第五十五話 この階段の先に、君にとっての新しい世界があらんことを
この話で、魔王誕生編が終わります。
原因不明の黒い瘴気によって祖国が滅びた時、アキレス・シューゲイザーは遠い異国の地にいた。
その頃には、彼は『静剣の勇者』と呼ばれ『暁の騎士』の再来と持てはやされていた。彼は大魔導士マッドチェスターと共に数多の魔物を討伐し、ハシエンダの英雄となっていたのだ。
シューゲイザーとマッドチェスターは、人々を死に至らしめる黒い瘴気からハシエンダを救う為、亡国の王都へと向かった。
後に魔法王国マッドチェスターを建国することとなる、大魔導士レイラ・ニーナ・マッドチェスターは、淡い鹿色の長い髪に深い海の底みたいな青色の瞳をした、まだ若い少女であった。
彼女の曽祖父は魔族であった。覚醒遺伝によって彼女は幼い頃より高い魔力を持ってはいたが、人々はそれを気味悪がってこの子はいずれ魔女になると恐れ迫害した。
そんな彼女を救ったのは、たまたま町に立ち寄った遠い異国の少年であった。他者と異なる自分を呪っていたマッドチェスターに、彼は笑ってこう言った。
「僕も人とは違う力を持っている。だけど今はそれに感謝しているんだ。この力が無ければ救えなかった命が沢山あるんだから……」
レイラ・ニーナ・マッドチェスターは自らと同じような境遇でありながら、ただ人々の為に力を尽くす彼の存在に光を見た。彼女にとって、自分が何の為に生まれてきたのかを知った瞬間でもあった。
彼女はアキレス・シューゲイザーと共に旅立ち、その有り余る魔力によって多くの人々を救った。彼女の登場によって、これまで蔑視されていた魔法使いという存在は、ときに救世主にもなり得ることを民衆に知らしめたのだ。
そんな大魔導士マッドチェスターと共に王都へ辿り着いたシューゲイザーは、街中に横たわる腐乱した人々の亡骸に呆然とする。
かつて彼が見た活気に溢れ、賑やかであった王都は、見るも無残な死の町へと変わり果てていた。
その光景にレイラ・ニーナ・マッドチェスターは蒼白な顔で呟く。
「まるで悪魔の仕業ね……恐らく他の町ももう……」
「ああ、早くしないとハシエンダ中の人たちがこの黒い霧で死んでしまう……」
そう言ってアキレス・シューゲイザーは、より邪悪に濃さを増していく黒い瘴気の中心へと向かった。
街の中心、塔の下に広がる大広場に彼女は立っていた。禍々しい黒い瘴気に包まれた彼女に向かってアキレス・シューゲイザーは斬りかかった。
スロウダイヴという時間の流れを操る特殊能力を持った彼に、彼女の喉元へ剣先を運ぶことは容易であった。
そのままこの邪悪な魔物の喉を切裂いて、全てが終わると彼が思った時だった。
「き……君は? 何で君がこんなところにいるんだ!?」
それはかつて、世界を救うほどの力を与えられ、迷える少年を救ったあの聖女ヴィヴィアン・ウッドストックの変わり果てた姿だった。
取り乱すシューゲイザーに対して、ヴィヴィアン・ウッドストックは冷たく微笑して答えた。
「無駄ですよ……。私は『虚無の魔王』……全ての人々を殺戮し、無に帰す存在。私にはもう喜びも悲しみも、希望も絶望も、死の安息ですら訪れることはありません……」
距離をとって狼狽するシューゲイザーの元へレイラ・ニーナ・マッドチェスターが駆け寄る。
「あの人は誰なの?」
「昔、僕を救ってくれた恩人だ。彼女を殺すなんて僕にはできない……」
「……ははは、ご心配には及びませんよ、勇者殿」
「誰だ!?」
不愉快な哄笑と共に、ヴィヴィアン・ウッドストックの影から煙のように現れたのは、一見慇懃そうなインチキ臭い紳士であった。
彼はシューゲイザーたちに向かって深々と一礼をし、不敵な笑みを浮かべた。
「お初にお目にかかります。私はこの方、『虚無の魔王』様の誠実な後見人、デーモン・アドバートと申します。以後お見知りおきを……」
