恋歌遊戯【携帯・句点後空白無しが読みやすい方向き】
一
人間は面倒で厄介だ。いらんもんを勝手に押し付けて自分勝手な要求ばかりしてきやがる。
俺は生け贄が欲しいなんて一度も言ってねぇっつの!
萌黄色の長い髪は少し邪魔だが、まあいい。
白い衣を幾重にも重ねたゆったりとした衣装。
右の唐紅花、左の橙。色彩は違えど見える世界は同じ俺の両目。映る世界は凪のように穏やかだ。時折、風が頬を撫でていく。花は咲き誇り、舞う花弁が蒼天へと吸い込まれていく。
長閑のどかな日だった。この娘が来るまでは。
「お嫁に参りました。末長く宜しくお願い致します」
「帰れ」
一体何が起こった。どこから沸いたんだこの小娘は?
真円に近いこの大陸、その中心たる狭間の地にある狭間峰。その峰が腕を広げ護る様に抱く小高い丘、大樹の下で今日も健やかに清々しく昼寝を楽しもうとしていた俺の傍にやって来て、「嫁に来ました!」とか言った人間の小娘に、俺は当然の如くそう返していた。
「嫌です」
だというのに、こいつ聞いてなかったのか?
それとも、これは幻聴か。幻聴なのか。
白に近い金の髪、肌も日の光りと縁遠そうな白さで気持ち悪い。暗所で育った植物みたいなひ弱さとか細い生気。その癖、どこにでもあるような薄茶色の瞳は真っ直ぐに俺を見返してくる。生意気だ。
身につけているものは花嫁気取りなのか白く薄い足首まで隠れるもの。人間の服装なんて興味がないからよくわからないが、女の身につける服装だってのはわかる。無駄にひらひらして、そんなもん身につけて花にでも擬態する気なのか。
「私はあなたのお嫁になりに来たので、もう帰りません」
「お前の耳は聴こえないのか。それとも飾りか」
「あら。聴こえないならこんな的確な返事はできません」
どこが的確だ!どこが!
「ミルリトン・マーシュ・マロウ」
「は?」
何の呪文だと小娘の顔を見る。陽の匂いもしない、暗所の植物の癖にその顔だけはやけにはっきりしていた。真っ暗な中に一つだけ白い花が咲いているようなそんな異質な強さだ。
小麦みたいな薄茶の瞳が楽しそうに笑んで、小娘は言った。
「リトって呼んで下さい。精霊王様」
「誰が呼ぶか!」
誰かこいつをどうにかしてくれ!
「ふくっ、く、くくっ!あ、あはっ」
千年を超える大樹の下、青々とした草の絨毯の上で木漏れ日と一緒に笑っているのは布の塊……ではなく、俺にとっては兄みたいな人だった。
「ビオルさん、笑い事じゃない」
その人はいつも全身を薄茶色のローブで包んでいて、今は身体を丸めて笑っているのでまるっきり布の塊にしか見えない。ひとしきり笑った後、ごしごしと恐らく笑いすぎで出た涙を目深に被ったフードの下で拭って、ビオルさんは振り返った。
俺より幾分背が高い。確か百八十センチくらいだとか以前言っていたはずだ。フードから零れた緑青色の髪は木漏れ日に光る。いつもは上質な弦楽器のような声も今日は耳に障った。
「あーはははっ!いや、うん、そうだねぇ。……くふっ」
「どうにかして下さい。そもそも、何故こんなのがここに入って来られるんです!」
ビオルさんは「門番」だ。
「えぇ~?別に誰でも此処に入る事はできるよぉ別にぃ、柵も無いしぃ、“門”があるわけでもなしぃ」
「…………」
「それよりぃ、うふふ。面白い子じゃあないかい。この子なら樹宝きほうさんの嫁に相応しいよぉ。良かったねぇ」
そうビオルさんが声を掛けた先には、あれからいくら言っても頑としてそこから去ろうとしなかった小娘がいる。小娘は我が意を得たりとばかりに頷いた。
「嬉しいです。よろしくお願い致しますね。お父様?」
「おい!」
小娘なんて事を言いやがる!そう俺が言うより早く、ビオルさんは片袖を口許に添えて笑った。
「違うよぉ。私はぁ、樹宝さんの配下みたいなものだからぁ」
ね?樹宝さん?そんな声が聞こえそうな仕草でビオルさんは俺に首を傾げてくる。
頷きたくない。俺たち精霊は姿と年齢が釣り合わないなんてざらだ。かくいう俺も人間で言えば二十そこらの男だが、もう千年は昔に超えている。だが、ビオルさんに比べたら俺なんかひよこも同然。
そのフードの下にある姿は、十八そこらだが実際の年月は数千数百。
そんな人相手に、どうして配下なんて言える?年功で言えば逆だろう完全に!
「樹宝さん?」
う。無言の圧力掛けられた。この人、いつも笑ってるけど確実に圧力掛けてる時とそうじゃない時がある。
「……ビオルさんは、俺の父親おやじじゃねぇ。精霊は人間みたいな両親なんて存在しないからな」
「はぁ……。樹宝さん、また私に『さん』付けてるよぉ?そんなだから誤解されるんだよぉ。樹宝さんはぁ、この大陸の心。樹宝さんより高位のものなんていないのにぃ」
少し呆れたような仕草で溜息をついてビオルさんはそう言うが、俺にとっては間違いなくこの人は俺よりも高位なんだから仕方ないだろう。
「……俺は」
「だから、さんづけ禁止ぃ。そういう訳だからねぇ?私はビオル・サーディガーディ。樹宝さんのぉ、配下ぁ。よろしくねぇん」
「ビオルさ」
「樹宝さんぅ」
「……ビオルは、風の長だろう」
「あは。そうそぅ、代理だけどぉ風の長もやってるよん」
「風の長、ですか?」
「そうそぅ。風の精霊のぉ、代表みたいなものかなぁん」
この小娘絶対わかってねーだろ!嗚呼、苛々する!
「小娘、いいか良く聴け。ビオルさ……ビオルは寛容だからお前なんかの戯言にも付きやっているんだ。俺とて同じだが、お前みたいな人間の小娘一人、ビオルや俺にしてみれば命を奪うことなど容易い。風で切り刻んでもいい、この手でその薄気味悪い首をへし折ってやる事も出来る。お前の命など気に入らなければいつでも消せるというのを忘れるなよ」
だからさっさと失せろ。これだけ言えば流石にわかるだろうと俺は思った。
「はい。気に入らない時は、いつでもどうぞ」
だああああああ!何なんだよこいつは!馬鹿か。頭悪いのか!
「私は精霊王様のお嫁さんですもの。あなたに嫁いだ以上、もしあなたの気分を害してその罰がそれなら従います」
「こんのっ馬鹿っ!そもそも俺は嫁にした覚えはねぇって言ってんだろうが!言葉が通じねぇとか人間はいつから言語を忘れやがったっ?」
「通じてなきゃこんな会話できませんよ?」
マジでこの小娘どうにかしてくれ!
「いやぁ。仲が良いねぇ。うふふ。お似合いだよぉん」
「ビオルさん!」
「さんづけ禁止だって言ったでしょぉ?何度言わせる気ぃ?」
「うぐ……」
理不尽だ!何で俺ばっかり!
「うふふ。さてぇ、可愛い樹宝さんのお嫁さんやぁ。折角なんだけどねぇ、お嫁さんを貰えるなんてぇ連絡一切貰ってないからぁ、新居の用意がないんだよぉ」
ハッとして顔を上げると、ビオルさんがすまなそうに小娘にそう言っていた。
なるほど、寝る場所もないのだから人間の小娘がいつまでもここに居られる筈がない。ビオルさんはあくまでも穏便に引き取らせる気なのか!
「だからぁ、樹宝さんが用意するまでぇ、雨風しのげる程度の場所で野宿になるんだけどぉ」
「はい。わかりました」
は?この小娘なんつった?
「幸い、風除けのローブもここに来るまで羽織っていたものがあるので、どうにかなると思います」
とか言って小娘が羽織っていたという薄水色の畳んだローブを見せる。
「ごめんねぇ。なるべく急いで用意するからぁ」
「いえ、ありがとうございます」
いやいやいやいや!ちょっ、待て。待って。ビオルさん!
「ビオルさん!」
声を上げた俺の方など一瞥もせず、ビオルさんは小娘と話を先に進めていく。
「本当にごめんねぇ、とりあえずぅ、今夜はお祝いだしぃ、せめて夕食はちょっと頑張って作っちゃうからぁん」
「わぁ、嬉しいです!」
「嫌いなものはあるぅ?食べられないものとかぁ」
「特には無いです」
「よかったぁ。じゃあ、なるべくぅ暖かくなるものをこしらえるからねぇ」
「あの、よろしければお手伝いさせて頂いてもよろしいですか?」
「くふ。助かるよぉ」
お願いだから誰か俺の話も聞いてくれ!
結局、俺の訴えは虚しく、人間の小娘は居座ることになったんだ。
二
朝だ。今日もいい天気になりそうだが、俺の心は昨日から悪天候。
「おい、起きろ小娘。本当に居座りやがって」
「あ、おはようございますー……精霊王様」
結局、この小娘は居座った。俺としては問答無用でこの地から放り出してやろうと思ったし、実行に移そうとしたんだが、ビオルさんに腕を掴まれて止めさせられた。
『樹宝さぁん?自分のぉ花嫁さんに何しようとしてるのぉん?そんな子に育てた覚えはないよぉん?』
マジで威圧された。今まで見た事もない本気の圧力を感じて俺のうなじがぞわぞわしたくらいだ。逆らっちゃダメだと俺の中で警鐘が鳴った。
「ずうずうしい奴だな。いつまでも人の寝床とってんじゃねぇ」
「はい、おかげですっごくよく眠れました。ありがとうございます」
「お前は鳥か。木の上で熟睡とかどういう神経してんだ」
放り出せなかったが、実際問題、人間の住居なんかここにはなかった。
『うーん。困ったねぇ。こればっかりはぁ、本当にすぐ用意できないしぃ』
『ほらみろ小娘。ここにお前の居場所なんかないん……いだっ!』
『樹宝さぁ~ん?まったくぅ……』
軽く樹宝さんに俺は肘をつねられた。痺れる様なぴりっとした痛みに俺が悶絶しているうちに、事は進んでいく。
『仕方ないねぇ。本当にぃ、申し訳ないんだけどぉ……。今夜一晩、木の上で寝てもらえるかなぁ?』
『はい。ありがとうございます!』
かくして俺はお気に入りの寝床を人間の小娘に取られて今に至るわけだ。胸くそ悪い。
「起きたならさっさと降りろ。投げ落とすぞ」
「き・ほ・う・さぁ~ん?女の子にぃ何て事を言っているのかなぁ~?ん~?」
「痛い痛い痛い!マジで痛いってビオルさんっ」
音も気配もなかったのにいつの間にか俺の背後に現れたビオルさんが、俺の片腕を捕まえて捻り上げた。マジで痛い!ギブ!ギブアップ!
「まったくぅ……。自分のお嫁さんなんだからぁ、もっと大切にしなきゃダメだよぉ」
「ビオルさん、俺は一度もそれを肯定した覚えはないんですが?」
「私相手にぃ敬語なんか使う子の言葉は聴こえないねぇ。うふふ」
そう言っているうちにビオルさんはふわりと風の長らしい身のこなしで現れた時と同じように飛び降りた。
「お嫁さんをぉ、ちゃんと降ろしてあげるんだよぉん?私ぃ、朝ごはん用意しているからぁ」
風の精霊を束ねて、俺よりも年上の人が人間よろしく家事……。
「小娘……お前が来てから俺にとっては悪夢だ」
「ごめんなさい」
小麦色の瞳を少しだけ伏せた小娘に、俺は舌打ちをした。俯くと白金の髪がその細い肩からするりと流れる。ひ弱なその姿を見ていると苛立ちを禁じえない。
「来い。あの人を待たせるな」
「はい」
木の太い枝どうしの分かれ目。枝を階段とするならその踊り場のようになっている場所がここだ。
千年を超えたこの大樹だからこその場所で、上を見上げれば朝日がきらきらと木漏れ日となって降り注ぐ特等席。そこにビオルさんは布を敷いて小娘が誤って落下しないようにと寝床を設えた。
「……っとにとろいな!」
「きゃっ」
そこまでされたと言うのに、小娘はそこで立ち上がるのもやっとらしい。生まれたての小鹿のように木の幹や枝を頼って立ち上がろうとしているが、いつになったら立ち上がれるかわかったもんじゃねぇ!
