第二十一話 常闇の獣
第三章~アサガオの伝説~ 第二夜です。
宜しくお願いします。
それはもう、少し遠い存在になってしまっていた毘奈と僕が何かを理解し合おうと呼応しあっている瞬間のような気がした。
僕は毘奈に霧島のことを何とか思い出して欲しくて、必死になって呼びかけてみる。
「そうだよ、霧島 摩利香だ! 無口なくせして口が悪くて、ロックが好きで、時々何言ってるかわかんないけど……根は凄く優しい奴なんだよ!」
「霧島……摩利香?」
「ここの上で三人でお昼食べただろ? あいつがあの梯子登ろうとした時、スカートの中見えちゃうって注意してたじゃん!」
僕は階段室へと昇る階段を指さし、身振り手振り、必死になって毘奈に問い掛けた。
そうすると毘奈は、何か悟ったような顔して柔らかく微笑してみせたんだ。
「ごめん、吾妻、やっぱり私上手く思い出せないや。だけど、その子は吾妻にとって凄く大事な人なんだね」
「え? ……あ……まあ……」
いやいやいや、一体何を言い出すんだ、僕のファッ〇ン幼馴染は。僕は照れ臭くてしどろもどろになってしまう。
だけど本当は毘奈の言う通りだったんだ。いつの間にか、僕にとって霧島の存在は、何よりも大きなものになってしまっていたのだと思う。
変な意味じゃない。僕はとにかくもう一度霧島に会いたかった。またあの透き通るような瞳を、時折見せる穏やかな微笑を見たかった。あいつの好きな音楽の話を何時間でも聴きたかった。
「ああ、俺の凄く大事な友達……かな」
「そうなんだ。だったら私も力になりたいの! その子はどこに行っちゃったの?」
毘奈がそう言ってくれたことが、どんなに心強かったことか。
まあ、結局のところ、異世界がどうだとか、魔王や勇者がどうだとか言うわけにはいかないんだけどね。
「吾妻、その本はなんなの? かなり古そうだけど」
「あーこれか。一応霧島の手掛かりなんだけど、たぶん見てもよくわかんないと思うよ。描いてある絵は気持ち悪いしさ」
毘奈は僕が抱えていたあの汚らしい本が目に止まったみたいだった。
見せたところで、ただの汚らしい外国語の本くらいにしか思われないだろうと、僕は毘奈に差出してみた。
彼女は不思議そうな顔をしてその本に触れようとした。
「あれ……毘奈?」
毘奈がその本に触れた瞬間、どっくんどっくんと鼓動が大きく脈打つのが聞こえた。自分でもないし、毘奈のでもない。それはその虫食いだらけの汚らしい本からだったんだ。
僕らの周囲には古い記憶、いや、見たこともない記憶が大量の8ミリフィルムのように、四方八方を取巻んで流れだしていた。
「吾妻、何これ!?」
「わからないけど、とにかく離れろ!」
突然のことに毘奈は戸惑い、怯えて自分の両頬に手を当てた。僕は慌てながらも、これはヤバいと思ってすぐに毘奈を突き飛ばすようにして本から離した。
「うわぁ! 吾妻ぁ!!」
視界から毘奈が消え、彼女の悲壮な叫びが聞こえたが、僕は周囲を取巻くその光景を注意深く見守った。
名も知らぬ誰かの戦争と平和の、そして生と死の艶かしい記憶だった。僕は古いモノクロフィルムでも見るようにそれに魅されていた。
それに、よくわからなかったんだけど、何故だか無性に懐かしい気がしていたんだ。
――この階段の先に、君にとっての新しい世界があらんことを。
最後にそんな言葉を聞いて、僕の意識はゆっくりと薄れていった。一体何のことやらだ。
★
細やかな虫の音と少し湿った木々の香り。首や頬をくすぐる草木に不快さを覚えて、僕は目を覚ました。
とりあえずわかったのは、ここは間違っても昼休みの学校の屋上ではないということ。辺りは真っ暗で、僕はまた夢でも見てるのかと思った。
「確か前もこんなんだったよな……?」
僕の目が慣れていくに連れて、夜空を遮るように張り廻った枝や葉の隙間から星が瞬くのが見えた。そこはどこかの山か森の中だということがわかった。
