第六話 スロウダイバー 【RE版】
一応リメイクで少しいじってありますが、どうでしょうか……
僕は息が切れるのも忘れるほど、全力で走った。霧島の体を弾き飛ばしたフンババは、たちこめる煙の中からいよいよ這い上がろうと、すり鉢状の穴の縁に手をかけていた。
やっとのことで霧島の元へ駆けつけたものの、横向きに倒れ込んだ彼女はピクリとも動かず、蒼白な顔半分を鮮血が染めていた。
僕は完全に取り乱していた。動かない霧島の肩を掴んで強く揺さぶり、彼女の名前を狂ったように叫んだ。
「霧島! 霧島! 早く逃げないと!」
最早息があるのかも確かめられないほど、僕は頭が真っ白だった。何とかこの場から霧島を動かそうと、僕は彼女の華奢な体を抱きかかえるように起こそうとする。
手に温かい感触がじわっと広がった。何かと思って、自分の手を見てみると、彼女の服に滲んだ血が、僕の掌で真っ赤に燃え上がっていた。
僕はいつも冷然とした霧島から流れる熱いものに、まだ彼女自身の命の泉は枯れちゃいないんだと思った。あんなに太々しかった霧島が、こんなに簡単にくたばるわけがない。
余計に気が動転しそうなものだったが、僕はいい具合に血の気が引いたのか不思議と冷静になっていた。
「まだ息はある。ノエルならきっと……」
僕はエルフの少女の使う治癒魔法に全てを賭けた。霧島を背負ってノエルの元へさえ行けば。彼女の燃え尽きそうな生命がそこまで持ってくれれば、或いは……。
しかしそれは、この場から一秒の時間も惜しまず、あのフンババがご親切に道を譲ってくれて、すぐに駆けだせればの話だ。僕が霧島の体を抱きかかえ、右往左往しながら何とかおぶろうとしたところで、無情にも穴から這い上がってきたフンババと目が合った。
禍々しい金属の甲冑の奥に、おぼろ月みたいに不気味に光る奴の目を見ながら、僕は祈るように念じた。
――どうか今だけは見逃してくれ! 霧島をエルフの元まで届けたら、俺一人でまたここへ戻ってきても構わないから! 頼むから……。
それが無意味で決して叶わない祈りであることなどわかっていた。ただそれでも、彼女が口にしたあの不思議な言葉の意味すら知らぬまま、こんな終わりなど絶対に受入れたくはなかった。完全にハイになっていた。僕は自分が死ぬかもしれないなんてことを忘れ、彼女の終わりを恐れていたのだから。
僕とフンババは、互いを食い入るように見つめ合ったまま、動かなかった。それは気が遠くなるような、長い長い刹那の間だった。まるで情景を切り取った一枚の絵画のように、僕らはそこにあった。
一体どのくらい経ったんだ? 僕はその不思議な瞬間から抜け出すと、フンババがこれ以上迫ってこないのに気付いた。先程の無意味だと思われた祈りは徒労ではなかったようだ。
果たしてフンババの温情か、普段はろくに仕事をしてくれない神様の気まぐれか、何かが僕らを守ってくれた。いずれにしても、今の僕には、彼女を背負って駆けだす以外の選択肢はなかった。
「霧島……間に合えー!!!」
不気味に沈黙するフンババを背にして、霧島を背負った僕は、猛然と駆けだした。細く鋭い木の枝が僕の腕や頬をかすり、跳ね上がった泥が僕の服や顔を汚すが、気にも留めなかった。
普通に考えて、人を背負ったまま僕に来た道を走りきる体力などあるはずはない。何度もよろけて倒れそうになりながら、それでも僕は、消え入りそうな命を背中にただ彼女の「生」のある方へと、光を求めて走った。
必死に走りながらも、僕は森の様子が来た時と違うことに気付いていた。空を覆い隠すように豊かな葉を付けた木々は、眠りについたかのようにざわつくのを止め、鳥や虫たちも息を潜めていた。自分自身まで虚ろになってしまうほどの静寂が、僕ら以外の全てを支配した。