小娘の折れそうな胴を掻っ攫って飛び降りる。
そう長くもない落下時間いっぱいを使って、抱えた小娘が悲鳴を響かせた。
うるさいとは思ったが、俺としては少し今までの溜飲が下がった……んだが。
「何やってるのかね。樹宝さん!」
ビオルさんに頬を思いっきり引っ張られた。
「多分、しばらくはぁ雨も来ないからぁ、住処の用意が出来るまでぇちょっとあそこで我慢してねぇ」
「は、はい」
「うふ。ごめんねぇ。なるべく早く設えるからねん。で、樹宝さん……わかってるぅ?」
ビオルさんが用意してくれた朝食のサンドイッチを大樹の下に座り込んで食べる。人間の食物なんて摂る必要はないんだが、人数分用意されたそれは要らないという事は認めないと暗に言われたに等しい。
「わかりま……わかった」
つい敬語で答えかけた俺にフードの下からビオルさんが笑顔で圧力を掛けてくる。
甘酸っぱい果物とクリームのフルーツサンドが口の中で優しく味を広げて、俺の心も少し安らぐ。
「美味しい……」
当たり前だ小娘。ビオルさん手づから作ってくれた料理が不味いとか言ったら容赦しねぇぞ。
「昨日のお夕食もとっても美味しかったですけど、これも美味しい」
「あらん。ありがとぅ。くふふ。まぁ、これは誰が作っても失敗しないからねぇ」
いや、これはただのサンドイッチじゃない。このフルーツサンドだって、フルーツは丁寧に下処理されてるし、シロップに漬けたやつもある。クリームだってそういうのに合うように絶妙なバランス。たかがサンドイッチにすげー手間暇掛けてあるのが俺にだってわかるもんだ。
「精霊王様も、お好きなんですね」
「その呼び方やめろ」
「でも……」
「俺はそういうもんじゃねぇんだよ」
「樹宝さぁん?言い方ってものがあるでしょぉお?」
ビオルさんが小娘を庇う。くそっ、何で俺が。
「精霊ってのは、自分の眷属内でこそ序列が存在するが、基本的に皆同格なんだよ」
小娘がキョトンとした顔をする。言ってわかるのかこの鳥頭?
馬鹿馬鹿しくて口をつぐもうとした俺に、ビオルさんから無言で圧力が掛かった。どうやら最後まで言えって事らしい。面倒くさい。
「だから、精霊王なんてもんは存在しねぇ。皆が同格なんだからな」
「でも、昨日この人が」
お前小娘、ビオルさんを『この人』呼ばわりか!
「小娘、口の利き方に」
「樹宝さぁん?口の利き方は樹宝さんじゃあないかなぁん?うふふ。お嫁さんには優しくぅ」
「俺は嫁なんていらん!認めてねぇ!」
「まったくぅ……。素直じゃないんだからぁん」
「ビオルさん!」
「あのねぇ、樹宝さんはぁ、特別なのぉん。確かにぃ、精霊はぁ全て司るものが違えば同族内でしか序列はないんだけどぉ、司ってるものがぁ、樹宝さんは特別でねぇ」
「司っているもの?」
「うふ。樹宝さんはぁ、この大陸の心が姿をとった存在なんだよぉん。言うなれば、この大陸全てのものから生まれて司っているって事でぇ、樹宝さんなくしてぇこの大陸は有り得ない。そういう事かなぁん」
風の精霊ならば風を自在に操り、水ならば水を。精霊は司るものを自在に操る存在だ。
そして俺の場合は、この大陸全て。精霊とは自然の気が凝こごったもの。
「だからねぇん。精霊の“王”ではないけれどぉ、樹宝さんは特別なのぉん。私達のぉ、この大陸で育まれたもの全ての親であり子であり、そして……」
ビオルさんが唯一見える口許に笑みを浮かべた。それは何だか暖かいんだが、俺には少し居心地が悪い。正直、気恥ずかしいってのが本音だ。
「私達全ての命の映し身でもあるんだよぉん」
「命……」
「っだから!精霊王じゃねって事だ!」
「あは。そうだねぇ。だからぁ、名前で呼んであげてぇ。特にぃリトさんはぁ樹宝さんのお嫁さんなんだからぁん」
だから!俺はこの小娘を嫁なんて認めてねぇ!嫁なんていらん!
「ビオルさん」
「うふ。なぁにぃ?」
「じゃあ仮に、俺がこの小娘を本当に娶って、それで“ハザマ”が生まれても良いっていうのか?」
笑みの揺るがないビオルさんじゃなく、俺の言葉に反応して一瞬肩を揺らしたのは小娘の方だった。
この大陸で“ハザマ”の意味を知らない奴はいない。ハザマは異種族同士の掛け合わせ。つまり種族のハーフを表す。人間の中の人種ではない。精霊と人間、人間と妖あやかし、妖と精霊それらの掛け合わせだ。それらはこの大陸で忌まれ続けている。
「いいんじゃないかい?だってぇ。好きな人とのぉ子供でしょぉ?何か問題でもあるのん?」
「っな」
「あはん。樹宝さんたらぁ、気が早いねぇん。熱々でお邪魔かなぁん私ぃ」
「ビオルさん!」
「まぁ、冗談はおいといてぇ。今日はねぇ、どうやら峰の西で市が立つらしいんだよぉ」
くるっと話の方向を変えて、ビオルさんが小娘に話しかける。
「リトさんや、寝床は仕方ないにしてもぉ、着替えとか色々必要でしょぉ?」
「あ、はい。できれば欲しいです」
「くふふ。じゃあ、決まりだねぇん。樹宝さんや」
ニィっといい笑顔でビオルさんが名前を呼んでくる。嫌な予感しかしねぇ。
「ちょっとリトさん連れてぇ、お買い物に行っておいでぇ」
ハザマ峰は大陸の中心。“何処から見ても”横たわる。
空の上から眺めたら、きっと中心だけが少し低い菱形ひしがたに見えるだろう。だから東西南北何処から見ても横たわって見えるのだ。
拒否権発動など最初から無視されている俺は今、峰の西にあるちっぽけな人間の村にやって来ている。
「あの、旦那様」
「お前を嫁にした覚えはないと言ってる」
「えっと、じゃあ……あなた」
「お前本気で言葉が通じないのかっ?」
この小娘の買い物に付き合う為に!
「では、どう呼べば?」
ビオルさんから借りた薄茶色のローブを羽織った小娘は戸惑うような顔で見上げてくる。
「…………」
このひ弱な姿も表情も俺にとっては無性に気に障った。何で俺がこんな小娘の為に人間の群れに混ざって買い物なんか……。
「少しは自分で考えられねぇのか」
「……え」
「その頭が飾りならもう少し出来の良いのに替えてもらったらどうだ」
本当になんなんだこの小娘。いきなり押しかけて来て嫁とか名乗った癖に、帰れって言っても頑として拒否しやがった癖に、“自分の意思”が持てる癖に何でこんな事も自分で決められねーんだ?
頭にくる。苛々して俺は人間でごった返す中へ足早に突入した。
南の香辛料の匂い、西の楽器の音、東の色鮮やかな布地、北の甘い菓子の香り、そして人間や商品の動物類の匂いがてんでばらばらに騒がしく満ちる市。歩く人種も入り乱れ、商人と買い手の交渉があちこちで行われて声が飛ぶ。
「おっ、そこのお兄さん買ってかないか?」
客を呼び込む声や視線を変えればこの人ごみでカモを狙っているらしいかっぱらいの姿。善も悪も知った事かの賑やかし。
俺の姿は髪色や瞳、この尖った耳で人間には見えないだろう。だが、普通の人間は精霊とエルフの見分けなんかつきやしねぇ。
この大陸で忌まれるのはハザマのみ。妖に分類されているエルフは交流こそ滅多にしないが人間にとってそこまで驚くもんでもない。せいぜい、珍しいな、くらいだ。
「まっ……、き、……」
ずんずんと突き進んでいた俺の衣の袖が、後ろからの息も絶え絶えの声と一緒に伸びた手に引っ張られた。
袖を掴んだのは小娘で、片手で胸元を押さえて息を切らせている。
「待って、下さい」
けほっと咳き込んで背を丸める姿が、人の流れの中で邪魔にならない筈がない。
川の中で流れを分ける岩みたいなもんだ。本当にとろくせぇ。
「こんな所で蹲るな」
舌打ちをして仕方なく掴んだ小娘の手首は、骨と皮しかないんじゃないかってくらいに細かった。
「ごめん、なさ」
「……」
げほげほと咳き込む音が激しくなる前に人の流れから抜け出して、家の影で手を離す。
光りの当たる路から影に入れば、その白さはやっぱ異質で。
けほ、けほ、と何度も咳をして膝を抱えるように蹲る姿。咳のたびに薄くて細い体が跳ね上がりそうに揺れる。
「……は、ぁ」
やがて咳も収まり、小娘は顔を上げた。そこにあった笑みが、俺にはぞっとするくらい気色悪かった。
「ごめんなさい、もう、大丈夫です」
陽の匂いがしない白い顔は青ざめて本当に雪みてぇな白さ。雪の影は青く、その顔色はまさしくそれ。咳で掠れた声が春の時分とは正反対の枯れ草みたいで、まるで燃え尽きる前の炭みてーだと思ったんだ。
「鏡もってねぇのか。持ってんならもう一度その面つら見てから言え」
「大丈夫です。行きましょう」
嗚呼、本当に人の言う事聴きやしねぇ!
「死人連れて歩く趣味はねぇんだよ。そこに居ろ、 動くんじゃねぇぞ」
「あ」
ビオルさんには悪りぃけど、無理だ。こんな小娘の為に何で俺が。冗談じゃねぇ。
いきなり押しかけて、勝手に具合悪くなって。俺の迷惑なんて微塵も考えてねぇ。
「んとに、人間なんてろくなもんじゃねぇな」
小娘を置いて人ごみを突っ切る。
「お兄さん!そこの色男!この薬でもっとモテモテになれるよ!」
ふざけた売り文句の小太り男を睨みつけ、その目の前で足を止めた。俺の不快さが伝わったのかそいつはひくっと笑みを引きつらせる。蛙みたいと言ったら蛙に失礼だろうな。
「咳止め薬」
「え?」
「無いのかあるのかどっちだ」
さっさと答えろと睨みつけると、蛙顔の男は慌てて薬の包から抜き出して見せる。
「か、風邪の咳ならこっち。喘息とかならこっちだが……」
「両方」
あれがどういうもんかわからねぇが、咳は咳だ。代金を支払い、ひったくるように品物を受け取った。
それから次に足を伸ばしたのは布地を扱う女の店だ。適当に布を買って、引き返す。
「あ……」
「何だその顔は」
戻った俺を見て、小娘は幽霊でも見たような顔をしやがった。
しかも、
「おい、何の嫌がらせだ!」
「ごめ、なさっ」
小麦色の瞳が滲んだと思ったら、いきなり顔をくしゃっと歪めて泣き出してわけがわかんねぇつの!
