言って、2人の間に沈黙が流れる。
彼女は泣いているようだった。
どうしよう……。
このままここに居るのが好くない事は解っているのに、足が地面に張り付いてしまったかのように動かない。それどころか、2人から視線を逸らす事すらできない。
どうしよう……。どうしよう……。
私の頭の中がパニック状態になったその時――。
彼が彼女の腕を引っ張ると、半ば強引に抱き寄せた。
そして、2人は暫くそうしていたかと思うと、彼が徐に体をかがめて彼女に顔を近づけて行く。
その瞬間、私は金縛りを振り切ると、思いっきり踵を返して教室棟の方へ走り出す。
見たくなかった。2人のあんなシーンなんて、見たくなかった。
最初から失恋していた恋。初めから、叶うはずなんてなかった恋。
それでも、2人の決定的なシーンを見るまでは仄かな夢を見ていた私。
仄かな夢……?
私は何を望んでいたと云うのだろう?
彼に振り向いて欲しいなんて、思っていなかった筈なのに。
彼らの仲の良い姿を見詰めて居られれば、それだけで好かった筈――だったのに。
そんなことを言いながら、本当はそうは思っていなかったの……?
2人の親密な様子を見た自分がショックを受けている。
その事実にショックを受けて、私は、今初めて自分が本気の恋をしていたことを知った。
◇◇◇
2月。
すっかり外気が寒くなって、3年生は自由登校になった頃。
風の噂で、彼が遠くの大学にスポーツ推薦で進学が決まったのだと知った。中学時代からバスケットボールをしていた彼は、地元では有名な選手だった。
私たちの高校は大してスポーツに力を入れている学校ではなかったが、自由な校風だったため選んだのだ、と以前彼の追っかけのような事をしているクラスメイトから聞いたことがある。
本人から直接聞いた訳ではないから、真偽の程はかなり怪しい、と私は思っているけど。
この噂を聞いた時、文化祭の時の2人の間にあった揉め事のおおよそに想像がついた。
彼女は泣いていた。けれども彼は進学を決意した。そういう事だろう。
結局、あの2人が別れたと云う噂は聞かないし、時々2人一緒に下校している姿を見かけるので、今後の2人がどうするつもりなのか、私は知らない。気にならないと言えば嘘になるが、そんな事を面と向かって訊くなんて無神経なことなど、到底できない。
あれから約2か月。
もう少しで2月も終わりに差し掛かり、3年生は卒業して行ってしまう。
私はそろそろ自分の心の整理を付けなければならないな、と漠然と考えていた。
行き場のない気持ちだけれど、せめて伝えられたら。そうしたら、2人に笑って頑張ってって言えそうな気がした。
とは言え、私にとって、副部長も大好きで大事な先輩の一人だ。彼に直接告白などして、もし彼女の耳に入ったら……優しい彼女は少なからず傷つき、私に気を使うだろう。
勿論、私は彼女を傷つけるつもりも無駄な気遣いをさせる気も、毛頭ない。
とすれば――メール?
でも、彼のメールアドレスなんて知らないし……。
暫く考え込んだ末、私は一つの答えを導き出した。
手紙――。
そう、つまりはラブレター。
ちょっと古い手法だけど、家の住所なら学生名簿で分かるし直接本人の手に届くから、他人に知られる心配はない。飽くまで、彼が誰にも言わなければの話だけれど。
自分の導き出した答えに我ながら満足して、早速学校帰りに便箋を買いに行くことにした。
◇◇◇
買って来たばかりの水色の便箋と封筒を机に置いて椅子に座ったまま、私はもう何時間も考えて続けていた。
困った……いざ書くとなると、何を書いていいのか判らない。
伝えたいことが沢山ありすぎて、頭の中がゴチャゴチャしてくる。
ああでもない、こうでもないと散々書き直した結果、やっと納得のいくモノが仕上がった。
「出来たー!!」
歓喜の声と共に勢いよく立ち上ると、椅子が倒れて反動で転びそうになった。
夜中に大きな音を立てたせいで、隣の部屋の兄が壁をドンドンと叩いて苦情を言って来た。
ごめんね、お兄ちゃん。でも、今日だけは見逃して……と自分勝手な事を思いながら、手紙を書き終えた校風状態のまま、ベッドへダイブした。
今度は壁を足で蹴ったかのような音がしたけれど、今の私には気になどならなかった。
翌朝、思い立ったが吉日とばかりに、結局一晩かけて書き上げた手紙――ラブレター――の封をして通学用の鞄に突っ込むと、身支度を整えて学校へ向かった。
「おはよー」
最寄り駅で電車から降りると、改札口の手前でいつも駅から一緒に登校しているクラスメイトが話しかけて来た。
「おっはよー」
一晩掛けて遣り遂げたことに興奮しているのか、以前彼が目の前に来た時のように心臓がドクドクと脈打っているのが解る。
「どうしたの?今日はやけに機嫌がいいね」
「別にー。いつもと同じだよ?」
小首をかしげて聞いてくる彼女を軽くかわして、なるべくいつも通りに振る舞う。
手紙を出すまでは、誰にも気付かれてはいけない。平常心、平常心。そう思いながらも、私の心臓はまたもやフルマラソンでも始めそうな勢いだ。
私の家から最寄り駅までの道のりには郵便ポストがないので、どうしても学校近くの郵便局前にあるポストまでいかなければ、自然な形で手紙を出す事ができないのだ。
あと、200メートル。
あと、100メートル。
あと……
やっと念願のポストが近付いて来ると、さり気なさを装いながらも宛名が見えないように素早く投函口に押し込んだ。瞬間、私の心臓は一気にフルマラソンを走り終えたかのような尋常ではない鼓動を刻みだす。
「何?手紙?」
クラスメイトの彼女が興味を示して訊ねて来る。任務は無事達成したけれど、心拍数はまだまだ治まりそうにない。
「うん、まあね」
「ふうん、そう。友達?」
「うん、そう」
しつこく質問する彼女への答えを適当に流して、話題を変えようと丁度前を歩いていた他のクラスメイトに声をかける。私の心臓と脳は、もうイッパイイッパイだった。
「おはよ〜」
「あ、おはよ。2人とも」
「今日の英I予習してきた?」
さり気なさを装って話題を転換させる。やっと少し落ち着いてきた、私の心臓。
「「やってるわけないじゃーん」」
「だよね〜」
くだらない話をしながら学校までの残りの道のりを歩いて行くうちに、いつの間にか心拍数は正常に戻っていつもと何ら変わりのない私に戻れていた。
彼があの手紙を読んでくれるかもしれないと云う、仄かな期待へのドキドキ感だけを胸の内に残して――。
少しでも、楽しんでいただければ嬉しいです。
ご意見、ご感想などいただければ、泣いて喜びます(作者が)。




