第二十三話 神様の弟子
第三章、四夜目。最弱の勇者 吾妻の修業が始まります。
今までの人生で、パワハラだのコンプライアンスだのといったものを、正直真面目に考えたことなんてなかった。
好きで運動部なんてやってる奴らは、教える方も体力が有り余ってるから、そんなろくでもないことが起きるのだろうってくらいにしか思ってなかったんだ。
ましてや、「基本的人権の尊重」などという日常会話ではまず出てこないであろうハイカラな言葉を切に意識することなんてあるはずがなかった。
とどのつまり、僕が生きていた世界のそういったヒューマニズム的感覚が、愚かにもハシエンダでも地続きなのだと無意識に考えていたんだ。全く、霧島的じゃないけど、「お花畑」もいいところだ。
現実世界ではクリスマスなんてなくなればいいと思っていた僕が、逃げ場のないこの森に切実なる祈りを捧げているんだから。
――主よ、この地獄から僕を救いたまえ。
だけど、世界には僕を救ってくれるような慈愛に満ちた神様なんているわけがない。何しろ今僕の目の前にいるのがその神様なんだから……。
ジャスティーンと出会った次の日から、僕は彼女と剣の稽古を始めることとなった。
学校の授業で剣道をかじったことしかない僕だったので、剣に関してはずぶの素人だ。
で、ジャスティーンがどんな稽古をつけてくれたのかというと、得物は木の棒きれだとはいえ、目にも止まらぬ速さでひたすら討ちかかってくる彼女を迎え撃つ、という狂気じみたものだった。
迎え撃つなんて言ったら聞こえはいいかもしれないけど、素人の僕にとっては、毎日容赦なく迫りくるウルトラバイオレンスにサンドバッグも同然だったんだ。
しかもジャスティーンの動きを目で追うには、常にスロウダイヴしてなきゃいけない。彼女にぶっ倒されるわ、スロウダイヴのし過ぎでぶっ倒れるわで散々な有様だったってわけ。
揺れ動く新緑の木々の間から差してくる木漏れ日を浴び、僕は目を覚ました。
最初にこのシチュエーションで目覚めた時は、夢でも見てるのかと思ったけど、こう何回も同じ目覚め方をすれば自然と慣れてくるものだ。
体中に鈍い痛みが走りながらも、むくっと体を起こして辺りを見回す僕。無造作に立ち並ぶいつもの木々。頭上から日差しが差しこんで、僕の目の前を真っすぐと日だまりの道が伸びていた。
そしてその光の道の先には、待ちかねたようにいつも彼女が立っていたんだ。
「ようやく目覚めたか吾妻。今日は3秒間立っていられたな」
柔らかな日差しが神々しく照らし出したジャスティーンは、薄っすらと微笑していた。この純粋無垢な彼女の微笑を見ると、正直背筋が凍りつく思いだった。
稽古を始めて一週間になるが、彼女が攻撃を開始してから5秒と立っていることはできなかった。
気が付けば、今みたいな感じでしたくもないのに落ち葉と草のベッドで日光浴していたってな感じだ。
だから、たとえ1秒間でも長く立っていられれば、僕にとっては大いなる成長の証なんだと思う。それが10秒、20秒と伸びていけば、僕にだって希望は見えてくるはずなんだ。
問題は、果たしてそんなに成長するまで僕が生きていられるかどうかってことなんだけど。
昼間の地獄のような稽古を終えた僕を待っているのは、温かな食事でもお風呂でも、勿論ふかふかのベッドでもない。
無論風呂なんかあるはずなくて、冷たい沢の水で体を洗うのがせいぜい。またこれが10秒と足をつけていられないほど冷たいんだ。
そして、弟子である僕は、水汲みや食事の準備までしなきゃいけなかった。
水汲みはまだいいんだけど、問題は食事の準備だ。そこで重要なのが料理ができるできないの問題じゃなく、食材を自分で取らなきゃいけないってことだ。
救いだったのは、スロウダイヴを使えば川魚が手掴みで取れるってこと。僕は心底この特殊能力に感謝したけど、伝説の勇者の能力の使い方としてはこれじゃない感がハンパなかった。
こうして取った川魚に、僕はジャスティーンが持っていた塩をふり、木の棒に刺して焼いたんだ。
最初の数日は、ジャスティーンもファッ○ン生意気なプライムも文句を言わずに食べていたんだけど、3日目にはジャスティーンが顔をしかめて言いだした。
「吾妻よ、今日も魚か」
「はい、そうですけど、まずかったですか?」
「いや、そうではない。だがな、そなたにはその……もっと栄養が必要だ」
「栄養ですか……?」
僕は歯切れの悪い彼女に対して首を傾げる。何か言いにくいことでもあるのだろうか。
「つまりだな。……こう魚ばかりではそなたに精がつかず、修行の成果にも影響が出ると思うのだ」
「は……はあ……」
