第四話 エルフの食卓 【RE版】
第四話はだいぶ内容を追加しました。ほとんどギャグ回です。
数百年前、破壊、混沌あらゆる恐怖を従えた“虚無の魔王”がハシエンダに暗い影をもたらした。
言い伝えでは、この時魔王を封印した英雄の一人が、紫眼の魔導士“マッドチェスター”……つまりは、霧島 摩利香のご先祖様であるらしい。
どうやら霧島は、元々この世界の住人であるようだった。
霧島の手によって、何とかフンババは追い払われ、僕たちはイアンとノエルの家に泊めてもらうことになった。元々両親と4人で住んでいた家の為、寝床が余っていると聞かされ、何だか切なくなった。
気が付けば、僕の着ている服は、昨日からのフンババとの戦闘でボロボロだった。その為、僕は何か着替えられるものはないかと、ノエルを探していた。
「ノエルー! どこ?」
イアンは族長のところに行っており、霧島もふらっとどこかへ行ってしまった。ノエルは家にいるはずであったが、呼びかけても返答がない。
家中を探し回った末、僕は疲れ果ててベッドに横たわっていたノエルを見つけた。
「ノエ……?」
そういえば、フンババとの戦闘の後、ノエルはイアンや他の負傷したエルフたちに治癒魔法をかけていた。これまでのフンババとの戦闘で、この村で治癒魔法を使えるのはノエルだけになってしまっていたのだ。
同じエルフでも、使える魔法には個性があるらしく、全ての魔法を使いこなすエルフというのは稀有な存在であるらしい。
元々僕の治療で疲弊していたのに、無理を押してノエルは皆を治療し続けたのだ。何だか申し訳ない気分になってしまう。
「こんなちっちゃな子が、よく頑張ったよな……ノエル」
僕はノエルを起こさないよう、静かに近づいて毛布を掛けてあげる。僕にも妹がいるけど、クソ生意気だからここまで可愛らしくは思えないな。
まるで汚れを知らない無垢な天使のようなノエルの寝顔を、僕は昔見たことがあった。僕のお節介な幼馴染も、今は生意気な妹も確かこんな顔で眠っていたな。
遥か昔に消え去った太古の生命のようなその寝顔を、僕はまじまじと見つめ、もの思いに耽っていたのは良かったんだけど、ふと或る衝動に駆られてしまった。
彼女たちに会ってからずっと気になっていたのだが、僕はその邪まな誘惑に勝つことができなかった。
「ノエル、ちょっとだけなら、大丈夫……だよな?」
駄目だ駄目だと思いながらも、僕は息を潜めてノエルの寝顔に手を伸ばし、ごくりと唾をのみ込んだ。
傍から見れば、どう考えても幼女の寝込みを襲う変態野郎にしか見えないんだけど、生命の神秘を解明する使命感に駆られた僕は、つい我を忘れてしまっていた。
(凄い……やっぱり本物だ!)
僕は指の先のヒヤッとした感触、ノエルの尖った耳に触れて、それが本物であったことに感動していた。整い過ぎておよそ現実感のない彼女の肉体から、僕は大いなる生命の息づきを感じた。
少しだけのつもりが離すことはできず、寝ている彼女をよそに僕は心躍らせていた。最早、どう言い訳しても耳フェチの変態だった。まあ、そんなことをすれば当然……。
「なーに……だーれ?」
「……あ?」
「あ……吾妻! 何やってるの!?」
目覚めたノエルは、顔を赤らめて僕から後ずさりをする。こりゃまずい。ホモサピエンス史上最大級の圧倒的大ピンチだ。何て言い訳すればいいのだろう。
「ち、違うんだノエル! 僕は……その、ほら、これは……人間とエルフの相互理解をだね……」
「……相……互理解……?」
「そうそう……つまりは、僕ら違う種族同士が誤解なく分り合って、より幸福な未来を築いていく為の、ほら……言わば必要不可欠な儀式みたいなものなんだ! ……多分」
もう駄目だ。僕は誤解を解こうと必死に言い訳を並べるが、言ってる僕でさえ、もう何を言っているのかわからなかった。これでは本物の変態野郎の方が、まだマシな言い訳をするんじゃないか?
