第五十四話 魔王が生まれた日
魔王誕生編(?) 第二回です。
第二章のときのように対話が中心のお話しです。
薄暗い地下牢で謎の慇懃な悪魔――デーモン・アドバートと名乗る男――は、聖女ヴィヴィアン・ウッドストックにただ話しがしたいのだと訪ねてきた。
勿論ヴィヴィアンもこのインチキ臭い悪魔が、何かロクでもないことを考えているのではないかと疑いながら、彼の提案に承諾した。
デーモン・アドバートは付近にあった看守用の椅子に腰かけ、落ち着いた面持ちでヴィヴィアンに問い掛けを始める。
「まず初めに、あなた様は今この不幸で不条理な状況にご納得なのでしょうか? あなた様は聖女として数多くの民衆の心を救済し、本来神のように称えられて然るべきだ」
「いいえ、私は神にはなれないし、なるつもりもありません。今私がこのような状況にあるのは、天より与えられた試練なのです」
「では、あなた様はあの薄汚い大神官や国王を、少しもお怨みではないと?」
「はい、人々は過ちを繰り返しながら神の御心の元へ向かっています。その為であれば、私は喜んでこの身を捧げましょう」
まっすぐな視線でそう言い放つヴィヴィアンを見て、デーモン・アドバートは深い相槌を打ちながら感嘆した。
「実に素晴らしい。素晴らしい自己犠牲の精神だ。あなた様のように高潔な人間ばかりであったなら、きっと素晴らしい世界となっていたことでしょう!」
「白々しいお世辞はおやめなさい。あなたはそれが間違いであると?」
デーモン・アドバートは顎に手をやり、薄ら笑いを浮かべる。
「大変心苦しいお話しではございますが、あなた様のその崇高な死は、そこで眠りこけている看守ほども意味を為さないでしょう」
「ずいぶんな言い方ですね。その理由は?」
「残念ながら、あなた様のその崇高な魂は、あなた様を捕えたあの薄汚い者たちによって貶められ、邪悪なる者として後世に名を残すこととなるからです」
「戯言ね……」
「どう取るかはあなた様のご自由です。まあ悪魔の戯言だと思ってお聞きください。そもそもあなた様方の信仰する宗教は、いくつもの奇跡的な出来事を元に誕生したと言われています。
些細なものから荒唐無稽なものまで、宗教というのは人智を超えた奇跡によって成り立っているのです。奇跡こそ人々を導く最大の原動力なのです。
だからこそ、奇跡なんてものは本当に起こってはならない。本当に奇跡なんて起こってしまえば、その信仰の根幹を揺るがしかねないのだから。
信仰の中心であった教会の権威は失墜し、それを屋台骨として国家を支配していた王家はその正当性を失うことになる。
彼らにとって、奇跡なんてものは起こらないからこそ価値あるものなのです。ところが、そんな彼らの城壁に風穴を開けかねない者が現れました。
彼女は人々の心の中から虚無を消し去るという奇跡をいとも簡単に起こし、その奇跡を惜しむことなく人々に与え続けました。
もうおわかりでしょう。彼らはあなた様が起こす奇跡なんて必要としていないし、むしろ邪魔でしかなかった。だからあなた様は捕えられ殺される――」
「だから言っているでしょう。私は死など恐れません。人という苗木が成長し、鮮やかな花を咲かせ、豊潤な果実をつけた暁には、私の死は本当の意味を為すのです」
永遠と持論を展開していくデーモン・アドバートを、ヴィヴィアンは多少煩わしく感じたのか、眉をひそめて苦言を呈する。デーモン・アドバートは意にも介さずに話を続けた。
「そう、彼らはあなた様を恐れ、あなた様を殺します。と同時に、彼らはあなた様の死すらも恐れているのです。
人々を救済した聖女が、言われない罪で処刑されれば、あなた様は神に殉じた悲劇のヒロインとしてより一層の信仰を集めることとなるでしょう。
だから彼らは、何としてもあなた様の存在を貶め、聖女ヴィヴィアン・ウッドストックを邪悪な者とする為に歴史から抹殺しなければならない。
今この城の外では、あなた様のことを邪悪な異端者として教会や王族が国を挙げて人々に流布して回っております。実に嘆かわしいことだ……。
