第一章 終焉と苦悩、そして.....(8)
翌朝、皇太子妃の私室は騒然となった。早朝、勤務の交代に現れた兵等は、皇太子妃の私室の前で眠り込んでいる二人の同僚の姿に驚き急ぎ揺さぶり起こした。何故二人して眠り込んでいたのか...。不審に思い俄に不安にかられた衛兵達は、皇太子妃の部屋の扉を叩いた。誰も出て来ない。再度叩くも、やはり何の反応もない。尋常では無かった。皇太子妃の部屋には常に幾人かの侍女が詰めている。誰も応答しないのは奇異であった。衛兵達は尚も扉を叩き、応答が無いと見るや恐る恐る扉を開け室内へと踏み込んだ。緞帳で隠された控えの間を覗き、続いて皇太子妃の居間への扉を叩いてそっと開き覗き込むと、不寝の番の侍女達が揃って長椅子に臥している姿があった。衛兵達の顔に緊張が走る。
たちまち騒ぎとなるも直ちに箝口令が敷かれると共に城内の捜索が行われ、城外へも秘密裏に捜索隊が出された。
その晩勤務に就いていた衛兵達と侍女達は厳しい取り調べを受ける事となった。カリナは血の気の引いた表情で昨晩の事を思い起こしていた。夜更けに皇太子が部屋を訪れた事をカリナははっきりと覚えていた。皇太子が突如現れ、目が合ったところでカリナの記憶は途絶えていた。思い起こそうとしても、それ以上の事は何も分からない。ただ胃の腑の辺りに鈍い痛みが残っているばかりであった。カリナは痛む腹部を手で押さえ取り調べに答える。共に不寝の役目に就いていた侍女は皇太子の姿を見てはいなかったらしい。ただ何者かに襲われたという事しか知らない。カリナも、ただ何者かの侵入を得た事のみを報告した。何故か皇太子の名を出す事が憚られたのだ。
三日が過ぎてもセレーディラの行方は杳として知れず、その日の会議の席でラドキースは、セレーディラ付きであったあの年若い侍女カリナが、あの晩の自分の訪れを口にしていない事を知った。ラドキースとしては咎めを受ける覚悟など疾うに出来ていた。たが即座に自ら名乗り出る愚行に走る事も無い。
臣達の大半が内通者を疑うそんな中、ラドキースは腕組みをして静かに周りの意見に耳を傾けていた。
「兄上は如何思われるのだ?」
一つ下の腹違いの弟が皮肉気に口を開いた。ラドキースとは対照的な明るい色の髪をしている。
「先程から黙りを決め込んでおられるが。まさか戦利品を失って意気消沈しておられるのではなかろうな? 黒将軍ともあろう兄上が」
その言葉には嘲りの音が混じる。ラドキースはふっと口元を歪めた。今の言葉には恐らく、自分よりも背後に控える乳兄弟の方が腹を立てているであろう事を思ったら可笑しかった。
「私の思う事か? 私の思うは殺戮は憎しみと悲しみしか産まぬと言う事よ。そなたの申す通り私は妻を失って意気消沈している。そなたと違って私は、妻の身を案ずる事が恥ずべき事だとは思っておらぬ故な」
静かな物言いであったにも拘らず、周囲の者達に言葉を失わせる様な何かがあった。
その宵、ラドキースは主を失った部屋に独り足を運んでみた。すると何処からか鈴の音を鳴らしつつセレーディラの白猫が駆け寄って来た。足元にすり寄る白猫をラドキースは抱き上げた。
「お前も寂しいのか?」
ラドキースが話しかけると、白猫は一声鳴いてラドキースの手に頭を擦り寄せた。目を閉じれば何時でもセレーディラの悲し気な青空色の瞳が鮮明に浮かんだ。無事に生き延びて欲しかった。もしもハーグシュの残党がユトレアに対し旗揚げすれば、間違い無く己はセレーディラの首を取らなければならなくなる立場となろう。そしてセレーディラも.....。そんな事は痛い程に分かっていた。
「殿下」
ふいに声をかけられ我に返る。無人だとばかり思っていた部屋には、まだセレーディラの侍女が残っていたらしい。
「こちらを.....」
侍女が何やら差し出して来たので、ラドキースは無言のまま受け取った。
「寝台のテーブルに置いてございました」
それだけ言うと侍女は膝を折って密やかに立ち去った。ラドキースは片腕に白猫を抱いたまま、もう片方の手にした物に目を落とす。それは繊細な刺繍の入ったごく薄い木綿の手巾であった。緑の蔦模様の縁取りがなされ、四隅の一所に冠と蔦の絡んだ長剣の刺繍が入っていた。皇太子ラドキースの紋章であった。ふいに刺繍を刺すセレーディラの横顔が過り、猫になりたいと呟いた時の泣き出しそうな表情が過り、抱き締めた時の細い肩の震えが、最後の口付けの感触が甦る。
ラドキースは暫しその手巾を見詰め、やがてその紋章にそっと唇で触れた。
皇太子妃失踪の失態の責を問われ、城内に監禁されていたカリナは眠れぬ日々を送っていた。共に監禁されている年長の同僚のすすり泣きが絶えず聞こえて来ていた。
「私だって泣きたいわ....」
思わず小さく呟いた。カリナとて心底から泣きたい気分であった。失踪した皇太子妃が見付かるまで、恐らく解放される事は無いのだと感じ始めていたからだ。ならばあの晩の真実を話せば良いのだ。あの晩、一体誰が皇太子妃の部屋を訪れたのかを....。カリナはずっと考え続けていた。やはり皇太子があのハーグシュの姫君を連れ出したのだろうか.....。そうとしか考えられない。では、何故......?