怯えるノエルを、僕は安心させようと無理矢理笑顔を作って優し気に手を伸ばすが、それはもう変態野郎どころか、連続児童殺人犯か何かの手だった。調度その時部屋の入口で物が落ちた音がする。
「き……霧島!? あの……これは……待て、まずは俺の話を聞いてくれ……」
そこに立っていたのは、持っていた林檎を床に落とした無表情の霧島 摩利香だった。この場面だけ見た霧島は、人間とエルフの心温まる触れ合い……なんて受け取るはずは、120%あるわけがなかった。
恐らく、良くて単なる幼女好きのロリコン野郎だ。だが、もっと最悪な受け取り方をされているだろうことは、ほぼ間違いなかった。明らかにいつもよりも冷たい彼女の視線が、それを物語っていた。
「さっきは冗談のつもりだったけど、幼女の寝込みを襲うとか、あなた本物だったのね……」
「いや! 誤解だ! 俺はただ、異種族同士の恒久平和をだな!」
「吾妻、酷い!」
恥ずかしさのあまり、ノエルが顔を押さえながら部屋を飛び出して行く。まずいまずいまずいまずい。この状況は非常にまずい。何とか誤解を解かなければ、フンババの次は僕がバーベキューにされちゃうぞ。
だが、霧島 摩利香の反応は、以外にもただ冷ややかなだけであった。それでも全然良いわけではないんだけど……。
「あなたがフ〇ッキン変態野郎だということがよくわかったわ。とても残念。助けずにあの怪物に食べられた方が、世の為人の為だったみたいね……」
「いや、違くてさ、話聞いてくれよ!」
「あなたのベッドは外に用意してもらえるよう頼んどくわ。星空の下、野犬たちと素敵な夢が見られるといいわね」
まるでばい菌か何かを見るような目で僕を見る霧島は、全く聞き耳を持たず、皮肉全開で逃げるようにその場から離れていく。
この一件を、『エルフ幼女暴行未遂事件』と後に霧島 摩利香が勝手に名付け、長らく僕のことを“幼女趣味の変態野郎”というレッテルを張り続けるのだが、それは少し先のお話しだ。
それからしばらく、僕は何もせずにベッドへ座り込み、事の重大さを痛感していた。下手をしたら、エルフたちに吊し上げられるのではないか? 異世界まで来て、僕は一体何をやっているのだろう。僕が頭を抱えてへたり込んでいると、周囲の景色が突然変わった。
「……あれ?」
ふと気が付くと、僕は自分の部屋でテレビを見ていた。なんだ、みんな夢だったのか。そうそう、あんなの夢に決まってるよね。
胸を撫で下ろした僕は、寝転がってテレビのニュースに目をやった。どうせ芸能人の不倫だの、政治家のどうでもいいようなスキャンダルだの、ロクでもないニュースを垂れ流しているのだと思った。
“高校生男子生徒、異世界でエルフ幼女を暴行未遂!”
「な……何だと!?」
トップニュースで報じられていた事件は、どう考えても他人事ではない。かつてこんなにニュース番組に釘付けになったことがあっただろうか?
食い入るように画面を見つめる僕。テレビのコメンテーターたちは、ばっさばっさと辛辣な批難を論う。
――幼いエルフの児童を標的にした、非常に卑劣な犯行ですね」
――犯行に及んだ少年は、学校でも暗く、友人も少なく、社会に不満を持っていたとの話ですが?」
――はい、今の日本の教育や少年法のあり方について、私たちは今一度考えなければなりません」
――異種族に対する卑劣な犯罪ということで、今後国際問題に発展する恐れもありますね」
体中に悪寒が走った。元いた世界に戻ってこられたと思ったら、いつの間にか僕は本当に幼女趣味の変態犯罪者に成り果てていた。
しかも、今度は学校の近くでリポーターがインタビューをしようとしていた。
――こちらは、容疑者の少年と同級生であり、古くからの友人である女子生徒Aさんです。最近、変わった様子はありませんでしたか?」
――はい、元々ひねくれていたところはありましたが、最近は特に塞ぎ込みがちで……。でも私が悪いんです。私がもっと早く○〇〇(ピー音)の変わった性癖に気付いてあげていれば……ううう」
顔にモザイクが掛かって声も変えてあったが、このお節介ぶりはどう見ても毘奈だった。泣き崩れる彼女を、リポーターが必死に慰めていた。もうこれは地獄以外の何ものでもない。
