22球目「浮き出す闇」
バットの芯を右手で持ちながら、則本が水上ベンチへと走っていく。
「なにあの球は。ただのカーブじゃないのか?」
果凛に目を見張る水上ベンチ。軌道はカーブの曲がり方、のように見えた。多くの選手が思う中、招待に気付く者もいた。
「ナックルカーブ、かぁ。初めて見た!」
マスコットバットと呼ばれる重いトレーニングバットをバットケースに刺し、黒金属のバットを黒いバッティンググローブの上から掴む。水上ウイングスの3番打者・赤田智花は、【稀有な存在】に昂ぶっている。
-ナックルカーブ。ナックルの名の通り、あまり回転せずに落ちるが、それ故にカーブとは違った独特な曲がり方と落差で打者を惑わす。男子プロ野球では助っ人外国人が投げることが多く、有名なのは朝日ジャイアンツのニック・マルクス。女の子で投げるのを見るのは、智花は初めてだ。相当な練習量を積んできたのかな......
マウンドで果凛は、ロージンで白くなった自らの左手を見つめる。ナックルカーブを習得する。そのきっかけになったのは、満月とプロ野球観戦に行った、中3の夏であった。
『あの選手のナックルカーブすげーー曲がるしカッケー!』
他愛のないそんな一言が、変化球習得に悩んでいた果凛の心に火をつけたのだ。
習得は容易ではなかったが、幸い時間はできた。頭が良いながらも満月と同じ高校志望を決めていた果凛は、夏の時点でA判定を決めていた。学力を落とさない程度の勉強と、変化球の習得。あっという間に過ぎた日々の中でほぼ完成形を掴み、冬が明けるころには披露できる程に達した。
そんな果凛に対して、水上ウイングスも容赦なく虎を立たせる。
則本から情報を聞き出し、赤田が打席へと向かう。
「智花ちゃん、智花ちゃん」
背後から黒い手袋で手招きをするのはチームメイトの三峰。何かを訴えるその目の元に、赤田は自らの耳を当てる。
「......うん、わかった!多分!」耳打ちをする三峰に返事をすると、再び歩き出す。
「じゃあ頑張ってね、フフフ...」三峰が赤田を送り出すと、そんな三峰に突っかかるように中丸が彼女の左ほほをぷにぷにといじる。
「な、なんですか美里......」
「いや、いつも通り真耶のほっぺはかわいいなぁって」さらに中丸美里は、三峰の背後に潜り込み、両手でほっぺをびよーんと伸ばす。
「は、ははひへ!ふへ~!」制止させるように自らの手で中丸を退ける。
「そんなことしてくるのは人生生活の中でも美里だけですよ?」
「みんな気づいてないだけなんじゃい!」
「いつもそれですよね...真耶の身にもなってくださいよ」まんざらでもないのか、三峰もひっそりと鼻で息をした。
「それにしても...」緩くなったムードを、三峰はその一言ですぐに引き締める。
「ここまで0対1。いくら有力選手が数人いるとはいえ、負け越している...」
「それに関してはほんとすまねぇって、4回のあのチャンスも打っていれば!」中丸はこぶしを握り締める。
「違うの。さすが克さんのチームだなって、少し羨ましくて」
「そう思うのは多分真耶だけだよ」首を曲げて話す中丸。あ、と思い出したかのように彼女は聞く。
「さっき智花に何を話したんだ?あの左に感心でもしてたのか?」
三峰は金属バットをケースからすくい、ボールを受け取る果凛の方を向く。
「ん?ああ、真耶はただ、【福は転じて災いとなす】。そう伝えただけですよ、フフフ......」
沼で目を凝らし勝機を待つワニ。その牙は、幾度でも襲いかかる。
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2球目。少し、ほんの少しだけ甘いコースに入ったストレートを、簡単にセライトに跳ね返された。
一塁ベース上ではベンチにガッツポーズをする赤田。彼女を背に、恋が「内野はゲッツー態勢!4番だから、外野は長打警戒しとけよ!」と守備をまとめる。
-そう、次は4番。さっきの打席ではツーベースを打っているから、簡単に攻めたら致命傷になりかねない。
輝夜の要求はアウトコース・直球の見せ球。つまりは、ボール球から様子を見ようという算段だ。
2球、プレートから左足を外しけん制したのち、右足を曲げたその瞬間であった。
「スチール!」
恋・満月・早矢華のボイスサインが重なる。輝夜がその腰を僅かに上げ、右腕をミットに寄せる。
そんな輝夜の中のある一つの可能性が、確信に変わった。
『エンドラン!』
三峰はその左足をバッターボックスの線の上に、リスト、そして腰、膝、右足をうまくひねり、明らかな外のボール球をセンター方向に跳ね返す。
打球は二塁ベースカバーに入った杏子の僅か上をゆき、満月の顔前で着地した。
スタートを切っていた赤田であったが、三塁コーチャーのサインを確認し、二塁で足を止める。
その様子を確認し、満月はショートの理子へボールを返した。
口を開いたままの果凛を遠目に、満月は練習終わりにブルペンを整備していた、昨日の輝夜の言動を思い出していた。
『小宮山さんには伝えないでほしいんだけど、明日あの子はおそらく炎上するよ。』
『満月、あなたとは違ってあの子の長所はまだナックルカーブしかないから。その時に初めて訊いてみようと思う。』
『あの子の選手像。何を目指し、どこに向かうのか。窮地に陥ってこそ人の本心は暴かれる。満月は火事場の馬鹿力が発揮してくれることを祈ってあげてよ。』
5番斎藤はフルカウントの末、7球目でフォアボール。一死満塁のなったこの場面で、ついに輝夜が動いた。内野陣は集めず、輝夜は一人果凛に問う。
「小宮山さん。この状況、あなたはどうしたい?」
前振りもなく、率直だった。
輝夜の思惑とは反転、小宮山は用意されてたかのようにすぐに答える。
その瞬間であったか。小宮山を纏う雰囲気が一変、黒く、重さを増したのだ。
「......この場所、この時間。今が楽しいの。輝夜ちゃん、わたしは降りたくないし、手を抜く気もない。満月ちゃんにはまだほど遠いけど......もう何も失いたくない気持ちだけはあるんだよ?」
笑顔で果凛はそう返す。
-笑顔のはずなのに。今まで見たことない。表現し辛いが、闇に囚われている、というべきか。言葉を換えれば、スイッチが入ったのかもしれない。だが、一つだけわかるのは、今の小宮山さんからこの闇を取り去る術が自分にはない。こんな感覚は初めてだ。まるで住んでる世界が違うかのように......
輝夜にはわからなかった。結論はいくつか考えていた。場合によっては、彼女を見切る選択肢もあった。
しかし、頭の回転が速い輝夜だからこそ、目まぐるしく回る果凛への適切な返答の在処。
そんな彼女の導き出した答えは、『保留』であった。
「......わかった、ここからは変化球多用でいく。相手もおそらく、いやほぼ確実にストレート一本で絞ってきているし。その前に、一つだけ話したい。」
輝夜は左手の黒いミットを、少し膨らんだ果凛の胸に当てる。
【その場所は三吉女子高校女子野球部、みんなにおもいが詰まってる事だけは忘れないで】
プレートの上に立つ果凛は、輝夜の言葉にわずかに唇を噛んだ。
審判に礼をし、輝夜は自らの守備位置に戻る。
状況は再び一死満塁。打席では、”逆転の申し子” 中丸が刻々と準備を始めていた。




