56 人妻みたいでエロかった……
「笑うようになった……?」
「それはもう」
サンバイザーについてた鏡を見ながら、自分の顔の口角を両人差し指で持ち上げる。うーむ、笑うようになったのかボクは。
「……逆にそんなに笑ってなかったです?」
「かちこちだった」
「えー?」
そうかな……。そんな変化あるー……? ボクって普段からこんな感じじゃなかったか……?
「ミオちゃんと暮らしてからさー、生活のベースがミオちゃんになってるなーって思うんだ」
「え? あ、はい……え?」
なんか始まった。
「猫や犬の飼い主でもこんな感じになるらしくてね。その子がいる前提で生活のあり方を形成するのだと」
「はあ」
「つまり、私の生活の中心はミオちゃんになったのさ。私は雇用主でありながら、飼い主だからね。この心情の変化はあってしかるべきで──」
「へー……」
なにを言ってるんだろう。
「そんなミオちゃんの笑顔が最近増えた。嬉しいよ、私は」
「嬉しいなら良かったです」
「この感動が伝わってなさそ~」
「伝わってはないですけど、蒼央さんが嬉しいならそれで良いです」
「ぶう~。冷たいな~」
「逆に蒼央さんは最初よりグータラ度が上がってきてますよね」
「ミオちゃん中心の生活になったからね~」
物は言いようだな!
「なら、ボク中心の生活になって小説の方はどうなんです?」
「調子いいって言ったじゃーん」
「ホントですか? だって、ボク、ただいるだけですよ?」
「んもー、ミオちゃんからは刺激を受けてるよ? 作品も捗ってる!」
「ならなんで、最近暴走してるんですか? ミーティング中もよく唸ってますし」
「暴走……? 唸ってる……? はて……」
蒼央さんは前を見ながら、唇を突き出して「んー」と思い当たるのを探して。やや間があいて、ああ! と何か思いついたらしく。
「新作を書いてるんだけど、それが上手く行ってないからだ」
「新作です?」
「そー。それでミオちゃんに協力してもらったり、担当にもよく相談に乗ってもらってるんだよ」
「前まで書いてたのはどうしたんです? 終わっちゃったんですか?」
「今まで書いてたヤツ? 続き書くよ? 今回のは例外というかなんというか」
なんて説明したら良いんだろう、とハンドルを指で叩きながら。
「昔、趣味でWebで連載してた奴が編集の人に見つかって『それも連載しよう』って提案されてさー。それに向けてアイデアが煮詰まってる感じかなー。出版してもらえるのは嬉しいんだけど、今はドラマの方のチェックもあったり、コミカライズの話も出てきたからさー……割とスケジュール的にも厳しくてねー……いや、ありがたいんだよ? ありがたいんだけどさー……」
「それで唸ってたんです……?」
「ここ数ヶ月はそんな感じだよ。それこそ、居酒屋にいた時もそう」
「居酒屋……って」
「そ、ミオちゃんと会った日」
「結構前からじゃないですか」
高速道路を降りて、一般道へ入った。夏休み渋滞に巻き込まれながら、蒼央さんは話を続けた。
「あの時も新作の件で悩んでたんだ〜、気分転換しようと思って滅多にいかない居酒屋に行って……そんな時に、合コンしてる学生達がいてさ。その中にとびきり可愛い子がいたんだよ」
「……」
「そしたら、その子は男の子だって話をトイレで聞いたのさ。その時にこれだーって思ってさ、声をかけたら本当に良い子で。一緒にいるとアイデアは湧いてくるし、仕事にはすごく集中できるしで――」
赤信号で車を止めた蒼央さんは、ボクを横目で捉えて。
「だから、ミオちゃんには感謝してんだ。『ただいるだけ』なんて言わないでおくれ」
夕暮れに照らされる蒼央さんの輪郭がボヤけて。
いつもの笑顔が、一層大人らしく見えた。
「……分かりました。お役に立ててるなら……良かったです」
ボクも膝の上に手を置いたまま微笑み返した。
すると、蒼央さんの目が大きく見開かれて。
「わ、その顔……」
「……?」
「人妻みたいでエロかった……」
ほんと、この人は……ちょっとカッコイイって思ったら直ぐにこれなんだから。
「そんなお世話になってるミオちゃんの笑顔が増えてきたんだ。私が嬉しいのも分かってくれるでしょ?」
「んー、なんとなく?」
「野良猫を拾ったら健康体になって、なんなら懐いてくれた感じ」
「あー、それは嬉しい~! 分かります!」
ようやく言いたいことが分かった。けど、それって出会った時のボクが野良猫みたいな状態だったってこと……? そんなボロボロだった?
「って待って!? このエロ可愛いミオちゃんママがもう少しで無料で世界のどこで見れるようになるってマジ? やばいんじゃないの? 周波数オークションでママの取り合いになっちゃう――」
『先行車発進しました』
「おおっと、ごめんよ」
車に謝ってる……。
「それって配信の話です……?」
「うん、夏休みからやるって言ってたじゃん? ねこも楽しみってずっと言ってるよ」
ねこ餃子先生……楽しみにしてくれてるんだ……。
「正直、不安なんですよねー……面白いこと言えないですし……」
「ミオちゃんならいけるよ」
「いけますかね?」
「不特定多数に喋ろうとすると緊張するから、私と話す感じでしたら良いと思うよ」
「それなら頑張れる気がしますけど、いつ配信しようかな……」
「え? 普通にやったらいいじゃん」
「蒼央さんのお仕事もありますし、夏休み中は良いですけど……大学が始まったらする時間もないですよね」
「配信中もバイト代出すよ? 仕事の手伝いだし」
は?
「いや……だって、さすがにっ……配信してるだけでお金もらえるのは意味がっ……」
「時給2000円もらいながら、ミオちゃんは私やリスナーのママになるんだよ」
本当にこの人は……っ。
「蒼央さん……」
「なあに?」
「1回、ちゃんと話し合いませんか……?」
「ヤダ! 私のお金は私の好きなように使うんだ!」
「……じゃあ、頂いたお金は共同のお金として貯金しておきます!」
「それは違う! お金はちゃんと自分の――」
「ボクのお金はボクの好きなように使うので!」
こうやって強く言わないと蒼央さんはずっと無茶ばかりする! 程々にしてくれないとボクの金銭感覚が狂っちゃうから!
「なんか、結婚資金みたいで興奮するね……」
「……」
もう、何も言うまい。この人は無敵なのだ。