第一話
中枢都市エルダリア。
完全無欠で質実剛健で文武両道な人間が暮らす、一から十まで完璧な街。
街中は『キャビネット』と呼ばれるモノレールが至るところに網の目状に通っており、人々はそんなものを見つめて、いる。
街中を歩く――白衣の少女はラジオに接続したヘッドフォンを装備していた。耳に通るのは、午後のニュースである。
ニュースとはいえ、しらされる情報は所詮、政府の目を通した『限られた』情報にしか過ぎない。
西暦二〇一七年、その日は訪れた。
妖――異能の力と、科学との対決。
後にこれが『第三次世界大戦』と呼ばれ、世界を二分した。
科学勢力で、異能を圧倒していたのだが、二〇一八年春、事態は一変する。
『第二のソドム・ゴモラ』と呼ばれるその事象は、今でも多くの人間の目に焼きついている。
今まで中立を保っていた日本政府が正式に異能の排除及び日本国の『神憑き』を妖と戦わせる――そう判断した。それによって、世界のパワーバランスは大きく変化した。
神憑き――名前通り、神の力を憑かせる存在――は、三日で妖の勢力の総本山『妖都』を破壊した。業火に焼かれ、雷に打たれ、豪雨に流され――残った妖も妖に食われ――その残った妖も科学の力には適わず――わずか三日で滅ぼされてしまったのだ。
かくして、世界は平穏を手にした――はずだった。
彼らの戦いは、ほんの序章に過ぎなかった。
妖側の勢力に立っていた新興宗教『新世界』が、ある装置を起動した。
それは、人々に元からある『原罪』を洗い流すため。
それは、この醜くも残酷な争いを止めるため。
その装置が起動したあとは、世界は大波に流された。『ノアの方舟』の再来だった。残された人類はあれやこれやと高台へと逃げる。しかし、そんな高台をも水は飲み込み、もがき苦しみ――死んでいく。
しかし、そんな人間はそれを予知していたのかは知らないが、空中都市を造り上げていた。
高さ千メートルの位置に、半径三十キロの巨大空中都市。
これが、中枢都市エルダリアの姿である。
そして、エルダリアの中心地にあるエルダリア大学へと彼女は入っていく。近くのコンビニで買ってきた紙パックのミルクティーを持ちながら。
不機嫌そうな目をして、大学の通路をひたすら歩く。
暫く歩いていたら、何もプレートに書かれていない部屋の前について、立ち止まる。鍵を探すためにポケットをまさぐっていたが、
「開いているよ」
その声を聞いて――何も言わず、彼女は扉を開けた。
そこに居たのは、黒い散切り頭の男だった。
髭を無造作に生やしていて、手入れもあまりしていないことが見て取れる。
散切り頭の男は彼女が入ってくるのを見て恭しく微笑む。しかし、彼女はそれを無視する。
研究室とはいえ、こじんまりとしたものだった。机の上にパソコンが二台、サーバーが一台、棚が一つに冷蔵庫、それにキッチンとベッドがあり、ここで生きていける感じになっている。
「やー、君が悪いんだぜ? 鍵を閉めないんだから。もし僕じゃなかったらどうするつもりだったんだ?」
「私は鍵を閉めたつもりだったんだがな。どうして、ここの鍵を手に入れた。手段によっては私は教授にお前を突き出すぞ」
「君がデートを断るのが悪いんじゃないか」
「鉄道に私は興味がないんだ。こんなクソ狭い都市を急いでどこへ行くというんだよ」
「一秒一分……そんな『僅か』な時間でも、やはり一刻を争う事態というくらいだからね」
「それで貴様は何でここに来たんだ?」
「だから、デートだって言っただろ?」
「私とどうして関わる?」
「君と関わりたいからさ」
ああ、もうこの男と話しても埒が明かない――彼女はそのことを知っているくせに彼女は、男と話している。それを考えると結局彼女は男のペースに乗っているということなのだろう。
「……まあ、そんなことは冗談として、だ」
「冗談だったのか。本当だったらここにある玄翁でお前の頭を叩き割ってやろうとか考えていたよ」
そんなことを言いながら彼女は――紙パックのミルクティーを開け、一口飲む。
「それで、提案なんだけれど」
男は、小さく呟いた。
「ボクと共同研究しないか? ……イヴ・エドワード」
そう言われて彼女――イヴは舌なめずりした。