いつの間にか、僕は周囲に命を感じなくなり、僕の横を通り過ぎる木々はまるで亡霊のようだった。空間は緩やかに歪み、時間は不規則に刻まれ、僕の意識は周囲から切り取られ、孤立していた。背負っている霧島の存在さえも、実は虚構の産物であったかのような気がして、背中の感触を何度も確かめた。
あまりの違和感に、もしかしたら僕はとっくに死んでいて、幽霊になったのも気付かないまま、走り続けているのかと思ったよ。
そして周囲の変化が顕著になっていくに連れて、僕の足は魔法にかかったみたいに軽快になっていった。
「もうすぐだ、霧島! もうすぐだから!」
やがて樹海の終わりが、真っ暗闇へ差した眩い光のように僕の前に現れた時、何の前触れもなく、歩くこともままならないほどの激しい疲労感が僕の体を襲った。
意識は途切れ途切れに僕の前へ光を映し、酔っぱらったみたいによろめきながら、それでもその光へと辿り着こうと、僕は傷だらけになりながら必死に足を進ませた。
薄れゆく意識の中で、深い森を抜けた僕の視界を、優し気な光が塞ぎ、僕らはそこに溶け込むように呑み込まれた。
――ああ、なんで僕は自分を酷い目に合わせた霧島なんかの為に、こんなになるまで馬鹿みたいに頑張ってたんだろう?
朦朧とした光は、僕が意識を取り戻していくに連れ、霧が晴れていくようにゆっくりと僕の前にある景色を映し出した。
それは、僕らが朝出発したエルフたちの小さな集落でもなければ、魔獣の住む鬱蒼とした森でもなかった。僕が立っていたのは、僕のいた世界。僕の街の僕の家の近く、それでいてもうそこには存在し得ない景色の中。僕と幼馴染の毘奈がよく遊んだ古びた公園の砂場の上であった。
「確かここって、結構前に公団のマンションか何かになったよな……」
あの不細工な像の滑り台も、錆びてギシギシと鈍い音を立てるブランコも、塗装が半分以上剥がれた緑と赤茶のジャングルジムも、もう存在するはずがなかった。地面がやけに近くに見え、ターコイズブルーの空はいつもよりも天高く、見慣れた家々は遥か遠くにあった。
ふと自分の手を見た僕は、その小ささに目を疑う。小さいだけではない。薄っすらと血がついていた。それに、人形が履いているみたいに小さいマジックテープのスニーカーに、短すぎる半ズボン、青色のポロシャツ、全て幼い頃によく身に付けていた物だった。僕は昔の姿をしていた。
「気を失ったのかな? これは……小さな頃の夢……?」
唐突に現れた過去の光景に、呆然と立ち尽くしていた僕は、何かの気配を感じ、ふと横に目をやった。
そこには、額から血を流して震えながらむせび泣いている幼い少女がいた。六歳~七歳くらいの毘奈だった。手で額を押さえ、赤黒い血が彼女の目と鼻の間を伝い、小さな顎にまで達していた。
僕はこの光景を知っていた。正直思い出したくもなかった。まだこの公園があった頃、些細なことがきっかけで毘奈と喧嘩になった僕は、怒りに任せ、彼女を突き飛ばしたんだ。
毘奈の幼い顔を流れる本物の血の色に僕は戦慄した。取り返しのつかないことをしてしまったと、その恐ろしさに腰を抜かし、僕は毘奈を置去りにしたまま、たじろぐように泣きながら自宅へと逃げ込んだんだ。そして何時間も暗い押入の中へ入って、震えながら自らに下される罰を待ったんだ。
しかし、僕に毘奈を傷つけた罰が下されることはついになかった。毘奈は自分の両親にも、ましてや僕の両親にもその怪我の真実を告げなかった。
その後しばらく、いつものように温かく接してくれる僕や毘奈の両親、そして毘奈自身にも、その罪悪感から身の毛がよだつ思いであった。そしてこの卑劣な罪は、裁かれることなく、僕の心を長くに渡り苛ませた。