――続きまして、少年の犯行を目撃した、同級生の女子生徒Kさんです。容疑者の少年とは最近知り合ったと伺いましたが?」
――ええ、小難しい御託を並べて支離滅裂なことばかり言うし、自殺願望があるんじゃないかってくらい無茶するから、正直手に負えなかったわ……」
――それでは、少年が犯行に及んだ時、どういう状況だったのでしょうか?」
――そうね、私が林檎を取って部屋に帰ってきたら、彼がベッドの上でエルフの女の子をまさに毒牙にかけようとしていたわ。エルフの女の子は酷く怯えていて……」
――Kさんが現れたことで、少年の犯行は未遂に終わったようですが、今はどのような心境でしょうか?」
――いくら女の子にモテないからって、抵抗のできない異種族の幼女を襲うとか、最低のフ〇ッキン〇〇〇野郎だったわ」
あの事件は誤解だったとはいえ、軽率な行動をとった僕にも確かに大きな落ち度はあった。それにしても霧島の奴、あることないこと言いやがって。
日本のニュース番組史上最低のインタビューが終わって、再びカメラはスタジオのキャスターたちを映す。
――速報です。逃走していた容疑者少年が、自宅に潜んでいたことが判明したそうです。現在特捜班が少年の自宅を取り囲んでいるとの情報が入ってきました」
そう言えば、さっきから外がガヤガヤしているな。テレビは何だかよく見慣れた光景を映しだしていた。当り前じゃないか、僕の家そのものなんだから。
玄関がばたんと開いて、大勢の人間が凄い勢いで階段を駆け登ってくる。待て待て、こんなくだらない事件で大袈裟過ぎやしないか? しかも冤罪なんだし。
大勢の人間の足音は、僕の部屋の前で急に静かになった。誰かがドアノブに手を掛け、かちゃりと音が鳴ったその時だった。
「ギャァァァァァ!!」
「……大丈夫? 大丈夫、吾妻?」
「……あ……え、夢?」
窓から夕陽が差込み、辺りは薄暗くなっていた。何だかんだ疲れていたのだろう。僕は頭を抱えたまま眠りに落ちていたんだ。部屋の入口に人の気配を感じ、僕はゆっくりと顔を上げた。
そりゃ、あんなロクでもないこと夢じゃなくて堪るものか。まだこのクソみたいな異世界ファンタジーの方が、マシってもんだ。
「……ノエル?」
「大丈夫? 酷くうなされてたみたいだけど?」
部屋の入口から恥ずかしそうな顔で、こちらを覗き込むノエル。窓から差し込むオレンジ色の薄日が、少女の白い顔と豊穣とした麦畑のようなブロンドを、朗らかに染めあげていた。僕はハッとして彼女を呼び止めた。
「ノエル、さっきは驚かせちゃってごめん! あれはその……」
「ううん……私こそいきなり逃げちゃってごめんなさい」
俯きながらノエルは部屋の中へ入ってくる。誤解が解けたかはともかく、怒ってはいないようだ。僕は少し胸を撫で下ろした。
「今日はありがとう……。たぶん吾妻がいなかったら、私も兄さんも死んでた。それに私を庇ってくれて……」
「そ、そんなことないよ! 霧島がいたから皆助かったようなもんで……。それにノエルは命の恩人だもん!」
批難するするどころか、逆にお礼を言ってきたノエルに僕は狼狽した。何だか罪悪感に苛まれる。
ノエルは顔を上げると、やはり恥ずかしそうな表情で、もじもじしながら僕を見つめた。眩しさに目を覆いたくなるような、汚れを知らない無垢な少女の表情だった。
「それから、突然のことでびっくりしちゃったけど、お互いが幸福な未来を築くための儀式なんでしょ? 吾妻の気持ちだもんね。私なら大丈夫だから!」
「……は?」
「大切なことだから、今度兄さんも交えてちゃんとお話しましょ! 私って兄さんと二人兄妹でしょ? やっぱり子供はもっといっぱいがいいの! 吾妻もそう思わない?」
「あ……え……? 子供……?」
「とりあえず、夕食の用意ができたから行きましょ!」
何か取り返しのつかない壮大な勘違いをさせてしまってるような気がするが、顔を薄赤らめながら微笑むノエルを見て、僕はそれ以上何も言えなかった。
ノエルに連れられ、僕は食卓へと向かう。四人掛けの食卓には、既にイアンとその向かいに霧島が座っており、ノエルははしゃぎながらイアンの横に座った。
「よ……よお、霧島」
