第五話 魔獣の棲み処へ 【RE版】
リメイク……とついてますが、このお話に限ってはほぼ変ってません。
朝目覚めても、闇夜に佇む愁いを帯びた霧島の姿が、僕の脳裏からは離れなかった。
古びた木の食卓へ朝の日差しが、夜にはなかった優しい彩を与え、そこに座った霧島は、用意された朝食を何事もなかったかのように食していた。
寝起きの良くない僕は、若干朦朧としながらも、彼女の表情を横目で伺ってしまう。それに気付いた霧島が、不愉快そうに視線をこちらに向けると、僕は慌てて目を逸らした。
「何? 私の顔に何かついてる?」
「いや、今日の霧島の体調はどうかな……なんて」
「人の心配する暇あったら、自分の心配でもした方がいいんじゃないの?」
その冷たい表情から放たれる、人を小馬鹿にしたような憎まれ口は、腹が立つほど普段の霧島そのものだった。
僕と霧島のやり取りを前で見ていたノエルは、僕が霧島ばかり気にすることに、少しムッとした表情を見せる。よく分んないが、難しいお年頃のようだ。
食事が一段落すると、僕は至る所が破れてみすぼらしくなった学校の制服から、イアンの用意してくれたエルフの服に着替える。ウールのような荒い手触りをしたアイボリーのシャツに、サスペンダーで膝当てのついたズボンを吊り、革のブーツを穿いた。
武器・防具に関しては、簡素な革の胸当てと扱いやすそうな短剣を腰に差した。短剣と言っても、真剣であるそれは、木刀などより全然重い。イアンは一緒に弓矢を持っていくように勧めてくれたが、扱えない僕にとっては、ただでさえ少ない戦闘力を武器の運搬で更に削られるだけなので、丁重にお断りした。
どう見ても、そこらの農夫の息子が背伸びして武具を身に着けたくらいにしか見えない僕の格好を、不安そうに見つめるノエル。霧島は新種の珍獣でも見るかのように、僕の頭から足先までをつぶさに見回し、
「……馬子にも衣装」
と、ボソッと呟いた。何だか小馬鹿にされているような気は否めなかったが、いつも辛口の彼女のお褒めに預かれたようだ。いや、おそらく……。
霧島はというと、相変わらず制服に黒いパーカーを羽織り、スニーカーを履き、黒いメッセンジャーバッグを下げていた。黒のパーカーは魔法使いの着るローブを何となく彷彿とさせたが、これじゃ、第三者が見たら僕だけコスプレしてる馬鹿みたいじゃないか。
フンババの潜む森へと入ろうとする僕らに、イアンは簡単な道案内をする。彼自身、僕らに同行したいと願い出ていたのだが、霧島がそれを断った。早い話が足手まといということなのだが、できれば僕の代わりにお願いしたいところだった。
「この森の先に、樹齢数千年と言われる“ユグドラシル”という巨大な神木がある。本来我々にとって神聖な場所なのだが、今はフンババが根城にしている」
「そこに行けば、あのキメラ野郎がいるのね」
霧島は目の前に広がる、鬱蒼とした針葉樹林を嘲るように見つめる。
族長のマクレガンをはじめ、村中のエルフたちが、僕らを見送りに来ていた。ここまで来たら、やっぱり怖いから行きたくないなんて言えないよね。
「あなたたちに森の加護があらんことを!」
「マッドチェスター様!」
「勇者様!」
僕は社交辞令的に彼らに手を振り、無理矢理引きつった愛想笑いをして、先を急ごうとした。
森に入ろうとした僕は、シャツの裾を引っ張られたのに気付いて、振返って目線を下に向ける。
「吾妻、絶対に帰ってくるよね。何だか嫌な予感がするの……」
意地らしく僕のシャツを掴んでいたのは、いつになく愁いを帯び、沈んだ顔をしたノエルであった。
僕も同感だ。フンババに出会って霧島が無双するにしたって、きっと僕はロクな目に合わないだろうしね。
僕は少しかがんで、彼女のブロンドの髪の上に優しく手を置いた。彼女の青い瞳がその長いまつ毛越しに僕を見つめた。
「霧島も一緒だし、心配ないよ……多分。そうだ、指切りしようか」
