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作者: ばんてふ

目が醒めると、俺は人ごみの中にいた。

しかし、そこはただの人ごみではなかった。誰一人として一歩も動かないのだ。


どうなってるんだ?なにかを待っているのか?

つま先を伸ばして外をみようにも、周りの人間に視界が遮られ、見ることはできなかった。


腕時計をちらりと見る。時刻は18時を示していた。

やばい、待ち合わせまで時間がない。今日だけは遅れるわけにはいかないんだ。


「すみません、ちょっと道を開けてください!」

必死に呼びかけるも、まるで聞こえていないかのように周りの人間はなにも反応を示さなかった。


なんだよ、こいつらは。

シカトをかまされ、頭にぐわっと血がのぼる。

もう頭にきた。力づくで通らせてもらう。


上半身を斜めに傾け、溜めをつくると、思い切り目の前へと突っ込んだ。しかし…


まるで壁にぶつかってるかのようにビクともしない。

おいおい、どうなってんだよ。

目の前を阻む2人の細身の男性。彼らは社会人サッカーで日々体を鍛えている自分より、明らかに力は弱いように見えた。


だめだ、待ち合わせには間に合いそうにない。

電話で謝ろう。

ポケットからスマートフォンを取り出し、電源ボタンを押す。


「…あれ?」


何度ボタンを押しても一向に画面は黒いままだった。

電源が切れてるのか?

そう思いボタンを長押ししても、画面はピクリとも反応しない。

どうやら電池が切れているようだった。


「ちくしょう。こんな時に何だってんだ」。

スマートフォンを荒々しくポケットに戻す。


再び周囲に向かって突っ込んでみるも、やはり例のごとくビクともしない。


「くそっ。どうすることもできないってのかよ。」


こみ上げる歯がゆさをなんとかして抑えこむ。

そして人ごみが動き出すのを待つことにした。


ーー1時間。

おいおい、誰も腹減らねえのか?

周りの人ごみが動き出す気配は微塵も感じられなかった。


ーー2時間。

先程から見える光景は一切変わらない。

…ん?ちょっと待てよ。

周囲を改めて見回す。やっぱりそうだ。

そう、何も変わってないのだ。

周りの人間の佇まいは目が醒めた時から何一つ変わっていなかった。

頭の向きから、指先の形にいたるまで何もかも。

その様子がただただ不気味で仕方なかった。


それから何時間が経っただろうか。周囲の様子には相変わらず変化はない。

その時、腹が空腹を訴えるように大きく鳴り出した。

昼食を食べてから何も食べていなかったことに気づく。

リュックを開け、何か食べるものがないか探す。

唯一見つかったのは一粒のチョコレート。

それを口に入れ、ゆっくり、ゆっくりと時間をかけて溶かしていく。

そしてエネルギーを使わないよう、しゃがみこんだ。


「由紀子…」

1人の女性の名前を呟く。

大学卒業後、サッカー選手としてデビューした俺は過労がたたり、アキレス腱断裂の大怪我をした。

医者には現役復帰は難しいと告げられた。

俺は心底現実に絶望し、家に引きこもる生活が何年か続いた。

しかし、その間も彼女である由紀子は俺のことを優しく支え続けてくれた。

そうした日々の中で立ち直っていった俺は就職活動を始めた。

そして先日、ついにとあるメーカーから内定をもらうことができたのだ。

今日は内定祝いとして高層レストランでディナーを一緒に取る予定だった。でも、本当は…。

ジャケットの内ポケットに手を入れる。

取り出した小さな黒い箱を開けると、中央には煌々と輝くダイヤをこしらえた白銀の指輪が納められているーー。


俺はいつここから出られるのだろうか。

もしかして俺はこのまま飢え死にするんじゃ…?

先の見えない恐怖と不安が激しく押し寄せる。

それらを押し殺すかのように膝を抱えてうずくまった。

「…プロポーズの練習、あんなにしたのにな。」

ゆっくりと目を閉じると、意識は闇の中に沈んでいった。


深い眠りから覚めたかのようにゆっくりと目を開ける。

目の前の視界はまだぼんやりとしてはっきりしない。

しかし…。

不思議と手足にはしっかり力が入る。あれほど感じていた空腹感もまるで嘘みたいになくなっていた。

もしかして、あれは夢…だったのか?


「ははっ。はははっ。全く縁起が悪いぜ。でも良かった…夢か。これでやっと…。」


由紀子に会いに行ける。

由紀子待っててくれ。今行く。ふふ、指輪見たらなんていうかな?

