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歩く影

作者: 海野夏

 僕の住んでいるところはちょっと田舎だ。山の三角がすぐ近くに見えて、あちこちの家が畑をしている。よくテレビや映画の田舎の風景が映ると、うちと似たようなもんじゃん、と思うことがよくある。

 僕の通う小学校はちょっと古い。廊下を歩くとギシギシ音が鳴って、通ってる子供は僕含め百人もいない、田舎の学校だ。

 そんな小学校では、僕が生まれる前からお爺さんの用務員が働いていた。校内の掃除、草木の剪定、壊れたものの修理。子供達が安心して過ごせるようにするのが彼の仕事。僕はそんな用務員さんの仕事がすごいと思って、よく懐いていた。実は用務員さんは僕のおじいちゃんの弟なんだって聞いた時は、すごく嬉しかったな。用務員さんも僕を自分の孫のように可愛がってくれた。

僕は休み時間になると用務員さんを探した。彼はどこにいるか分からない。便所にいた日もあれば、校庭の滑り台のところにいた日もあり、音楽室の前の廊下を直していたり、職員室の窓を拭いていたり、中には校長室で校長先生とお茶を飲みながらお話している日もあった。

僕は用務員さんを見つけると、時間の許す限り作業を眺めていた。何でも直してしまう用務員さんのことを尊敬していたんだ。だから大真面目に、将来の夢と言う作文に、

「用務員さんみたいな用務員になりたいです」

と書いたこともある。皆は笑ったけど、このことを用務員さんに話すと、用務員さんは嬉しそうに笑い、僕の頭を撫でてくれた。


 僕といるとき、用務員さんは必ず一度はこう言った。

「絶対に用務員室には入っちゃいけないよ」

 僕はその言葉に素直に頷いた。ただ、どうして入っちゃいけないのか、いつも気になってはいた。だから我慢できなくて一度だけ、聞いてみたことがある。

「お前が自分の身を守れるぐらい大きくなったら、中を見せてあげよう。それまでは、中に入ることはもちろん、中を覗いてもいけないよ。約束だ」

 僕はそれから約束を守り、用務員室に入ることも覗くこともしなかった。用務員室は小学生の間でも有名で、「開かずの間」と呼ばれていた。用務員さんに可愛がられている僕なら知ってるだろうと、友達から用務員室の中がどうなっているのか尋ねられることがあった。でも、いつも「掃除道具が転がってるだけだよ」と答えた。用務員さんとの秘密を守るために。


 時は流れ、僕が中学校に上がりしばらく過ぎた頃、用務員さんは脚立から落ち、頭を打って亡くなった。その日の夕方、小学校の先生達が僕の家にやって来た。

「あの人が何度も真剣に言っていたものですからね、一応ご家族に許可を取っておこうと思いまして」

 開けるなと言っていた用務員室の扉を開ける許可を取りに来たらしい。用務員さんは結婚しておらず、彼の兄、つまり僕のおじいちゃんも既に亡くなっている。だから僕の家にやって来たのだそうだ。父さんは自分が中を見に行くと言った。かつて、父さんも用務員さんに言われたことがあるらしい。大人になった父さんは、今はもう、中に入ることを許されていたのだ。

 次の土曜日、父さんは小学校に向かった。昼過ぎに僕が部活から家に帰ってくると、僕を待っていたらしい母さんが大慌てで僕を病院へ連れて行った。父さんが用務員室前で倒れていたと言う。医師曰く、命に別状はなく、直に目は覚めるだろうとのことだ。学校の先生達も、母さんも、朝は普通だったと言っていた。誰も原因は分からなかった。

