第三十二話 少女が願ったもの
第三章~アサガオの伝説~堂々完結です。
ここまでのお付き合い、本当にありがとうございました。
何とかアレックスとの激闘を制した僕は、息を切らせながらヨロヨロと立ち上がった。
さっきのが何の力だったのかわからないし、もう使える保証もない。だけどこれは紛れもない勝利だ。いけ好かないデーモン・アドバートの鼻を明かせてやるくらいのことはできたはずだ。
そんな僕を見たデーモン・アドバートは、手を無邪気に叩いて哄笑した。
「お見事です! さすが勇者殿、この短期間でアレックス君を倒せるようになるなんて! 私には何が起こったのかさっぱり見えませんでしたけどね」
これで後はこいつだけ……何て言ったものの、正直デーモン・アドバートに勝つ算段なんて砂粒ほども思いつかなかった。
また伝説のドラゴンみたいなのを召還されたら、打てる手なんて誰にあるっていうんだ。
ああ、それでも僕はこの憎むべき宿敵にこう言うしかない。
「大人しく霧島を元の姿へ戻して、どっかへ消えろ! 大怪我してるだろうけど、アレックスもまだ生きてるはずだ」
「ははは……中々面白いことをおっしゃりますね。あなたたちの命運なんて、今ここで私と出会ってしまった時点で、既に尽きているのがわかりませんか?」
「霧島を探してここまで来たんだ。そう簡単に諦めるとでも思ってるのか!?」
「人間とは実に愚かで興味深い生き物です。私には、あなたがだいぶ消耗しているように見えますがね、アレックス君も少しは役に立ってくれましたか」
その通りだった。アレックスを倒した大技のせいで、僕の体力はほとんど残ってはいなかった。もう一回スロウダイヴしたら、ぶっ倒れるかもしれない。
鋭い目つきでデーモン・アドバートを狙う常闇の獣、中々手を出さないのは、本能で奴が危険な存在であると感じているからなんだろう。
「さてさて、では少し趣向を凝らした演出で楽しんで頂きましょう」
デーモン・アドバートは嬉々としながら地に拳を突いた。紫色の奇妙な魔法陣が周囲へと広がって行く。
これはまずい、また奴は何かを召還するつもりだ。とんでもないモンスターが出てくるものだと、僕は咄嗟に距離をとった。
ところが、いつまで待ってもドラゴンやら巨人やらは出てこない。僕は息を呑み、奴に問い掛ける。
「おい、一体何をしたんだ!?」
「どうやら成功したようですね。あなたに彼女が斬れますかな?」
「え!?」
顔を横に向け、僕に合図を送るデーモン・アドバート。そこには禍々しい紫色のオーラ―を纏った常闇の獣が、僕に襲い掛かろうと鋭い爪で地面を掻いていた。
明らかに先程までとは様子が違った。美しい毛並みは逆立って、深く青い瞳はどんよりと紫色に染まっていた。
僕は常闇の獣の変化に動揺し、怯えながらたじろぐ。それを見たデーモン・アドバートの耳障りな哄笑、不快なざわめきが僕らを再び闇に閉じ込めようとしていた。
「禁忌を犯して獣にまで堕ちた王女殿下です。最早我々側の存在、私の使役魔法で隷獣にして差し上げました。素晴らしい戦いになりそうですね!」
「お前は……どこまで卑劣なんだ!」
「いやはや、それは悪魔にとっては最高の褒め言葉ですね」
間髪入れずに常闇の獣は僕へ向かって走り出していた。本能を剥き出しにして襲ってくる荒れ狂う獣。
僕は跳びかかられる寸前、威嚇するように剣を振った。前足にへヴンリ―ブルーが掠り、斬った部分から煙が立ち上る。
「あ! ごめん、霧島!?」
常闇の獣は堪らず、斬られた前足を庇うように一旦後ろへと引いた。さすが退魔の剣、魔獣には特に効果が絶大であった。
接近戦を嫌がる常闇の獣は、遠距離からの魔法攻撃へ移る。彼女の口から放たれたのは漆黒の闇の塊だった。
「この剣ならきっと!」
僕は常闇の獣が放った闇の魔弾を、かつてジャスティーンがそうしたように、相手へ打ち返す要領で斬った。
咄嗟の思いつきであったが、どうやら僕の考えは的を得ていたようだ。切裂かれた魔弾は分裂し、煙のように消えていった。
焦って同じ魔法攻撃を繰り返す常闇の獣、その全てを僕は浄化するように斬っていく。
優位に立っているようではあったけど、この戦いに勝つ手段は僕になかった。僕にまさか霧島を斬れるわけなんかないし、逃げるわけにもいかない。状況は手詰まりだった。
「何をやっているのです! 本能が邪魔してあの剣を恐れてしまっているようですね。所詮は獣ですか……いいでしょう! その恐怖心、私が取り去ってあげましょう!」
僕らの戦いを横で見ていたデーモン・アドバートは、そう言って常闇の獣に向かって右手を翳した。毒々しい紫色のオーラが彼女へと伸びていく。
その膨大な紫のオーラに包まれ、常闇の獣はまるで毒でも浴びたみたいにのたうち回って苦しんだ。
「霧島! もうやめろ! やめてくれ!」
「はははは……。さあ、恐れを捨てて戦いなさい! あなたがずっと恋焦がれていた勇者とね!」
再びデーモン・アドバートの哄笑が辺りに響き渡る。僕はもう見ていられなかった。
力ももうほとんど残っていないし、常闇の獣を傷付けることもできない。ましてや、デーモン・アドバートはまだ無傷なんだ。一体どう戦えっていうんだよ?
