第一章 終焉と苦悩、そして.....(7)
「何用だ? ファランギス」
珍しくも睨む様な厳しい眼差しを向けて来る乳兄弟へ、ラドキースも同様の眼差しを返す。だがそんな事でこの乳兄弟が怯む筈も無い事はラドキースも良く知っていた。
「妃殿下を逃すおつもりですね?」
「何故そう思う?」
「だってサダガルド将軍とそんな話をなさってたじゃありませんか」
ラドキースは一瞬目を見開いたが、次の瞬間にはその黒い瞳を嶮しく細める。
「聞き耳を立てていたのか?」
「はい。表を見張れとは仰ったが話を聞くなとは仰らなかったでしょう? 殿下は」
ファランギスは悪びれもせずに言った。
「嫌な奴だ」
ラドキースは不機嫌に返した。
「で? お前は邪魔だてするつもりか?」
「私に、これを見逃せと?」
詰る様な声で逆に問い返すファランギスの厳しい瞳は、微塵も揺るがずに皇太子を見据えている。
「妃殿下逃亡に手をお貸しになる事が後にどれ程の危険性を呼ぶ事になるか、貴方に分からぬ筈が無い。それでも貴方は妃殿下を逃して後悔なさらないのですか?」
「ここで逃してやらねば後悔するだろう」
ラドキースの苦悩を滲ませた瞳と、その静かな言葉に、ファランギスは言葉を失った。
暫しの沈黙が流れた。
やがてファランギスの表情は緩む。やれやれ...という諦めの呟きと共に彼は首を軽く横に振る。
「十七にしてあの名軍師フォンデルギーズを唸らせた程の殿下が、よもやこんな愚行に走ろうなどとは誰も思いますまいよ......」
ファランギスは力無く呟くと再度盛大な溜息を吐き、次にはきりっと顔を上げて手近な燭台に手を伸ばしていた。
「分かりました。では行きましょう、殿下。妃殿下も」
燭台を手にこちらを一瞥すると、寝室の扉を勝手に開けてさっさと入って行こうとする乳兄弟の変わり身の早さに、ラドキースも微かに戸惑った。
「ファランギス?」
「何ですか? ご不満ですか? 邪魔立てすれば乳兄弟のこの私を斬ってでも殿下は行くおつもりでしょう? 殿下に斬られるなんてまっぴらですよ、私は」
ファランギスは肩を竦めた。
「見逃すだけで良い。お前は来るな」
ラドキースは、セレーディラの手を取って進みながら厳しい表情で言う。
「ご冗談を」
「来るな。これは命令だ」
「従いかねます。貴方が危ない橋を渡るおつもりなら、私も共に渡ります。どうせ貴方は、事が明るみに出た時の私の身を案じておられるのでしょう?」
ラドキースの表情がふと緩む。
「他の誰にも分からずとも私には貴方の考えておられる事位分かりますよ、殿下。何年の付き合いだと思ってるんです? 生まれた時からなんですよ。今、私がお伴せずに事が明るみに出て貴方が処刑されるような事にでもなったら、私は間違い無く後を追って自害しますからね。ですからここで私を止めても無駄な事です」
その乳兄弟の脅迫まがいの言葉と頑として譲ろうとはしない態度に、ラドキースは溜息を零す。
「...馬鹿な奴だな、お前は」
「殿下に似たんですよ」
ファランギスは不満そうに口をへの字に曲げて寝室に入って行き、大きなタペストリーの掛かった壁に直行するとそれを剥ぐって壁の一所を強く押した。ぎっという低いきしみと共に小さな扉が開いた。
「さあ妃殿下、足元にお気を付けて、急ぎましょう」
今しがたのやり取りにいたたまれぬ思いをしていたセレーディラに、ファランギスは優しい笑みを見せた。
「行こう」
ラドキースは困惑の表情で自分を見上げたセレーディラの肩を抱き、王族しか知らぬ内部通路へと導いた。表向きは王族しか知らぬという事になっていたが、子供の頃ラドキースと共にこの秘密の通路を遊び場にしていたファランギスは、ラドキース同様それを熟知していた。
「森の方へ出れば良いのですね? 殿下」
「ああ」
灯りを片手に先頭を進むファランギスは、よどみなく通路を選んで行く。そしてひたすら螺旋状の細い石段を降りて行った。これでもかという程降りると、やがて石段は水の中に消えていた。横も前も石壁に囲まれている。
「泳げるか?」