まさか、こんな不可思議なことが起こっているというのに、僕が目覚めたのが近所の雑木林ってなことはないだろう。
さっきは生き物みたいに鼓動を感じたあの汚らしい本は、死んだみたいに僕の胸の上にのっかていた。
理由はわからないが、この本が再び僕を異世界へと導いてくれたと信じるのが自然だ。
だけど勘弁して欲しい。どうせ異世界に行くのなら、街の中とかせめて人がいるようなところにしてもらいたいものだ。こっちは以前もいきなり夜の森に召還されて、酷い目に合っているのだから。
「ここ、前に来たところと一緒なのか?」
ここがどこの樹海なのかなんて、そんなこと夜じゃないとしても、地元の猟師やきこりじゃないんだからわかるわけなかった。
僕は仕方ないのでスクールバッグにあの古書をしまって、スマホのライトで少し辺りを散策してみることにした。
この前もそうだったけど、冷静になって考えてみたら、全く土地勘のない夜の森を歩き回るのなんて凄く危険なことなんだ。
だけど現代っ子でインドア派の僕は、森の中で一晩明かそうなんてワイルドな発想は、間違っても思いつかなかった。
だってそうだろ? 危険なケダモノや気持ち悪い虫がうじゃうじゃいるかもしれない湿っぽい草の上でなんて、ゆっくり眠れるわけがない。
4~5分歩いた頃だったろうか。相変わらず周囲はうんざりするくらいの木や草ばかりで、遠くに灯かり一つ見つけることはできなかった。
そんな時、動物のかん高く吠える声がした。実際聞いたことないから断言はできないけど、普通に考えたら、狼か何かの遠吠えなのだろう。しかもそんなに遠くない。
日本に狼はもういないはずなので、とりあえずここが少なくとも日本でないことはわかった。いや、でも野犬て可能性もあるのかな。
本当はそんなどうでもいいこと考えている場合じゃなかった。身を潜めるか、少しでも遠くに逃げるべきだったんだ。
「あ……もしかしてヤバい?」
僕はやっと身の危険を感じて、その遠吠えが聞こえる方から少しでも離れようと、真っ暗な森の中を駆けだした。
それにしても困ったものだ。僕は森に入ると必ず化物やら獣やらに出くわすらしい。こんなんじゃ山登りなんか始めた日には、毎回熊に襲われるよな。
考えてみれば、以前にエルフの森でフンババに追われた時も、同じような感じで逃げたものだ。で、その結果どうなったかというと、崖かなんかから落ちて死にかけたんだった。ただ歩いているだけでも、木の根に足を取られるのだから、それはとんだ愚策だった。
それを思い出した為、僕の足は自然と緩やかなペースだった。それで物音を立てているのだから、見つけて下さいと言ってるようなものだ。
「……ん? 何か聞こえる!」
立ち止まって耳を澄ますと、遠くの方から何か四足の生き物が走ってくるような音が聞こえた。
聞いてるだけでもそれが凄い速さで、しかも生い茂る木々の間隙を縫って的確に僕の元へと向かっているのがわかった。
僕が気が付くくらいの大きな音を立てているのは、それはもう狙いを定めた獲物に対して確実に仕留められるという確信があるからなんだ。
「……え!?」
僕が足音のする方向に振向いた瞬間、馬くらいはある狼のような獣が宙を舞っていたんだ。
跳びかかられる瞬間、僕は意識を研ぎ澄ましてスロウダイヴした。その大きい狼のような獣は、暗闇で不気味に目を光らせ、ゆっくりと空中を下降していた。
もう少し遅かったら、確実にやられていた。僕はそのまま全力で逃げようとしたが、それがまずかった。
僕はお約束のように何かに足を取られていた。そしてこれまでの人生にないくらいの凄まじい勢いで転んでしまったんだ。
「痛たた……あ!?」
起き上がって再び後ろを振り向いた僕は、既にスロウダイヴ状態から無意識に浮上してしまっていた。