 ただ、僕は違った。用務員室に何があったのか、どうして父さんは倒れていたのか。一人考えていた。そしてはたと気がついた。

「先生、用務員室の扉は閉めた?」

「え、いや、どうだったかなぁ」

「あー、開けっ放しだったかもしれないね」

「もう、校長先生、ちゃんと戸締まりしないと用務員さんが化けて出てきちゃいますよ」

「開けるなー、って?」

 先生達は扉を開けっ放しにしたことを重要視していないようだった。僕だけが恐怖に襲われつつあった。

(もし用務員さんが何か悪いものをあそこに住まわせていたんだとしたら、今頃ソレは部屋から出ちゃっているかもしれない。父さんもソレに襲われたのかもしれない)

 優しかった用務員さんが、何か恐ろしいものを飼っていたとは思いたくなかった。しかし、それを否定すれば否定するほど、悪い考えが頭の中を支配する。

自分が今まで尊敬していた用務員さんのイメージが、ガラガラと崩れていくような気がした。彼との約束を守ることで、自分も悪いことをしているような気さえした。

 だから僕は、用務員さんとの約束を破ることにした。


 その夜、僕は小学校の前に立っていた。母さんは心配性で、命に別状はないと言われていたけど、今夜は父さんに付き添って病院に泊まっていた。

 夜の小学校はその古さも相まって、とても迫力がある。頭の中では、小学校にまつわる怪談がひしめき合っていた。

(やっぱりやめておいた方が良かったかも……)

今更勢いで来てしまったことを後悔する。しかし、ここで諦めて帰るわけにはいかない。心を決め、校門の側の植え込みの隙間から中に入った。

 小学生の頃、夏は台風が来る度に雨漏りでびちゃびちゃの教室で授業を受け、冬はすきま風に凍えながら授業を受けた。廊下を歩いていると床が抜けたり、突風が吹くと窓が飛んだり。こんな学校だったからこそ、何でもできる用務員さんは重宝された。いつも「子供達が安心して過ごせるようにするのが俺の仕事」と言っていた用務員さんを信じたかった。用務員さんをもう一度信じられるように、真っ暗な校内に足を踏み入れた。

 中に入ってすぐは暗かったが、月を隠していた雲がなくなり、校内は月明かりで明るかった。僕は久しぶりに用務員室に足を向けた。


 用務員室の扉は、先生達が言っていたように全開だった。僕は初めて中に入った。中は何かが暴れた後のようにぐちゃぐちゃ。壁には大きな傷。一つだけある窓は何枚もの札が貼られていた。

(やっぱり、何かを飼っていたんだ!)

 急に不安になり、この部屋にいるのが恐ろしくなった。僕は急いで用務員室から出ようとした。すると、遠くから足音と、ズルズルと何かを引きずる音が聞こえてきた。

誰か来てくれたのかも……と、一瞬ホッとした。しかし、それがおかしいことに気づいた。僕は校内に入る時、理科室前の窓を外して入った。入った後は、ちゃんともとに戻していた。この小学校の窓は特殊で、普通の窓と違って、外し方を知らないと外せない。僕はいつも用務員さんの作業を見ていたから外せるが、他に用務員さん以外で外せる人はいないはず。さらに、校舎の鍵は彼が持っていたため、今はうちの家にある。

 だから、校舎の中に僕以外の人間はいないはずなのだ。

 急いで部屋から出て、そっと廊下を先まで確認した。目を凝らしても、何もいない。

 何だか急に怖くなり、廊下を走り出した。すると、足音も走るように音を立てて追いかけてきた。振り返って後ろを見ても、誰もいない。ただ足音とズルズルという音だけが近づいてくる。

 角を曲がり、階段を駆け下りる。そこで音が消えた。

「おーい、どこにいるんだー?」

 校長先生の声だ。でも、油断できない。校内には誰もいないはず。階段の踊り場で、そっと二階と一階を確認した。何もいない。

 少年はそっと階段を下りた。もう一度後ろを確認。何も来ていない。

「良かった、撒けたみたい」

ホッとして、廊下に出た。とにかく今はここを出て、朝になったら戻ってこよう。窓はそれぞれ外し方が違うため、僕は最初に入った理科室前まで戻ることにした。

 一人分の足音しか聞こえない。それが余計に不気味だ。

 もう一度振り返った。誰もいない。

 そして前を見て、鳥肌が立った。向こうの理科室の前に人の形の影。影だけがそこにいる。理科室の前で、奴は、僕を待ち伏せていたのだ。そっと後ろに下がろうとして、足がもつれて尻もちをつく。