まだ察しがつかなかった僕に、プライムが翼を大きく広げてまくしたてる。
「馬鹿者! ジャスティーン様は獣の肉をご所望されておるのだ!」
「な、何を言う、プライム! 私はだな、成長著しい青少年にはもっと栄養をだな――」
「ああ……そういうことですか」
どうやら、ジャスティーンにとって堂々と「肉を食べたい」というのは恥ずかしいことのようだ。
モンスターも裸足で逃げ出す鬼神みたいなジャスティーン――本当の神様だったっけ――には、意外に乙女チックなところもあったりした。
まあ、彼女が肉食系女子だって聞いても誰も驚きはしないだろうけど。……って意味が少し違うけどね。
とは言ったものの、仮に何か動物を捕まえたとしても僕には解体なんてできないぞ。下手すりゃ血を見て気を失っちゃうかもしれない。
だけど、そんなふうに言われたら肉を手に入れないわけにもいかない。その日の稽古が終わった後、日が落ちる前に僕は獣を求めて森を彷徨った。
手にはジャスティーンから借りた短剣。獲物さえ見つければ、スロウダイヴを使ってほぼ確実に仕留めることは可能であろう。そう、獲物さえ見つけることができれば……。
しかしながら、僕でも簡単に倒せそうなウサギみたいな小動物が、のこのこやられに出てくるわけがないんだ。
30分くらい歩いて僕はついにある獣と鉢合わせた。
ガサガサと茂みの中から四つん這いで歩いてきたその黒い獣は、僕を見ると唸り声を上げて二本足で立ちあがった。
鋭い爪と鉄だって噛みちぎりそうな牙をむき出しにして、2mはあろう巨体でその獣は僕を見下ろした。
ああ、何も驚くことなんてない。こいつは僕の世界にもいるじゃないか。ある日森の中で僕は出会った。いわゆる「熊」って奴だ。これじゃあどっちが獲物なのかわからないんだけど。
「だ、大丈夫!」
僕は咄嗟にスロウダイヴをしてその熊を迎え撃つ。慣れない手つきで短剣を構えると、一直線に熊の心臓へ向かって突き刺した。生肉に包丁を入れたような嫌な感触だった。
念の為、一度距離をとった僕はスロウダイヴから浮上する。熊の胸からは赤黒い血が噴き出し、悶え苦しんで大きな音と共に倒れ込む。
「や……やった!」
僕は喜び勇んで倒れた熊の元へと駆け寄ると、微動だにしない熊に躊躇なく触れた。これが不用心だった。
反射的に動き出した熊は、その大きな腕で僕を軽々と弾き飛ばしたんだ。
「っつ!」
木に背中と腕を打ちつけられた僕は、動くことができなかった。
どうやら、急所を外してしまったらしい。心臓の正しい位置なんてそりゃ僕にわかるわけなかった。
もっと何回も剣で突き刺せば良かったんだろうけど、動物を殺したことのない僕はそれを躊躇ってしまったんだ。
起き上がった熊が、木にもたれ掛かる僕の元へゆっくりと歩み寄って来る。僕は痛みと恐怖のあまり混乱してスロウダイヴできなかった。
(やばいやばいやばいやばいやばい――)
焦った僕の頭の中では、その三文字の言葉がひたすら連呼されていた。
勇者の最後が、熊に食べられて終わりなんてどうなんだ。ある意味伝説になるかもしれないが、今はそんな馬鹿みたいなこと考えてる余裕なんてないぞ。
「霧島……」
半ば生きるのを諦めかけた僕は、聞き覚えのある足音が迫るのに気付いた。
無駄のないしなやかなその疾走する何かは、こちらに向かって一直線に近づいてくる。
そして、僕を襲おうとしている熊が、その音のする方向へ顔を向けた瞬間であった。
「……え? こいつは」
僕の目の前で、突然大きな獣が獰猛な熊に襲い掛かり、喉元に噛みついたんだ。
その獣は、この世界に来た晩に僕を襲おうとした“常闇の獣”っていう奴だった。
馬みたいに巨大で、狼を彷彿とさせるその獣は、獰猛な熊の喉を容易く噛みちぎり、悶え苦しむ熊は間もなく動かなくなった。
そして常闇の獣は首を上げ、海の底みたいに美しい青い瞳で僕を見つめた。一難去ってまた一難だ。
ところが、怯えて蒼白とする僕をしばらく見つめた後、常闇の獣は再び森の奥へと走り去って行ったんだ。
「た……助かったのか……?」
僕は立ち上がり、走り去って行く常闇の獣を目で追ったが、数秒と経たずに見えなくなってしまった。
不思議なこともあるものだ。腕と背中は酷く痛かったが、何とか熊らしき獣の肉を手に入れることができた。
だけど、いざ運ぼうとしてみると、軽く100キロはありそうな熊の死骸をジャスティーンの元まで運ぶのは、どう考えても僕には不可能だった。
そんなに遅い時間ではなかったが、辺りは薄暗くなってきた。日差しが木々によって遮られる森の中では、外の世界より暗くなるのも早い。