そんなことを考えていた僕だったけど、今この状況があるのは、きっと今まで諦めずに戦ってきたのだからだと思う。そうしてきたからこそ、奇跡や僥倖が起こり得るのだ。
――夜明けはいつだって必ずやってくる。そしてアサガオはまた咲くのだ。
絶望に沈みかけていた僕の目の前を、何か黒いものが宙を舞っていた。耳障りなデーモン・アドバートの哄笑が悲鳴へと変わりる。
「う……腕がぁぁっ!!」
常闇の獣へ翳されていたデーモン・アドバートの右腕が地面に転がり、奴は膝を付いて蹲る。斬られた腕から、どす黒い煙みたいなものが噴き出していた。
そして奴の前に立っていたのは、剣を持った白いネグリジェの女性。美しい銀色の髪が風に靡き、彼女の瞳はまた燃え上がるように真っ赤に灯っていた。
「ぐぅぅ……まさか、あなたは眠っていたはず!?」
「あんな胸糞悪い高笑いを聞かされ続ければ、どんな寝坊助でも飛び起きよう。この阿呆め!」
「ジャ……ジャスティーン!?」
そう、そこには、僕が生きている間は目覚めることはないと思っていたジャスティーンが、威風堂々と立っていたんだ。
再び目の前へ現れた彼女の姿に、僕は胸が一杯になり自然と涙が流れていた。彼女は僕へ向かって呆れたように微笑した。
「何を泣いておる。私が起きたのが泣くほど嬉しいか?」
「もう、あなたって人は……」
形勢逆転、デーモン・アドバート最大の誤算。奴は図らずも、史上最強の眠り姫を目覚めさせてしまったのだ。
斬られた右手を押さえ、デーモン・アドバートは蹲り苦しみに喘いでいた。ところが常闇の獣は立ち上がって再び僕に牙を剥こうとする。まだ魔法は解けていないようだ。
どうする? ジャスティーンの目覚めた今、常闇の獣に勝つことは難しいことじゃない。だけど霧島が死んだら、僕のしてきたことは皆無駄になってしまうじゃないか。
常闇の獣を見つめて焦燥する僕へ向かって、ジャスティーンの清々しい檄が飛ぶ。
「吾妻よ、言ったであろう。その剣はあらゆる邪悪なものを切裂き、大切なものを繋ぎとめる絆の剣であると。その者の穢れのみを斬ってみせよ! そなたはそういう剣を手にしているのだ!」
「そんな無茶な……」
果たしてそんな魔法みたいなことが僕にできるのだろうか。僕はアサガオの花弁のように鮮やかなヘヴンリーブルーの刀身を見た。
ああ、でも、もうこれはできるかどうかなんて問題じゃないんだ。やらなければ霧島を救うことは絶対にできない。力を使い果たしてぶっ倒れようが、何だろうがやるしかないんだ。
呼吸を整え、再度意識を研ぎ澄まして僕はスロウダイヴした。疲労困憊で、少し気を抜けばいつ意識が飛んでもおかしくない。それでも僕はその最後の一手に賭けた。
「ヘヴンリーブルー、頼む!」
僕の前にあの光の道筋が浮かび上がる。それは一直線に彼女の元へ僕を導いていた。
隔絶され、ただ静寂とした世界を僕は彼女へ向かって駆けて行く。僕の頭の中には霧島との思い出が溢れ出していた。
研ぎ澄まされた野生動物のように鋭く、水晶のように澄んだ美しい瞳を持った小柄で少し口の悪い少女。周囲はその存在を畏怖し、いつだって彼女は孤高だった。だけど、またその裏側で誰も理解できない孤独と悲しみを抱え、溶けゆく雪の結晶のように儚い少女なんだ。
霧島にまた会いたかった。ただそれだけだった。会ってまたあのクソ長い音楽の話を聞きたかったし、ギターも教わりたかった。少しであれば悪態を吐かれても構わない。
そして、また時折見せるあの穏やかの微笑を……最後に言っていた言葉の続きを……。
沈黙する常闇の獣を、聖剣ヘヴンリーブルーが切り裂くと、彼女は眩い光に包まれた。その光は完全に常闇の獣を呑み込み、僕は力尽きてスロウダイヴから浮上する。
その神々しい光は、溢れんばかりに膨張し、空へと消えていった。そこにはもう常闇の獣の姿はなかった。
言うなれば、それは奇跡のような出来事だった。消えた常闇の獣がいた場所には、一人の少女が――あの華奢で小柄な美しい少女が、ひっそりと横たわっていたのだから。
