*6* 幸せな夢物語
少しだけ、昔話をしよう。
物心ついたときから、たくさんの家族に囲まれて生活していた。みんなと血の繋がりは、ない。
そう、あたしは、施設で育った。
お父さんとお母さんがどこにいるのか、わからない。正直なところ、顔も知らない人たちのことは、知ろうとも思わなかった。
あたしは、今目の前で笑っている『兄弟姉妹』や、褒めたり叱ってくれたりする『先生』のほうが、大事だったから。
6つ年上の『お姉ちゃん』が中学を卒業して、働きに出ると、あたしがみんなの『お姉ちゃん』になった。
下の子たちは小学校の低学年ばかりで、手がかかるなんてもんじゃなかった。
本を読んだり、絵を描いているほうが好きなあたしではあったけど、四方八方で昼夜問わず騒ぐちびっこたちの相手をしていたら、否応なしに鍛えられたよね。おかげで1年も経つ頃には、10歳らしからぬ世話焼きさんになってた自信がある。
そんなとき、お母さん代わりでもある『先生』が、ひとりの男の子を連れてきた。
それがあたしと、暁人の出会い。
暁人はちょっと癖のある、鴉みたいな濡れ羽色の猫っ毛と、同じ色の瞳が印象的な、いわゆる美少年だった。
はじめましてのときにピクリとも笑わなかったから、尚更お人形さんみたいだと思ったのを、よく覚えている。
歳は、あたしの2つ下らしい。しゃべらない。大丈夫? ってくらい、しゃべらない。まるで、泥んこになってケラケラ笑い転げている同年代の子たちが、別の生き物とでも言わんばかりだ。
お近づきになろうと思ったんだろう。下の子たちがお風呂に誘っていたけど、部屋の隅に体育座りをして、頑なに拒否していた。
あたしも子供だったから、これには「なんとか言いなさいよー!」とか、「男なら腹くくりなさいよー!」とか、散々わめき散らしたものだ。
そうして、無理やり服を引っぺがして、色白で、陶器みたいになめらかな肌に、いくつもいくつも痣があることに、やっと気づいて、呆然とした。
暁人は両親だけでなく、歳の離れた姉からも酷い仕打ちを受けていたと、子供にもわかる言葉で、やんわりと、こっそりと、『先生』が教えてくれた。だから、しゃべらなくなったんだ、とも。
……いや、違う。
しゃべれなくなったのだ。
すべてを知ったあたしは、泣いた。情けなくて、申し訳なくて、わんわん泣いた。そりゃあもう、真夏の大合唱をしていたセミを黙らせるほどの、大音量で。
何より、悔しかった。泣きたいのは暁人のほうなのに、何やってんだろって。我慢しなきゃって思うほど、涙があふれてあふれて、止まらなかった。
ごめんね、ごめんねぇえと、鼻水垂れ流して泣き汚いあたしに、そのときはじめて、お人形さんみたいだった暁人が、おろおろ戸惑ってたっけ。
──だ、い、じょ……ぶ?
ふいに聞こえた声は、か細く、掠れたものだった。人はまったくしゃべらないと、4日目には声が出なくなるって、『先生』が言ってた。
弱った声帯で、つっかえるくせに、ばかみたいに泣きじゃくるあたしの心配なんか、しちゃってさ。
思いやりのある、優しい子なんだね、暁人は。
……ありがとう。
自然と言葉が出ていた。ここなら、もう誰かの顔色を気にしなくてもいいよ。誰も暁人のこと叩いたりしないから、自分の気持ち、ちゃんと言っていいんだよってことも。
そうしたら、段々うつむいた暁人が肩を震わせて、ぽろぽろとこぼれたものが、カーペットに染みを作った。
……うぁあ、あぁあ。
掠れた声、だけど暁人自身の声で、叫んでいた。
せき止めていた水をあふれさせるように、夜が明けるまで。
また声が、枯れてしまうまで。
* * *
暁人は足が速かった。でも、物静かな性格で、あっちこっち遊んで回るより、本を読んでいるほうが、楽だったみたいだ。
似た者同士、なんとなくほかの子たちよりも一緒にいるようになり、読書をするあたしの背に暁人が引っついていることも、珍しくなくなったものだ。
そうこうしているうちに5年が経ち、中学生にもなれば、お人形さんみたいに可愛らしかった暁人が、見違えるようになった。
声変わりをして、背も伸び始めた。元々が美少年だったし、学校でモテモテな話は、学年が違うあたしの耳にも届いてたよ。
「──姉さん」
いつだったか、温厚な暁人が、珍しくご機嫌ナナメなことがあって。しかも腹を立てている相手が、あたしだという。
「あらら、どうしたのー?」
「……なんで先に帰ったんですか」
「え、だって彼女さんと約束してたでしょ?」
「そんな人いません」
「まったまたぁ〜」
「何度言えばわかるんですか。いい加減にして」
「おぉ、暁人がひと言以上しゃべった」
「姉さん……はぁ……」
結構ガチで呆れられてます。イケメンはため息ついてても絵になるんだねぇ、新発見だ。
「また、へんてこなことを考えている……」
「へんてこってなんだい、へんてこって」
「姉さんと今話しているのは、僕でしょう。僕と話すこと以外、考えないで」
暁人はすごくいいこ、ほんとにいいこなんだけど、成長するにつれ、こうしてあたしに苦い顔をするようになった。なるほど、これが反抗期ってやつか。
「おー、よしよし」
「ちょっと……なんで急に、やめて」
「へへへ〜」
「聞いてますか、聞いてませんよね、姉さん」
伊達にこっちも、ちびっこたちに鍛えられてない。ぷんぷん腹を立てても、しっぽを逆立てた猫にしか見えないんだよね。癖のある黒髪を、わしゃわしゃ掻き回してやる。
「お姉ちゃんは感慨深いよ〜」
「なんでそうなるんです」
「あはは、それでいいんだよ。そうやって、ちょっとずつ、お姉ちゃん離れしてこうね」
中学生にもなったきょうだいは、普通は一緒に寝たりしないらしい。友だちと話していて、密かに衝撃を受けたことだ。そこではじめて、あたしたちは距離感がバグっているんだってことに気づいた。
子供の頃の延長でも、ずっとべったりしているわけにはいかない。いつかできるであろう暁人の彼女さんに、申し訳ないし。
あと3年だ。高校を卒業したら、あたしはここを出て行く。それまでにあたしも、弟離れしなくちゃね。暁人が、大切な弟が、幸せになれるように。
「……どうしていつも、僕を置いて行くの」
「暁人?」
「もういいです、姉さんがそのつもりなら、僕も勝手にします」
「あき……」
「僕は姉さんのものなんだから、姉さんも、僕のものでしょう」
『幸せになれるように』なんて、どの口が言ったんだろう。
暁人のそれがどこにあるのかも、知りもしなかった癖に。
「──離さない。絶対に、離さない」
可愛くて可愛くてしょうがなかった弟は、このとき、すでに弟ではなかった。
違和感を覚えるのが、遅すぎた。