カリナには考えても考えても、皇太子があの姫君に到底害をなすとは思えなかった。ちょくちょく盗み見た皇太子の姫君へと向けていた瞳。それが憐憫の色であったのか同情の色であったのか、はたまた疾しさや後ろめたさであったのか、カリナには分からなかった。仮令それらを総てひっくるめた色であったのだとしても、そこには少なくとも恋慕の色があったとカリナは信じていた。その信念の為にカリナは考えていたのだ。皇太子は亡国の姫君を逃してやったのだろうと。
今日もそんな事に思いを馳せていると慌ただしい足音が近付いて来た。あっという間にカリナの独房の前まで来るとそこでぴたりと止まった。それと同時に扉の錠前が開けられるけたたましい音が響いたかと思うと、カリナは有無を言わさずに荒々しく両腕を掴まれた。
足早に回廊を進んで行くラドキースを、ファランギスは必死の態で押しとどめようとしていた。無実の侍女が繋がれ拷問にかけられた。侍女だけでは無く、その家族までもが捕らえられた。それを知ったこの乳兄弟である皇太子が、これから何をしようとするかなどファランギスに分からぬわけも無かった。
皇太子妃付きの侍女であったカリナがかつて、老僧に身をやつしたハーグシュ人と言葉を交わす処を目撃した者がいたらしい。その旨が上に進言されたのである。皇太子妃付きの侍女がハーグシュ人と接触した事実と、皇太子妃が失踪した晩もその侍女が夜通しの番を務めていた事実。直ちにカリナは疑われ拷問にかけられるに至った。
「余計な事は仰いますな、殿下」
ファランギスはラドキースの腕を掴みながら、声を落として必死の形相で説得を試みる。
「貴方は王国にとって無くてはならない存在なんですよっ! 浅はかな真似はなさいますな、後生ですから、殿下っ!」
ラドキースは歩を止めて、ファランギスを振り返った。
「かの侍女はあの晩、セレーディラの部屋で私の姿を目にしていながら未だその事を一言も口にせぬらしい。拷問にかけられながらも口にせぬのだぞ。はなから告げておればあの様な目にあう事も無かったであろうに......。このままでは死罪は免れぬ。無実の娘を死なせるわけにはゆくまい。咎めを受けるは私一人で充分だ。お前の方こそ余計な事は言うな。さもなくばもう、お前を乳兄弟とは思わぬ」
静かに言い放つとラドキースは、最早ファランギスの必死の懇願に答える事もせぬままに目的の部屋まで来る。その扉を前にしてさえ、ほんのわずかな躊躇いも見せず衛兵が扉を開こうと手を伸ばすよりも前に自ら扉を開け放っていた。
一身に注目を浴びながら、血族上の父である王の前に進み出るや片膝を付いて頭を垂れた。会議の間であった。腹違いの弟王子達始め、主な重臣達が王の周りに座を占めていた。王の座に次ぐ上座のみが空席となっていた。
遅いではないか....。王がそう口にする前に、皇太子が口を開いていた。
「捕らえられた侍女を直ちに釈放して頂きたく、平にお願い申し上げます、陛下。あの侍女に何ら罪はございません」
室内に沈黙が流れた。その永遠にも思える重苦しく張りつめた空気を破り、王が身じろぎをした。
「かの侍女の無実を断言する、その根拠は?」
王は重々しく問うた。
「ハーグシュ王女を城外へ逃亡させたは、この私だからです」
何の躊躇いも見せずに、皇太子は常日頃の静かな抑揚の無い口調で進言した。俄に場がざわめいた。ファランギスは部屋の片隅で崩れる様に膝を付き頭を抱えた。絶望的であった。
「何...だと?」
王の顔がみるみる怒りの色に染まる。
「いかな手引きがあったにせよ、夜更けにあの城門の外へ出るは至難の業だという事は周知の知る処。それにも拘らず、何故あの力無き侍女に疑いをかけられたのか....? 王女は私が内部通路から脱出させた。総て私独りが行った事にて.....。いかな咎めも受ける覚悟は出来ています」
淀み無く語られる皇太子の言葉の衝撃に、声を立てる者はおろか、身動きする者さえもいなかった。