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くれなゐの鬼

作者: sagitta

 それは、暗い夜であった。

 墨を流したような空には雲ひとつなく、立秋を終えてようやく涼しさを感じるようになってきた空気は、澄み渡っていた。

 にもかかわらず、地上を穏やかに照らすべき銀光の恵みはない。

 月に一度、下界が闇に閉ざされる日――それは、新月の夜のことであった。

 一寸先すら見通せない深い闇夜に、ひとつの人影があった。

 まだ若い男。その出で立ちは、闇に溶けることのない、純白の直垂姿。とても、旅の装束とは思えない。

 驚くべきことに男は、明かりさえ持っていなかった。常人なら、こんな闇夜に灯りなしでは足を踏み出すことさえできそうにない。だが男の足取りはいささかの迷いもなく、走っているのではないかと見紛うほどの速度で軽やかに街道を歩んでいた。

 闇の中にぼんやりと浮かぶ男の白面は、ぞっとするほどに妖しく、美しかった。白雪を思わせるどこか病的なまでに白い肌に、精緻な硝子細工のように整った、この世のものとは思えないような完璧な美貌。

 その完璧に整った白い顔の中で、今宵の空の色をした長くまっすぐな髪と、鮮血のように紅い唇、それに闇を溶かしたような虚ろな黒い瞳だけが異彩を放っていて、それがまた彼の美しさを一層際立たせていた。

 男は名を、紅丸くれないまるといった。村から村、集落から集落を渡り歩く旅が、彼の住処だった。一つ所に根を生やした生活は、彼とは無縁だった。

――キキキキッ!

 遠くから、耳障りな甲高い音が響いている。紅丸は、闇夜の中で眉をひそめた。

「猩々どもの、狩りの声か」

 つぶやいた声は、澄んだ土鈴の音のような中性的な声。紅丸の声に応えるものはなく、声は夜気の中に溶けていく。

 猩々は、大型の猿に似たあやかしだ。集団で行動し、時にヒトを食う。だがそれも世の理なれば、咎めるべきことには当たらぬ。猩々どもが誰を餌にしようが、紅丸には関わりのないことだ。

「――だが、奴らは性根が気に食わぬ」

 紅丸はその整った細面に苦々しげな表情を浮かべてひとりごちた。ヒトと同等か、それ以上の知恵を持ちながら、卑しく、小賢しい獣で在り続ける猩々どもが、紅丸には憎らしかった。

「だがこれは、同族嫌悪のようなものかもしれぬな」

 紅丸の幽かな自嘲の言葉は、誰にも聞かれずに闇に消える。

――キキッ! キキッ!

 猩々の声が、近くから聞こえた。

 猩々への憎しみを感じながら歩いていたせいだろうか、いつの間にか、紅丸は猩々の狩場に近づいていたらしい。

――助けて!

 紅丸の耳が、微かな言葉をとらえた。今にも消えてしまいそうな、弱々しい叫び。それは、幼い子供の声のように思われた。

「猩々どもの、標的、か」

 紅丸には、関わりのないことだった。猩々が生きるために餌を食らうのは、世の理なのだ。紅丸がするべきことは、間違っても自らが標的とならぬよう、静かにこの場を離れることだ。

 だが、紅丸は自らの腰の得物を確かめ、声のした方向に向けて、地を蹴った。猩々どもがどれほどいるかは知らぬが、声から推測すれば、一匹や二匹ではあるまい。関わりのない子供一人を助けるために冒すべき危険でないことは明らかだ。

 にもかかわらず。

「――世の理など、知ったことか」


「キ、貴様、何者ダ! 人間ノクセニ……」

 〈潰れ眼〉――群れの頭領らしき猩々が、いささかうわずった甲高い声で紅丸に詰問する。〈潰れ眼〉の周囲には、燃え上がる松明の明かりに照らされた十数の猩々ども――彼の配下たちが、変わり果てた姿で転がっていた。

 紅丸は、〈潰れ眼〉の問いには答えず、静かに歩を進める。

 その手に握られているのは、白木の拵の太刀。塗もなく、鍔すらもないその刀はまるで神事の際の儀礼刀のようで、とても実戦用のものとは思えない。けれど紅丸は恐ろしく冴えた腕でこの刀を優雅に振るい、返り血ひとつ浴びることなしに猩々どもを切り捨ててみせていた。

「ソ、ソコマデダ!」

 〈潰れ眼〉が突然あげた勝ち誇った声に、紅丸は小さく眉をひそめた。〈潰れ眼〉は、いつの間にか、草の影でうずくまっていた人影を抱えあげるようにして立ち上がり、紅丸を睨みつけていた。

「ひっ!」

 人影が、悲鳴をあげる。年の頃は十に満たない、まだ幼い少女のようだった。半ば恐慌状態で〈潰れ眼〉腕から逃れようともがくが、彼女の非力な腕で、丸太のように太い猩々の腕をどうにかできるはずもない。

「貴様、コノ娘ノ知リ合イナノダロウ?」

 〈潰れ眼〉が、たどたどしい人語でそう言って、ニヤリと笑う。どうやら紅丸は、猩々に襲われている少女を助けに来たものと思われたらしい。腕の中の少女は、胡桃の実のような大きな瞳をうるませて、すがるように紅丸を見ている。