嗚咽を漏らしながらボロボロ泣く小娘を引っ掴み、俺は来た時以上の早足でその村を後にした。
夜になり、星が空を埋め尽くす。
連れ帰った小娘は今日も俺の特等席を寝床にしている。俺が昼間に買ってきた布に包まって。
「やっぱりぃ、春っていっても寒かったかねぇ」
「ビオルさんは気の回しすぎです」
木の下に俺は座り、向かいでどうやら薬を作っているらしいビオルさんにそう言った。
連れ帰る間中、小娘はしゃくりあげながら泣いて。帰ったらぶっ倒れた。俺の買ってきた薬は咳止めで、ぶっ倒れた小娘にはどうみてもそれ以外の病があるように見えて、ビオルさんは薬湯を作って小娘に飲ませたんだ。
「……あの小娘、やっぱり叩き返したほうが」
「樹宝さんや。その事なんだけどねぇ、あの子ぉ、生贄としてよこされたらしいよぉん」
「は?」
「ほらぁ、大体五百年くらい前にぃ、北側で不作の年があったじゃないかい?あの時もぉ、あの辺の人間がどうにかして欲しくて生贄の儀をやろうとした事があったと思うけどぉ」
「……それは確か、やる前にビオルさんと一緒にふざけんなって殴りこみしたでしょう」
「うん。したねぇ。あの時はそれで収まったんだけどねぇ……ほらぁ、もうその時の子なんかいないからぁ」
人間なんか生きて百年。もうとっくにあの頃の奴はいない。だが、不作は大地の休憩期間だ。疲弊したら休むのは当たり前で、それは大体同じ周期でやってくる。
「それでまた性懲りもなく?馬っ鹿じゃねぇか」
「うぅん。でもねぇ、それもちょぉっとおかしいんだよぉ」
「何がです?」
「その村だけどぉ、今までも擬似的な贄の儀はしてたみたいなんだよねぇ。所謂、豊作祈願の春祭りぃ。祭壇にぃ、前年の収穫物やお料理供えてぇ、村で一番綺麗で可愛い子にぃ精霊の花嫁って称号を与えたりとかして」
最後のほうが微妙だが、とりあえずは俺たちに無害な儀式で自己満足していたらしい。
「それがぁ、なぁんで今回はまた元に戻りかけてるのかなぁって。まぁ、殺すんじゃあなく、ここに花嫁を独りで行かせるってだけみたいだけどねぇ」
「それも十分迷惑だっつーの。本当にろくなことしねぇな人間は」
無意識に木の上へ視線を投げる。だからあの小娘、居座ったのか。
「帰る所が無いってよりぃ、本当は帰れる予定じゃあなかったのかもねん。あの子もぉ、送り出した方もぉ」
「?」
「あの子ぉ、凄く綺麗な手をしてるんだよぉ。きっとぉ、家事なんかした事ないねぇ。おまけにぃ、本当だったらここに辿り着く前に死ぬだろうって本人も送り出した方も、思ってたんじゃないかとねぇ」
「なんだ、よ……それ」
じゃあ何か。死ねずに辿り着いたから嫁とか言って居座りやがったって事か?
冗談じゃねぇよ!
「人を馬鹿にしてんのかあの小娘」
「まぁ、本人に聞かないと確かな事はわからないからぁ、樹宝さんや」
「…………」
「優しくしてあげてねぇん」
「そんな奴に何で俺が!」
「決まってるでしょぉ?樹宝さんのお嫁さんだからだよぉ」
「ふざけっ」
「樹宝さんや。お願いするよ。少しの間でいいからぁ、優しくしてあげてぇ。お嫁さんとかそういうのは抜きにして、あんな状態の子がぁ、そんな状況になったって事を考えてあげてくれないかい?」
そんな義理はないって言うかも知れないけどねぇ、とビオルさんは言った。
「お願いだよぉ。ね?少しの間でいいからぁ」
「…………。どのくらい」
「そうだねぇ、ひとまずぅ、お家を作るまでの間かなぁん。出来上がって、そうしたらもう住処だけ与えて放って置いてもいいと思うからぁ」
安全な寝床だけは確保してあげると約束したからね、とそう言った。
「わかった」
ビオルさんの顔を立てて、俺はとりあえず頷いたが、ふつふつと沸いた怒りは当分消えそうに無い。
「ありがとぅ」
どこかすまなそうなビオルさんの声に、俺はきつく唇を引き結ぶことしか出来なかった。
三
「樹宝さん」
真っ青な空と春のまどろむような陽の匂い。そこに突如割り込んできたのは声と焦げ臭だった。
声に振り向けば、相変わらず薄気味悪いくらい細った小娘が両手に焦げ臭の元を持って駆けて来る所だ。
「嫌な予感しかしねぇ」
まさかそれ、食いモンじゃねぇだろうな……。
ぶっ倒れた次の日、小娘は熱で一日寝込んだ。んとに何で人間はこんな面倒なんだよ。熱で寝込んだ小娘を、俺はただ見ていただけだったのに、何故か起き上がれるようになった小娘は前以上に俺にひっついてきやがる。
「きゃっ!」
「げ」
小娘の身につけている服は先日の市で買ってきた古着。田畑を耕す人間の女が着るようなもんで、最初に着ていた白くて薄い足首まで隠れる服は着ていない。にも関わらず、空色の膝が隠れるくらいのスカートから出た自分の脚に小娘が躓いて転んだ。どんだけ鈍くさいんだよ!
べしゃっと地面に倒れこんだその両手から、焦げの原因とそれを乗せていた黄色いハンカチが飛んで地面に転がる。
青々とした草の上に投げ出された手足は白くて、本当にこれくらいでも折れたんじゃないかって思うくらいに細い。
「何やってるんだ小娘。おい、折れてないだろうな」
近づいて白金の髪を避けながらその首根っこを掴んで持ち上げた。どうやら見たところは変な方向に曲がっているとかはないな。
猫の首根っこを掴んだような形になった小娘の顔を見る。
「何だその間抜け面は」
「ふふ。樹宝さん、優しい」
手ぇ放していいか?
「そーかそーか手足は無事でも、頭は壊れたか」
「心配してくれて、ありがとうございます」
青白い雪みてーな顔で、へにゃっとしまりの無い笑みを浮かべる小娘は、きっと頭のネジが転んだ拍子にどっかに落ちたに違いねぇ。
「あ……」
けど、その一言を言って笑み崩れていた顔が途端にしおれていく。
「今度は何だ」
「クッキー……」
「…………」
クッキーつーのは、確か人間共が作る菓子の一種だったよな。小麦を挽いた粉とバターっていう牛の乳の固形物とかを混ぜて捏ねて焼いたもんのはずだ。どこにそれがあるのかと小娘の視線を辿って俺は愕然とした。
この小娘、あの漆黒の塊を見てる……だと?
ある意味で戦慄を禁じえない俺は小娘を下ろして手を離す。
「樹宝さんに食べてもらおうと思って作ったのに……」
しかもそれを俺に食わす気だったとか聞こえるんだが。
正気かこの小娘っ?やっぱりどっかに頭のネジ落としてんだろ!
「……」
「…………」
落ちた焦げ臭のする漆黒の塊複数形の前に座って、寒さに震える小動物みたいな目で小娘がこっちを見てくる。冗談じゃねぇ。落ちて無くても食えるかそんなもん!
「……~~っ!どけ!」
「え。樹宝さ」
ガリって音がする。苦い。いや、苦いってレベルかこれ?
小麦色の目を見開いて、小娘が俺を信じられないもんでも見るような目で凝視する。
「文句でもあるのか。なら最初から持って来るな……っ水!」
じゃりじゃりする。不味い。何だコレ。やっぱ味まで焦げ臭い。
落ちて無くても食えねぇなら、落ちたもんでも大差ねぇ。そう思って口に入れた事を、即効で俺は後悔した。これは食うもんじゃない。
じゃりじゃりと不快な噛み応えのそれは無理やり飲み下して喉に降りれば今度はへばりつくような感覚で、噎せさせようと暴れる。何だコレは毒か。
「早くしろ!」
脆いくせに噛めば噛むほど細かく、しかも破片みたいになって口の中を突き刺してくる。この小娘、まさか俺を毒殺する気じゃないだろうな?
壮絶な不味さに思わずのた打ち回った俺の目の前に、小娘が両手のひらで作った器に満ちた水を差し出してきた。何を考える暇もなく、その水を啜り、どうにか口と喉の異物を飲み下して排除することに成功する。
味に体力を奪われるとか有り得んだろう……。
座り込んでまだ残る後味に顔をしかめていたが、ふと気付いて俺は顔を上げた。
目の前には、まだ両手で器を作って立ち尽くしている小娘の姿がある。それが何故か強張ったような表情で目を瞠っているのだが、恐らく目は開いていてもどこも見ていない。
こっちは不味さで気絶するかと思ったってのに、目を開けて眠れるとか人間て何考えてるか本当にわからねぇな。
「おい」
声を掛けると、小娘の細い肩がびくんと跳ねた。のろのろと小麦色の瞳が俺に向く。
「不味かった」
精霊は嘘をつけない。人間ならここで義理だろうが何だろうがとりあえず「美味かった」とか言うんだろうが、俺には出来ん。つーか、俺が人間だったとしてもこれを美味いとか言えるわけが無い。
不味いものは不味いんだ。
「食ったぞ。これでいいんだろう」
俺の方が座り込んでいるから、どうあがいても見上げる形になるのは致し方ない。見上げた小娘の顔は表情こそそのままだったが、何故か変色していた。
顔を真っ赤にして怒るくらいなら普通に食えるもの作れよ!
白い顔が赤くなって、小娘が自分のスカートをぎゅっと握り締めた。
「おい……って、一体今度は何なんだ!」
声を掛けた瞬間、小娘が身を翻して逃げ出しやがった。
「訳わかんねぇな本当に!」
つーか、あれまた転ぶんじゃないか?
「……やっぱりな」
走り出して程無く、小娘は青い草の上にダイブしていた。
「くふん。樹宝さんどうだったぁ?リトさんの初手作りクッキー」
「ビオルさん、俺を殺す気ですか。そんなお気に障る事、何したんでしょうか?」
大樹の下で輪になって座り、昼食を口に運びながら俺は心の底から問い掛ける。
今日の昼食は米粉のパンに山鳥のたれ焼きと葉もの野菜、茸を挟んだもの。
甘辛いたれと野菜や茸が絡み合い、それを優しくまろやかに包み込むぷりっぷりの鶏肉ともちもちパン。臭み消しとアクセントに入れられた香辛料が絶妙だ。ちゃんと主張するところは主張して、主役を立てる所は立てる文句なしの美味さだった。
これが食事ってもんだろう。
ちらりと横に距離を置いて座る小娘を見遣る。
何故か派手に草の上にダイブしてから小娘は一度もこっちを見やしない。つーか、そんなに不味いって言葉に腹立てるなら此れくらいのもん作って出せ。
引っ付かれんのもあれだが、これはこれで腹が立つ。
「おい、小娘」
「樹宝さぁ~ん?」
俺の名を呼ぶビオルさんの声が一段低くなった。
「どぉして何度言ってもそういう呼び方するのかなぁん……。リトさんはちゃぁんと樹宝さんの名を呼んでるのに、失礼だよぉ」
「小娘は小娘でしょ……痛い痛い!」
太腿思いっきりつねられた!
「まったくぅ……どうしてこんな口も態度も悪くなっちゃったのかねぇ…………」
おろろんとさも悲しそうにビオルさんは口許を覆う。
「あ、の」
「ん?」
俺から目を逸らしながら、小娘が口を開く。
「そんな事、ないです」
「…………」
小娘の言葉に、ビオルさんはぴたりと動きを止め、俺と小娘を交互に見た。
一体、何だって言うんだ?
「へぇ……。うふ。そぉ……。くふふ」
「ビオルさん?」
「うん。リトさんがぁ、そう言うならまぁ、いいけどねぇん。本当に樹宝さんは幸せ者だよぉ」
「いや、意味がわかりません」
「あは。リトさんや、デザートに林檎があるよぉ」
一転して上機嫌になったビオルさんは、切り分けた林檎の一切れを小娘に差し出した。それを嬉しそうに受け取って、小娘はちらりとこちらを見る。
「!」
「おい……」
目が合った途端、ぱっとまた目を逸らされた。
文句があんなら言えば良いだろうに訳がわからん。
「あ、そうそぅ。窯は出来たしぃ、あと数日あれば完成するんだけどぉ、まだ掛かるからぁ今夜は雨もきそうだし横穴の方に寝てねぇ。樹宝さんも一緒にぃ」
「何で俺まで」
「あらん。この間も一緒にいたじゃないぃ」
「あれはこの小娘がぶっ倒れて熱出したからでしょう」
流石に病もちを木の上に寝かせるのはよろしくないと、山の斜面にできた洞窟へと運び、そこに寝かせておいたのはまだ記憶に新しい。
熱があるのと、野生動物が入ってこないとも限らないからと仕方なく俺も一緒に居たのだ。
「俺は雨も嵐も関係ない」
「樹宝さんは平気でもぉ、リトさんは無理だよぉ」
「何でそこで小娘が出てくるんです」
「はぁ……どうしてここまで鈍く…………。いいからぁ、リトさんと一緒に、ね」
溜息までつかれた。釈然としないながら林檎を齧っていたが、ビオルさんの次の言葉で俺は林檎を喉に詰まらせそうになる。
「初めてお嫁さんとちゃんと過ごせる夜なんだから、しっかりねぇ」
「げほっ」
何処で何がどうなってそうなるんですかっ!