「き……霧島!!」
僕は急ぎ霧島の元へと駆け寄ったが、裸体で倒れる彼女に思わず赤面し、まともに見ることができなかった。
慌てて自分が持っていたフード付きのマントを彼女に掛けて、再び呼びかける。
「き……霧島、生きてるんだよな!」
「……誰?」
霧島は僕の腕の中で静かに目覚めた。彼女の澄んだ黒い瞳が僕の顔を不思議そうに伺っていた。
「夢を見ていたわ……」
どうやら、彼女に常闇の獣であった頃の記憶はないらしい。でもそんなことはもうどうでもいい、僕はまたこうして彼女に会うことができたんだから。
起き上がって辺りを見回す霧島、ネグリジェを着たジャスティーンは、霧島へ柔らかく微笑を投げかける。そして斬られた腕を庇いながらデーモン・アドバートが立ち上がり、顔を歪めていた。
「どうやら今回は私の負けのようですね……だがもう遅い、虚無の魔王は再び目覚める。賽は投げられているのです。その日が来るのを怯えながら待つことですね……」
「其の方は死して待つが良い!」
深手を負ったデーモン・アドバートをジャスティーンが斬りつけたが、既に遅かった。奴は斬られた自分の腕と共に闇に巻かれて消えていく。辺りには不気味な哄笑だけが響いていた。
「逃げおったか……」
デーモン・アドバートを取り逃がしたことに舌打ちをするジャスティーン、彼女は手を上げて体を伸ばしながら、僕らの元へゆっくりと歩み寄って来る。
記憶のはっきりしない霧島は、異様ないで立ちのジャスティーンを怪訝そうに見上げた。
ジャスティーンも長い眠りから目覚めたばかりだったが、僕が大事な人だと言っていた霧島を見て、興味津々だ。
「マッドチェスターの姫君よ、どうやら己の体の穢れを取り除くことができたようであるな。禁忌の魔法を使い過ぎてはならぬぞ」
「あなたは……?」
「えーと、この人はね……ああ、人じゃなくて神様ね。この世界でお世話になった僕の剣の師匠で、剣神ジャスティーン……マニエラ……プ……ライム……?」
「古き名だ、ジャスティーンだけで良いぞ」
「……」
不可解な顔をして、僕とジャスティーンの顔を何度も見いる霧島。無表情だが、かなり困惑しているのが見てとれた。
まあ、それも無理はない。この世界で剣神ジャスティーンと言ったら、神話に出てくる一番有名な神様なんだから。
僕らだって、「この方はアマテラスです」とか「イザナギです」なんていきなり言われたら、眉唾もいいところだし。
霧島はしばらく沈黙した後、少し呆れたように呟いた。
「全く……あなたは、さらっととんでもないものを連れてくるわね……」
そんな奇妙なやり取りをしていると、少し離れたところから絞り出すように声が聞こえてきた。
それは僕の渾身の剣舞を浴び、気を失っていたアレックスのものだった。
「やいやい! 静剣の勇者! 今回は俺の負けだが、まだ一勝一敗だ。次は絶対に負けねーからな!」
「あんだけやられて……元気だな……」
「見たところ、あやつは人間と魔族の子のようだな。人間・魔族の双方から忌み嫌われて生きてきたことであろう」
ジャスティーンが憐れむように呟いた。アレックスはデーモン・アドバートのただの雇われ用心棒だ。どう考えても善人ではなかったが、どうも僕はこいつを憎むことができなかった。
彼は純粋にただ強さだけを求めていた。孤独な半生を送ってきた彼にとって、頼れるものは自分の強さだけだった。だから、あんなに強さとか弱さにこだわっていたんだ。
「放っておけば、また悪さをするやもしれぬからな。面白き奴だし、私がしばらく面倒をみよう」
大きな声を出して力を使い果たしたのか、アレックスは再び気を失ったようだ。憎めない奴だけど、鬱陶しいからあと半世紀くらいは眠っていて欲しいものだ。
そして満面の笑みのリチャード・オーウェンが歩み寄ってきて、僕らの勝利を祝福する。
「おめでとう吾妻、君は偉大な戦いに勝利したんだ。さすが暁の騎士の弟子だ。それにジャスティーンが目覚めて本当に良かった。ところでその子は一体誰なんだい?」