あなた様は後の世に、人々を恐怖に陥れた異端の魔王として名を残すことになるのです・・・」
「言いたいことはそれだけでしょうか?」
「この後に及んでも、まだあなた様はそんな下らない人間の為に殉じるというのですか?」
呆れたように肩をすくめるデーモン・アドバートに対して、ヴィヴィアンは落ち着いた面持ちで返答する。
「人は弱くて不完全な存在なのです。ですから私は全ての憎しみを受入れ、その弱さを愛しましょう」
そう言うヴィヴィアンのどんな色にも染まることのない漆黒の瞳には、一寸の淀みもなかった。
デーモン・アドバートはその美しい眼差しを食い入るように見つめ、感極まる。
「やはりだ。やはり私の思った通りだ! あなた様は年端もいかぬ少女なのにも関わらず、この世界に絶望しきっているのですね」
「何を言っているのかわかりません」
デーモン・アドバートの不敵な言葉に、ヴィヴィアンはついに不快な表情で彼を睨む。
「誤解しないで下さい。先程のあなた様の言葉に嘘偽りがないことは、間違いありません。ただし、それが問題なのです。
人は誰しも幸せでありたいと願うものです。あなた様のような年頃の少女であれば、綺麗な服で着飾ったり、好意を抱く異性と結ばれたいと願ったりするのが普通のことなのです。
俗っぽい話ですが、立場上表に出せない者たちであったとしても、心の片隅にそういった欲望を皆秘めているものなのです。
ところがあなた様はどうでしょうか? 恐らくそう言った人間臭い感情は、砂粒ほども残されていないはずです」
「私が異常であると?」
「ええ、何故ならあなた様は人々から集められた虚無の貯蔵庫であるからなのです。あなた様の中の膨大な虚無は、知らず知らずのうちに今もあなた様の心を蝕み続けています。
傍から見れば、あなた様は清廉潔白な存在に映るかもしれませんが、心はもう手遅れなほど虚無に侵されているのです。
だからあなた様には深い絶望もなければ、夢も希望もない。生への執着がないから、肉体の死など全く怖くない。最早生きる屍と言っても過言ではないでしょう」
確信を突いたようなデーモン・アドバートの言葉に、ヴィヴィアンは気分を害すると思いきや、気が触れたように高笑いを始める。
さすがのデーモン・アドバートもその反応は予想していなかったのか、顔を強張らせた。
「……だから何だというのですか? 心を虚無に蝕まれた哀れな少女が、明日処刑されるのが何だというのですか?
私の死が偉大な聖女の殉教であろうと、ちっぽけで哀れな少女の報われない死であろうと、あなたにはどちらでもいいことでしょ?」
「……その通り、私はあなた様自身にはそれほど興味がありません。私の興味の対象は、あなた様の中にある」
「虚無のことですね……。ついに尻尾を出しましたね」
二人の間に緊迫が走った。薄暗い地下牢の奥からは不気味な鼠の鳴き声が響き、ランプの薄明かりがデーモン・アドバートの微笑を怪しく照らす。
「その通りです。しかも、今あなた様の中の虚無は、あの愚かな大神官や国王があなた様を追い込んだおかげで、物凄い勢いで膨張しております。
長い間にあなた様が溜め込んだ膨大な虚無は、我々の魔力を凌駕するほどの強大な力を持っているのです」
「残念ですが、例え私の心がどうしようもなく虚無に侵されているとしても、悪魔に魂などは売ったりしません」
「おやおや、あなた様が望めば、ここから出して差し上げることもやぶさかではありませんでしたが、どうやら無駄な気遣いだったようですね」
「さあ、早くここから立ち去りなさい。邪悪で狡猾な卑しい悪魔よ」
ヴィヴィアンが毅然とそう言い放つと、デーモン・アドバートは再び深く一礼をして彼女の元から離れて行く。
地下牢から上階へと続く階段をゆっくりと登りながら、デーモン・アドバートは振返って祈りを捧げるヴィヴィアンを見て呟いた。
「虚無に憑りつかれた不幸な少女よ、あなたにはもう聖女としての殉教も、ちっぽけで哀れな少女としての死も訪れることはないのだ……」
★
凍てつくように寒い冬の午後であった。空は黒煙のような分厚い雲に覆われ、日中にも関わらず薄暗い通りに人々の姿はなかった。