四
春の天気は不安定だ。
さっきまで晴れてたと思えば、突然曇っるて降り出す。四方を山や峰に囲まれたこの地は特にそれが顕著なのかもしれない。
それは良いとして、だ。ランプが照らす洞窟の中で、俺と小娘は互いに無言で距離を置いて沈黙している。
「……」
「……」
「……」
「……」
何とかならねーのか。この空気。
ビオルさんに追い立てられるようにして、洞窟に入って間もなく、外では雨が降り出した。
そうなると天気の変わり映えは凄いもんだ。蒼かった空が瞬く間に灰色に覆われ、雫が地上に降ってくる。暖かい春の昼間は極楽だが、雨で急に冷えた空気は暖かかった分、人間は身体を冷やすだろう。
小娘を見ると、先日ぶっ倒れた時に用意した藁を詰めた大袋の上で膝を抱えて肩から毛布を被っていた。大袋は麻で編まれた物で中にビオルさんが持って来た藁を詰めて寝床にしたものだ。毛布も俺が市で買い直してきたし、これでひとまずの寝床は確保できているから問題はなさそうだな。
人間一人が立って入れる入り口から少し進めば、人間が五人くらいなら余裕の空間が広がっている。そしてその洞窟、天井と俺の間にはそこそこの距離もあって息苦しい思いもしないで済むだろう。
なのだが、俺は今、息苦しい。一体この小娘は何が気に入らなくて俺の顔も見ない何も言わないで黙っているんだ?
そもそも何で俺がこんな小娘を気にしなけりゃならないんだ。
ここから洞窟の入り口までは少し曲がっているから、冷たい空気や雨は直接吹き込んでこない。が、念の為に火を熾しておいた方が良いかも知れないと、俺は石を集めて作った小さな囲炉裏に火打石を使って火を熾す。薪が時化ってしまうと点きにくいから、今のうちにつけておかないとな。
一応、夕飯も考えて食料は運び込んである。もうこの空気もどうにもならんのなら、さっさと小娘に飯を食わせて寝させた方がいい。それしかない。
「あの、樹宝さん」
「…………何だ」
決めた矢先にどうして話しかけてくるんだよ!
「クッキー、食べてくれてありがとうございました」
「別に。俺に食わせる気で作ったんなら仕方ないだろう」
仕方ない。俺に作ったものなら、俺が食わなきゃ無駄になっちまうんだ。だからそれがどんなに不味くても、食わないわけにはいかない。俺に食われるために作られたんだからな。
「嬉しかったです」
小娘がそう言って笑った。気味の悪いくらい白い顔が、何でか知らんがこの時だけは不気味だとは思わなかった。
「そうかよ。……ならいいんじゃねぇか」
「はい!」
にっこにっこ笑ってやがる。まぁ、泣かれるより何倍もマシだろ。
と、そこで何を思ったのか小娘がじっとこっちを見てきた。
「何だよ」
「樹宝さん、もしかして髪が邪魔なんじゃないですか?」
「は?」
「だって、避けてもすぐ落ちてるみたいですし」
俺の髪は背を覆うくらいの長さがある。確かに屈んで作業するこういう時には払っても払ってもまた肩から滑り落ちてくるが、慣れていてそこまで邪魔とかいう意識も無かった。
「良かったら、私が……その、まとめ、ます」
「…………」
「だめ、ですか?」
別に意識しなけりゃ邪魔とも思ってないんだ。そんな必要はねぇ。
そう思ったが、どういうわけか。
「好きにしろ」
やっぱあの毒薬クッキーが良くなかったらしい。胸焼けなんて感覚はわからねぇが、きっとこれがそうなんだろう。何かが胸元で外の天気みたいに曇っている。
小娘が寝床から降りそうになっているのが見えて、なんとなく俺は立ち上がって囲炉裏を越え、小娘の側に座り直す。小娘に背を向けて胡坐をかいた。
「これでいいのかよ」
「はい」
背後から聴こえた小娘の声は少しだけ震えている気がした。別にこんな貧弱で今にも死にそうな細い人間の娘なんかに何もしねぇっての。
つーか、怖いなら離れてればいいじゃねーか。何で髪を結うとか言い出すんだ。
「わ。……凄い綺麗」
小娘の震えた指先が俺の髪を一房掬い上げる気配がして、何故か聴こえたのはそんな言葉だった。
「髪なんか全部同じだろうが」
「そんな事無いですよ!いいなぁ……真っ直ぐで艶もこしもある」
小娘の髪は白金で、細い。そういや、熱から脱して起き上がった時に髪がどうたらって騒いでた気がするな。絡まってるとか何とか。
軽く髪を引っ張られるような感覚がした。どうやら結い始めたらしい。
「小娘。お前は怖くないのか」
気がついたら、言葉が転がり出ていた。じっとしているだけで退屈だったからだろう。
「髪も見た目も、お前達とは違う。種族も」
「怖くないです。だって、樹宝さんだもの」
「人間の言語野はいつから正常に動かなくなった?」
「怖くないですよ。私はあなたのお嫁さんなんですから」
「もういい。まともな答えが返ると思った俺が馬鹿だった」
そうだ。この小娘は言葉が通じないのだったと、俺は思い出した。
「怖くないです。……です」
「あ?」
「ふふ」
何か言った気がしたんだが、囲炉裏の爆ぜる音と雨音で掻き消えたようだ。小娘自身も蒸し返す気はないらしい。そうしている内に髪を引っ張っていたような力はなくなり、代わりに背に軽く結った髪が落ちる感じがした。
「出来上がりです」
心なし楽しそうな小娘の声に首を動かし振り返る。
「……」
「……?どうかしました?」
「別に」
俺は振り返るのを止めて小娘から顔を背けた。やっぱりあれは食うもんじゃなかったらしい。
振り返った先で嬉しそうに笑った小娘と瞳が合っただけなのに、一瞬、息の根を止められたような気がした。
食うべきじゃなかった。『胸焼け』が治まらねぇ。
どうかしてる。この小娘の“名”を呼んでみようか、なんて……。
春の雨が上がって、山の装いも花霞みに淡く染まる。雨と陽光の恵みに蕾は膨らみ綻ぶ。
「おい、何をしてる」
「あ。樹宝さん」
折れそうな白く細い手足で木に登ろうとしている姿を見つけて、俺は眉を顰めた。
あれから数日。相も変わらずこの小娘は落ち着きがねぇ。
「何をしていると、聴いているんだ」
「この林檎を、取りたくて」
「それは林檎じゃねぇよ」
そこに実っていたのは一見赤く熟れた林檎だ。けど、違う。その実の正体を教えてやろうかと口を開いた時、背後から気配と声がした。
「おやぁ、止めた方がいいよぉん。くふ。それぇ、毒があるからぁ」
「ビオルさん」
「毒……」
音もなく小娘と木に近づいたビオルさんは無造作に毒林檎だと言ったその実をもいだ。
「このままだとねぇ。これは火を入れる事で薬になるのぉん。毒も薬も紙一重って事だよぉ。うふふ」
鳩の血を固めたような真紅の林檎を手に笑う姿は人間どもが語る物語の悪い魔法使いのようなものに見えるらしい。何時だか精霊の一人がそう言っていた。
だが、小娘はそんな姿も見慣れたのかそれよりも興味深そうに毒林檎を見つめている。
「お薬になるんですね」
「そぉ。うふ。実はぁ、リトさんの飲んでるぅ、薬にも少し入っているんだよぉ?これの粉末ぅ」
「え!」
「加熱してぇ、工程を踏めば万能薬に近い素材に変わるからねぇ」
おいおい小娘、何でそこで目を輝かせてんだ?さっきの「え!」は怯え慄くものじゃなく、すっげぇ食いつくもんだった。ビオルさんの方に枝に乗ったまま身を乗り出すな!
「……くふ。後でぇ、興味があるならぁ教えてあげるぅ。という訳でぇ、樹宝さんや、リトさんを降ろしてあげてぇ」
「……何で俺が」
「…………」
いつものように声が低くなるかと思ったんだが、何故かビオルさんは少し考えるように黙った。
それから、ニィィっと笑う。ちょっと不気味だった。
「じゃあ……私がぁ、降ろすねぇ?」
「え?」
「樹宝さんがやらないならぁ、仕方ないじゃあないかい」
「そ、れ、は……」
「じゃあ、リトさん。おいでぇ?」
「あ、はい」
待て小娘!
「きゃっ?」
「あらん……。ふふ、どぅしたのぉ?くふん」
「樹宝さん?」
軽かった。いつも思うんだが、こいつ本当に中身あるんだろうな?小娘の身体を抱えて木から下ろす。
仕方ねぇだろ。ビオルさんにこんな事させられるか!
「ビオルさんがやる事じゃない」
「……ふぅん?そぉ?うふふ」
そうだ。だから仕方なく、やったんだ。それだけの事だ。そのはずだ。
「あは。じゃあ、手間を省いてくれてありがとぉん」
「いえ……」
どうしてか。俺はビオルさんから咄嗟に目を逸らした。何でそんな事しちまったのか、わからねぇ。
「樹宝さん、ありがとうございます」
地に足をつけた小娘が俺の袖を引いて言う。
「……ビオルさんの手を、煩わせるんじゃねぇよ」
それが何か『胸焼け』を引き起こす。あの毒物クッキー、毒性が強すぎるだろう。
「あ、はい。気をつけますね」
「ふん」
しまりのない顔だ。小娘が襲来してから、何回も見たことがある顔だ。今更それがどうしたってもんなのに。
何で、こんなに落ち着かねぇ……。
その顔を見てると、胸焼けがする。なら視界から外せばいい。なのに、おかしい。視線が外せないって何でだよ?
「さぁ……、お昼にしようかねぇ、今日はガレットだよぉ」
「わ!あれ、私好きです」
「うふふ。じゃあ、作った甲斐があったねぇ」
ひらりと翻るローブ姿に続く形で俺と小娘は歩き出す。ビオルさんが作っていた小屋はもうほとんど出来上がっている。後は家具とかそういうもんを揃えるだけらしい。
「新居が落ち着いたらぁ、作り方を教えてあげるぅ」
「本当ですか?嬉しい!」
明るく弾んだ小娘の声に、何故か俺は苛つく。多分、ビオルさんに馴れ馴れしいからだ。
「おい、ビオルさんに手間を掛けさせるなって言った筈だ」
「手間じゃないよぉ。むしろぉ、そうしないと私が毎日ずっと作りに通わなきゃあいけなくなっちゃうよぉ?」
「……」
「うふ。私だってぇ、新婚のお邪魔はしたくないものぉ」
いや、違う。新婚とか、俺はこの小娘を嫁にした覚えなんか無い。
いつものようにそう言おうとした。口を開いた。なのに。
声が出なかった。
五
「私、帰る所なんて無いですから」
俺は気がついたら、小娘の小麦色の瞳を真っ向から睨みつけていた。
「ほぉ。そうか。つーことは、不要品を押し付けてきたって事だよな。そんなのは」
嗚呼、言うべきじゃねーって、思うのに、
「俺だっていらねぇ!」
小娘の目に涙が溜まっていく。当たり前だ。けど、言っちまったもんは元には戻らない。
身を翻して丘を駆け降りていくその背を、俺は追えなかった。
「なんっっって事を言ってるんだい?」
「痛っ!」
スパン!と良い音が後頭部への衝撃と共に舞い降りた。
「ビオルさん」
「樹宝さんや、どぉいうつもりぃぃ?事とぉ次第によってはぁ」
「俺は!」
人間一人、煩わしさこそ覚えても他のものなど覚えるはずも無いと思っていた。
「樹宝さん」
呼び声に開いた瞼。広がる視界に飛び込むのは蒼い天と小娘の笑い顔。
「……何だ」
特にこんな小娘には尚更。
痩せすぎで、気味が悪りぃ暗所の白花。初めて見た頃はそうとしか思えなくて、いきなり嫁になるとかこの小娘頭おかしいんじゃねーのか?って印象で。
「ビオルさんに教えてもらって作ったんです!パウンドケーキ」
「待て。ココアパウダーは使ったか」
「いいえ!」
「そんで何でこんな色になるんだよっ!焦げてんだろ!」
「外側剥げば食べられるからってビオルさんが!」
「殺す気か!っいい加減一つくらい成功したもん持って来いよ!」
作る食いもんは、焦げる、使う調味料を間違える、生焼け、その他と明らかに失敗作ばっかだ。
こんな奴だってのに、何で……。
「水!小娘お前、俺を殺そうと企んでるわけじゃねーだろうなっ?」
苦い、不味い、噎むせる。何で俺は毎回こんなもん食ってる?