僕は、今あの日のあの瞬間に立っていた。そうだ、もしこれがあの時のやり直しなのだとすれば、僕の取りうる行動は一つだった。
僕はあまり使わないのに、母親からいつも持たされていた小ぎれいなハンカチをズボンのポケットから取り出し、毘奈の額の血を恐る恐る拭った。泣いていた毘奈はハッとした様子で僕を見た。
「毘奈……ごめんなさい。もうこんなことしない……すぐに帰ってお母さんに見せよ」
「……吾妻、ハンカチ汚したら……お母さんに言ったら、怒られちゃうよ?」
「いいよ……こんなことして、怒られない方がどうかしてる。罰を受けない方が苦しいことだってあるんだよ。毘奈のお母さんにも謝るよ……僕のことはいいから、早く……」
「ありがとう……吾妻。よく分かんないけど、吾妻はちゃんと謝れて偉い子だね……」
そう言って毘奈は、額から血を垂らしながら優しい笑みを浮かべて、僕の頭を撫でていた。その懐かしい幼い毘奈の顔には柔らかな日の光が差していて、流れ出た血さえも美しく映した。
何だか、僕が毘奈に慰められているようであったが、全てが救われたような気がしたよ。なんだ、忘れた振りしてずっと後悔してたんだな。彼女の手を固く握った僕は、懐かしさと後悔に彩られたこのセピア色の公園から、ようやく出ることができたんだ。
――そうか、だから僕は馬鹿みたいに必死になって、こんな無茶をしてたんだ。
いつの間にか、僕は再び眩い光の中にいた。その幻想の中の出来事に、僕は最近ずっと感じ得なかった安らかな気持ちを抱いてた。そりゃ、毘奈もこんな拗らせてる馬鹿みたいな幼馴染なんて選ぶわけないよな。
毘奈は鬱陶しいくらい温かく朗らかで、馬鹿みたいに善良で真っすぐで、そして誰よりも優しかった。それに比べて僕は、いじけてばかりの卑怯者で、冴えない癖して理屈っぽくて、救いようのないくらい痛い奴だな。
僕には始めっから毘奈を責める権利もなければ、求める権利もなかったのかもしれない。ましてや憎む権利なんて完全にお門違い、逆恨みもいいところだ。
だけど、せめて……もう世界を異にする僕らに許されるのであれば、僕は毘奈に告げたい。僕は段々と光に埋もれていく幼き日の毘奈に何かを言いかけていた。
今まで押さえていた感情が、僕の胸をはち切れんばかりに噴き出そうとした時、僕は古ぼけた黒っぽい木の天井を仰ぐように目を覚ました。
まるで夢の世界にいる僕にとって、それが夢のような現実か、現実のような夢か、最早どちらが本当なのかわからなかった。ただ僕は昨日の再現のように、あのエルフの兄妹が住んでいる家の古びたベッドの上で横になっていたんだ。
「あれ……気絶してた……のか?」
僕はゆっくり起き上がると、訝しそうに自分の手をまじまじと見つめていた。間違いなくこれが現実だった。これが現実だとすると、あの少女の、命の尽きかけていた霧島の顔が僕の脳裏を過った。
「き……霧島! 霧島はどこ!!?」
混乱した様子で部屋を見回す僕の目は、部屋の入口に震えながら立っていたノエルの姿を映した。
僕が声を掛ける暇もなく、そのサファイヤのような美しい瞳に涙を滲ませ、幼いエルフの少女は、跳びつくように僕の無防備な胸に顔を埋めた。ノエルの髪に染みついたハーブの香りが、僕を少し落ち着かせる。
「の……ノエル!? ど……どうしたの?」
「どうしたのじゃないわ! 摩利香は血だらけだし、背負ってきた吾妻は倒れちゃうし、二人とも死んだんだと思ったじゃない!」
「摩利香って……そうだ! 霧島は、霧島は大丈夫なのか!?」
僕は泣きじゃくるノエルを宥める余裕もなく、霧島の安否を確かめた。だがノエルにそれを問う必要などなかった。
「さっきから人の名前を連呼しないでもあらえる? 恥ずかしいったりゃありゃしない……」
