43話 疾走する【ドア】 -3-
「しま……っ!?」
深い、切り立った崖の下から吹き上げてきた突風に煽られ、ボクの体は紙のようにふわりと持ち上がり、あっという間にドアの外へと放り出されてしまった。
ドアを掴もうと慌てて腕を伸ばすが、あとちょっとというところで指が空を切り、無情にもボクの体は渓谷の上へと投げ出される。
一瞬の無重力感を味わい、次の瞬間に死を確信する。
大自然の中では、人間はなんとも無力なのだ。
助けなど、来な……
「シェェェェエエーーーフッ!」
頼もしい叫びと共に、アイナさんがボクに向かって『飛んで』きた。
それはまるで大空を翔る天使のように美しく優雅で、ボクは……
あぁ、ボクはこの人のことが本当に好きなんだなぁ。
……と、そんな場違いなことを思った。
「手をっ!」
真っ直ぐに伸ばされた腕に向かって、自分の腕を伸ばす。
突風に煽られた影響か、恐怖からか、一切言うことを聞かない腕を無理矢理に動かして、なんとか、少しでもアイナさんに近付こうとする。
その間もボクたちはどんどん落下して、気が付けばはっきりと地面が目視出来る高度になっていた。
下は森などない剥き出しの岩肌。
叩きつけられれば、万に一つの奇跡も起こりえない。
「シェフ、もう少し……! 頑張って!」
アイナさんの声に励まされ、動かない腕を懸命に伸ばす。
互いに伸ばした手が数度空を切り、そして、指先が………………触れた。
「シェフッ!」
その瞬間、ボクは手首を掴まれグイッと力強く引き寄せられた。
そして、その勢いのままアイナさんの胸の中へ――
圧倒的な大ボリュームの二つの膨らみのど真ん中へと飛び込んでいった。
「なんじゃこりゃぁあああああっ!?」
それは、この大自然の巨大渓谷を目の当たりにした時以上の衝撃だった。
こんなに柔らかく、それでいて弾力のあるものがこの世に存在していたのだという衝撃の事実。
おそらく、人類の誰も到達したことがない神秘の果てに誕生した奇跡の産物。
全知全能の神がこの世界に与えたもうた最大級の祝福。
その二つの膨らみの間に、ボクの顔が……埋まった。
以前、鎧越しにこのような体勢になったことはあったが、あの時とは比べ物にならない……鎧ごしとは比べ物にならない……いいや、この世界のどんな物とも比べ物にならないくらいの圧倒的な柔らかさが、今、ここに存在している!
「必ず助ける。わたしを信じてほしい」
そんな言葉が耳に届き、世界が反転する。
たわわな膨らみが波打ち、形を変える。先ほどとは違った柔らかさが、まるで包み込むようにボクの頬を撫でていく。
え、……おっぱいって環境によって変形するんですか!?
それとも体勢で?
……気合いで!?
レベルアップに伴って!?
もしかして、特殊なアイテムを取ったら、ファイアーおっぱいとかブースターおっぱいとかにもなったりするんですか!?
ボクの頭の中がパニックに陥っている。
それは死の恐怖からか、はたまた世界の神秘に遭遇した感動からか…………
「ありがとぉぉぉぉおぉおおおおおおっ!」
……たぶん、後者だ。
死への恐怖は、不思議となかった。
微塵も、感じなかった。
アイナさんの香りに――アイナさんの温もりに包まれているから、かもしれない。
「剣技――ナインヘッズ・ドラゴン」
囁くようなアイナさんの声が耳に届いた直後、――ゴゥ!――と、空気が破裂したような音が轟き、ボクたちの体が再び無重力感に包まれる。
ふわりと浮き上がる感覚の後に、しっかりとした安定感を覚える。
足の下に、大地が存在した。
膨らみの間から顔を離して周りを見渡すと、そこは崖の底で――辺り一面の土がかなりの広範囲にわたってめくれ上がっていた。
とんでもない威力の剣技を発動して、その反動でボクたちの体を一瞬浮かせたらしい。
……相変わらず、規格外のことを平気でやってのける。スキルマって、すごい。
「シェフ」
名を呼ばれ、ボクは再度振り返る。
「怪我は、ないだろうか?」
不安げな表情でボクの顔を覗き込むアイナさん。
その顔が、堪らなく愛おしくて……
「ボクは大丈夫です」
「ありがとうございます。アイナさんのおかげです」
「アイナさんこそ大丈夫ですか?」
「無茶をさせてしまって、すみません」
「すごい技でしたね」
「アイナさんが無事で、ほっとしました」
……そんな、いろんな言葉が脳裏に浮かぶのに、それよりも鮮明に神の御業としか言いようがないあの柔らかさが蘇ってきて。
「ごふっ!」
「シェフッ!?」
ボクは、盛大な鼻血を噴き出してその場に倒れてしまった。
噴水のように上空でアーチを描く真っ赤な血潮は、心なしか、幻想的な虹を生み出していた……気がした。
まぁ、それは、間違いなく人生の運をすべて使い果たしたと断言出来るほどの幸福感に満たされたボクの脳内が見せた幻想なのだろうけれど。
「シェフ!? シェェェェエエエフッ!」
心配そうな声でボクを呼んでくれるアイナさんの声を聴きながら、大量の出血により言葉すら発せないボクは、心の中で右腕を突き上げてこう呟く。
我が生涯に一片の悔いなし。――と。