水で流し込みながら俺は毎回そう自分に問い掛けていた。その答えはずっと変わらねぇのに、何でか俺自身が他の答えを探してるような奇妙な感覚。俺の為に作られたんだから俺が食わなきゃ意味がなくなっちまう。それだけの理由のはずなのに、何で他に理由を探してるんだか。
「ごめんなさい……。でも、いつも食べてくれてありがとうございます!」
「……ふん」
何で、俺は。
「俺に食わせる為だから仕方なくだ」
「はい。でも、嬉しいです」
何で、こんな小娘が嬉しそうにしてると、満足しそうになるんだよ!
「樹宝さん?」
「何だよ」
思わず頭を抱えそうになった俺に、小娘が声を掛けてくる。
「あの、実は今日はもう一つあって」
「……本気で俺を殺す気じゃないのかお前」
勘弁してくれ。一つでのたうつ程不味いんだぞ!
じろりと小娘を睨むと、一瞬怯んでからそれでも小娘が作ったらしいものを差し出してきた。
「食べて、下さい」
ふわんと届いた香りは、焦げた独特のあれではなく。
バターの香りと砂糖、そして小麦粉にミルク。甘くどこか優しいもので。
きつね色のまあるい形。月の様なそれは初めて見た時は真っ黒な消し炭だった。
「クッキー、もう一度作ってみたんです」
禍々しい黒檀ではなく、綺麗な月の色が誘いかける。
「食べて、くれますか?」
「……これも俺にか」
「はい」
まるで祈るような仕草で小娘がこちらを見つめているんだが、これは取れる選択肢なんか最初はなから一つしかないだろう。
「食えばいんだろう。食えば!」
砂糖と塩、バニラビーンズと胡椒が間違っていない事を真剣に祈りつつ、俺はそれを一枚手にとって口に運んだ。
「…………」
「…………」
「…………」
「え。あ、の。え。嘘。間違えてないですよね?お塩とお砂糖!」
慌てる小娘の声がどこか遠い。
口の中に広がる味は、甘いから塩じゃねぇと思う。
ただ、甘い。甘い。どうしてこんなに強い甘みになるのか。
「小娘、どれだけ入れた」
「教えてもらった通り、普通の分量だけですよ?あの、大丈夫ですか?」
普通?これが普通と言いやがるのかこの小娘。
口の中に広がった甘さが、どんどん膨れ上がって広がっていく。もしかしてこれも毒なんじゃねーのか?
―――― 好き。好き。大好き。
甘い、甘い。物凄く甘い。
甘味料の甘みはもうわからねぇ。ただ広がっていくのは感情だ。
「樹宝さん?」
「っ!」
何だって言うんだ。どうしてこんな突然におかしくなりやがる?
どうかしてる。小娘の声が、届く度に俺たち精霊にはありもしねー鼓動が在って、それが大きく響く気がしてるし、何か知らんが顔が熱くなりそうだ。
おかしい。毒されてる。この小娘に。
「樹宝さん、大丈夫ですか?」
近寄るな。覗きこむな!
泣くな!
「甘すぎる、だけだ」
嗚呼、苛々する。泣くなこんな事で!俺は、
「お前の泣き顔が見たいわけじゃねーんだ。これくらいで泣くな!」
どうして俺が毎回、あんな底抜けに不味いもんを食ってたと思ってんだよ。
それもこれも全部、この小娘の所為だ。
「ご、ごめんなさ」
「謝んな!謝るくらいなら礼を言え。いつもみたいに、馬鹿みたいに笑ってろ!」
最悪だ。嘘だろ。在り得ねぇ……。
俺はどうやら、この小娘が好きらしい。
「それでどうしてああなるのぉ!」
ビオルさんは俺の頭を思いっきり叩いたハリセンとかいう物を両手でギリギリ引き絞らんばかりで叫ぶ。
「あの小娘が、いつまでも自分を、いらねぇって言ってるのが気に食わなかったんだ……」
悪夢みたいな現実に向き合ってしまってから、今日まで。
何で認められねぇのかって考えてた。ずっと、俺の中でどっかが言ってる。“今のまま受け入れるな”って。俺にもその意味がわからなかったけど、それがわかったのがさっきで。
「おい、小娘」
「何ですか?樹宝さん」
出会った時と同じ大樹の下で座り込み、小娘は本を読んでいた。ビオルさんに師事してもらって小娘は薬学について学び始めたらしい。前から比べりゃ、随分顔色も良くなった。相変わらず細くて貧相なくらいの弱さだが、今は少し、日向の匂いがする。
「お前、どうしてここに来た」
俺が聞いた言葉が意外だったのか、小娘は小麦色の瞳を大きく見開いた。
それからどうしてか、俺には苦笑にしかみえないもんを浮かべて言う。
「ごめんなさい」
「何で謝る。俺が聞いているのは何でここに来たかだ。謝罪なんか要求しちゃいない」
「だって、樹宝さんに迷惑ばかりかけてますし」
「だから、そうじゃなくてだな」
何でそうなる。
この小娘、笑うのと同じくらい謝りやがるのはどうにかならないのか。
人間てのは何でこんなに面倒くさいんだ。押しかけてきた時点で迷惑なんてのは掛かってる。一つも二つも変わらねぇ。今更そんな事を気にしてどうするってんだ?
「お前、生贄で寄越されたんだろう。どうしてだ」
峰に囲まれたこの土地。この丘。馬鹿な輩が一人もいないなんておめでたい考えは俺にはない。
いっそ誰も入れないように閉じてしまえと思ったことがあるくらいだが、ビオルさんにそれは止められた。代わりに一つ、結界を張る事にして。
「自分で選ばなけりゃ、ここには“入れない”のに、お前はどうしてここに“入った”んだ」
ここに足を踏み入れることが出来るのは、確固たる意志をもって目指すものだけ。そう定めた。
「お前は何を思ってここに足を踏み入れた」
「…………」
「お前のいた村、これまで同じように“精霊王の花嫁”を毎年出しているな」
「はい」
「だが、いつもは形だけだ。村で一番いい女を決めて祝うだけの事だった筈なのに、お前は生贄として来た。ここは、自らの意志で足を踏み入れない限り辿り着けない。そういうもんだ」
あの時の小娘の状態じゃ、到底峰は越えられるはずがない。どころか峰まで森を抜けることすら出来ない筈だ。あの結界に受け入れられなければ。
「自らの意志でここを目指す者。その意志が強ければ強いほど、“路”は拓かれる」
強く。狂おしい程にここへ来る事を望んだりしなければ、この小娘は俺の前に現れる事はなかった。
「どうしてお前は、そこまでしてここに来る事を望んだ。望まざる負えなくなった」
小娘の肩が、身体が、細かく震えてる。それを見たら、何かすげー気分が悪くなった。こんな話しなんて無かった事にしてぇと、思った。けど、逃げられねぇ。
俺が、この小娘を、非常に不本意かつわけがわかんねぇけど、好きな以上これを避けて通るわけにはいかねぇんだ。
「私、両親が亡くなって。それで……」
「…………」
「ろくに家事も出来なくて、何も、出来なくて……叔父さん達が、引き取ってくれたんですけど、何も出来ないから」
小娘が唇を噛み締める。白い顔が今はもっと白く見えた。
「……ごめんなさい」
「違う。俺が聞きたいのは、謝罪じゃねぇ」
何で謝る。わけわかんねぇよ!
「どうして、ここに来た」
「…………」
ビオルさんは深い溜息をついて頭を抱え込んだ。
「俺は」
「もういいよぉ……あー、もう、どこで育て方間違えちゃったのかなぁん」
ハリセンをローブの下に仕舞いながら、ビオルさんは溜息と同じくらい沈んだ声でそう言った。
「……リトさん、森を抜けたよぉ?」
行きも帰りも、理は同じ。強く望む場所へ。
「あの子のぉ、村まで、今のあの子なら帰りついちゃうよぉ?」
「それが、当たり前でしょう」
「はぁぁ……。ねぇ、樹宝さんやぁ」
「はい」
「馬鹿だねぇ……」
本当に呆れた声だった。ビオルさんはもう何も言わずに俺に背を向けて歩き出す。
その姿が消えてから、俺はそこに座り込む。
「……二度と来んなよ」
あの小娘がもう二度と来ねぇといいと思う。
「人間は、人間の中にいりゃいいんだ」
弱いくせに、ふてぶてしくて、天気より気まぐれで、手に負えねぇ。
人間なんてろくなもんじゃねぇ。何が何も出来ないだ。何が帰る所が無いだ。
「何も出来ねぇ奴が何でどんだけ失敗しても、あんな毒物持ってくるって?」
不味いから不味いとしか言えなかった。何度不味いって言ったと思ってるんだ。その度にへこんでた癖に、呆れるくらいふてぶてしく、また性懲りも無く“俺に”って持ってきやがって。
不味い不味い。苦い。焦げてる。火が通ってねぇ。粉のまま。
でも、
「あんな心もん飲み込んじまったら、次から持ってくるもんがどんだけ不味くてもまた食わないわけにいかねぇだろ」
―――― 樹宝さんに食べてもらいたい。今度こそ、ちゃんと美味しいのを。
不味いのに、吐き出せなかった。そこに籠められたもんを感じ取っちまったら、出来るわけねーだろ!どんだけ性懲りも無く不味くても。それを作っている時に籠められたもんを感じちまったら。
強い、強い感情。想い。あんな強力な毒物、他にないだろう。
「そんだけ粘れるやつが、こんな所に来るんじゃねぇよ!」
何度失敗しても、諦めなかった。ビオルさんに習って今では軽く薬師見習い並みの知識もある。それだって、夜まで教えられた事を繰り返して、暇があれば自分で調べてたのを知ってるんだ。
上手く出来なくても、だからって諦めなかった。馬鹿じゃねぇのか。あの日からこれまで、あいつは“出来ない”なんて泣き言、一つだって漏らさなかったってのに。そんなやつが、何で“何も出来ない”って事になるんだよ!