由紀子の喜ぶ顔を1人想像し、口元が緩む。

心臓の鼓動が踊るように脈を刻む。

そして意を決したかのように目の前へ向かって走り出した。


どすっ。

その時、何かにぶつかるような鈍い音が響いた。

あれ、おかしいな。

一度後ろに引き、もう一度前に向かって走り出す。

どすっ。

しかし、何かが邪魔で前に進むことができない。

なんだろう。

他の方向に向かって同じように走りだす。

しかし、結果は同じだった。

まだ視界がはっきりとしない目を擦りあげ、周囲を見渡す。そこに映っていたのは……。

「なんで…」

人ごみだった。前と同じように再び俺は四方を人に囲まれていた。

以前と全く同じ状況の中に俺はいた。


目が覚めては人ごみに囲まれ、身動きが取れず、何もできないままに眠りにつく。

そして目が覚めたかと思ったら、再び同じ光景。

その繰り返し。


あれからどれくらいの時間が経っただろうか。

2年?いや、3年?

「どうでもいいか…そんなこと」

終わりの見えないこの日々の中でいつしか時を数えるのをやめてしまった。


虚ろな目で周囲を見渡す。

周りの人間は飽きもせず、同じ姿勢で立ち続けている。

「ははははっ」

このなんとも滑稽で無機質な光景に思わず笑いがこみ上げる。

「はははははっ。はははっ。ははっ…。

もう…いい。」

笑う気力は失せ、力なくうなだれる。

「もうやめてくれ。終わらせてくれ。

俺を……死なせてくれ…。」

そう呟くと、瞳からは一筋の雫が頬を伝って流れ落ちた。


パタンとノートパソコンが閉じられた。

声を殺して鼻をすすりあげる音だけが、静寂に包まれていた室内に響く。

「以上が、これまで悠人さんが見てきた夢になります。」

悠人の両親と由紀子は頭を上げると、パソコンに繋がれているケーブルを辿り、後ろを振り返る。

視線の先にはケーブルを頭に繋がれ、ベッドに静かに横たわる悠人の姿があった。


「植物状態の人間の延命治療はこのように、患者にも苦しみが伴うことが近年の研究の進歩で明らかになりました。

そのことを踏まえた上で彼の延命治療を継続するかどうか、ご検討いただければと思います。」

悠人の主治医は3人を見ながら、そう言った。


悠人が由紀子とのディナーを予定していた日、彼は池袋の人ごみの中で無差別殺傷事件に巻き込まれ、植物状態になった。

意識が戻る可能性は限りなくゼロに近いという診断を受けた。

しかし、一縷の希望にかけ、悠人の両親は延命治療を主治医に依頼した。


それから3年の時が経ったが、彼が意識を取り戻すことはなかった。

そうした中ある日。悠人の主治医から一本の連絡が入った。

是非見てもらいたい映像がある。できれば由紀子さんも一緒に、と。

そして今日、2人は由紀子を連れて病院までやってきたのだった。


「悠人…。指輪、ありがとうね。ちゃんと受け取ったよ。

でもプロポーズの言葉…聞きたかったな。」

涙で真っ赤に瞳を腫らしながら、由紀子は眠り続けている悠人に話しかける。

その左手の薬指にはダイヤの指輪が光り輝いている。


悠人が病院に運び込まれた日。両親は由紀子にすぐに連絡した。

新宿で悠人を待っていた由紀子はすぐに病院に向かった。

手術が終わり、病室のベッドで眠る悠人の横で衣服を片付けていると両親はあることに気づいた。ジャケットの内ポケットに指輪が入っていたのだ。それを取り出すと両親は由紀子にその指輪を渡した。

由紀子は指輪をはめると、額を当て、小刻みに肩を震わせた。


「私は…もう、いいのかなって思います。

彼をもう楽にしてあげたいなって思いました。」

由紀子は悠人の手を優しく握りながら、そう答えた。


両親はベッドに向かい、悠人の顔を見つめる。

悠人は額にしわを寄せながら、苦しげに顔を歪ませていた。


彼の両親は彼の顔に手を添えると、涙をこぼす。

その涙が彼の顔にそっと触れると、彼の頬をゆっくりと流れた。

まるで彼も泣いているかのようだった。

その涙を拭き取り、2人は顔を見合わせる。

しばらくの沈黙の後、硬く頷きあうと、主治医に向き直る。そして何かを呟いた。

主治医は頷くと、なにも言わず病室を後にした。


両親は再び悠人の顔を見つめる。

その表情は何かから解き放たれたかのように穏やかであった。

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