必然的に霧島の隣に座ることとなった僕は、気まずそうに声を掛ける。さっきはよくも、テレビであることないこと言ってくれたな。……って、知るわけないか。
霧島は蔑むような目で僕を見ると、僕の席から自分の椅子を少し離した。わかっていたとはいえ悲しすぎる。
霧島とは対照的に、向かいに座った僕のことを嬉しそうに見つめるノエル。気掛かりだった霧島とノエルの確執は、そこまで問題ないみたいだ。イアンはその様子を見て、不思議そうにノエルに問いかける。
「ノエル、一体何かあったのか?」
「別に~♪」
首を傾げるイアン。霧島は無言のままだ。僕たちはロウソクの薄明かりが灯る食卓を囲んで、皆が皆、互いを理解できぬまま夕食をとることになった。
ノエルが用意してくれた食事は、固そうなパンに具が豆しか入っていないスープ、クルミなどの木の実、そして鹿か何かの肉の燻製が、それぞれ木の器に並べられた質素なものであった。ただこれでも今日は僕らがいるということで、かなり豪華にしてくれたらしい。
農耕文化のないエルフにとって小麦は貴重な食材で、肉も特別な時しか食べないみたいだ。エルフはベジタリアンかと思っていたけど、そんなの僕らの勝手な偏見だった。
思い返してみれば、昨日の昼から何も食べていない。僕の口の中には、自然と涎が溢れていた。
「それじゃ、いただきます!」
「吾妻、何それ?」
僕は食事を取れる喜びから、普段はやってないのだが、手を合わせて「いただきます」と言う。ノエルはそれが奇妙に見えたらしく、興味津々な顔で食卓に身を乗り出す。
そう言われてみれば、僕は何に対して「いただきます」と言っていたのだろう。いつも何気なく言っていることを僕は説明できなかった。
「えーと……つまり、一言で言うと……」
「一言で言うと……?」
ノエルにまじまじと見つめられ、僕は言葉を濁していた。このままでは食べられない。ああ、もっと自分の国の伝統風習について真面目に勉強しておくべきだったぜ。
困惑する僕であったが、横から意外な助け船が入る。
「……食事を作ってくれた人、そして食材一つ一つに感謝しているの。私たちは他の命を“いただく”ことでしか生きられない。だから貰う命に対して感謝しているのよ……いただきます」
横で静観していた霧島がノエルの質問に答え、僕と同じように手を合わせた。昼間の破天荒な彼女とは打って変わって、今の霧島は少し大人みたいだ。
考えたこともなかった。霧島の奴、いつもはあんなに傍若無人なクセして、そんなちゃんとしたこと考えていたのかよ。僕は思わぬ形で、普段何気なくやっていることの意味を再認識させられる。
「この森の恵みがなければ我々エルフも生きられない。食事の前に祈りを捧げる種族もいるらしいし、我々も見習わなければならんな」
「そんな意味があったんだね! い……ただ……きます?」
その回答にノエルはおろか、イアンまでもが関心している。僕らのこの日本古来の作法は、彼らエルフのアニミズム的な感覚をくすぐったようだ。
「霧島……ありがとう。口が悪くて、愛想のない冷たい奴だと思っていたけど、お前のこと誤解してたみたいだ」
「あなた、それって全然褒めてないでしょ。人を何だと思っていたの?」
それまで口をきいてくれなかった霧島は、深い溜息を吐いて僕の方を見る。
「まあいいわ、さっきのは見なかったことにしてあげる。その方が素直に言うこと聞きそうだしね……」
「霧島……」
どうやら霧島は許してくれたようだ。彼女の言う通り、これから一緒に戦うパーティーのメンバーに変態扱いされたままでは堪らない。とりあえず、今日は寒空の下で野犬のエサにならなくて済みそうだ。
「フ〇ッキン那木君は幼女以外興味ないみたいだから、私は心配する必要ないしね。……ただし、私の寝室には絶対に入らないでね」
言われなくても、そんな恐ろしいことなんてできるわけがない。夜這いでもしようものなら、次の日僕がこんがりローストされて、目の前の燻製肉のように食卓に並ぶだろう。
霧島の元々冷たい瞳は、寒気がするほど凍てついていた。彼女のこの誤解を解くには、まだまだ長い時間がかかりそうだ。
気を取り直して僕は、ノエルの出してくれた食事に手を付ける。質素ではあったが、スープと燻製肉からする香草の匂いが食欲をそそった。ノエルからするハーブの匂いはこれだったのか。
