第十八話 世界を売った少女3
第十八話です。第二章も佳境。
次話で第二章の終わりです。
不気味なほど鮮やかな夕暮れを背にして、僕らの目の前には世界の異物のような二人組が立ちはだかっていた。
どうやら今日の日暮れは、夜と一緒に何か良くないものを連れて来てしまったようだ。
黒い服を着た少年は、無言のまま敵意剥き出しの目で僕らを睨み、英国紳士風の男は、僕を見て丁重に自己紹介を始める。
「お初にお目にかかります。静剣の勇者殿。私はそこにおわせられるマデリカ王女殿下の……いや失礼、霧島 摩利香様の誠実な取引相手――」
「……で……デーモン・アドバート!」
僕は条件反射的に、本来は知るはずもないその名前を、口走っていた。霧島は僕を見て戦慄する。
デーモン・アドバートは大きく目を見開いて驚きながらも、感心した様子で微笑した。
「おお、まさか私なんぞのことを存じていらっしゃるとは、殿下にお聞きになられたのですかな。恐悦至極でございますな」
その一見友好的で慇懃な態度は、底知れぬ危険に満ちていた。隣にいる奴なんて、いつ手を出してきてもおかしくない。
僕は突然現れたこの二人に目を奪われていた。ふと我に返って、霧島の顔をチラッと見る。
霧島の顔は蒼白で、体は小刻みに震え、言葉を奪われたみたいに動揺していた。彼女がこんなに怯えるのを、僕は初めて見た。
彼女のこの様子から察するに、これは非常にまずい状況なんだ。僕は口を開こうとしない霧島に代わって、用件を聞く。
「あなたたち、この世界の人間じゃありませんよね。僕らに何か用でもあるんですか?」
「これはこれは失礼。勇者殿はご存知ないかもしれませんが、私共にとっては大変重要なことでしてね。契約をですね、極めて神聖な契約を果たしに来たわけなんですよ。そうですよね、王女殿下?」
動揺して口を紡いだままの霧島に、デーモン・アドバートはインチキ臭い微笑を向けた。
「あなた様のご活躍、実にお見事でございました。取るに足らない脆弱な人間になり果てていた勇者殿をこの世界で見つけ出し、再び静剣の勇者へと導かれたのですから。
後はそのお方を私に引渡して下されば、晴れてこの契約は成就されるというわけです。あなた様があんなにも渇望された自由はもうすぐそこにあるのです!」
デーモン・アドバートは大袈裟に手を広げて、これから成就されよう彼等の契約と霧島を祝福した。
そうだった。確かあの胡散臭い契約内容には、そんなことも書いてあったのを僕は思い出した。
そして、霧島はデーモン・アドバートの大袈裟な歓喜を遮り、その震えた唇を開いたのだ。
「あなたは……この世界に来れないはずではなかったの?」
「そうです。私はかつてあなた様に、この世界へは特別な事情がない限り介入できないとお伝え致しました。つまり、今はその事情が存在するということなんです」
「特別な事情?」
「はい、あなた様には私との契約である『④乙は覚醒した勇者を甲の元へと遅滞なく連れてきて、一時的に引渡す』という項目に背信行為が見られるのでは、という嫌疑がかかっているのです。つまり、今我々の契約は成就困難な状況に陥ろうとしているということです」
「だからこっちの世界に来れたっていうの?」
「お話しした通り、我々にとって契約とは極めて神聖なものなのです。その為には、契約を行った相互がその成就の為に、最大限の努力義務を負うのです。
残念ながら、他にもあなた様には、“魔王の復活を阻止する”何ていった、私との契約への背信的な言動が見受けられました。だから私は、神聖な契約の成就の為に、本来は禁忌とされる異世界間の転移を、債権回収という正当な権利の元、行ったのです。
だがご安心下さい。私はあなた様が契約を不履行されたなんて、今ここで咎めるつもりはございません。そのお方さえお引渡し頂ければ、契約の目的は達成されるのですから」
端的に言うと、デーモン・アドバートの目的は僕の引渡しで、それさえすれば細かいことは気にしないということのようだ。大した神聖な契約だ。
霧島は顔を強張らせ、その小さな拳を血が出るんじゃないかってくらい固く握りしめていた。僕はただならぬ様子の彼女に聞いた。
「霧島、細かい話は後だ。俺は今どうすればいい?」
「那木君……逃げて」
「わかった!」
僕は彼女の返事に呼応するように、意識を研ぎ澄まして時の流れの奥深くへとダイヴした。
これで暫くは時間稼ぎができる。だけどうかうかはしていられない。結局この力は長くは使えないのだから。
借り物のギターを投げ出し、動きの止まったような霧島を背負った僕は、前に死にかけの彼女を背負った時みたいに、よろめきながらも必死に走り出した。
一体どこへ逃げればいいんだ? 逃げたところで、一体僕らはどうすればいいんだ? その前に、僕らに逃げ場なんかあるのか?
