第十七話 霧島 摩利香とロックンロール2
いよいよ第十七話。第二章も残すところあと僅かです。
きっとこんな日々がいつまでも続くわけなんかない。そんなこと言われなくてもわかっていたんだ。
ただ僕は、霧島と過ごすこんな高校生活も悪いもんじゃない。むしろ救いなんじゃないかって思うこともあった。
だからもう少しだけ、僕はこんな現実世界の幻想的な日常に横たわっていたかった。
僕が軽音部に入るなんてことは、神様だって予想外の運命の巡り合わせというものだろう。
結局僕は、霧島に教えてもらいながらギターを覚えることになった。バンド編成の上で、ギタリストなら何人いても困らないということのようだ。
僕はそれで、部室にあったテレビのニュースキャスターみたいな名前のギターを貸してもらう。せっかく教えてくれる霧島を怒らせないよう、僕は真剣にギターの練習に励まなきゃいけなかった。
あれは確か軽音部に入ってすぐのことだ。僕は霧島に覚えるように言われた、ギターの基礎的なコードを、手がつりそうになりながら練習していた。
部室の隅に座って、僕の言うことを聞かない五本の指は、六本の弦と悪戦苦闘していたわけなんだが、指は弦を押さえ過ぎて痛くなっちゃうし、ちゃんとした音は中々出ないわで、正直投げ出したい気持ちで一杯だった。
そんなところに霧島が静かに歩み寄ってきて、僕を見下ろした。僕は恐る恐る彼女の顔を見上げる。
きっと、「まだそんなのもできないの?」とか、「才能の欠片もないわ」とか、はたまた「人間のクズね」だとか言われるんじゃないかと思って、正直冷や冷やしていた。
いつもと同じ無表情であったが、霧島は徐に腰を下し、僕の手を優しく握った。僕は何が起こったかわからず、思わずへたり込んでしまう。
「……少し難しいかもしれないけど、Fコードはこうやって握るの」
「……へ?」
霧島は僕のカチカチに固まった指を丁寧にほぐして、弦の上に置いていった。何だろう。夢でも見ているんじゃないだろうか。そんなことをふと考えたが、頬を抓るはずの僕の手は、今彼女の手の温もりの中にあった。
そして当然それは夢なんかじゃなく、現実に霧島の透き通るような瞳は僕の目と鼻の先にあり、あろうことか優しく手なんか握られてしまっている。僕は無性に恥ずかしくなってしまい、彼女から目を逸らしていた。
「どうしたの? 体調でも悪いの?」
「い……いや、ごめん。何でもないよ!」
霧島は不思議そうに僕の顔を覗き込み、僕はしどろもどろになりながらその場を繕った。
僕も人のことは言えなかったが、明らかにおかしいのは霧島だ。いつもの冷然とした獣なんかじゃない。まるで天使じゃないか。
そう言えば、あの世界にいた時、重傷を負った霧島を背負ったことがあった。あの時は必死過ぎて、彼女の温もりなんてとても感じる余裕はなかったっけ。
ダメだ。そんなこと考えると、余計恥ずかしくなってくる。体中の血液が沸騰しそうで、心臓ばくばくの僕と、いつものように落ち着いた霧島に不意に声が掛かる。
「ねえ、あんたたちって一体何なの? 付き合ってるの?」
ドラムのセットに気怠そうに腰かけた高妻先輩だった。僕は声を上ずらせ、動揺してるの丸出しで答える。
「へ……つ……付き合う!?」
「そうそう、だってあなたたち、一緒にうちの部入ってきたし、いつも一緒じゃない?」
「いいえ、那木君は幼女にしか興味がないから――」
「き、霧島! それはもういいよ。頼むから」
どうやら霧島はこのネタが好きなようだが、本当に誤解されちゃったら、たぶん高妻先輩は僕とまともに口を聞いてくれなくなってしまうので必死に止めた。