パンはライ麦みたいな色で、固めだが添加物のない100%オーガニックだろうから中々悪くない。色鮮やかな木の実は、目新しかったがいくらでもいけた。お腹が減っていたこともあって、僕はむさぼるように食べた。
「吾妻、そんなにおいしい?」
「うん! ノエルは小さいのに料理上手で偉いね!」
「……えへへ。吾妻に褒められちゃった」
ちぎったパンを頬張って照れくさそうにしながらも、ノエルはにこにこしながら僕のことを見つめていた。嬉々とするノエルの顔を、柔らかなロウソクの灯かりが照らし、イアンも優しい微笑みを浮かべている。
おそらく僕と霧島が座っている椅子には、かつて彼らの両親が座っていたのだろう。僕は家族四人で、温かなロウソクの灯る食卓を、楽し気に囲むノエルたちの姿を想像していた。
そこには、僕らの世界と何ら変わらない生き生きした人々の営み、そして温もりがあった。いや、僕がいた現実世界の方が、余程ぼんやりしていて薄っぺらい気さえした。
そして、下らないことで腐っている僕には、親を失ってもイアンと二人で健気に生きようとするノエルの気丈さが眩しかった。
その横で無言のまま淡々と食事をとる霧島。昼間とはちょっと違った表情を見せた彼女についても、まだまだわからないことだらけであった。
食事を終えると、イアンが僕を寝床へと案内してくれる。霧島たっての希望で、僕と霧島は別の部屋。イアンとノエルが一緒に寝てくれるようだ。
「ありがとう吾妻。あんなに嬉しそうなノエルを見るのは、両親が死んでから初めてだ」
「いいえ、助けてもらったのはこっちですし、俺は何も……」
「明日はいよいよ森に入るんだろ? 良かったら、私の服と武器を貸そう。ゆっくり休んでくれ」
「……あ、ありがとうございます」
そうであった。温かな食卓を囲んでいて、すっかり忘れていたが、僕は霧島のあの如何わしい演説のせいで、明日はあの恐ろしいフンババをこっちから探しに行くのだ。
まあ、僕に何の力があるのか知ったことではないが、霧島が何とかせざるを得ないだろう。僕は内心、霧島の力を当てにし過ぎて、多少安心していたところがあった。
とは言ったものの、ベッドに入った僕は、色々な不安が頭に過って寝付けなかった。そう言えば、二日も家に帰ってないが、家族は心配してないだろうか。毘奈とのことも気にかかる。
仕方がないので、気分転換で夜風にあたろうと家の外に出てみる。真っ暗闇かと思っていたが、高い木が視界を遮る森の中とは違って、広い夜空を埋め尽くさんとばかりに燦然と星々が輝いていた。僕はその壮大さに息を呑んだ。
「すげーな! ……ん? あっちに誰かいるのか?」
少し離れたところに人影が見えた。こんな夜中に誰だろうと思い、僕は物音を立てないように警戒しながら歩み寄って行く。
(あれって……霧島か?)
人影の正体は、闇夜に立ち尽くして星空を眺める霧島であった。うっかり声を掛けそうになったが、いつもと雰囲気の違う霧島に気付き、僕は月明りと家々から漏れる僅かなランプの灯りを頼りに、物陰から彼女の様子を伺った。
幼女暴行未遂の犯人から、今度はストーカーにでもなった気分だったが、僕はその光景に我が目を疑う。あの傍若無人な霧島 摩利香のその謎に満ちた冷たい瞳からは、枯れ果てた泉から水が湧きだすように、涙が流れていたのだ。
(う……嘘だろ? あいつでもあんな顔するんだ……)
見てはいけないものを見てしまったような気がした。神秘的で、研ぎ澄まされた刃物みたいに危険な美しさを持つ彼女は、時折物憂げな人間臭い表情を見せた。恐らく僕なんかとは比べものにならないくらい深い闇を抱えて生きているのだろう。
謎の多い霧島についてもっと知ってみたいとも思ったが、今はその時ではないだろう。今は自分のことで精一杯で、彼女の悲劇性なんてものを気にしている余裕はどこにもなかった。
だから今夜は、そっとしておこう。霧島に気付かれないよう、僕は静かに家の中へ戻ってベッドへ潜り込んだ。
やがて周囲の家々の灯りは一つ、また一つと消えていく。広大なアルムの森の暗闇が少女の体を包み、その頭上には幾億の星々が美しく瞬いていた。
とりあえず、第一章は最後まで全てリメイクすることにしました。