どうしたものかと途方に暮れる僕の前に、ひょこっとジャスティーンが現れる。
「おお、見事な熊ではないか。腹が減って我慢できなく……いや、遅いから心配したぞ」
「ああ、でも重すぎて運べないんです」
先程絶命した熊を見て、ジャスティーンは目を輝かせる。
そして、困り果てていた僕に呆れ顔をして、彼女は横たわる熊に手をかけたんだ。
「全く、このくらい持てないでどうする。そなたは男であろう」
「え、えーー!?」
ジャスティーンは巨大な熊を、まるで赤子でも抱くように軽々と肩に担いで歩き出した。
さすが神様。速さも腕力も規格外ってわけだ。自慢じゃないが、僕の腕力のなさには定評がある。でもそれを差し引いても、男だからとか関係ないよね。
巨大な熊を肩に乗っけるジャスティーンのアンバランスな背中を見ながら僕は呟いた。
「あなた、昔は普通の女の人だったんですよね……?」
「ん、何か申したか吾妻?」
「いえ、何でもありません」
野営地に帰ったジャスティーンは、早速熊の解体に入る。
血抜きから皮剥ぎ、各肉の部位の解体まで手慣れた様子で、彼女の手際は見事なものであった。
僕はというと、現代っ子には縁のないその猟奇的な光景に、やっぱり血の気が引く思いだった。
「吾妻よ、これでそなたも獣の解体を覚えられるな」
ジャスティーンにそんなこと言われたら、真剣に見ないわけにはいかなかった。多分次からはやらせる気満々なんだろうから。
取ったばかりの新鮮な熊肉を木の枝で吊るし、いつもの焚火で焼いた。ジャスティーンのその真っ赤な目は、まるで無垢な少女みたいに嬉しそうだった。
「いい具合に焼けた。そろそろ食べ頃だな」
焼けた肉の塊を手に取ると、ジャスティーンは頬を赤らめて口いっぱいに熊肉を頬張った。
こんなに嬉しそうなジャスティーンを見るのは初めてだった。呆気に取られている僕に、子供みたいに微笑む彼女が熊肉を勧める。
「旨いぞ吾妻! そなたも食べてみるがよい」
「ああはい、頂きます」
当り前だけど、それは牛肉とも豚肉とも違う。一般的にはジビエって言われる部類の肉だ。獣臭が強くてかなり癖はあったけど、久しぶりに食べた肉は疲労した僕の体に染みこんでいく感じがして涙が出そうだった。
「お……おいしい……」
「そうであろう! そなたも肉を食わねば強くなれぬぞ!」
熊肉を頬張りながら無邪気な顔をするジャスティーン。とりあえず、毎日肉を食べさせとけば彼女の機嫌はとれそうだ。
そんなジャスティーンに微笑を返しながら、僕はふとあの常闇の獣のことを思い出した。
どう考えても、奴は僕のことを助けてくれたとしか思えない。果たしてジャスティーンは、奴のことをどこまで知っているのだろうか。
「僕がへまやって熊にやられそうになった時、あの常闇の獣が助けてくれたんです。奴は一体何ものなんです?」
「詳しくは知らぬ。外の集落の間であ奴は“常闇の獣”と呼ばれ、畏れられている。あのような高等な魔獣がこんなところにいるのは、些か不自然ではあるがな」
「何で僕を助けてくれたのでしょうか?」
「そなたに助けられたと思っているのかもしれぬな。それにあ奴はメスだからな。そなたに惚れているやもしれぬぞ」
「あははは……メスだったんだ……」
熊肉を頬張りながら、上機嫌に冗談を言っているようなジャスティーン。僕は苦笑するしかなかった。
確かに、常闇の獣には僕を魅了する不思議な美しさがあった。初めて遭遇した時に見惚れてしまったのも事実だ。
だけど、今まで女の子になんか全くモテたことない僕が、図らずもあんなおっかない魔獣に好かれちゃってるとでも言うのは、どんな運命の悪戯だろうか。
どうせなら、美しくなくてもいいからせめて人間の女の子にしてもらいたかったものだ。前にエルフの幼女にも好かれちゃったことはあったけど、あれは事故みたいなものだから。
とにかく、少しでも強くなる為の修業はまだ始まったばかりだった。
本当はこんなことしている余裕はなかったけど、この世界で僕が考えなしに彷徨ったところでどうにもならない。
少なくとも、ジャスティーンに悪意はないし、強さだって化物じみている。彼女への弟子入りは間違っていなかったはずなんだ。
欲を言えば、健康で文化的な最低限の生活を、誰かこの僕に保障してくれやしないものだろうか。
今僕に最も必要なのは、どんな魔物も一瞬で切裂く聖剣エクスカリバーでも、狙った敵を必ず貫くグングニルの槍でもない。
ああ、そうだ。どんなみすぼらしいおんぼろでも構わないから、屋根のある寝床が欲しい。もう雨ざらしの地べたで眠るのは沢山だ。
お読み頂きありがとうございます。
次回もよろしくお願いします。