そんなことはいいとして、僕らが恋人同士なんて可能性は、ミジンコほどもありえるはずがない。確か前に霧島もそう言っていたよな。
「ち、違いますよ! 僕らは付き合ってなんかいなくて、えーと・・つまり、一言で言うと……」
「一言で言うと……?」
すぐに出てくると思われた言葉は、僕の口からついに出ることはなかった。僕と霧島の関係って一体何なんだろう。パーティーの仲間? 勇者と魔法使い? 同士? 運命共同体? それはつまり、一言では言えない関係だった。
こんな簡単な質問に、どうやら僕は困り果ててしまっていた。だけど、きっと答えは彼女の言うように、いつだって意外とシンプルなものなんだと思う。
「それって、ただの友達ってこと?」
霧島は静かに肯いた。そうだった。世の中にはこんなに便利で、あらゆる友好的な関係を指示す魔法のような言葉があったじゃないか。
僕もそんな三歳児でも知ってる、簡単な漢字二文字の言葉を忘れていたわけじゃない。
というのは、霧島に対して、面と向かって友達だなんて言えるのは、学校広しといえども、きっと僕のフ〇ッキン幼馴染くらいのものだからだ。
ただ霧島が“友達”だって認めてくれていたことに、僕の心はぽかぽかと温かかった。
だってあの霧島 摩利香が、僕のことを友達だなんて言うんだぜ。それだけだって、世の中ってもんは以外と捨てたもんじゃないかもしれない。
「ふーん……」
と、つまらなそうな高妻先輩。そりゃ、この質問に対する答えの中で、考えられ得る限り最もつまらない回答なわけだから仕方ない。
だけど、それは僕らにとって大いなる前進だったと思うんだ。少なくとも、僕はもう少しギターを頑張ってみる気になったし、ロックの神様なんてのがもしいるんだとしたら、少し感謝してあげてもいいと思った。
★
昼と夜の境界が薄紅色のグラデーションとなって遠くの空に現れる頃、僕は背負い慣れないギターケースを持って学校を後にする。
正直こんなでかいものを背負って帰るのなんて、一昔前の僕だったら、恥ずかしくて仕方がなかったに違いない。
ただ、霧島とずっといたせいで、人にじろじろ見られる耐性がついてしまっていたみたいなんだ。
僕と霧島は、そんな中を今日も二人で下校していたってわけなんだけど、案の定、伝説の聖剣を持った勇者と大袈裟で禍々しい魔法の杖を持った大魔導士みたいに注目を浴びてしまう。
別に頼んでるわけでもないのに、皆お年寄りに席を譲る親切な若者みたいに道を開けてくれる。正直、借りたくもないのに虎の威を借りる気分ていうのは、複雑なものなんだ。
それでも、何か嫌なことされるわけじゃないから、別に良かったんだけど、問題っていうのは、意外と自分のすぐ傍にあったりするものだ。
「あれ? 吾妻とマリリン? どーしたの、ギターなんて持っちゃって?」
幼馴染の毘奈の声が後ろから聞こえた。こいつは、僕が会いたくないタイミングをいつも見計らってるんじゃないかって、本気で思うことがある。
僕らが振向くと、毘奈も部活帰りのようで、あのどうもいけ好かない尾瀬とか言う彼氏と一緒だった。
霧島は心なしか眉をひそめ、毘奈のことを警戒している様子だった。彼女に苦手意識を持たせるなんて、僕の幼馴染って意外に凄い奴なのかもしれない。
とりあえず僕は、霧島の付き合いとは言え、軽音部なんかに入ったなんて、恥ずかしくて言いたくなかったわけだ。
「あ……えーと……霧島がロックが好きだから、一緒にけ……軽音部に入った……」
「え、軽音部!?」
毘奈は、ラーメンの上にショートケーキでも乗ってたみたいな顔して僕らを見る。隣の尾瀬って彼氏は、そんな毘奈を見守るように微笑していた。