「あ……霧島……」
「どうしたのかしら、そんな泣きそうな顔をして? フ〇ッキン那木君は可愛いエルフの幼女にハグされて、泣いちゃうほど嬉しかったのかしら?」
「な……!」
その華奢で小柄な少女は、ノエルの後からゆっくり入ってくると、真夜中の猫のような透き通った瞳で、懐かしい憎まれ口を叩いて微笑した。
霧島 摩利香は生きていた。あの鬱蒼とした森の深い闇に埋もれそうだった彼女の命を、僕は何とか救い上げることができたようだ。
霧島に目立った外傷はなく、衣服も出発前みたいに小ぎれいで、拍子抜けしてしまうくらい血色の良い顔をしていた。
「あなたが私をここまで運んでくれてなかったら、どうやら私、死んでいたみたいね。律儀に人のバッグまで運んでくれたおかげで、着替えまで無事だったし……」
「大丈夫なのか、霧島? 凄い怪我だったのに、もう歩き回ったりして……」
「その子の治癒魔法ってかなり優秀みたい。といっても、死んだ人間を生き返らせることができるわけじゃないから、もう少し遅かったらまずかったわ。よくあの状況で、ここまで逃げてこれたわね?」
「ああ……とても助からないと思ったよ。森の神様か、精霊か、魔法か奇跡か、きっと何かが助けてくれたんだ……」
僕の胸から離れようとしないノエルを挟んで、僕は霧島に突然沈黙したフンババのことや、まるで死んだみたいに静寂とした森での不思議な感覚、あの時あったことの全てを話して聞かせた。
霧島は一瞬驚いた表情を見せるが、いつもの冷然さを感じさせない、穏やかな微笑を浮かべ、僕に語り掛けた。
「どうやら、勇者様のお目覚めみたいね。あなたは時間と空間の壁を越えて来たの……」
「時間と空間の壁……?」
「数百年前、“虚無の魔王”と戦った英雄、“静剣の勇者”は他者とは違う時間世界で戦ったという話よ。その力は“スロウダイヴ”と呼ばれた……」
「スロウ……ダイヴ……?」
僕は困惑しながらも、その言葉の意味と、自らが体験したあの不思議な感覚から、その能力がどんなものであったかを直感的に理解した。
それは時間の不可逆性を歪ませ、空間の不文律を超える力。シンプルに言ってしまえば、速く動くことができるようになり、感覚的には自分以外の周囲の時間を遅らせる能力といったところだ。
しかし、僕はこの後に及んで、根本的なことを見逃していたことに気付いた。
「だけどさ、そんな力が本当にあったとして、何でこの世界に関係ない俺にそんな力があるんだ?」
「そう、確かに今までのあなたはこの世界とは無関係な存在だった。だけど、世界の永続性から見れば、それは些細な問題」
「言ってる意味がよくわからないな……?」
「あなたは輪廻転生って信じるかしら? まあ、信じようと信じまいと、あなたが存在している時点でそれはもう疑いようもない事実なのだけれど……」
またポエムみたいで焦れったく、回りくどい言い回しであったが、僕は霧島の話に食い入るように引き込まれ、半ば放心していた。霧島はそんな僕の反応を嘲笑うかのように事の真相を語った。
「そう、あなたはかつての勇者の魂が別の世界に流転した姿。あなたは無知で無力であったけれど、この世界に帰還した。永遠と一瞬は交差し、ついにその扉は開かれたの!」
いつもクールな霧島の声は、歓喜するように張り上げられ、僕の胸に顔を押し付けていたノエルまでもが振返り、陶酔する霧島の顔を不思議そうに見上げた。
そして再び穏やかな微笑を浮かべた霧島は、声のトーンを下げて、僕の目覚めを、そして勇者の帰還を祝福した。
「おめでとう。そしておかえりなさい。那木 吾妻君……いいえ、汝の名はスロウダイバー、静剣の勇者“シューゲイザー”」
次回作投稿日までに何とかリメイクを終わらせたいところです。