「指切り……?」
徐にノエルの白くて小さな手を取って、僕と彼女は指切りをした。僕らのこの風習を、何か親密な者同士が交わすおまじないみたいなものだと彼女は理解し、少し動揺して恥ずかしそうに純白の頬を赤らめ、その青い瞳を僕から逸らした。
ノエルの反応は、罪悪感を抱かせるくらい可愛いものだったが、僕と幼女のそんなやり取りを、霧島は理性も羞恥心もない変態野郎でも見るように、侮蔑の眼差しを注いでいた。
霧島は僕をおいて、森の中へと足を進めた。心配そうに見送るノエルたちを背にして、僕は慌てて霧島の後を追う。
薄っすらと疎らに日差しがかげる朝の森には、くすんだ白色の木々が整然と立ち並び、無造作に横たわる倒木には青々と苔が生していた。そこはとても凶悪な魔獣の棲み処などではなく、エルフたちの信仰の対象と為りうる、神性と静寂の支配する世界であった。
僕のことなど無視するように、霧島は一人森の奥へと足早に進んで行く。僕は地面に張り廻った木の根に足を取られながら、彼女の華奢な背中を追いかけていた。
やがて森の神性な沈黙をせせら笑うように、前を歩く霧島の方から奇妙な鼻歌が聴こえてきた。切なげで美しいメロディーだった。彼女は英語の歌を口ずさんでいるようであったが、洋楽を聴かない僕には誰の何て歌なのか全くわからない。果たして突っ込んでいいものなのか?
僕はこのまま何の会話もなしに歩いていくことに耐えられず、霧島の奏でる奇妙な鼻歌を、会話の皮切りにした。
「綺麗な歌だね。誰の曲なの?」
霧島は足を止め、少し意外そうな面持ちで僕の方へ振返った。薄明るい木漏れ日が、彼女の顔を疎らに照らしていた。
「……スミスも知らないの?」
「洋楽は聴かなくてさ」
「そう……」
そっけない様子で、霧島は再び前を向いて足を進めた。僕は会話を終わらせまいと、話に食らいつこうとする。
「そのスミスって人の名前?」
「ザ・スミス……昔のイギリスのロックバンド」
「へえ、霧島ってロックとか好きなんだな!」
「ええ……」
詳しいことはよくわからなかったが、霧島が気持ちを高まらせたときに発する放送禁止用語は、それからきているのだと僕は何となく察した。
声のトーンはいつもと変わらなかったが、ロックの話をしている時の霧島は、不思議と僕との会話を嫌がらなかった。
「いきなり歌いだすから少しびっくりしたよ。よく歌ったりするの?」
僕の問い掛けに数秒間を開け、呆れた感じで霧島はゆっくりと答えた。
「別に好きで歌っていたわけじゃないわ。静かに歩いているのは良くないことだから」
「どういうこと?」
「ここには、フンババの他にも沢山の低級モンスターが生息してるわ。もちろん、出くわしたら戦わなければならない」
「そうなの!?」
「ただ、彼らも人を恐れているの。だからあえて人の気配のあるところには、出てきたりしないわ」
単に余計な戦闘を面倒がっていただけだったのか、それとも動物愛護的なあれなのか、僕には霧島の真意は分りかねた。
しかしながら、僕たちの間にぎこちないながらも、ひと時の会話が生まれ、彼女は鼻歌を歌う必要を失くしていた。
「そういえばさ、何だか俺のこと勇者だとか言ってたけど、俺にも霧島の魔法みたいな凄い能力があるの?」
「……あるわ。ただし、魔法じゃないけどね」
「それって、どうやったら使えるようになるんだ? お前なら何か知ってるんだろ?」
「鳥は教わらなくても飛び方を知っているものよ。私は鳥じゃない。魚は広い海を自由に泳ぎ回れるけど、空の飛び方は知らないわ」
よく分らないが、ポエムみたいなことを言われて話をはぐらかされたみたいだ。ここまで来ても、この世界での僕の存在は、宙ぶらりんでぼやけたままだった。
「あなたにその兆候は出ている。でないと、私も気付かなかったわ。あとはきっかけだけ。だからあなたには、あえて茨を踏んでもらうの」