「この邪悪な魔力……あなた、悪魔ね?」
「流石は大魔導士レイラ・ニーナ・マッドチェスター様。確かに心ない人たちは、私のことを悪魔だとかメフィストフェレスだとか呼びますけどね。……まあ、仰る通りでございます」
魔族の血が流れ、魔力感知に優れたマッドチェスターは、本能的にデーモン・アドバートが“邪悪な魔物”……正しく『悪魔』であることを察する。
シューゲイザーはそれを聞いてがなりたてるように言った。
「彼女に何をした!? 事と次第によっては、まずお前から始末させて貰う!」
「おやおや、おっかない。とても勇者の言葉とは思えませんね。だがしかし、私はきっかけに過ぎません。この方が虚無の魔王となられたのは、今そこら中に倒れている人間たちのせいなのです!」
「どういうことだ!?」
「彼らはこの方が神に匹敵するほどの救世主であったにも関わらず、恐怖、欲望、怠惰、慢心によって愚かにも処刑しようとしたのです。ですから神は彼らに愛想をつかした……。
人々を救う筈であった力は、審判の時を迎え、愚かな人間に牙を剥く。人間は自らの手によって究極の破壊者、『虚無の魔王』を生みだしたのです!」
「お前の目的はなんだ? 彼女を使って何をしようとしている?」
鬼気迫るシューゲイザーの問い掛けに、デーモン・アドバートはそれを嘲笑うように両手を振りかざす。
「破壊と再生……これは偉大なる粛清なのです! あなた方もお分かりになるはずです。自らの弱さによって、本当に優れたものや美しいものを台無しにする人間の愚かさが。
そうです! あなた方のような優秀な方々は生き残って新たな世界を創るに相応しい。さあ、一緒に行きましょう! かつて迫害されていたあなた方が、新世界の王となるのです!」
「アキレス、耳を貸してはダメ! 悪魔はああやって人の心につけこむの!」
「ああ、まずは悪魔退治だ!」
シューゲイザーとマッドチェスターは、臨戦態勢に入る。それを見ても尚、デーモン・アドバートは彼らをせせら笑うように言った。
「ははは――、私を殺したところで、何の解決にもなりませんよ? 永遠にも等しい虚無をうちに秘めたこの方を誰も殺すことはできない。もう審判は下されたのです。誰も止めることはできない!」
彼はそれが悪魔の戯言であって欲しいと信じたかったが、真実は既に目の前にあった。ヴィヴィアン・ウッドストックの虚無は更に肥大し、膨大な黒い瘴気を発していく。
世界を暗雲が呑み込もうとする最中、レイラ・ニーナ・マッドチェスターは静かに口を開いた。
「一つだけ……一つだけあの人をどうにかできる方法があるかもしれない……」
「な……何だって!?」
『天国への階段』――それは魔法と呼ばれるものの中でも、生と死を超越した最高難易度の秘術。人を魂へと還元させ、遠くの異世界へと転生させるという壮大括究極の魔法だった。
確かにこの方法であれば、ヴィヴィアン・ウッドストックに宿った途方もない量の虚無を浄化、或いはそれが完全にできなかったとしても、この脅威を遠い異世界へと退けることができる。
だが、『天国への階段』には大きな弱点があった。その効力を発揮させるには、魔法によって作りだされた光の階段を登り、異界へと続く扉へと対象を導かなければならない。
『天国への階段』の発動には膨大な魔力が必要とされ、使用中の術者は一切身動きが取れない。第三者の協力が必要不可欠であった。
「それしかないな、レイラ、その魔法を使ってくれ」
「危険すぎるわ! あの扉へ吸い込まれでもしたら、もうあなたは生きて帰れないのよ」
シューゲイザーの勇敢さが、マッドチェスターには許せなかった。
マッドチェスターの悲痛な呼び掛けに、シューゲイザーは全てを悟ったように答えた。
「彼女は皆から蔑まれ、恐がられるだけだった僕のことを救ってくれた。今じゃ勇者なんて呼ばれてる。これも全て彼女のおかげなんだよ。