「嘘、部活に入ればなんて言ったけど、まさか軽音部に入るなんてね」
「べ……別にいいだろ?」
「うん……別にいいんだけどさ……」
「な、何だよ?」
もう我慢できなかったみたいで、毘奈は噴き出してクスクスと笑った。
「あはは……ごめん。でも、吾妻がロックなんて、イメージ違い過ぎ」
「……」
僕は赤面して言葉を詰まらせる。そんなの言われなくたって、自分が一番よくわかってる。だから毘奈にはあまり会いたくなかったんだ。
別に毘奈に悪気がないのはわかっていた。言うなれば、姉弟同士の歯に衣着せぬやり取りみたいなものなんだ。
そこにろくでもない第三者が入って来るから、単純な話もややこしくなる。
「おいおい、そんなこと言うもんじゃないぞ、天城」
「だって……」
彼氏の尾瀬は苦笑しながら毘奈を窘めた。何だよ、この偽善者にそんなこと言われたら、まるで僕が可哀想な奴みたいじゃないか。
僕はこの男に毘奈を奪われた上に、ちっぽけな自尊心すら持っていかれるのか。僕は下を向いたまま、自分が惨めになって、何も答えることができなかった。
静かに拳を握りしめている僕の横を、小さな黒い影がスッと通った。ハッとして顔を上げると、ギターを背負った霧島が僕の前に立っていた。
「……ノエル・ギャラガーが言っていたわ。“ギターってもんは反抗や自由、崖っぷちに生きる人々のシンボルなんだ”って……」
「どうしたの、マリリン? どういう意味?」
突然前へ出て、訝し気なことを口走る霧島に、毘奈は首を傾げて答えた。霧島は気にせず続ける。
「今あなたは那木君を笑ったけど、本来ロックっていうのは、そういう蔑まされ、軽んじられた人々の叫びから生まれた……そういう音楽なの」
「違うよ、マリリン。別に吾妻を馬鹿にしたわけじゃないよ! ただ、何か吾妻のイメージと違うなって……」
さすがの毘奈も霧島の変化に、これはまずいって思ったはずだ。ことロックのことになると霧島はうるさいぞ。
僕の前で淡々と喋る霧島の言葉から感じられたのは、彼女の凍てつく氷の下から噴き上がろうとする怒りだったのだと思う。
「それに、あなたが思っているよりも、那木君はもっと遠くに行けるのよ。あなたがそれに気付く頃には、きっと手の届かない存在になっているかもしれないわ」
最後に霧島はそう嘲笑するように言った。
ロックに対する冒涜が許せなかったのか、それとも単に僕を庇ってくれたのか。いずれにしても、嬉しさ半面、何かハードルを上げられてしまった気がする。
「そうだぞ、天城、今のはお前が悪いよ」
「うん……そうだね。ごめん、吾妻……じゃあ、また明日……」
霧島と彼氏に窘められ、僕に謝った毘奈は、少し寂しそうに僕らに別れを告げて先に帰って行った。
まあ、とりあえず、あまり後味のいいものじゃなかったけど、霧島には一応お礼を言っとかなきゃな。
「ありがとな、霧島。まさかあんなに庇ってくれるとは思わなかったよ」
僕がそうお礼すると、霧島は振返って徐に僕の顔を指さして言ったんだ。
「“君はどこへでも行けるのに、どうしてそんなところにとどまっているんだい?”」
「それも誰かの言葉?」
「ジョン・レノンの言葉よ。……さあ、これからが大変よ。あなたのフ〇ッキン幼馴染を一緒に見返してやりましょ」
「……ああ、宜しく頼むよ」
僕がそう答えると、霧島は穏やかに微笑を浮かべた。
あの霧島 摩利香様にこんなことを言われちゃうなんて、全くもって、本当に世の中ってものはどうなるかわからない。
でも、本当に毘奈を見返すんだったら、もうちょっと、いや、指がちぎれるくらいギターは練習しないとダメだよな。
