第五十三話 聖女ヴィヴィアン
ここで話は過去へと移動します。
語りは一応吾妻君です。デーモン・アドバートが見せた幻を赤裸々に語っています。
ハシエンダ悠久の歴史において、聖女ヴィヴィアン・ウッドストックについて知る者は稀有である。
彼女が成し遂げた人々への多大なる救済は、歴史から抹消され、いつしか人々は彼女の存在を忘れた。
これは、最も神に愛された少女の数奇な運命の物語である。
ヴィヴィアン・ウッドストックは、ハシエンダにあった小国の貴族の娘としてこの世に生を受けた。
裕福な家庭で何不自由なく育った彼女は、物心がつくと自分たちが豊かな生活をする一方で、領民たちが貧しい生活を強いられていることに疑問を持つこととなる。
12歳となったヴィヴィアンは、度々身分を隠して領内を散策するようになり、彼女の両親は頭を痛めた。
少女ヴィヴィアンが見た町人や農民たちは、先行きの見えない自分たちの生活に半ば絶望し、それが黒い靄となって彼らを薄っすらと覆っていた。
不思議なことに、その黒い靄はヴィヴィアン以外の目には映らなかった。初めて見る異様な瘴気に、ヴィヴィアンは恐怖を抱きつつも、幼い好奇心を膨らませていた。
そしてある時、幼いヴィヴィアンは膨大な黒い靄を纏った男と出会った。
今にも死んでしまいそうな、生気のない男を憐れんだヴィヴィアンは、何もできないとわかっていたが、その男を放ってはおけなかった。
「おじさん、何でそんなに元気がないのですか?」
年端のいかない少女の気遣いに、その男は悲し気に微笑して答えた。
「お嬢ちゃん、心配してくれてありがとう。でも、もうどうにもならないんだ……」
「良ければ、話をお聞かせ下さい」
「なーに、息子が病気で死んじまったのさ。あんたは、どっかいいとこのお嬢さんみたいだから、よくわからんかもしれないけど、ここいらじゃよくある話さ……」
「お可哀想に、どうかあなたに神のご慈悲がありますように」
するとその男は、むせび泣くのを堪えるように、ヴィヴィアンに対して声を荒げた。
「神様っていうのは、いつだって俺たちには無慈悲なんだ! 死んでいく息子に腹いっぱい食わせてやることすらできないんだからな!」
男の剣幕に、幼いヴィヴィアンは恐怖を覚え、一瞬その場からたじろぐ。
しかしヴィヴィアンは、同時にどうにかしてこの男を救ってあげたいと、ただ思うがままに男の手を掴んだ。
「どうか、あなたの子が神々の国へと辿り着き、あなたの悲しみを晴れさせ、その身に天の光が降り注がんことを……」
「そんな綺麗事……?」
そうするとどうだろう。男の心を埋め尽くしていた不安や絶望は、どんよりと雲で覆われた空から薄日が差すようにみるみる晴れていく。
ヴィヴィアンは、男を覆っていた黒い靄が自分の体へと吸い込まれていくのを見た。
男は穏やかに微笑する少女の前に膝まづいて涙を流す。
「こんな晴れやかな気分は、いつ以来だろう……。まるで夢みたいだ……」
それはハシエンダの地方都市で起きた小さな小さな奇跡だった。
やがて、触れたものの心を救う少女の噂は、少しずつ広まっていった。
そして彼女は、生まれた町に留まらず、領内各地を回って人々の心を救済していく。
いつしか彼女は人々の信仰を集め、『救いの聖女』と呼ばれるようになる。
各地で人々を救済したヴィヴィアンは、いつしか14歳となっていた。
そんな彼女がとある町で出会ったのは、例によって虚無の瘴気に憑りつかれた黒髪の少年だった。
彼は亜人と人間とのハーフだと言われ、他の人間からの差別対象となっていたが、彼自身も自分の身の上について深くは知らなかった。
ヴィヴィアンがその少年を見た時、深い虚無の瘴気の中の奥深く、人ならざる光を見た気がした。
絶望しきって淀んだ目をした少年へ、ヴィヴィアンは優しく微笑して語り掛ける。
「あなたは、何をそんなに気に病んでいるのですか? どうか聞かせて下さい」
「……皆僕のことを蔑み、毛嫌いするんだ。何故僕は生まれてきたのだろう?」
「あなたの中には、私が見たこともないような神々しい光が見えます。きっと私たちなどには、考えも及ばぬような大きな使命を持って生まれてこられたのでしょう」
「そんなの気休めだよ……」
少年には、ヴィヴィアンの言葉など気休めにすらならなかった。
訝し気にする少年に対し、ヴィヴィアンは優しく微笑したまま手を差し伸べる。すると少年を覆っていた深い虚無の瘴気は消え去り、眩い光にヴィヴィアンは瞳を閉じる。
「……何だか、悪い夢でも見ていたみたいだ。世界がこんなにも美しく見えるなんて。聖女ヴィヴィアン、君にはどう感謝すればいいか……」
「やはり、あなたは特別な人のようです。どうかその力で、苦しむ人々を救ってあげて下さい」
「いや、それでは君に恩返しできない。僕の気が済まない」
心の内に光を秘めたその少年は、必死にヴィヴィアンへと詰め寄り、彼女は頭を悩ませる。
「……それでは、こういうのはどうでしょう? もし私自身が心を病むようなことがあれば、その時はあなたが私を救って下さい」
「わかったよ! そのときは、命に代えてでも君を救ってみせよう!」