「そんだけやれるやつが、居場所がねぇわけあるか」
帰る場所なんて、今のあいつならいくらでも作れる。あいつの帰る場所は、ここじゃねぇ。
ちゃんと、人間の中にいりゃいいんだ。
同じ時間と、気持ちを持てる人間同士で。それが、一番いいに決まってる。
「樹宝さんやぁ」
蒼い空と大樹の木陰。春ももう終わり、夏の足音が聞こえそうだ。
「ビオルさん」
ぼーっとして空を見上げてた俺に、ビオルさんが声を掛けてきた。
「まぁた敬語ぉ……。まぁ、それは後にしておこうかなぁん」
「……?」
「リトさんがぁ」
「っ」
あれから一切、ビオルさんはその名を出さなかった。俺もだ。なのに、またその名を今、聞いた。
「結婚するんだってぇ」
「……そう、か」
ビオルさんの声が何でか遠い。晴れてんのに、夜が降ってくる。
「うんぅ。で、どうするぅ?」
「どうするって」
「いいのぉ?リトさんの事、好きなんでしょう。樹宝さんや」
「俺があんなっ」
「あんな?」
「小娘……」
溜息が聞こえる。俺はビオルさんの方を見られなかった。
「ああもうぅ!行くよぉ」
「ビオルさんっ?」
何をと言う前に、風が動いたのを感じて、俺たちは風に支えられ舞い上げられる。
「言っておくけどねぇ、私は……」
風が物凄い勢いで流れていく。地表は遥か下。峰よりも高く蒼に手が届きそうなくらい高く舞い上がって俺たちはどこかへ飛んでいる。
「そぉんな根性なしにぃ育てた覚えはないのぉ」
「根性なしって……」
「好きなひとにぃ、好きって言えないのは十分根性なしだと思うよん?」
「……」
眼下に見えたのは、花嫁衣裳を身に纏った姿。
野外で客が集まって新郎新婦を祝福しようと集まってるそこに、俺たちは舞い降りた。
「樹宝さん……?」
小麦色の瞳が俺を見る。信じられないものでも見るように。
「……おい、小娘」
「はい」
「お前は花嫁か」
「はい」
白金の陽色の髪にはベールと花飾り。そんな花嫁に俺は言った。
「お前は、誰の花嫁だ」
六
「お前は花嫁か」
これは夢?私の目の前に、あの人がいる。
「はい」
萌黄色の長い髪は、私が結ったままの三つ編みで、西域風の幾重にも重ねた長衣。
人よりも尖った耳と、橙と唐紅花の双眸。その瞳が私を見ている。問い掛ける声は、出会った時と変わらない何処までも澄んだ空色のよう。
「お前は、誰の花嫁だ」
私は――――。
幼少から身体が弱かった。
他の同じ年頃の子と遊びたくても、少し走れば息が切れて、途端に噎せて蹲る。
歌を歌おうとしても、息が続かず、また咳き込んで。
少し暑くなったり寒くなったりすると、決まって熱を出して寝込む。
いつしか、私の世界は家の中だけになった。
「御領主様が亡くなられるとは……」
「お気の毒に。良い方たちだったのに、事故でお二人ともだろう?」
「ああ。酷いなぁ」
「酷い酷い。そういや、あのご夫婦のお嬢様はどうすんだべ」
「ああ。お身体がちぃっとばかし弱い……」
弔問に訪れた村人の声が聴こえる。お父様とお母様の死を悼む声と一緒に、私の話題。
私は、どうすればいいのかな……。
「叔父様たちが引き継ぐと聞いたけれど」
お父様の爵位も土地もこの館も。その弟である叔父夫婦が引き継ぐと話された。
それは当然の権利だと思う。もし私にそれらが譲られても、到底お父様たちのように領内を治める事は出来ない。
小さく素朴な田舎の村と田畑。領主と言っても、人手が足りない時にはお父様もお母様も村人に混ざって一緒に働いた。二人とも村人に慕われ、それはこの途絶えぬ弔問からもしっかりと感じられる。
私の十七の誕生日を数日後に控えたある日。
そんな二人が少し離れた街へと出かけて帰る途中、馬車の事故で亡くなった。前日に降った雨でぬかるんだ畦道を通った時、車輪が滑り馬車が横転。馬は恐慌状態に陥り、御者は振り落とされた。打ち所が悪かったとしか、言いようがない。
弔いの鐘の音が鳴る。お父様とお母様を埋葬しに行かなきゃ。
私は半分機械的に立ち上がって歩き出す。
雨は上がって、お日様が照らしてくれているはずなのに、何故か視界は灰色で染まっている。耳の奥でざあざあと雨の音がして、鳴り止まない。
埋葬を終えて家に戻ると、叔父様たちが話し合いの最中だった。
一言挨拶をと思って、叔父様たちの声が聴こえる広間の扉へと近寄り、ドアノブに手を掛けて。
「あの子をどうするの」
それが誰を指しているのか。自分でもおかしいくらいすぐに思いついた。
私……。
「どうって……。仕方ないだろ。兄さんの子だ。私の姪でもある」
「でも、あの子を引き取ったらずっと私達が養わなきゃいけないのよ?うちだってアレックスやユリィがいるのに……。あの身体じゃ、他所にお嫁にもやれないし」
「だが」
「健康でお嫁の行き先がある子ならともかく、あんなに病がちではどこも引き取ってくれないわよ」
ああ。叔父様たちは私の事をもてあましている。そう理解して、私は結局、その扉を開けられなかった。
気がついたら、部屋に戻って寝台に潜って毛布に包まっていて。眠れたのか眠れなかったのかもわからない。いつの間にか夜が明けて朝がきて、鶏の声が朝もやの中に響いている。
「お父様……お母様……なんで」
何で、私じゃなかったんだろう。何でお父様とお母様だったの?
私なら、誰も。いなくなっても私なら誰も気にしなかったのに……。
「叔父様。少し、お話してよろしいですか?」
「ああ。どうかしたかい?」
お父様と兄弟だから叔父様は少しお父様に似ている。けれど、お父様よりも恰幅が良くていつもどこか困ったような顔をしていた。今はその顔がもっと困っている。
「お願いが、あるんです」
「ふむ?」
「私を、“精霊王の花嫁”にして下さいませんか」
それは、村で一番美しい娘が与えられる称号。いつもなら、春祭りに集まった娘の中から皆で投票して決める、この土地で育った女の子なら誰もが一度は憧れるもの。
「そんなものになってどうする?」
叔父様は眉根を寄せて訳がわからないって顔をした。だから私は笑顔で言う。
「私、本当に精霊王のお嫁に行きます」
緑深い森を裾に広がる狭間峰。それを越えた世界の中心には、精霊の王が治める国がある。そこは光りに溢れた美しい場所。優しく美しい精霊の王は、辿り着き訪れた者を歓迎する。
そんな子供の為に紡がれる御伽噺フェアリーテイルを、本気で信じていたわけじゃないけれど、子供の頃、いつか精霊王の花嫁に選ばれ、そこに行くんだって夢見てたのを思い出して。
白い足首までの長衣にフォーゲットミーノットで染めた薄水色のローブ。それを身に纏って森の中へ踏み込んで、進む。
春祭りから抜け出して戻ってこないと、明日くらいに叔父様は村人に話すだろう。そしてその頃には……。
「……っ」
苦しい。悔しい。よくわからないけれど、胸が詰まる。
歩いていた筈の歩調はいつしか駆け出していて、何度も転びそうになるけれど、それよりも呼吸が満足にできない事が息苦しさを加速させた。
このまま走り続けたら、息の根が止まるかもしれない。
「う……ぁ……っ」
走って走って、足がもつれて転びそうになっても。
「……ぁあ!」
緑の闇へ進みながら、視界は滲み。喉からはみっともないくらいの嗚咽が零れた。
精霊王へ嫁ぐと言った時、叔父様はその意味を考えて一瞬ほっとしたような顔をした。それでもそれを慌てて消して、そんな必要はないと言っていたけれど、その一瞬を見てしまったの。
「いき、たい」
けほっと何度も何度も咳き込んで、あまりの苦しさに立ち止まって胸を叩いてを繰り返す。
「生きたい……」
何で死んだのが私じゃないのと、考えておきながら、私は浅ましい。生きたい。何の役にも立たないのに、生きていたい。
こんな身体の私が峰を越えてその先へなんて、行ける筈が無い事を叔父様だってわかっていた。本当に引き止めるつもりなら、精霊王の花嫁の名を祭りで与えることもしなかった。
でも、私は精霊王の花嫁に選ばれた。今年だけが指名で決まった事に、叔父様は両親をなくした私を慰める為にと村の人に説明したけれど、その意味ははっきりしていて。
誰も探しになんて来ない。私の姿が消えたことにもきっと気付かない。
「それでも……っ」
役立たず。浅ましい。わかってる。それでも、生きたい。
死にたくない。
「変わりたい」
何も出来なくて、役に立たなくて、こんな自分が嫌で。
「この、ままじゃ、私っ」
大好きなお父様とお母様に、合わせる顔がない。こんな自分を、ずっと慈しんで守ってくれた。大事に大事に護って貰って、私はそのうちの何一つ返せなかった。二人の亡骸を見た時に、それを思い知ったから、泣くことすら甘えに思えて。
「辿り、つかなくちゃ」
何が出来ると聞かれたら、何も出来ない。けど、このままで終わりたくない。
だから、前に進むの。
一歩でも前へ。森を抜けて、峰を越えて。たとえ目指したものが現実にはそこになくても。
辿り着けずに倒れるとしても。
「私は、精霊王の花嫁だもの」
闇の中に光が見えた。緑の闇を抜けられるのだと知って私はそこに向かって息をするだけで痛む胸を押さえて進む。
森を抜けられたという途方も無い奇跡。その事に喜びつつも、あれはもしかしたら峰へ出るのではなく村に戻ってきただけなのではという思いが過ぎる。
思わず足が竦みそうになって、立ち止まりかけてしまう。
「だめ。行かなきゃ……」
ここで止まったら、もう歩けなくなりそうで怖くて。抜けるのも止まるのも怖かったけど、自分を叱咤してのろのろと森の出口へ足を伸ばす。
光りに呑み込まれて、眩しくて思わず目を閉じる。
「あ……」
風が頬を撫でて、ゆっくりと光りに慣らすように目を開けたそこに広がっていたのは、村の風景じゃなかったけど、峰の麓でもなくて。
鳥の声が蒼い空に歌うように響く。風が走る度に足元の青々とした草の海原が波打ち光りを弾いて、なだらかな丘の上に緑の両手を広げた大きな樹がそびえている。
小さな泉から流れた小川の傍にウサギや蛙が遊び、魚が跳ねて水しぶきを上げていた。
恐る恐る踏み出しても、その光景は消えない。
「ほんとうに……?私……」
生きて、森を抜けられた?
この光景はあっちの世界じゃない?
確かめるように地面を踏んでも、土と草の感触も匂いも本物で、息が切れてまだ呼吸も脈も正常にならずに苦しいから、ちゃんと身体もあるんだと思ったけれど、信じられなかった。
振り返れば森は相変わらずそこにあったけれど、違和感を感じて。
「え……」
その違和感を確かめて、私は今度こそ固まってしまう。森の向こう、そして周囲。ぐるっと見回せば、ハザマ峰が“森の外側”に連なっていたから。
「うそ……。ここ、峰の……じゃあ……」
ここが、精霊王の治める国?
ここに、
「精霊王がいる、の?」
辺りを見回して、私は気付く。
大樹の下に誰かが居る。
考えるより先に足がそちらに向かって歩み出す。
男の人が、木漏れ日に抱かれるように仰向けで寝転がっていた。
萌黄色の艶やかな髪が広がっていて、人間よりも長い耳、整った顔立ち。西域で見かける幾重にも衣を重ねた装いのその人は、私が近づくと静かに目を開けた。
橙と唐紅花の色の違う双眸に息を飲む。
ああ、この人が……。
「初めまして。精霊王様。私」
この人が、私の精霊王――――。
「お嫁に参りました。末長く宜しくお願い致します」
七
想像していた人とは全然違った。
想像していたような光景も無かった。
でも、私は樹宝という名のこの精霊に、恋をした。
「ビオルさん、こいつどうなんです?」
真っ暗な中に、会話だけが聞こえてくる。
「うーん。命に別状はぁないみたいだけどぉ……。やっぱりぃ、木の上なんかに寝かせて無理させたのが良くなかったかねぇ」
目を開けようと思ったけれど、瞼が重くて叶わない。全身を包む倦怠感は酷く馴染んだ感覚。
また私は体調を崩してしまったらしい。
樹宝さん、怒ってるよね……。
「んだよ……。ったく、驚かせやがって……」
「うふ。良かったねぇ。大したこと無くてぇん。まぁ、樹宝さんが心配するのも無理ないくらいぃ、つれて帰ったリトさんの顔色悪かったしぃ、あの咳じゃあ納得するけどねぇ」
「俺は別にこんな小娘の心配なんかっ!」
「あはは。まぁ、照れ隠しは置いておくとしてぇ」
「ビオルさん!」
「今晩の寝床は別のところに用意しないと駄目だろうねん。ちょっと探してくるよぉ」
風がふわりと動いて静かになる。あの布に包まった人は偉い風の精霊らしくて、いつも音も無く現れてはいつの間にか消えているから、多分今はここから離れたんだと思う。
「……はぁ」
樹宝さんの溜息が聞こえる。峰のすぐ近くに立った市場に買い物に行ったけれど、途中で私はいつものように咳き込んでしまった。
元々、樹宝さん乗り気じゃなかったのに、私がそんな状態になったから気分を害しても当たり前よね。
でも……。
『何だその顔は』
顔をしかめて、訝しげに。それでも、戻ってくれた。
戻ってきてくれるなんて、思ってなかったの。置いていかれたんだと、思った。
こんな身体の厄介者で、迷惑でしかないものなんて。
だけど、戻ってきてくれた。
それが……何よりも……。
「驚かせやがって……」
樹宝さんがそう呟いた。そして額に触れる感触があった。
暖かくも冷たくも無い不思議な温度の手の主は、樹宝さん以外ありえない。
触れた手はまたすぐに離れたけれど、顔にかかっていた髪をそっと払ってくれた。
ねぇ、樹宝さん。私もそんなあなたに、驚いているのよ?
ぱちぱちと爆ぜる火の粉の歌。雨唄の冷たさを少しだけ遠ざけてくれているけれど、私は凍るような寒さと噎せこむような熱さに苛まれてる。
意識は浮かんでは消えて、また浮上してを繰り返す。瞼は重く、指先も動かそうとしても私のお願いを聞いてはくれない。寒いという感覚と、身体の中が燃えるような熱さ。熱いのに寒くて、寒いのに燃えるように熱い。悪寒に背筋が震えて腰から痺れるような感覚。横たわっているのに、身体が痛む。掠れた呼吸が自分のものなのに、耳障り。
助けて。お母様……お父様…………ああ、駄目。もう、二人ともいないのに。
どうして。どうしてどうしてどうして?