「あ、」

 その音に影が気づいた。もうズルズルという音は聞こえない。影は斧らしきものを、今は肩に担いでいたからだ。

ゆっくり近づいてくるそれに、逃げようとしたけど腰が抜けて立てない。

 とうとう、足音と影は目の前に来てしまった。誰もいないはずなのに、異様な空気が漂う。生温かいような空気が顔のすぐ前にあり、大きな体を折りたたんだソレが怯える僕を覗き込んでいるのが分かった。

 夜とはいえ、今は夏だ。しかし体は凍えて震えが止まらない。同時に汗も止まらない。涙で顔はぐしゃぐしゃ。誰も助けは来ない。恐怖は極限に達していた。影が腕を振り上げるのを見て、なすすべなく、僕は固く目を閉じた。

 ……どれだけたっても、何の衝撃もなかった。目を恐る恐る開けると、影が振り上げた腕を何者か、僕の後ろから現れた別の影が掴んでいた。当然、後ろには誰もいないし、もちろん僕の影でもない。

 僕を襲おうとした影は突如現れた影に斧を奪われ、真っ二つに斬られた。斬られた影は煙のように消えていった。

 ただ、まだ影はもう一人残っている。

 影が僕に手を伸ばす。

こいつはさっきの影より強いから、きっと今度こそ殺される……!

再び目を閉じ、縮こまった僕の頭の上に、そっと、よく知った手のひらを感じた。目を開け、影を見た。影はただ僕の頭を撫でていた。そのシルエットを僕は知っている。

「ようむいんさん……」

 用務員さんだった。僕は用務員に助けられたのだ。

 影の用務員さんは少年の頭から手を離すと、頭を下げた。僕を危険にさらしたとを謝っているのかもしれない。

「僕が悪いんだ! 用務員さんを疑っちゃったから、約束も破ってしまったし。用務員さんに助けてもらう権利なんてなかったんだよ……」

 ただただ申し訳ない気持ちでいっぱいだった。彼はいつも忠告してくれていたのに、みんなを守ってくれていたのに、僕はその気持ちを無碍にした。涙が溢れた。僕は泣く資格なんてないのに、拭っても拭っても、涙が止まらない。

 用務員さんは慌てたように近づくと、僕を抱きしめた。見えないのに、目の前に姿はないのに、そこにいるのが分かった。

「元気で」

 一言、風の音のような声が耳元で聞こえた。用務員さんは指先までゆっくりと名残惜しげに離れると、やがて僕に背を向けて月明かりに溶けるように消えていった。


 翌日、病院から電話がかかってきた。父さんが無事目を覚ましたらしい。昼過ぎにはあっという間に元気になった父さんと、一晩付き添って眠そうな母さんが帰って来た。

 僕は父さんにだけ、昨夜のことを話した。思った通り、危ないことはするなと怒られてしまったけど、もう用務員室にいた何かはいなくなったと知って、僕が用務員さんに助けられたと知って、一言、「良かった」と呟いた。

 部活のない次の日曜、僕と父さんは二人で用務員室を片付けに行った。先生達や母さんは止めたけど、もう大丈夫だからと言って無理して来たのだ。

 用務員室を綺麗に掃除していると、次から次へと用務員との思い出が溢れてくる。僕も父さんも、目から流れる汗を拭うこともせず、大汗をかきながら黙々と掃除をした。

 札を剥がして窓を開け、空気を入れ換える。あの夜僕が見た壁の傷は、僕らが入るとなくなっていた。

 用務員室は綺麗になった。片隅に揃えて置かれていた、用務員の掃除道具も、感謝を込めて二人で洗った。

 汗が目にしみる、暑い夏だった。

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