異端の魔女ヴィヴィアン・ウッドストックへの刑の執行が、見物に来た群衆の面前で盛大に執り行われようとしていたからだ。
教会の大きな鐘の音が鳴り響く中、広場に集まった老若男女の群衆は口々にヴィヴィアンへ罵詈雑言を浴びせ掛け、刑の執行の時を今か今かと待ちわびていた。
刑の執行前、大神官はヴィヴィアンに神への許しを乞うように言ったが、彼女は、
「必要ありません。その代わりに、あなた方のこの行為が神に許されるよう祈りましょう」
と言って、大神官の言うことを拒否した。
この悪態とも取れるヴィヴィアンの言葉に群衆は更に沸き立ち、心無い言葉が飛び交う中、彼女は処刑台へと運ばれて手足を縛りつけられた。
もう間もなく処刑台に火がつけられようとしていた時、ヴィヴィアンの前に再びあの男が現れた。
その男は相変わらずインチキ臭い薄ら笑いを浮かべ、慇懃な様子で処刑台まで登って来る。
「ご機嫌よう……と言っても、ご機嫌なわけがありませんがね」
「あなたですね。また来たのですか。仮にも神職者たちの前に堂々と出てくるなんて大胆不敵な悪魔ですね、あなたは」
「ご心配には及びません。私の姿は彼らには見えていないはずです。あなた様だけのデーモン・アドバートでございます」
再びヴィヴィアンの前に現れたデーモン・アドバートは、彼女の前で帽子をとって深く一礼をした。
ヴィヴィアンは流石に鬱陶しく思い、溜息を吐いて冷然と答える。
「こんなところまで、一体あなたは何をしに来たのですか? 私の死を嘲笑いにでも来たというのですか?」
「滅相もございません。私がここに来たのは、あなた様にお伝えしたいことがあってのこと」
「無意味なことを。私はもう体の自由がききませんので、どうぞご自由に……」
「恐れ入ります。あなた様がこれまで救った民衆が、あなた様の処刑に反対して決起しました。何と素晴らしい! あなた様の行為は間違いではなかった!」
「そうですか……」
「ですが、残念ながら決起した民衆は軍に弾圧され、多くの人々が女子供まで殺されたという話です……。実に嘆かわしい」
「そうですか……」
「それから、あなたの家も異端の魔女を生んだ呪われた一族として領地は改易、ご家族もどうなってしまうのやら……」
デーモン・アドバートの演技がかった大袈裟な言い回しに、ヴィヴィアンは無反応であったが、最後に瞳を閉じて深い溜息を吐いた。
「認めたくはありませんが、あなたの言った通り、私の心はもう死んでしまっているようです。今こうしてこの場に立って、人々から心無い言葉を投げかけられ、あなたがどんな悲しい話をしても、何も感じないのです。
深い悲しみもなければ、心が晴れやかになることもない。時が経つにつれ私は人でなくなっていく。そして今私の死んでしまった心の奥底で、卵の殻を破って黒い何かが生まれようとしています」
「審判の時は来たのです。無能な神官や王族、無知な民衆は最も神に等しい救済を最悪の厄災に変え、神は魔王となって愚者たちへ鉄槌を下すのです!」
両手を振り上げてデーモン・アドバートは、気が触れたみたいに祝福の声を上げる。
そしてヴィヴィアンのやせ細った体からは、誰もが視認できるほどのどす黒い瘴気が溢れ出していた。
その異常事態に大神官や国王は、狼狽しながら我先にとその場から逃げ出し、民衆たちは怒号や悲鳴を上げて押し合い圧し合いを始める。
ヴィヴィアンは辛うじて意識を保っていたが、彼女はもう聖女ヴィヴィアン・ウッドストックなどではなかった。
「私は……私は一体どうなるの……?」
「私は今日という日を一生忘れないでしょう! あなたは今日生まれ変わったのです! 溢れ出す虚無によって愚かな人間を滅ぼし得る魔王……そう、『虚無の魔王』の誕生なのです!」
かつて聖女と呼ばれた少女の体から溢れ出る邪悪な虚無に呑み込まれ、次々に倒れていく群衆。広場に子供の泣き叫ぶ声が響き渡る中、デーモン・アドバートの耳障りな哄笑が、まるでこの世の終わりを予見させているようであった。
ありがとうございます。
次週で魔王誕生編の最後です。
来週も宜しくお願いします。