ラドキースの問いにセレーディラは首を横に振った。もっと明るければ、彼女の顔から血の気が引いていた事が見て取れたであろう。
「なれば思い切り息を吸い込んで、私に捕まっていれば良い。マントは脱いだ方が良かろう」
セレーディラは言われた通りにマントを脱ぎ捨てた。ファランギスが灯りを石段に置くと、先に水中へと躍り込んだ。続いてラドキースがセレーディラの腰を抱えると、彼女が大きく息を吸い込んだのを確認するや水の中に静かに飛び込んだ。セレーディラは水の冷たさと恐ろしさに目をきつく瞑ってラドキースにしがみついた。身体が強い力で下へ下へと引っ張られて行くかと思ったら、途中から上へ上へと上昇した。苦しくて肺が潰れるかと思った。もう駄目かと思った時、水面に到達した。セレーディラはラドキースに抱え上げられ、その首に強くしがみつきながら、ぜえぜえと荒い息をついた。肺が必死で空気を求めていた。
「大丈夫か? 姫」
ラドキースは苦し気に震えるセレーディラの背を撫でてやった。
「殿下っ! こっちです」
ファランギスの叫ぶ様な囁き声と、微かな水音が聞こえた。ラドキースは苦し気なセレーディラを抱えたまま、そちらへと泳いだ。ファランギスは堀の側面に目立たない様に穿たれたくぼみへ手足をかけながら、あっという間に地面に這い上がった。次にセレーディラがラドキースに背を押さえられながら手探りで側面を登る。
「お許しを、妃殿下」
上からの囁き声と共にファランギスの両手が伸びて来たかと思うと、セレーディラを軽々と引っ張り上げた。その後からラドキースが身軽に地に上がって来た。
ラドキースは無言のままセレーディラの手を握り、城壁を背にすると森へ向かって駆け出した。夜中とはいえ月明かりがある。衛兵に見付からないとも限らなかった。ラドキースは森の中へ駆け込んでから漸く足を緩めた。少し歩いてから足を止め、セレーディラを言葉少なに気遣った。そして彼は親指と人差し指を唇にあて短い口笛を鳴らすと、暫くの間辺りを伺った。ファランギスも無言のまま辺りを注意深く見回していた。
やがて遠くの方に紅い揺らめきが浮かぶ。
「あそこだ.....」
セレーディラも赤い灯りを見付けた。
「サダガルド将軍の迎えだ。あの灯に向かって行け。独りで行けるな?」
ラドキースの声は労る様に優しかった。
「忝く、ラドキース様。ファランギス卿も、誠、忝く.....」
「どうかお達者で、妃殿下」
ファランギスの声も優しかった。
ラドキースはセレーディラの濡れた髪に触れた。恐らく、もう会えないのだろう....。二人とも相手の姿を目の奥に焼き付けようとでもするかの様に、暗がりの中を必死に目を凝らして見詰めあった。セレーディラの頬を涙が濡らした。
「これを持って行くが良い」
ラドキースは、懐から小振りな守り刀を取り出しセレーディラの手に握らせた。セレーディラはそれを胸に抱き肩を震わせた。
「そなたの無事を祈っている」
「ラドキース様も.....、どうか、ご無事で....」
嗚咽混じりに言葉を紡ぐセレーディラは、しかし最後まで紡げずに震えながらラドキースの胸に飛び込んだ。ラドキースの腕は彼女を受け止めきつく抱き締めていた。彼女を愛していた。酷く愛していた。それでも手放さなければならない。
「愛している、姫」
「殿下....」
押し殺した様な声で今初めて愛を囁くと、己の腕の中で顔を上げるセレーディラの涙に濡れた唇に、ラドキースはそっと別れの口付けを落とした。
「...来世では、きっと添い遂げよう....セレーディラ...」
「はい...、きっと....、ラドキース様....」
身を切られる様な切なく悲しい約束であった。
「さあ、行け」
ラドキースはセレーディラの額に口付けると、その身を優しく引きはがした。
「さあ....」
セレーディラは泣きじゃくりながら背を向け歩き出した。幾度も幾度もラドキースを振り返り、やがて見えなくなった。間も無くして遠くの灯りが幾度にも揺れるのが見て取れた。恐らくセレーディラとサダガルドが落ち合ったのであろう。そして、灯りは闇に飲まれて見えなくなった。