霧島の含んだ言い回しは、僕にじれったさを感じさせた。単に不親切なだけなのかな? いや、昨日の僕の失態が大きく起因していたりするのかも。
僕らは二時間ばかり途切れ途切れ会話をしながら、休まず歩き続けた。僕らの進む方向には、ずっと変わらず高い木々が生い茂り、縦横無尽に走る枝や葉が空を遮っていた。
霧島との間に沈黙が生まれないよう、僕は彼女の食いつきそうな話題を必死に話した。その結果、僕が知り得たのは、ザ・スミスのロック史における重要性やら、ニルヴァーナやジョイ・デヴィジョンの悲劇性、マンチェスター・ムーヴメントからブリット・ポップに至る時代背景などであったが、彼女の話が実は地質気候学についてのものだったと言われても、多分気付かなかっただろう。
いい加減この学校の授業よりも退屈で難解な霧島の個人授業に堪らなくなった僕は、霧島自身の話を切り出す。
「霧島は魔王を復活させないようにするとか言ってたけど、それが終わったらどうするの? 霧島はあっちの世界には帰るの?」
僕の唐突な質問に、霧島は「何を馬鹿な」と言わんばかりの表情で振返り言った。
「さーね……ジム・モリソンが言っていたわ。“未来のことはわからない。でも終わりはいつでもすぐそこにある”って……」
それは霧島の希望の言葉だったのか、それとも絶望の呪文であったのか、はたまた中二病的なあれなのか、その言葉を残した偉人を知らなかった僕には、判断がつかなかった。ただ、その寂し気な言葉は、彼女の冷然とした表情と共に、僕の心へやけに強く印象を残した。
緑と茶色、そしてくすんだ白の景色にも飽きてきた頃、霧島は徐にそっと足を止めた。
「ここだわ……」
一瞬森の終点かと思わせる大地の切れ目には、下へ向かってすり鉢状に地面は大きく窪んでおり、沢山の蛇が絡み合うように木の根がところ狭しと入り組んでいた。
そしてそのすり鉢の中心からは、森中の木をかき集めても足りないのではないのかというくらいの巨大樹が、空を突き刺すようにそびえ、僕らの遥か上を濃い緑色のアーチで覆っていた。
「す、すげー! ビルみたいな木だな!」
「あれが“ユグドラシル”……。世界樹と呼ばれる木ね」
まるでいくつもの木が寄せ集って、巨大な一つの何かになろうと、空へと伸びていくその姿は、信仰を信仰足らしめる神性を帯びて、世界中の生命の根源を成しているようであった。
霧島は凶悪な魔獣の存在など忘れたみたいに、吸い込まれるようにその巨大樹へと引き寄せられ、濡れて滑りやすい木の根が張り廻ったすり鉢の中を下りていく。
「霧島、いくらなんでもそんなに不用意に近寄っちゃ!」
朦朧と巨大樹の元へと下っていく霧島を呼び止めてみたが、まるで聞こえていない様子だ。
すり鉢の中央に立つ大樹の元へ辿り着いた霧島は、茶褐色の樹皮にそっと手を置き、何か思いに耽っているようであった。彼女はその絶大な力の為か、無警戒のようにも見えた。
そして僕は、霧島のことを追いながら、耳に何か異質な音が聞こえてくるのに気付いた。金属がぶつかり合うような、この空間には存在し得ない、耳障りで不吉な音であった。
霧島の魔法の力は疑いようがなく、彼女にとってはこの魔獣退治など、狩りやハイキングみたいなものだったのかもしれない。ただし僕はこの違和感に得体の知れない胸騒ぎを感じていた。
「霧島、何かおかしい!」
霧島は首を傾げた風に僕の方へ振向いて、無表情でいた。薄っすらと木漏れ日の差していた彼女の顔は、僕の胸騒ぎと共にどんどんと暗い影に浸食され、忽ち深い闇が彼女の華奢な体を覆い隠した。
僕の違和感は、目の前に現実となって空から落ちてきた。耳を劈く大きな音と共に辺りを張り廻っていた木の根が砕け飛び、まき上がった土煙の中、その大きな異物はゆっくりと立ち上がった。