僕が声を上げる間もなく、不気味な獣はその大きく鋭い前足で僕を地面に押し倒したんだ。
必死に起き上がろうともがくものの、僕を押しつぶさんと胸の上に乗ったそいつの前足はびくともしなかった。動けないんじゃ、スロウダイヴも宝の持ち腐れだ。
「く……クソ!」
せっかくここまで来たのに、いきなりわけのわからない獣に食べられちゃっておしまいなんて酷すぎる。
少なくとも、お姫様を助けに行こうとしている勇者の末路にしては、残念過ぎて喜劇にすらならない。
その獣はテリトリーに侵入してきた僕を、何者であるのか確かめるよう、つぶさに僕の顔を見つめていた。僕は生唾を呑んだ。
もう一巻の終わりだと思ったんだけど、そいつは僕の顔を見入るようにして動かなかった。
僕の顔にかかる生温かい息と唸り声で、正直生きた心地なんてしなかった。しかし、そんな中で僕もそいつに見入っていたんだと思う。
暗闇の中ではあったが、僕を見つめる獣の瞳は、深い海の底みたいに奥深く、吸い込まれそうなほど綺麗な青色をしていた。
瞳だけじゃない。横に転がったスマホの僅かな明りが照らしだしたその獣は、鋭い牙も、シュッとした鼻や凛と突き立てた耳も、体毛や髭の一本一本までも全てが洗練された無駄のない美しさを備えていた。
それにしてもどうかしている。これから食べられるかもしれない野獣に一目惚れしてしまっているなんて、僕は何かを大いにこじらせちゃってるよ。
それでも、その大きな獣と見つめ合っていたひと時は、僕に安らぎのようなものを与えてくれた気がした。
願わくばこの瞬間が少しでも長く続きますようになんて、結構真剣に考えていたんだから。
幸か不幸か、その不思議なひと時は、思っていたほど長くは続かなかった。誰か人が歩いて来る音が聞こえてきたんだ。
だけど「助けてくれ」なんて叫ぶわけにはいかない。こんな真夜中に、もし善良な誰かが通りかかったりなんかしても、それこそ飛んで火にいる夏の何とかだ。
「こっちへ来るな、逃げろ!」
そう叫んでやるのが、僕の最大限の親切なのだと思った。だけどその間抜けは、逃げるどころかどんどんこっちへ向かってくるんだ。
僕の上にのしかかった大きな獣も、近づいてくる誰かに気付いて首を上げる。ほれ見たことか。僕はもう知らないぞ。
僕らの近くまで歩いてきたその人影は、ランプの灯かりらしき光をチラつかせ、不意に立ち止まって奇妙な言葉を口にした。
「▼×***〇◇◎ー@ ■■\\\##ー;;//●」
「……は?」
とりあえずわかったのは、その声の持ち主が女性であるということ。まるで文字化けしたパソコンが喋っているような聞いたこともない言葉だった。
その人は懲りもせずに僕に何かを問いかけてくる。
「●*@@*●△△ー●%%#?」
「あー! もう、何言ってるかわからないですよ!」
言葉は通じないものだと思っていたけど、僕はこの空気の読めない女に対して声を荒げる。
僕の上にいる大きな獣は、その人を警戒するように低い唸り声を上げて威嚇した。
「そなた、どうも奇妙な言葉を話すな。どこの土地のものだ?」
急にその女は時代劇みたいだったが、僕の理解できる言葉で話し始めた。全く、ちゃんと喋れるのなら、最初からそうしてもらいたいものだ。
この緊急時にその人は焦る様子もなく、呑気に質問なんかしてくる。僕は再び声を上げた。
「今はそれどころじゃないんですよ! 今僕はこいつのエサになるかどうかの瀬戸際なんです! 人類史上最大級の命の危機なんです!」
「ほう、それは大変だな。しかし今回はそなたが悪いのではないか。ここいら一帯はそやつ――“常闇の獣”の縄張だ。勝手に踏み入れば、そやつでなくても襲ってこよう」
「知らなかったんですよ、そんなこと! 大体あなたはそんなこと言う為にわざわざここへ来たんですか?」
「それでは、そなたはどうして欲しい?」