僕は普段見知った道を、ただあの場所から少しでも遠くへ、あてもなく走り続けた。そのうち意識は朦朧としてきて、かつて見たみたいな奇妙な幻想の中へと落ちていこうとしていたんだ。
次に僕が気付いた時には、前にハシエンダで見たみたいな温かな光の中に横たわっていて、僕のすぐ横で、霧島がたまにする穏やかな微笑で僕を見下ろしていた。
僕は必死に声を出そうとするが、何も言葉を発することができなかった。気付くと、霧島の姿は、かつて夢に出てきたマデリカという少女に変わっていた。
彼女は寂しげに微笑し、「ありがとう、もう行かなきゃ……」って囁き、振返って歩き出した。
僕は静止しようとするが、体が言うことを聞かない。彼女はその温かな光に呑み込まれて消えていってしまった。
僕の心に残ったのは、途方もない胸騒ぎと後悔だった。何故か彼女を絶対に行かせてはダメな気がしたんだよ。
嗚咽すら上げることができないまま、僕はただその小さく儚げな彼女の背中を見送ることしかできなかった。
★
「……君……那木君……那木君、起きて!」
僕が目を覚ました時、霧島の透き通るような美しい瞳が僕の目の前にあった。彼女は震えうような声で僕の名前を呼んでいた。
「き……霧島……?」
僕は座り込む霧島の小さな手に抱かれていた。霧島は安堵の表情を見せた。どうやらまた気を失ってしまったようだ。
辺りを見回すと、そこは僕らの良く知る学校の、屋上へと通じる階段室の中だった。無意識のうちに、またここへ来てしまったようだ。我ながら行動がワンパターンだと思った。
まあとりあえず、何とか逃げてこれたみたいだし、僕はずっと気になっていたことを霧島に聞いてみる。
「霧島……色々聞きたいことはあるんだけど、お前は……お前がマデリカなのか?」
「何故あなたがその名前を知っているの? あいつのことも知っていたみたいだし……」
「前に不思議な夢を見たんだ。あいつとマデリカっていう王女がヤバそうな契約をする夢を」
霧島は本気で驚いている様子だったが、何とか平静を装うように僕に説明を始めた。
「そうなのね。あなたにはまだ私の知らない不思議な力があるのかもしれないわ……。そうよ、私がマデリカ、マデリカ・スクリーナ・マッドチェスターよ……。
あなたには謝らなければならないわ。私は我が身可愛さのあまり、世間知らずなばかりに……弱さのあまり、あの男にあなたを……世界を売ろうとした。魔王の復活を阻止するなんてよく言えたものね」
「あいつは俺を引渡すように言ってたけど、そうしたら一体どうなるんだ?」
「わからない。でもあなたの、静剣の勇者の復活は、虚無の魔王の復活と関係しているみたいなの。あいつが言うには、勇者と魔王は対の存在。どちらかが存在すれば、どちらも存在する。私は自分の力を過信して、あなたをあの世界へ導き、静剣の勇者として覚醒させてしまった……」
霧島は平静を装いながらも、蒼白で気がふれてしまいそうだった。そんな彼女を憂慮しながらも、僕は更に質問を続けた。
「魔王って、虚無の魔王ってそんなに強いのか? あのデーモン・アドバートって奴も?」
「正直魔王なんて、最初は私もおとぎ話の中の存在だと思っていたわ。だからどれだけ恐ろしいものなのか誰にもわからない。それでも私には、周りの人間が恐れるほどの魔力を持っていたから、どんなものにでも負けないと本気で思っていたの。あのインチキ臭い悪魔なんて余計にね……」
「実際どうなんだ? お前と俺であいつらを追っ払うことはできないのか?」
「本来魔法というのは、名前の通り魔族が使う力。人間や亜人が使う魔法なんて所詮猿真似の紛い物に過ぎないの。でも私の一族は違った。マッドチェスターには魔族の血が流れていると言われているわ。
マッドチェスターの再来と言われた私の魔力であれば、或いはとは思ったけれど、フンババとの戦いを見たでしょ? あの鎧の前に、私の魔法なんて無力だった……」
「ちょっと待てよ、フンババも奴らのさしがねってこと?」
「今思えば、あいつがあの森に現れたのも、あんな鎧を身に着けたのも不自然すぎるわ。きっと私たちは試されていたのよ。所詮私は、奴にとってみれば普通の人間よりも少し大きな魔力を持っただけの、ただの子供に過ぎない」
全くもって霧島らしくなかった。いつも気丈で野生動物みたいに気高かった彼女の表情には、深い絶望が浮かんでいた。
僕はかつて彼女が引用したジム・モリソンの言葉を思い出した。これがきっと彼女の言う“終わり”なんだと思った。
世界は彼女を救おうとしなかった。いつも世界は冷たく、怠惰で無関心にただそこに横たわっているだけだ。
果たしてある一人の不幸な少女が、ふと魔が差してそんな世界を売ったところで、一体どんな罪があったものだろうか。
僕は何故だか無性に憤っていた。世界から見放されたあの不幸な少女を、例え彼女が選んだこととはいえ、あの悪魔は利用し弄んだんだ。そう思うと、僕はやり切れなかった。