「ああ……紹介します。僕の大切な友達……霧島 摩利香です」
僕がそう言うと、霧島は少し驚いたような顔をして俯いた。その表情から、獣だった頃のまどろみから解放され、もう完全に記憶が戻ったようだった。
僕にとってはこんな嬉しい状況のはずなのに、霧島は何故か浮かない顔であった。僕が掛けてあげたマントを握りしめ、震えながら彼女は言った。
「……どうしてなの? ……どうしてあなたはこんなところまで来たの? そんなボロボロになって……」
「どうしてって、霧島を探しに来たんだ……」
「知っているでしょ? 奴らはあなたを捕えようとしていたのよ! あなたは魔王を目覚めされる鍵だって! そんな危険を冒して……」
「あ……えーと、ごめん……」
霧島の鋭くて美しい瞳が涙で滲み、それが零れ落ちるのを必死に堪えているようだった。
確かに僕は霧島を探すことばかり考えていて、この世界へ来ることのリスクをほとんど意識していなかった。
たまたまジャスティーンに助けられたからいいものを、一歩間違えれば、あっさりデーモン・アドバートに捕まっていたかもしれない。
霧島が世界を売った少女であれば、僕は愚かにも世界を道端に落っことした少年といったところか。ジャスティーンが拾ってくれなければ、大変だったな。
見かねたジャスティーンが、霧島に対して優しく諭すように語り掛ける。
「マッドチェスターの姫君よ、吾妻はまだまだ勇者としては未熟であるかもしれぬがな、そなたを助ける為、死ぬ思いで今日まで戦ってきたのだ。どうか今は、この不肖の弟子を抱きしめてやってはくれぬか?」
「私に……そんな資格なんてないわ……」
「それは、そなたが決めることではない。そなたがどんな過ちを犯したかは知らぬがな、少なくとも吾妻は今こうしてそなたを迎えに来たのだ。……もうそれだけで十分であろう」
霧島が握りしめていたマントを、彼女の涙が濡らしていた。彼女はあの時、もう僕とは会わないつもりだった。僕の為に自らを終わらせることを選んだんだ。
だけど僕らはこうしてまた出会うことができたわけで、彼女にとってもしあれが終わりなのであれば、また一から始めればいい。そう、今度は僕から……。
何を思いついたのか、僕は霧島の前に跪いて彼女の手を取った。涙に濡れたその瞳は、僕の改まった顔を不思議そうに見つめた。
「霧島、もうすぐ魔王が復活してしまうらしい。……だから君を迎えに来た。どうか僕と一緒に魔王と戦ってくれないか?」
遠い昔、孤独な少女はずっと願い続けていた。今それが叶ったとしても、もう取り返しがつかないほど手遅れであったのかもしれない。
かつて叶わなかった彼女にとってのただ一つの願い。長い長い年月を経て、ついに彼女の前に勇者は現れたのだ。
人生ってものはわからないもので、こういう諦められ、忘れ去られた願いが、後になって突然叶ったりする。
だけど、決してこの出会いは無意味なものなんかじゃないんだ。僕と霧島との繋がりはまたここから始まり、きっとずっと先へと続いていくんだから。
霧島は僕の胸へと飛び込み、クールだった彼女が人目も憚らず、ただ大きな声を上げて子供のように泣いた。
僕はこの時、彼女の体の温もりを始めて知った気がした。それは小さく、壊れてしまいそうなほど脆くて儚げで、言いようもなく愛おしかった。
ジョー・ストラマーは言った。“ひとつ言っておくが、人は何でも変えられる。世界中の何でもだ”
結局のところ、果たして僕はこの哀れで愛おしい少女の運命を、少しでも変えることができたのだろうか?
そんなことはきっと神様でもわからないことだろう。だけど今は、目の前にいる霧島の存在がその答えであるのだと僕は信じたい。
涙を流して抱き合う僕と彼女を、鮮やかな朝焼けが照らし、辺りには赤や青、色とりどりのアサガオが咲き乱れていた。まるで僕らを祝福しているかのように。
次章が最終章となる予定です。
またお待たせする形となりますが、必ず最後まで書ききりますので、宜しくお願いします。
数日中に予告を出します。