私は、どうしてまだ……。
「うげ。何だこれは」
誰?
「おいおい。んとに、人間はめんどくせーな!」
冷たい。額に何かが乗せられた。冷たい、何か。
この声は誰だったかしら……?
「何だって俺がこんな小娘の世話しなきゃなんねーんだ」
そう言うのに、声の主はまだ傍に居る気配。額に乗せられた何かから一筋冷たいものが滑り落ちる。
多分、水。額に乗せられたのは水を含んだ手ぬぐいみたい。
冷たくて気持ち良いけど、その余分な水が流れる感覚はちょっと不快。
「ちょっとぉ、樹宝さんや、そのまま乗っける子がどこにいるのぉ」
「ビオルさん」
「ちゃんとぉ、絞ってから乗せてあげなきゃ駄目だよぉ」
新しい声の相手がそう言ってすぐ、額に乗せられたものが取り上げられた。水がしたたる音がして、また額にそれが乗せられる。
この人たちは、誰?お父様やお母様じゃない。村の人でも、ない。ああ、そうだ。
ここは、村じゃなくて。
「ビオルさん、こいつすげー熱い」
「そりゃ熱出して寝込んでるんだからぁ、当たり前だよぉ」
「けど、すげー震えてる」
「悪寒がするんじゃないかねぇ。冷たいのとぉ、熱いのがきっと一緒になってるんだと思うよぉん」
するりと布擦れのおとがした。額に乗せられた手拭いとは逆に乾いた感触が水が伝ったこめかみや首筋を拭う。
「そうそう。あんまり汗が酷いようだったらぁ、そうやって拭ってあげてねぇ」
「……ビオルさん」
「何だいぃ?」
「何で俺が」
樹宝さんが拭ってくれたんだ……?てっきり、あの布の人だと思ってた。
ぼんやりとした考えがぐるぐるする。それでも、ここが村じゃなくて狭間峰を越えた場所で、此処に居る二人が、樹宝さんとビオルさんていう布の人だって事は思い出せて。
「だってぇ、リトさんは樹宝さんのぉお嫁さんだしぃ」
「だから……俺は一度もそれを肯定してないんですが!」
「樹宝さん、声が大きいよぉ。リトさんの頭に響いて痛くなったらどうするのぉ」
「っ」
あ。樹宝さんが息を飲む気配がした。それから少し、声を抑えて樹宝さんがビオルさんに何か抗議してるけど、ずっと静か。
「じゃあ、私は帰るからぁ。リトさんが目を覚ましたらぁ、このお薬とぉご飯あげてねぇん」
布の人がいなくなってから、どれくらい経ったのかわからない。
いつの間にか私は眠っていて、そしてまた意識が浮上してを繰り返す。今はいつで、ここが何処か夢と現を行き来するように混ざってわからなくなる。
ふと、熱さも寒さも不意に治まった凪のような一時がやってきて、自然に私は瞼を開く。
火の灯りが届かない闇漂う洞窟の天井を背に、萌黄色の明るい草色が目に映って、色違いの瞳が私を見下ろしていた。
「気がついたかよ。小娘」
「樹、宝さ、ん」
「薬だ。飲め。そんでまた寝てろ」
頷いて起き上がろうとしたけど、身体を起こすほどの力は入らない。両腕に力を込めても、棒切れよりも私の腕は役に立たなかった。
「ごめ、な」
「ったく」
私が言葉を言い終わる前に、樹宝さんが舌打ちする。けど。
「これでいいのか」
「…………」
そっと肩の下に差し入れられた手、腕が私の上体を起こして支えてくれた。もう一方の手で、お薬の入っているらしい木製のコップを口許に持ってきてくれる。
「おい?何なんだ……。どうした。痛むのか」
どうして。私の事、好きじゃないって言うのに。どうして……。
「おいおい。マジで何なんだ。泣くな!」
熱い。私の目から熱い液体が零れたのを感じる。私、泣いてる?
「…………何なんだよ小娘」
舌打ちするのに、そっと抱き起こしてくれて、面倒だって言うのに、何度も手拭いを替えて汗を拭ってくれた。どうして?
どうしてあなたは……。
「ああもう、何が不満だ小娘。泣いてりゃ誰かが何とかしてくれると思ってんのか。言わなきゃわかんねーんだよ俺はっ」
だから言いたいことあんなら言えよ!って樹宝さんは言う。弱りきったような声音で、眉をしかめて。けど、しっかり抱いていてくれる。
ずっと、傍に居てくれる。
「樹、宝さん」
「何だ」
「ありが、と、う」
夢のような楽園じゃない。病も憂いも無くならない。私はいつものように自分の脆さに苛まれてる。
楽園で優しく明るい笑顔で歓迎なんてしてもらえなかった。帰れ、って言われた。
でも、
私、
「樹宝さん……」
「何だよ。いい加減、薬飲め」
「はい」
この人に、恋をしました。
八
私はどうやったら、この人に相応しくなれるのかしら……?
「ごめんねぇ。もうちょっとでぇ、他の部分も終わると思うからぁ」
作りかけの家。その台所で食事の仕度をしているのは、全身を布で包んだ人。
自称樹宝さんの配下。樹宝さんいわく、風の精霊さんでお兄さんみたいな人。
今腰掛けている丸い背もたれのないイスもこの人が作ってくれた。
「あの、ビオルさん」
「なんだぁい?」
「私に、出来ること……」
手を止めて、ビオルさんがこちらを見る。と言ってもこちらから見ると口許しか見えないんだけど。
「うん?」
言葉を止めた私に先を促すみたいに小首を傾げている。
出来ることありませんか?そう言い掛けて言葉を切ったのは、違うかなって思ったから。
だから、言い直そう。
「私に、お料理とかお家の事、教えていただけませんか?」
「あらまぁ……。くふ。勿論だよぉ。でも、自分から言うのは偉いと思うよぉん」
ぽふぽふと軽く頭を撫でられた。ような……。
でも、相変わらずビオルさんは目の前でテーブルに向かってパンを捏ねている。
「ふふ。風の精霊こにぃ、代わりに撫でてもらったのぉ。どうやら、視えなくても感じる事はできるんだねぇ」
どっこいしょ。練り終えたパンを型に入れて窯かまの蓋ふたを開けて温度を見てからビオルさんはそう言った。
「私は別としてぇ、大体の場合はぁ精霊たちが姿を故意に見せない限りぃリトさん達には精霊の姿が見えないんだよぉ」
「そうなんですか?」
「うんぅ。樹宝さんもまぁ、別格だけどねぇ。それ以外の普通の精霊ではっきり姿を見られるのは高位の子。この位にいる子たちはぁ、好きに姿を見せたり隠したりできるよぉ」
そう言いながらビオルさんは私の目の前のテーブルにボウルや色々な調理器具を並べていく。
「中位にいる子はぁ、見せる、のが精一杯かなぁ。故意に隠すのは出来ないねぇ」
「?」
「人間にもねぇ、精霊や妖と相性の良い子っていうのがぁ、稀に居るんだよぉ。昔はもっと多かったんだけどぉ、今は稀になっちゃった。まぁ、そういう子はねぇ、精霊が姿を見せようとしなくてもぉ、“視える”んだよぉ。で、高位の子はその子の目からも自分を隠せるんだけどぉ、他の子は無理なのぉん。リトさんみたいなぁ、普通の子に自分を視認させるので精一杯ぃ」
「難しい、ですね」
「うふふ。そのうちわかるよぉ。それで、さらに下位の子になっちゃうとぉ、いくら頑張ってもねぇ、自力でリトさんたちに自分を視認させる事もできないのん」
「…………」
「そういう子たちにとってはぁ、視える子はとぉっても大切ぅ。誰だってねぇ、自分の存在を認めてくれる相手は大事なんだよぉ」
どきっとしたのは、多分その下位精霊さんのお話が、自分と似ているって思ってしまったから。
私も……認めて欲しかった。けど、その為に私は何をしただろう?
お父様やお母様がいた時は、その優しさに包まれて。ただ、包まれているだけだった。
身体がいうことをきかないからって、出来ないと思ったことは諦めて。
でも、もしかしたら違ったのかもしれない。だって、私はここにいる。
絶対に辿り着けないと思ったこの場所に、生きてる。
「だからねん。視えなくてもぉ、存在を感じ取ってくれるだけでもぉその子達にはとっても嬉しい事なのぉん」
「え?」
ふわっと、くすぐったいような風が耳や首筋を撫でる。
「きゃ。ふふっ」
「ごめんねぇ。時々いたずらが過ぎるからぁん」
ビオルさんがひらひらと何かを嗜めるように手を振ると風が通り過ぎていく。空耳かもしれないけれど、小さな子供が笑うような楽しそうな声が聴こえた気がした。
「さてぇ。リトさんや。お菓子って作った事あるぅ?」
黄色いハンカチに包んであった初めて焼いたクッキーは瞬く間に空を舞った。
青々とした草の絨毯の上に、散らばる黒い欠片。うう。落とさなくても口にして貰えるか怪しかったのに、これじゃもう絶対食べてもらえない。
『大丈夫だよぉ。死にはしないからぁ。食べさせても平気平気ー。あははん』
だから折角焼いた初めてのお菓子。持って行ってごらん。
いとも容易くけれどどこか優しい声音でビオルさんに送り出され、だめもとで樹宝さんの所へ持って来たクッキー。持って来るまでもすごく緊張して、落とさないようにって、思ってたのに……。
転んだ私を起こしてくれた樹宝さんが物凄く呆れたような顔で見ている。その顔が、クッキーの話になって今度は信じられないものを見る目になった。
うん。そうだよね。そうなるよね。わかっていたけど……。
「……~~っ!どけ!」
「え。樹宝さ」
目の前に散らばっていた黒い塊に手が伸びる。掴んだそれを、握りつぶすでもなく投げるでもなく、樹宝さんは口に運んだ。
え。やだ。それ落ち……。何、今の異音!クッキーにあるまじき音した!
樹宝さんの顔色が見る間に変わる。血の気が引いて口許を押さえて。
……み、水!お水!ど、どこにっ?
樹宝さん死んじゃうっ!
どうしようどうしよう!どうしようっ。
パニックになって辺りを見回して、きらっと光った水面に一目散。小さな泉に辿り着いて、何も考えずに両手を器のようにして水を掬って戻る。
その水をそのまま差し出してから、ふと気付く。
あれ?コップ……ない、よね。どうしよう?
だけど、正気に返れたのもその一瞬で。
水じゃない柔らかい感触が指や手のひらに当たって……。
両手を押さえるように、けれど優しく包まれる。私の手を包んでいるのは、樹宝さんの手。
その本人は、私の手に汲んだ水を飲んで……いる。
え。待って。待って!唇!し、舌っ?
一生懸命に水を貪るように飲む樹宝さんは悪くない。けど、ちょっと待って!待って!心臓が痛い!
物凄く早い鼓動は走った時よりも苦しくなる。死んじゃうかも、って本気で思ったけれど、顔を上げた橙と唐紅花の双眸と目が合った時はその比じゃないです。息の根が止まります。
どうしよう。どうしよう?何か熱い。熱出るかも……。
不味いって言われたけど、だって、味、ちゃんと食べてくれ……う、ううっ、駄目。ここに居られない!