「お前がしたことが、どれだけの意味を持つのか俺にはわからないよ。だけどお前は奴に俺を売り渡すことを拒んだんだろ?」
「土壇場になって、自分がしでかそうとしていたことが恐ろしくなっただけ。でも、もう遅いのかも知れない。あなたの復活は魔王復活を意味するの……」
今思えば、霧島がこっちの世界で足踏みしていたのも、きっとそのせいなんだ。自分の中の良心の呵責と戦っていたんだ。
ずっとこっちの世界にいさえすれば、魔王の復活を止められると、或いは何か彼女らしからぬ希望的な観測を抱いていたのかもしれない。
「いいよ、そんなこと別に。問題はこれからどうするかだろ? もっと遠くへ逃げてみてもダメなのか?」
僕は頭を抱えて震える霧島に、何か希望の言葉を伝えたかった。ただそんなものはどこにもない。僕らは為す術もないまま、夜の闇に呑み込まれようとしていた。
「……来た!」
霧島は外敵の接近に気付いた獣のように首を上げ、外の屋上へと目をやった。そうさ、鼻から僕らに逃げ場なんてなかったんだ。
両足を抱えて震える霧島。もはやかつての強く気高い獣のような姿は見る影もなかった。美しかった牙は無残に抜かれ、しなやかな足は鎖で繋がれているみたいだった。
だから僕は覚悟を決めなきゃならない。世界が、神が悪魔が、誰もが彼女を救わないのであれば、せめて僕だけは彼女の味方だと伝えたい。
もし本当に勇者なんてものがいるのなら、もし僕が本当に勇者と呼ばれるような存在なら、不幸な少女一人救うなんて、わけないはずじゃないか。
鼓動はかつてないくらい高鳴り、いかれたみたいに気分は高揚していた。僕は霧島の小さな肩に手を置いた。
「どうにもならないかもしれないけど、俺は戦うよ。もうそうする以外にないんだろ?」
そう言っても、蹲って下を向き、霧島は返事すらしなかった。僕は階段室に積み上げてあった教室の椅子を手に取り、そのまま外へと通じる冷たい扉を開いた。
すっかり青い闇に染まってしまった屋上へと出ると、薄暗い景色の先には、街の明かりがいたるところで幸せそうに灯っていた。
そして僕の眼の直線上には、どうやって登って来たのか、既にあいつらが立っていたんだ。
「お気はすみましたか? さあ勇者殿、不幸な王女殿下の為に、私とご同行頂きたいのです」
慇懃としながらも、デーモン・アドバートの表情は、まるで僕を嘲笑しているようだった。
僕は間髪入れずにスロウダイヴし、持っていた椅子を振り上げながら、デーモン・アドバート目がけて突進していった。
少なくとも、スロウダイヴしている間は僕が時間と空間の支配者だ。武器としては心もとない教室の椅子を、奴の脳天におみまいしてやるくらいはできるはずなんだ。
「このっ!」
と言って僕は椅子を振り下ろすが、僕らがいつも座っていた金属と木材でできた椅子は、鋼鉄の壁にでもぶつけたみたいに跳ね返され、脚がひん曲がっていた。
僕は何が起こったのかわからず、慌てて距離をとり、通常の時間世界へと浮上した。
「何だ!? 霧島のワンダーウォールみたいなやつか!」
「おやおや、穏やかではないですね。今のがスロウダイヴというやつですか? あまり手荒なことはしたくないんですがね」
そう言うと、奴は自分の右手を前に掲げる。僕はまた幻覚でも見ているのかと思った。奴の手がどんどん大きくなり、どす黒い煙みたいになって迫ってきたんだから。
それが幻覚じゃないって気付いた頃にはもう遅かった。そのどす黒い手は、僕をいよいよ鷲掴みにしようとしてたんだ。
僕は目を閉じ、腕で顔を覆った。だけど僕の体は、特に何かされたって感覚はなかった。そう言えば、前にもこんなことがあった。確かあの時も。
「馬鹿ね。あなたが捕まったら終わりだというのに……」
何だか懐かしい冷然とした声を聞いて、僕は腕を下げ、目を開けた。あのどす黒い煙みたいな大きな手は、僕のすぐ前で透明な壁にでもぶつかったみたいに止まっていた。
僕のとなりには獣のように美しく鋭い、透き通った瞳をした少女の横顔があった。彼女の瞳は以前のように禍々しく、そして力強く紫色に灯っていたんだ。
「カート・コバーンは言ってたわ。……ニール・ヤングだったかしら。“朽ち果てるより、燃え尽きたほうがいいんだ”って……」
「霧島……!?」
「あなたは渡さない。例えどんな報いを受けようとも、自分の過ちを……このフ〇ッキンろくでもない契約にけりをつけるわ」
僕と霧島は、目の前に慇懃と佇んだ、かつてない未曾有の危機と対峙していた。
黄昏時は穏やかな日々に終わりを告げ、世界は二度と朝なんか来ないんじゃないかというくらい深く暗い夜を迎えようとしていた。
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