それは甲冑のようなギラギラと光る巨大な金属の塊だった。いや、甲冑と呼ぶにはあまりに歪で禍々しい、鱗のような鎧に覆われた巨大な何かであった。僕はあまりの変貌ぶりに、それがフンババであると最初気が付かなかった。だが、あの全身をくまなく包む鎧の隙間に不気味に光る瞳、下半身を動き回る蛇を持つ怪物なんて奴しかいなかった。
「立ち止まらないで! 的になるわ!」
「霧島!?」
フンババの影に消えたと思われた霧島の声に、呆然としていた僕は、頬を引っ叩かれたように正気に返された。
ユグドラシルのあるすり鉢の中心から、霧島は木の根の上を小動物のように俊敏に駆け上がっていく。重々しい甲冑に包まれたフンババが霧島を睨みあげた。
大きく距離を取った霧島の周囲には、キラキラと幻想的に光る蝶々みたいなものが、辺りを優しく照らすように数十匹飛び回っていた。霧島の瞳が紫色に染まるのが、遠くの僕にもわかった。フンババはそれを見て、空へ向って大きな咆哮を上げる。
「フ〇ッキン趣味の悪い鎧があったもんだわ。今の那木君にはちょっと荷が重いか。よっぽど私の炎に焼かれたのがトラウマになってるみたいね」
僕は距離をおいて、霧島とフンババの動向を見守った。光の蝶に囲まれた霧島は、変わり果てたフンババの姿を嘲笑し、その呪文を唱える。
「臆病な魔獣に群がりなさい。……プリティ・フライ!」
霧島がフンババの方へ向かって手を翳すと、光の蝶たちは一斉にフンババ目がけて羽ばたいた。幻想的な光の群れは、周囲の景色を眩い残光で染め、一直線にすり鉢の下に立つフンババに襲い掛かる。
まず先頭を行く光の蝶が、ゆっくりと歩き出そうとするフンババの胴体に接触し、その瞬間、鼓膜を突き刺すような大きな音を立てて弾けた。僕は慌てて耳を塞いだ。そして光の蝶たちは、餌にでも群がるように次々とフンババに接触し、宛ら炸裂弾のように爆音を上げていった。
やがてすり鉢の中は、フンババのその巨体を隠すくらいの土煙に覆われ、僕は固唾を呑んで視界が開けるのを待った。
「霧島……やった……よな?」
僕が胸を撫で下ろし、少し離れたところに立つ霧島を見て、彼女に微笑みかけようとした時だった。下方の煙の中から紅蓮の炎が吹き出し、霧島の小さな体を呑み込もうとした。
「まだ生きてる?」
普通であれば、危機的状況であったが、僕は昨日の霧島を見ていたので、さして驚きはしなかった。“ワンダー・ウォール”と言っただろうか。差し詰めバリアのような見えない壁が彼女を守っていた。
僕の予想通り、炎は霧島の髪の毛一本焼くことはできなかった。霧島は無傷であったが、少し驚いた様子で、まだ晴れないすり鉢の中を見下ろしていた。
「あの鎧、見掛け倒しじゃないみたいね……」
「霧島! 大丈夫か?」
僕の呼び掛けに、無表情であったが霧島はこちらを向いた。まだフンババを倒してもいないのに、僕は安心しきっていた。きっと霧島が勝つに決まっている。僕はアホみたいにそう信じているだけであった。そう、この時霧島を呼び止めるべきではなかったんだ。
霧島が僕から視線を戻そうとした時、彼女の目に映ったのは大きくて冷たい、視界を覆うような金属の塊だった。彼女が声を上げる暇もなく、煙の中から突如現れた大砲みたいに太い鋼鉄の拳は、少女の体を虫けらのように弾き飛ばした。まるで出来の悪い特撮映画でも見てるみたいに彼女の華奢な体は、大袈裟に宙を舞い、数十メートル離れた地面へ無造作に叩きつけられたんだ。
僕の脳裏にさっきの霧島の言葉が、何かの啓示だったかのように過っていた。これが彼女の言っていた“終わり”だったのだろうか。それは曲がりなりにも同級生で、一見どこにでもいそうな少女の、あまりにも呆気ない命の終わりだった。
「き、霧島ァァァ!!!」
突然やってきた、圧倒的な恐怖と絶望。僕は遠くに横たわり動かなくなった彼女のところへ一心不乱に駆けだし、ただ馬鹿みたいに彼女の名前を叫んでいた。
第六話はもうちょっとリメイク感を出せればと思います……