第一章 終焉と苦悩、そして.....(6)
人が二人も辛うじて通れるかどうかという程の細道で、カリナが老僧に皇太子妃であるハーグシュの姫君の近頃の穏やかな様子と、皇太子が亡国の姫君をいかに大切に礼節を持って足繁くおとなっているかという事を、ほんの心持ちの誇張と共に語ってやっていると、ふいに長身の男がその細道に足を踏み入れて来た。
老僧に勝るとも劣らぬ様な古びたマントを纏い、これ又老僧同様にフードを深々と被り顔を隠している男は、淀み無く足を進めて来る。カリナは何気なく小道の反対側へと視線を走らせ、そこで俄に緊張する。反対側からも似た様な風体の長身の男が、早くも無く遅くも無い足取りで歩み寄って来ていたのだ。その小道にカリナと老僧は、とても思わしいとは言い難い風体の男達に袋の鼠にされる形となった。二人の男達が腕を伸ばせば届く様な距離で足を止めた時、カリナの胸の内にはほんの少しの後悔の気持ちが沸き上がる。同情心など起こしたばかりに、こんなチンピラに絡まれる事になろうとは.........。
「なっ、何か、御用ですか?」
声を上擦らせながらもカリナは気丈に尋ねた。
「ああ、そちらのご仁にな」
答えた男の口調は思いのほか低く落ち着いていた。カリナの傍らで老僧が怯えた様に益々背を丸めたのが分かった。
「そこもとはハーグシュ人だな? 王城付きの侍女に何用だ?」
男の口調はその風体に似合わず一端の騎士のそれであった。しかもカリナを城付きの侍女と知るこの男は.........。その聞き覚えのある声にカリナははっと息を飲んだ。
「あ、あの...、もしや......、ファランギス様......?
否定も肯定もしない男は、ただひょいとフードを軽く上げて見せた。そこから覗いた榛色の髪と瞳にカリナはホッと安堵の息を吐き、次の瞬間には慌てて膝を折って頭を下げた。
「あの、そのお坊様を責めないで差し上げて下さいませ。皇太子妃様の事を案じて私にご様子を尋ねて来られただけなんです」
「それでお前は妃殿下の近況を話して聞かせてやった訳か?」
「はい...。申し訳ございません....」
カリナは本当に申し訳無さそうに項垂れた。しかし項垂れながらも彼女の言葉は続いた。
「そのお坊様が少し気の毒で.....。皇太子妃様がお健やかだという事くらい教えて差し上げても良いのではと思いました。.......だって、もしも立場が反対だったら、私もきっと同じ事をしていましたもの」
「........」
言葉を返さないファランギスを、カリナは見上げた。
「もしこのユトレアが亡国となっていたら、私もこのお坊様の様に陛下やお妃様や、皇太子様やその他の王子樣方妹姫様方の安否を敵国の人々に尋ねていたかもしれません。ファランギス様なら尚更でいらっしゃいますでしょう? 皇太子様の乳兄弟であらせられるんですもの」
カリナの老僧へと向ける哀れみの眼差しを一瞥したファランギスは、小さな溜息を洩らした。
「分かった、行っていいぞ」
「あ、あの...」
「案ずるな、お前の言い分は理解した、カリナ」
静かにカリナを促すファランギスの榛色の瞳は、再び杖に凭れる老僧を見据えていた。それ以上何を言うのも憚られ、カリナはファランギスとその連れの男に深々と頭を下げると足早にその場から去った。小道から抜け出して大通りに出てからも、カリナは暫く足を止めようとはしなかった。そして、大分離れた所で足を止め大きく息を吐いた。
「ファランギス様、あんな恰好で.....」
カリナはファランギスの従兄弟の口利きで城に上がった。その縁から皇太子の乳兄弟であるファランギスとも顔見知りであったのだが、本来ならば平民出のカリナが気易く言葉を交わせる様な人物では無かったであろう。王家とは縁戚関係にある程の大貴族であるエトラ・ファーガス家の当主である。その大貴族である彼が、まるで傭兵かごろつきの様な薄汚れたマント姿で顔を隠して城下を歩くなど.....。
「あそこまですれば確かに誰もファランギス様だなんて気付かないでしょうけど.....」
カリナは改めて驚きに独りごちた。
二人の長身の男に挟まれた老僧は、杖に頼りながら覚束ない足取りで逃げ道を求める様に幾度か左右を見渡した。
「目的は何だ?」
「さっきの侍女殿が言った通りですじゃ。おいたわしい姫様がお元気かどうかを知りたかっただけじゃ」
ファランギスの厳しい問いかけに老いた僧はおどおどと答えた。
「姫様はハーグシュの宝珠と謳われたお方。わしらの誇りじゃ。その姫様の身を案じて何が悪いと言いなさるんじゃ、お前さんは? そこを通して下され。後生ですじゃ」