「あーー! 逃げないんなら、助けて下さいよ!」
「助けて欲しいのであれば、最初からそう言えば良いものを・・」
正直、女の人だし、少しピントもずれてるので、僕はあまり頼りにはしていなかった。
ショットガンでも持ってれば話は別なんだろうけど、ここは一応ファンタジー世界のはずだから。
「……て、え?」
鈍い音と共に僕を押さえつけていたその常闇の獣って奴は、悲痛な鳴き声を上げ、鉄球にでもぶつかったみたいに僕の上から吹っ飛んでいった。
慌てて起き上がり、どんなヘビー級の女格闘家かと思ってその人を見ると、フードを被っていて顔ははっきり見えないものの、何てことのないマントローブを着た普通の女性のようだった。
彼女は首を左右に回し、手や足をほぐしてウォーミングアップをしているようだ。
「そなたを助ける義理はないが、見捨てて化けて出られるのも困るのでな」
「あ、あいつはどこに!?」
僕はあの常闇の獣が吹っ飛んでいった方に振返る。そいつは木に激突したみたいで、少しヨロヨロしながら立ち上がろうとしていた。
「そなたはこれを持っておれ」
「あ……はい」
持っていたランプを僕に手渡すと、その人は深々と被っていたマントローブのフードを下して顔を露わにした。
僕はこの時、改めて異世界にいることを実感した。彼女の長い髪はほとんど色素がないグレーで、何よりその瞳は燃え上がるように真っ赤だった。
歳は大体二十歳前後といったところだろうか。その変な喋り方を忘れてしまうくらい、彼女は人ならざる力強い美しさに満ちていた。
腰に下げた短剣を抜くと、彼女は常闇の獣に向かって淡々と言い放つ。
「常闇の獣よ、そなたに恨みはないが、人間が食われるのを見るのはどうも夢見が悪くてな」
立ち上がった常闇の獣は怒りに震え、唸りながらその口の中を眩い光で輝かせた。僕は驚いて彼女に問い掛ける。
「あれって一体!?」
「あやつは高等な魔獣だ。魔法の一つでも使ってこよう。おそらく爆裂系の術式だな」
「え……それってヤバいんじゃ?」
僕がそう言った瞬間には、常闇の獣の口から大砲の砲弾みたいな魔法が放たれていた。
これはまずいとスロウダイブして避けようとした時、そこにはもう彼女の姿はなく、声だけがそこに残されたように響いていた。
「耳を閉じよ!」
「え? 一体どこに行ったんだ?」
僕はランプを持っていたので、一瞬戸惑ったが、それを腕に引っ掛けて何とか耳を塞いだ。
そして放たれた魔法の方を見ると、そこには既に彼女がいて、持っていた短剣でその魔法を真っ二つに切ったんだ。
僕の体に戦慄が走った。注意して欲しいのは、僕はこの時、間違いなくスロウダイヴ中であったってことだ。
それでも尚、彼女の動きは肉眼で追うのがやっとなほど速く、それを忘れてしまうくらいその身のこなしには無駄がなく、まるで踊ってでもいるかのように優美で華麗だった。
「あの人……誰なんだ?」
間もなくスロウダイヴから浮上すると、彼女が切り裂いた魔法が炸裂弾みたいに弾けた。
砂煙が上がる中、僕は彼女の動向を目を凝らして伺う。暗闇を照らすランプの灯かりが、そのたった数秒の戦いの結末を映し出そうとしていた。
「これで終わりだな……」
常闇の獣は彼女に首を掴まれ、地面に押しつけられていた。獣は呻き声をあげてジタバタともがき、夜の闇に怪しく光る彼女の短剣は、いよいよ常闇の獣の喉元を突き刺そうとしていた。
「ちょ、ちょっと待って下さい! そいつを殺しちゃだめです!」
反射的にそう叫んだ僕は、わけもわからず走り出していた。やはり僕はどうかしていたのかもしれない。
常闇の獣を――美しいこの獣を――絶対にここで殺しちゃいけないと、僕の心は叫んでいたんだ。
物語の舞台は再びハシエンダに移ります。
お読み頂きありがとうございました。
次回も明日更新予定です。