僕がそう考えてる横で、霧島はまた何か英語の鼻歌を歌っていた。何だか知らないけど、今は上機嫌みたいだ。
そう言えば、最近は毎日霧島に会っている。そりゃ、一緒の部活なんだから当然だ。
そう、この頃になると、霧島 摩利香という存在はいつも僕のすぐ横にあった。
――まるでかつての天城 毘奈のように。
★
僕と霧島は学校を出て、いつものように駅までの道のりを一緒に歩いてた。
燃えるような黄昏が真昼間を地平の彼方へ追い込み、空は少しずつ青い闇に染まろうとしていた。
一見いつもと同じようだけど、何だかご機嫌な霧島。彼女の十八番であるロックについての講義が始まっていた。
「60年代にアメリカを中心に巻き起こったヒッピームーヴメント、サマー・オブ・ラブは時勢のロックシーンにも大きな影響を与えたわ。その名の通り、後にイギリスで巻き起こったダンスミュージックムーヴメント、セカンド・サマー・オブ・ラブはそれに由来しているわけだけれど――」
どうやら今日の霧島は絶好調だ。心なしかいつもよりも饒舌な気がする。
問題なのは、僕が彼女の言っていることを、『ツァラトゥストラかく語りき』かなんかにに書いてあることだと言われても、たぶん信じてしまうだろうと思えるくらい、理解できてなかったということだ。
いつものように冷然とした霧島の白い肌が、夕焼け色に染まっていた。もう少し立てば、辺りは闇に包まれ、眠りから覚めた星々や月が彼女の最も美しい時間を彩るんだ。
僕はロックなんてよくわからないし、ギターの練習も正直しんどかった。だけどこの時既に、僕は霧島と一緒にいることに幸福を感じ始めていたんだと思う。あの世界で彼女に初めて会った時からすれば、全く考えられない話だ。
そうだ。世界はこんなにも不思議に満ち溢れている。だから、きっといつか霧島の言っていることも、スリーコードのロックンロールくらい単純明快に思える日がくるのだろう。
そして僕らのこんな幻想的とも言える安息の日々は、目の前のでたらめなくらい色鮮やかな落日と共に、終わりを迎えようとしていたんだ。
ふと僕が夕焼けに照らされたアスファルトの道の先に目をやると、逆光で少しわかり難かったけど、目に留まるような二人組が前から歩いて来ていた。
一人はこのくそ暑いのに、茶色いツィードの三つ揃いを着て、ボーラ―ハットを被った英国紳士風の外人。もう一人は、黒シャツにバーガンディーのネクタイと細身のズボン、赤茶のブーツを履いてポークパイハットを被った、目つきの悪い僕らと同じくらいの欧米人の子供だった。
僕がその不思議ないでたちの二人組に見入っていると、徐に霧島は立ち止まる。僕が彼女に目をやると、震えながら見たこともないくらい驚き、慄然とした顔をして立ち尽くしていたんだ。
「き……霧島、知合い……なのか?」
僕の質問など、最早霧島は聞いちゃいなかった。そんな余裕などあるはずがなかったんだ。
間もなく、その怪しげな二人組は僕らの前で立ち止まった。目つきの悪い白人の少年は、僕らを何かの仇みたいに睨みつけ、一見英国紳士風の男は、背筋がゾッとするくらいインチキ臭い笑顔を浮かべてこう言ったんだ。
「またお会いできて光栄です。親愛なるマデリカ・スクリーナ・マッドチェスター王女殿下、いや、今は霧島 摩利香とお名乗りでしたかな?」
僕は以前見たまま、記憶の奥に追いやってしまっていた不思議な夢のことを思い出していた。そうだ。僕はこいつを知っている。
何のへんてつもない住宅街の道路上で、向かい合う現実と非現実。僕はいつの間にか、現実世界と異世界の彼岸に立たされていたんだ。
お読み頂きありがとうございました。
次回は数日中に更新予定です。