言ってしまえば、それはヴィヴィアンのその場凌ぎの出まかせであったが、少年は目を輝かせてその言葉に殉じようと決意する。
そして最後に、ヴィヴィアンはこの心に光を宿した少年の名を尋ねる。
「未来の勇者よ、どうか私にあなたの名を教えて下さい」
「はい、僕の名はアキレス、アキレス・シューゲイザー――」
この瞬間が、後の“静剣の勇者”の目覚めであった。
アキレス・シューゲイザーはこの後、ハシエンダ各地で人々を苦しめる魔物を退治し、名実ともに勇者となっていく。
★
ヴィヴィアン・ウッドストックとアキレス・シューゲイザーの出会いから数年後、ヴィヴィアンは王都にいた。
救いの聖女の来訪を、王都の人々は歓喜して迎えた。
彼女はいつものように虚無に苦しむ人々を救っていく。
聖女の救いを受けようと、人だかりとなった街の広場を、ある馬列が通りかかる。仰々しい法衣を纏った初老の男性が右手を上げると、従者が民衆へ大きな声で呼びかける。
「この騒ぎは何事であるかと、大神官様のお尋ねである!」
民衆は恐れ戦き、モーゼによって開かれた海のように聖女ヴィヴィアンへの道を開けた。
大神官は馬に騎乗したまま、ゆっくりとヴィヴィアンの元へと進んで行く。
そしてヴィヴィアンの元へと辿り着いた大神官は、穏やに彼女へ問い掛ける。
「少女よ、汝が巷で騒がれる救いの聖女ヴィヴィアン・ウッドストックか?」
「大神官様、勿体なきお言葉……。私ができるのは、人々の心に巣くう闇を消し去ることのみ。救いの聖女などとは、畏れ多いことでございます」
「なるほど。では、汝が人の心の闇を消し去るというのは、誠のことであるかな?」
「畏れながら、嘘偽りではございません……」
大神官が乗る馬の前で跪き、ヴィヴィアンは大神官の問い掛けに丁寧に答える。
すると大神官は、ヴィヴィアンに対して全てを悟ったように柔らかに微笑し、従者へ向かって呼び掛けた。
「この娘は神を冒涜し、民衆を扇動する異端者である。この娘を捕えよ!」
聖女ヴィヴィアンは、為す術もなく大神官の従者に捕えられ、城へと連れて行かれた。
民衆は恐怖のあまり、聖女と呼ばれた少女が連行されるのを、ただ呆然と眺めるしかできなかった。
城の地下牢に収監されたヴィヴィアンは、異端審問にかけられ、間もなく国王は彼女を火刑に処すことを命じた。
牢の中で刑の執行を待つヴィヴィアンは、憔悴しきっていたものの、未だその目は死んでいなかった。
彼女は牢の見張りの下郎にさえも救いの手を差し伸べ、最後まで聖人であろうとしたのだった。
そして刑の執行を明日に控えた夜、静かに祈りを捧げるヴィヴィアンの元へ、ある一人の男が現れる。
ランプの薄明かりが照らし出すその姿は、ポーラーハットを被り、チェックのツィードスーツを纏った田舎貴族風で、慇懃そうでありながらインチキ臭い微笑を浮かべて現れた。
そのインチキ臭い田舎紳士風の男は、どこからともなく入ってきて、ヴィヴィアンの入っている牢の前へ歩み寄り、深く一礼をする。
「聖女ヴィヴィアン・ウッドストック様とお見受け致します。お目にかかれて光栄でございます」
「邪悪なる者よ、ここから立ち去りなさい。あなたの来るような場所ではありません」
ヴィヴィアンは、本能的にこの男が人ならざる者であることを察した。彼女が睨みつけると、男はお道化てみせた。
「おやおや、初対面なのに嫌われたものですね。確かに心ない人たちは、私のことを悪魔だとかメフィストフェレスだとか呼びますけどね。
私の邪悪さなんて、あなた様を処刑しようとしているロクでもない者たちに比べれば、かわいいものだと思いませんか?」
「賢しい悪魔よ、名を名乗りなさい」
「これはこれは、私としたことが大変失礼を。私はデーモン・アドバート、卑しい魔族の商人です」
「死を前にして、怖気づく私を誑かしにきたのですね?」
ヴィヴィアンの毅然とした反応に、デーモン・アドバートはお道化たような薄ら笑いで答える。
「いえいえ、私はあなた様が天に召される前に、一度お話しがしてみたかっただけです。果たして、聖女と呼ばれる方が、どのようなお考えをお持ちなのかと。どうかこの卑しき私めにあなた様の高貴なお考えをお聞かせ下さい」
「いいでしょう。私があなたの下賤な誘惑になど屈しないことを証明しましょう……」
牢の見張りが眠りこける薄暗い地下牢、鉄格子を挟んで向かい合った聖女と悪魔。
張りつめた沈黙の中に水滴が落ちる音が鳴り響き、今ここに誰も知ることのない邂逅が果たされていた。
「さあ、なんでも聞いてみなさい。私が知る限りのことをお答えしましょう」
「これはこれは、ありがたき幸せ、恐悦至極でございます」
まるで勝ち誇ったように微笑するヴィヴィアン。デーモン・アドバートは彼女の付け入る隙を伺うように、再び慇懃に一礼をしてみせる。
今、ハシエンダ史上最悪の厄災、『虚無の魔王』誕生の秘密が明らかになろうとしていた。
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終盤ですが、最後までお楽しみ下さい。