それに約束したんだ。もし彼女が気を病んでしまうようなことがあったら、そのときは命に代えてでも救ってみせるって……」
「もしあの人があなたを救ったのなら、私はあなたに救われたの。だから私には、あなたのいない世界なんて想像できない!」
「まだ死ぬって決まったわけじゃないだろ? なーに、僕にはスロウダイヴだってあるんだ。上手くやるさ!」
静剣の勇者の少年のような屈託のない笑顔に、マッドチェスターは勝てなかった。彼女は『天国への階段』を発動することに対し、シューゲイザーへ一つの条件を出した。
「絶対に、絶対に私の元へ生きて帰ってきて……」
「ああ……約束するよ」
深い溜息を吐いてレイラ・ニーナ・マッドチェスターは、『天国への階段』の詠唱に入る。
膨大な魔力を秘めた彼女は魔法を使用する際、普段はほとんど詠唱を必要としなかったが、『天国への階段』の発動には長い長い詠唱が必要だった。それを見ていたデーモン・アドバートがせせら笑うように言う。
「おやおや、何をしようというのです? どうせ何をしようと悪あがきに過ぎませんがね」
「神々の創りし異界への門よ、光の階段の先で迷える者の為にその扉を開き、彼の者の魂を安息の世界へと導き給え――」
数分間の詠唱の後、彼女の両手から放たれた七色の眩い光は、空間を切裂きながら空高く昇っていく。
「――今こそ、その荘厳な姿をこの俗界に降臨させん……『天国への階段』よ!」
大広場の石垣は地響きと共に引き裂かれ、大地から空へと光輝く巨大な階段が伸びていく。
流石のデーモン・アドバートも、目の前に現れた圧倒的スケールの召還魔法に腰を抜かして驚愕する。
「な……まさか、これほど強大な魔法を……!? しかし……実に美しい!」
気が触れたみたいにはしゃぐデーモン・アドバートは、諸手を挙げて感激に打ち震えた。それを尻目に、膨大な魔力を消費して酷く疲弊したマッドチェスターがシューゲイザーへ呼び掛ける。
「さあ、扉は開かれたわ。長くは持たないの、早く彼女を!」
「ああ、すまない。本当にありがとう……」
シューゲイザーは、虚ろな表情のまま黒い瘴気を放出し続けるヴィヴィアンの元まで歩み寄り、親し気に微笑して彼女に手を伸ばした。
「君はこの世界で沢山の人たちを救った。だから今度は、君自身が救われなきゃならない。疲れ果てた君の魂に穏やかな安息を……そして、再び美しい心の君へ……」
「この私を……こんな忌むべき存在の私を救うというのですか? 決して終わることのないこの永遠の虚無から解き放とうというのですか?」
「ああ、この階段の先に、君にとっての新しい世界があらんことを――」
真っ暗闇にロウソクが灯ったように、虚ろな顔をしたヴィヴィアンは穏やかに微笑して彼の手を取った。
そのままシューゲイザーとヴィヴィアンは寄添うように歩き出し、一段一段ゆっくりと光の階段を登っていく。
幾重にも折り重なった黒い瘴気の隙間からは、徐々に陽の光が差し始め、彼らの進む光の階段の先から神々しい光を浴びせた。
この壮大な異界へと続く光の階段を維持する為に、マッドチェスターはその表情を悲痛に歪め、それをよそにデーモン・アドバートはその神秘的な光景に魅了されていた。
「まさしくこれは奇跡だ。私は生まれてこの方、こんなにも心震える美しい光景を見たことがない!」
デーモン・アドバートの狂ったような哄笑が辺りに響き渡る中、シューゲイザーとヴィヴィアンは最後の一段を登り切る。
光の階段の終点で、開かれた大きな扉の中からは、天使たちの戯れの声が聞こえ、飛び交う妖精たちがまだ見ぬユートピアへと優しく誘っていた。
ここまで来て、ヴィヴィアンを蝕んでいた虚無の瘴気を、扉の中の住人たちが徐々に吸い取り、浄化していく。ヴィヴィアンの顔からは優しい笑みが零れた。