イヴ・エドワード。
高名な科学者、ジョン・エドワードの娘で、彼女もまた類い希なる才能を持っていた。
ジョン・エドワード博士が亡くなったのは今から二年前――二〇三八年のことだ。その時彼女は十二歳で、しかももうエルダリア大学に通っていた。
彼女は父を尊敬していた。彼女は父のような存在になりたかった。
なのに、にもかかわらず――ジョン・エドワードは自らの命を絶った。
理由は――近年の歪められた評価だった。
彼が死ぬ前年、『パラドックスの恋文』理論が発表された。その時、彼女は被験者となり、理論の証明に尽力した。
結果は――成功とも言えず、しかし失敗とも言えなかった。
そもそもの前提が間違っていたのだから。
二〇三六年に実施された実験では、そもそもの定義が行えなかった。だからこそ、失敗してしまったのだ。
それにより、ジョン・エドワードの地位は没落した。
世間からペテン師と呼ばれ、学会での地位も失い――晩年は酒に溺れるようになった。
そして、イヴはそれを見ていた。悲しそうな表情で見つめていると、ジョンはそれを見て、
「大丈夫だ」
とだけ言っていた。
その半年後――彼は息を引き取った。
だから彼女は――父親の汚名を返上したかった。
「……それで、何が目的なの? 佐久間来喜≪さくまらいき≫」
「おっ、僕の名前を覚えてくれたんだ。嬉しいねえ……」
「別に。白衣にネームプレートがついているだけよ」
ぷい、とイヴは窓の方を向いた。空には飛行機雲が見えていた。
◇◇◇
さて。
来喜が帰ってからイヴは肩をたたいて、再びパソコンに向き合った。画面に映し出されているのはプログラムのコードである。
プログラムのコードの書き方は人それぞれだ。行われるオブジェクト毎に『コメント』を残す(コメントアウトする、ともいう)人もいるし、全くコメントを残さない人もいれば、自分だけ解ればよい――という感じでコメントをほぼ書いておかない人だっている。
イヴはどちらかというと三番目の人間に入る。コメントを余り書かないのだ。
彼女の研究は個人研究だから――である。
彼女の研究テーマは『電脳世界の構成と、現実の物理法則の適用について』だ。
電脳世界とは、名前のとおり、電気データ――01で表現できる世界だ。凡てが01で表現できる。
例えばの話をすれば、もしこの世界が電脳世界ならばリンゴの匂いや、味、見た目の凡てを紐解くと01で出来ているということだ。
では、現実の物理法則の適用とは――どういうことなのだろうか?
例えばの話をしよう。
電脳世界では、そのままだと通常の物理法則が適用されない。きちんとそのようにプログラムを作らなくては意味がないのだ。
だが、人間世界と電脳世界は大きく異なる。にもかかわらず、現実の物理法則が適用されるのだろうか? それが、その意味だ。
彼女は今そのために――小さな世界を作っている。パソコンの中の、小さなサーバーを使って、小さな、小さな。
「この世界が無事完成すれば……私は、」
「その世界の創造主≪カミサマ≫になれる……って話かい?」
その言葉を聞いて、イヴは振り返る。そこに居たのは、来喜だった。
「まだお前居たのか」
「いや、忘れ物を取りにね。ところで、さっきのこと考えてくれた?」
「考えるもなにもついさっきのことじゃないか。まだそんなこと……忘れていたに決まっているだろう」
「嘘をつくなって。クレタ人が自分は嘘つきだと言ってるようなもんじゃないか」
「……クレタ人?」
「おや、知らない?」
来喜は自分の部屋から持ってきたコーヒーカップを傾け、中に入っているコーヒー(と思われる液体)を一口飲み、言った。
「嘘つきのパラドックスってやつだよ。クレタ人が『自分が嘘つきだ』と言うとするだろ? でもそれはどちらかを信じてもパラドックスが生じてしまうのさ。それは……君のお父さんの論文にも書いてあったと思うがね」
そう言うと、イヴはパソコンの画面に視線を釘付けにしたまま、語気を強める。
「出て行け」
「でも、君は『嘘』をついていた。それは間違いではないだろう? 嘘をついたのなら、謝ってくれよ。別に今の嘘はそういうことしなくてもいい嘘だろ? つく意味なんてないはずなのに……さ」