走り出した私は、足がもつれて程なく本日二回目の醜態を曝す事になった。
九
必要なものになろうって思ったの。
だから、森を駆け抜ける。来た時と同じように。けれど、正反対の方向へ。
「俺だっていらねぇ!」
橙と唐紅花からくれないの色違いの双眸が私の心まで見透かすような強い光りで私を射竦める。竦めてしまうのは、私が自分で思っているから。知っているから。
この人の優しさに甘えている自分を、知っている。この人にそれを見透かされてしまったら、恥ずかしくていられない。
でも、何より恥ずかしかったのは、そんな自分を知っているのに、このままずっと傍にいられるんじゃないかってどこかで思っていたこと。
それと何よりも。私は、樹宝さんを傷つけた。
初めて会った時から「帰れ」とか「投げ落とすぞ」とか「不味い」とか色々言われたけど、決して私を見捨てたりしなかった。こんな面倒な小娘なのに、口では何を言ってもいつも樹宝さんはいつも必ず。
寝込めば傍で看ていてくれた。不味いって言うのに、何度も食べてくれた。
じわって熱いものが目に溢れて視界を邪魔する。恥ずかしい。本当に傷ついているのは、目の前の誰よりも優しいこの精霊ひとなのに。散々甘えて私はまだ甘えようとしてる。
私を射竦めた色違いの双眸。その奥で、“私を傷つけた”って思っているのがありありとわかるこの人に、まだ甘えようって言うの?そんなの、許せない。誰が許したって、私が私を許せない。
でも、本当に情けないけど、そこに立ったまま樹宝さんを直視する強さも今の私にはなくて。
背を向けて駆け出す。一度走り出したら、止まらなくなった。
どうすれば、私はあなたの傍に居られるの?居ても、恥ずかしくないって思えるようになるにはどうしたらいい?何でここに来たのか聞かれて、胸を張って答えられない。答えられるはずない。
私は、逃げただけ。夢のように優しい場所へ、そこにいる優しい人の傍でただ大切にされて喜んでいただけだから、言えない。
一番最初に森ここに足を踏み入れた時は、悔しくて。哀しくて。死んでもいいから少しでも前に進むだけだった。
苦しい。息が詰まって、足元はもつれて。後一歩踏み出したら死ぬかもしれないって思いながら私はただひたすら妄執のように前を目指してた。でも結局、死ななかった。森なんて抜けられるはずも無かった私は、森どころか峰も越えて、あの人の元へ辿り着いて。
沢山の奇跡。でも一番の奇跡は、あの人に、樹宝さんに会えた事。
樹宝さん。樹宝さん樹宝さん。
「わたし、は」
もう知ってる。どんなに苦しくても、私の鼓動は走ったくらいじゃ止まらない。そんなくらいで止まるほど私は潔くない。
熱く滲んで歪んだ視界が白く染まる。私は、森を抜けていた。
「マーシュ、悪いんだけどさぁ」
「あら。メイサさん。お子さんあれからどうですか?」
洗濯籠を抱えて振り返ると、恰幅と笑顔の良い先輩メイドんじょメイサさんがすまなそうな顔をしつつ私に昼食の入った包みを掲げて見せた。
「良くなったよ!本当に助かった。それでね、薬がそろそろ切れそうなんだけど」
「ああ。ええっと、ちょっと待ってくださいね」
森を抜けた先にあったのは、あの生まれ育った村ではなく、その隣に位置する別の村だった。
抜けた方向がそうだったのか、それとも私があの村に行くことを無意識に拒んだのかはわからない。
金色の黄昏に染まった道を歩いて村で一番大きなお屋敷の扉を叩いて、下働きとして雇ってくださいと頼み込んでからそろそろ一月が経つ。
私の仕事は洗濯係りのランドリーメイド。最初は雑役メイドとして入ったけれど、洗濯係の手が足りなくなった時に手伝ったのがきっかけでそちらに移っている。
「お待たせ。お薬のことだけど、息子さんの様子を聞かせてくれる?あと、できれば直接様子を見たいわ」
洗濯籠を置いて昼食を受け取ってからそう言うと、メイサさんはちょっとだけ眉を下げて上目遣いに私を見る。こういう時の彼女は年上だってことを忘れるくらい可愛いと思う。
「薬がもらえれば大丈夫だと思うんだけど」
「だーめ。症状を知らずにお薬は出せません。お薬で何でも治していると、身体が怠けるようになっちゃうから、もっと病気になりやすくなっちゃうし」
「そうなのかい?」
「ええ。だから、治り掛けで問題ないならそのまま自然治癒に任せたほうがいいの。もちろん、まだそこまで回復してないならお薬を作るけど、この間の様子なら今渡してあるお薬を最後まで飲みきれば大丈夫なはずですよ」
「マーシュがそう言うならそうなのかもね。わかった。じゃあ、明日息子を連れてくるから」
「はい。でも、良かった。お薬が効いてくれて」
「本当に感謝してるよ。でも、いいのかい?本当にお礼がこんなので」
干し終えた洗濯済みのシーツが風に気持ちよくそよぐ庭の木陰で腰を下ろして、メイサさんから受け取った包みを開く。中に入っていたのは木苺ラズベリーと馬鈴薯ポテト、キノコの半月パイ。一口食べれば素朴で甘酸っぱい味がいっぱいに広がる。
「十分です。だってメイサさんの作るパイは絶品だもの」
「ありがとう。本当に助かったよ。マーシュがいなかったら息子はきっと今頃土の中だったからね。それでも、あたしにゃ医者の先生に診せるあても無かったし」
私が入って間もなく洗濯係が足りなくいなった理由の一端はメイサさんだった。村ではメイサさんの息子さんと同じ病が流行り始めていて、それぞれの事情もありお医者さんに十分診せる事が出来ていなかったから。
「まだ初期症状だったし、たまたま私のお薬でどうにかできるものだったからですよ。そうじゃなきゃ、私にもきっとどうにも出来ませんでした」
「いいや。それだけじゃないよ。マーシュがほとんどただみたいなもんで薬を処方してくれたからだ。あたしたちみたいなもんには、村の外までお医者を呼びにいけない」
呼べない理由は、時間とお金。お医者さんのいる一番近い街までは人の足で片道三日。足で往復しようとしたら、六日は最低でもかかってしまう。馬を使えば約半分の時間で済むし、農業を主にしているここで馬に困ることはないからその心配は薄いけれど、折角お医者さんが呼べても今度は診察料と薬代が払えない。時間というのは、呼びに行くことに対してじゃなく、“薬代を稼ぐ”事に対するもの。
薬はどんなものでも高価だから。
でもどんなに高価でも、使い方を誤れば意味は無いのだと、私にお薬についての師事をしてくれたビオルさんは教えてくれた。「過ぎれば毒だしぃ、足りなくても効果はでない。何事も適量適度だねん」そう言って、私自身のお薬の処方の仕方や色々なお薬の作り方を教えてもらったから、助けることができて。
「私がお薬を作れたのは作り方を教えてくれた先生がいたからです。私はまだ一人前ではありませんし、だから」
「わかってる。マーシュは息子の恩人だ。約束は守るよ。でも変な事言うもんだね。なるべく秘密だなんて。そんだけの腕があればお医者としてこんな仕事することもないだろうに」
「私は半人前で、花嫁修業中ですから」
「いらないなんて……。あんたを振るなんざ、どんな男だか。もったいないことするよ」
「ふふ。そうなりたいなって思います。もったいないって思ってもらえるくらい」
必要なものになろうって思った。今度は逃げ込むんじゃなく、ちゃんと「お嫁に来ました」って言えるように。胸を張って樹宝さんの前に立てるように。
「あれ?え!君!」
メイサさんとの昼食に響いた声にそちらを見て、裏庭の入り口から近づいてくる人が誰かわかった頃には遅かった。
「これはっ、坊ちゃま、お帰りになったんで?」
「メイサ、この人は何故こんな格好でここにいる!」
「え?」
「ミルリトン・マーシュ・マロウ。この人は、隣村の先代領主様の娘だぞ」
「失敗しちゃった……。ジョシュにも合意とはいえ申し訳ないわ」
春も終わって夏の足音と気配がすぐそこまで迫っている今日、私の結婚式が開かれている。
花婿が迎えにくるまで待っているようにと通された部屋の中、私は自分の花嫁衣裳を見下ろしてため息をつく。メイサは絶句して、その後は屋敷中は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。奥様にお会いした時はごまかせたけど、息子のジョシュにはそう上手くいかなかったのは、当然といえば当然なのかもしれない。
ジョシュは、子供の頃はすぐに消えてしまったけれど婚約の話も出たことがある相手。理由はもちろん私の病で伏せることの多い健康状態。随分会っていなかったからまさかわかるとは思ってなかったのに。
思えば、それでも大人は大人同士、子供は子供同士での交流が多いのだから、交流時間の少なかった奥様は誤魔化せても、同じ目線の相手は誤魔化せない可能性が高いと思っていなければいけなかった。
「唯一の救いは、ジョシュに好きな人がいてくれたことね」
私の正体がばれてから、メイドの仕事はできなくなった。客人として留まり、私だと確認する為に叔父様が呼ばれて神隠しにあった娘がここで見つかったのは運命だと、奥様と叔父様は意気投合。口を挟む間もなく、とっくの昔に消えたはずの婚約話がいつの間にか決まっていた。
けれど、私たちはどちらも正反対の答えを出していて。
「ごめんなさい。私、お嫁さんになれません」
「やっぱり。いや、謝る事はないよ。僕も同じだから。あ、もちろん君が嫌いとかいうわけじゃないよ?」
「はい。私も同じですから。……そのお言葉からすると、あなたも他にいらっしゃるのね」
「うん。母さんに言う前にこうなったのは……僕の責任だね。ごめん」
互いに心の向く相手が違う私たちが出した答えは、夜になったら私がこっそり逃げ出すこと。
「でも、それじゃ君の名前に傷がつく」
「私はあなたの顔に「初夜で花嫁に逃げられた」って泥を塗るのだから、おあいこです。それに、正攻法の正面説得が無理そうですから、仕方ありません」
きちんと話て解決するのが一番良いのはわかっているけれど、当人たちを差し置いて意気投合している状態の叔父様たちに何を言っても止められない。話したら抜け出すこともできなくなってしまう事すら有り得て。それだけは困る、というのが私とジョシュの共通した意見だった。
私は客人として迎えられてから書き続けていた冊子をそっと机に置いた。
「お父様やお母様のように人の役に立てるようになるのはまだ先だけど」
お父様やお母様が亡くなった時、思った「私じゃなくなんで二人が」という思いはまだ胸にある。私よりも、あの二人が生きていた方がきっと成し遂げられることも多かったと、思うことも消えない。
だから、あの二人が成し遂げたかも知れないことと同じくらい、私もできる事をしようと今は思っている。
「とりあえず、私が知っている限りは書けたし、次の場所についたら同じ失敗しないように髪とか染めておかないと」
今できることは、私の知っている事を書いたノートと処方箋を残す事だけ。
「お前は誰の花嫁だ」
私は――。
じんわり滲む熱いものに揺れる視界。言っていいのか、一瞬だけ考えたけど。
「あなたの、花嫁です。……樹宝さん」
「じゃあ、来い」
「はい!」
ぐいっと肩を抱き寄せられる。まだ、相応しいかって聞かれたらきっと足りない。けど。
「花嫁ってのは、不要品じゃないな。だから、貰ってくぞ」
「はいっ」
誰の花嫁か聞かれたら、最初から決まっている。ぎゅっとその身体に抱きつくと、あの暖かな場所の匂いがした。まだ相応しいというには足りないけれど、離れたくない。私はこの人の花嫁。
「はぁ~い。と言う事でぇ、悪いけどぉリトさんは精霊王がお嫁さんに貰っていくよぉ。うふふ、それじゃあねぇん!」
ビオルさんの声がして、樹宝さんが私を抱える。一瞬だけ渦巻くような風が起こって次の瞬間、私たちは空の上。
「おい、しがみついておけよ。落ちたら洒落にならないんだからな」
「はぁ……。樹宝さんやぁ、落とす気もないだしぃ、折角素直になったならもうちょっと言い方ってものがあるでしょぉ?」
もう、ってため息つくようなビオルさんの声と、間近で久しぶりに見る愛しい人の、不機嫌そうなのに赤く染まった顔。
色違いの橙と唐紅花の双眸が私を見る。
「お前が、……俺の花嫁だ」
ああ、何でだろう。嬉しいのに、また視界が滲んで歪む。声が震える。
「……はい」
「さっきから、はい、しか言ってねぇぞ」
「はい」
呆れた様な樹宝さんの声。
「くふ。じゃあ、帰ろうかぁ。ううん。違うねぇ、今日はリトさんが嫁ぐ日なんだから、ようこそかなぁ?」
風が動く。私たちの身体は風に包まれてあの地へ運ばれる。
伝えたい事がたくさんある。足りないところもいっぱいある。私は樹宝さんに少しだけ強く抱きついた。
伝えたいことの、一番最初は決まっているから。
のちに狭間の薬師と呼ばれる人物が現れる。
その薬師は分け隔てなく様々な人々の病や傷を癒しその術を伝えたという。
かの人は狭間の地に住み、大陸の心である精霊に愛されていたという伝承が今でも近隣の村には伝わっている。
終