「勇者シューゲイザーよ、よくぞ私をここまで導いてくれました。ここでお別れのようです。ハシエンダの真の英雄であるあなたに、どうか神の祝福があらんことを……」
そう言って、シューゲイザーの手を離して扉へと進んだ彼女に、天使や妖精、扉の中の住人たちが突然牙を剥く。
天使は矢を取り、彼女を射抜こうと狙いを定め、妖精たちは連なって彼女の行く手を遮り罵声を浴びせた。
「永遠の虚無に侵された邪悪なる者よ、汝は我らの手に負えぬ。例え汝の魂が浄化され異世界へと転移しようと、再び汝の魂は虚無に浸食され、その邪悪な力で世界を滅ぼすであろう……」
「そうですか……。やはり私は許されざる者。勇者よ、すみません。どうかこの罪深い私をお許し下さい……」
振返って儚げに微笑するヴィヴィアンを見たシューゲイザーに、最早他の選択肢はなかった。彼は時間の潮流の中へと深く潜り込み、ヴィヴィアンを抱きかかえると、天使や妖精が守る扉の中へとその間隙を縫って飛び込んだのだ。
「ごめんよレイラ、どうやら君との約束は守れそうにない。だがこれで、この世界も彼女も救われる……」
スロウダイヴしたシューゲイザーは、扉の奥深くへと走った。徐々に彼の意識は朦朧となり、スロウダイヴから浮上した彼にヴィヴィアンが少し驚きながら語り掛ける。
「あなたは滅茶苦茶なのですね。ですが、あなたのような人と共に行けることを、申し訳ありませんが、嬉しく思ってしまいます」
「これしかないんだ。僕も君と一緒に新しい世界へ行こう。君が再び虚無に侵されるようなことがないように……いや、もしそうなったとしても僕が君を救ってみせよう」
「ありがとう。あなたに会えて本当に良かった。私たち、一体これからどこへ行くのでしょう?」
「わからない。だがどんな世界へ行こうと、僕は君と共にある。それが例え勇者と魔王であってもね」
「それなら心配はいりませんね……」
そうして、静剣の勇者とかつて聖女と呼ばれた少女は、七色に輝く光の中へと消えて行った。
一般的な伝承とは大きく異なるものの、静剣の勇者が虚無の魔王を封印し、ハシエンダを救ったという事実には間違いないだろう。
何故ことの真相は歪曲され、かつて聖女と呼ばれた少女は歴史から抹消されたのか。それはある少女の悲しみから始まった。
全てが終わった後、閑散とした王都の大広場で、一人の少女がその場に崩れ落ち泣き叫んでいた。
レイラ・ニーナ・マッドチェスターはまだ無邪気な少女であった。彼女の心にはシューゲイザーほどの高潔な正義感はなく、ただ彼への思いだけがあった。
ただ彼の傍にいて、彼の役に立って一緒に笑っていたかった。彼女はそれだけだった。その思いが彼女を突き動かしていたのだ。
最愛の者を失ったマッドチェスターの深い悲しみは、それを奪った者への憎悪へと変わる。
「あの女……絶対に許さない! いつか必ず、あの人を私の元へ取戻して見せる!」
一人の少女の深い悲しみ、憎悪、嫉妬によって、静剣の勇者の偉業だけが残り、名も無き聖女の悲劇は歴史から葬られた。
後に魔王から世界を救ったその偉業が民衆からの支持を受け、彼女は魔法王国マッドチェスターの国母となる。
そして年をとり、結婚して子供ができても、彼女の心からその感情が完全に消えることはなかった。彼女は異世界転移の魔法の研究を続け、亡き勇者を探し求め続けたのだ。
彼女の研究の成果によって、奇しくも数百年後に彼女の末裔の少女と勇者の生まれ変わりは、遠い異世界で巡り会うことになるわけだが。
お読み頂きありがとうございます。
今最終話を執筆しており、間もなく書き終えるところです。
文字数もいよいよ三万字を突破しました。
名もない作者のお話をここまで読んで頂いた皆様には、本当に感謝の言葉もありません。
物語も残り僅かとなってきましたが、最後まで宜しくお願いします。