「オ前ガ動ケバ、コイツノ命ハナイゾ」

「好きにしろ」

「――へ?」

 間髪入れずに応じた紅丸の言葉に、〈潰れ眼〉が固まる。

「俺には関係ない。好きにしろよ」

「……ひ、ひどい!」

 少女が涙混じりの抗議の声をあげるが、紅丸は気にもとめない。

「馬鹿ニシヤガッテ!」

 怒りに顔を紅潮させた〈潰れ眼〉が、短刀のような鋭い爪を持つ右手を振り上げた。怒りに任せて、腕にとらえた少女をその爪で串刺しにしようとする。

 その時。

 紅の光が、疾走した。

 猩々どもの血しぶきを染みこませ、紅に染まった刃が、目にも留まらぬ速さで閃いたのだ。

 次の瞬間、〈潰れ眼〉の喉には、銀色の刃が突き立っていた。〈潰れ眼〉に抱えられていた少女は、地面に投げ出される。

「きゃっ」

 少女が小さくあげた悲鳴は、〈潰れ眼〉の断末魔にかき消された。

「キキイッ! キ、貴様、ソノ、紅イ目ハ、マサカ……朱天童子様ノ」

 〈潰れ眼〉の顔が恐怖に歪む。今まさに死にゆくところだというのに、それは、死への恐怖ではない。目の前にいる存在への、恐怖。

 猩々の喉から無表情で刀を引き抜いた紅丸の瞳は、真紅に染まっていた。赤い瞳――あやかしのうちでも最も忌むべき、「鬼」の証。

「俺は――人間じゃない。……鬼の子だ」

 松明の橙色に照らされた紅丸の顔は、苦悩に歪んでいた。


 紅丸には親がいない。自分がどのようにして生まれたのか、彼自身には知る由もなかったが、村の者たちの噂によれば、鬼に犯されて身ごもった母は、紅丸を産んですぐに死んだのだという。

 鬼の子として山奥に捨てられた紅丸は、しかしそこで死ぬことなく、獣を捕まえて喰らい、川の水を啜ってひとりきりで生き延びた。

 だから紅丸には、肉親を失う気持ちなどわからない。目の前で涙にくれている少女に、かけるべき言葉などひとつも知らなかった。

 いや。

 紅丸は心の中で首を振る。かけるべき言葉、だなどとおこがましい。鬼の子たる自分が、一人前に、他人を慰めようだなどと、笑えない冗談だ。

 紅丸は、白い直垂を翻し、踵を返した。彼女の元から少しでも離れること。それが唯一の慰めだ。

「――?」

 数歩行きかけたところで、紅丸は立ち止まった。彼の直垂の裾を、小さな手がぎゅっと握りしめていたのだ。

「その手を離せ」

 紅丸の言葉に、少女は、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、いやいやと首を振った。

「俺に何も求めるな。俺はお前が思っているような者じゃない」

 少しだけ語気を強める。だが少女は、かたくなに裾を握りしめたままだ。

「お前も、見ていただろう! 俺は、俺は人間ですらない。血も涙もない鬼の子なのだ! その気になればお前の首などあっという間に落とせる!」

 紅丸がそうすごんでみせても、少女は歯を食いしばって目を見開き、紅丸から目をそらさなかった。

「……おとうさんと、おかあさん」

「――何?」

「村に、おとうさんと、おかあさん。たすけてあげなくちゃ」

 少女の言葉に、紅丸は目を伏せて首をふる。

「猩々どもに襲われた村のことか――すべてを略奪したあとに、何も残らないように火をかけるのが奴らのやり方だ。生きているものは、誰もいまい」

 紅丸が乗り込んだとき、猩々どもは宴の最中だった。あれは間違いなく、村をひとつ壊滅させたあとの宴だろう。少女だけが生きていたのは、奴らの気まぐれで、後で慰み者にでもするつもりで生かしておいたのかもしれない。だとすれば、襲われた村に無事でいる者がいるとは思えない。

 だが少女は、紅丸の着物の裾を握りしめた拳を、緩めることはなかった。

「おとうさんと、おかあさん、か――」

 その思いの強さが、紅丸にはわからない。わからないから不安になる。不安は、紅丸の最も嫌いなものだった。

 その不安を消し去りたくて、紅丸は少女をぎこちなく抱き上げた。


 まだ薄暗い早朝の村外れ。

 紅丸は、土を盛り上げたうえに、二つの四角い石をおいた。

 それは墓碑銘のない、墓石だ。

 少女の父と母、ふたりの無残な遺体が、土の下に埋まっている。

 紅丸が石を運んできているあいだ、少女は静かにそこにしゃがみ込み、土の下を見透かすように、じっと見つめていた。涙はない。もう、枯れ果ててしまったのかもしれない。

「おとうさんとおかあさんが、浄土へ行けますように」

 生前の両親に教わったのだろうか。両手を合わせて、そんな祈りの言葉を、何度も何度も口にする。浄土とは、生前に清らかであった者の魂が集うと信じられている、やすらぎの地のことだ。

 石を運び終えた紅丸は、少女の隣に腰かけた。何も言わずに、二つの墓石を見つめる。

 祈りの言葉は知らない。祈るべき神も仏も、紅丸にはわからなかった。

「おとうさんとおかあさん、浄土に行けるかな?」

 少女が不意に問いかけてきて、紅丸は面食らう。

 すがるようなその瞳に、紅丸は「ああ、きっと」などと口にしてしまいそうになる。だけど、紅丸は首を強く横にふる。

「俺は、浄土なんて信じない」

 その言葉に、少女が目を丸くする。

「俺を救うのは、俺自身だけだ」

 自分に言い聞かせるようにそう言って、紅丸は立ち上がった。土のついた裾を払い、腰の得物を確かめる。

 紅丸の住処は、村から村、集落から集落を渡り歩く旅。彼は、住処へと帰るだけだ。

「行くぞ」

 歩き出した紅丸が、顔は前に向けたまま、手だけを後ろにつきだした。少女は目を見開いて、あわてて立ち上がってその手をつかむ。

 太陽が、昇りはじめていた。

 まだ低い日差しが地上を照らし、ふたりの長い長い影をつくる。それはふたりのこれからの、長い旅の行く末を、表しているようだった。


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