被ったフードから覗く灰色の縺れた髪と伸び放題の髭に被われた老僧の顔立ちは、はっきりとは見て取れなかったものの、その声は弱々しく泣き出しそうな程であった。
「別に悪いとは言わない。ただそこもとが真の僧に見えなかっただけだ」
「俗世を離れたは、お前さん方に国を滅ぼされてからじゃからなぁ。そんな事を言われてものう.....。もう堪忍して下され」
老僧はよぼよぼと杖を付きつつファランギスの脇を通り抜けようとした。と、その時であった。一言も言葉を発する事の無かったもう一人の男のマントが突然翻った。剣が鞘走った。剣の煌めきが老僧を斬り裂くかに見えた。しかし次の瞬間には神速の早さで繰り出された杖がその剣をがっちりと受け止めていた。
もはやそれは歩く事もおぼ付かぬ老いた僧の姿などでは無かった。その伸びた髭と髪の間から覗く眼光は鋭く、その身熟しはどう見ても長年剣に慣れ親しんだ者のそれであった。
「思った通りであった。やはりそなたは生きていたのだな、ハーグシュの獅子よ」
男は穏やかに呟くと用心深く剣をひき、深々と被っていたフードを下ろした。その二つ名の元ともなった艶やかな黒髪と黒い瞳の端整な顔立ちが露となる。
「お主......、黒将軍かっ.....!?」
老僧に身をやつした亡国ハーグシュの名将は驚きに眼を見張った。
「久しいな、サダガルド」
厳しい表情ではあったものの、微かな喜びさえ感じさせ得る様な声音であった。
「皇太子自ら王都の見回りとは、ご苦労な事だ」
先程までの弱々しい老人の声とは打って変わった、太くて低い武人の声であった。
「さて如何にする? この場で某を斬るか? それとも捕えて拷問にでもかけた後に公開処刑にでも処すか? これ如何に? 黒将軍殿下」
ピンと伸びた背筋のその大柄な姿と炯眼は、仮令みすぼらしい乞食僧の姿であろうとも名将の風格を損なってなどいなかった。捕らえるべき人物である事はラドキースも無論承知していたが、しかし........。
「そうだな....、その前にそなたと話をしてみたい」
敵国の皇太子の予想外の望みにサダガルド将軍は言葉を失う。
「殿下..、何を仰います!?」
ファランギスも半ば呆れる。
「あれ程に我らを悩ませた名将だ、どんな人物か興味がある」
ラドキースはサダガルドの鋭い双眸を見据えたまま言った。
ほんのわずかな刻の後、ラドキースと “ハーグシュの獅子” クウィンダン・サダガルドはさる宿屋の一室に向かい合って座っていた。表を見張る様に言いつけられたファランギスは初めは難色を示したものの、皇太子の 『私の腕は信ずるに足らぬか?』 との言葉に渋々と部屋の外に立った。
「ハーグシュは決起する心積もりの様だな?」
「そうだと申したら、如何される?」
「ユトレアは受けて立たざるを得ないであろう。正直な処、思ったよりも動きが早いので感心している。しかしそなたが存命していたのなら、それも無理からぬ事であったか?」
ラドキースは微塵もその表情を動かさずに言葉を続ける。
「戦には金がかかる。今のそなた等には事を起こすだけの財も人員も無いと見ている。という事は、余程突飛な作戦に出るか他国からの救いを得るか、又はその両方であろう?」
ハーグシュの名将は無言であった。
「決起に先立って王女を取り返したいであろうな?」
「決起致そうがどう致そうが、姫を取り返したいは臣として至極当然の事」
「返してやっても良い」
流水の如く返されたユトレア皇太子の言葉に、サダガルドは己が耳を疑い一瞬言葉を失う。
「何...だと.....?」
「セレーディラ姫を返して欲しくば、明日の夜更けに城の裏手の森にそなた独りで来い」
ラドキースは低く言った。
「それを信ぜよと仰せか?」
「私はユトレア皇太子として言っているわけでは無い。姫の夫として言っている。信じようが信ずるまいがそなたの勝手だ。信ずるならば姫の逃亡を手助けしてやる。私にとっては国を裏切る行為となろう」
「何故...?」
サダガルドは驚きを隠さず疑惑も露に低く尋ねる。だがラドキースは黒の双眸を敵将にひたと据えたままそれには答えずに立ち上がった。
「王女を取り返したくば必ず独りで来い。合図を聞いたら灯りを灯せ。良いな」
そう言い残すと皇太子は去った。残されたサダガルドは信じ難い敵国の王子の言葉に思い惑っていた。
セレーディラはラドキースのあまりに予想外であった問いに、咄嗟に言葉を口にする事が出来なかった。
「ハーグシュの残党の許へ行きたいか?」
ラドキースは押さえた声音でセレーディラにそう尋ねたのだ。
「サダガルドが今王都にいる」
セレーディラは息を呑んだ。
「彼は生きて....?」
ラドキースは頷いた。
「今宵そなたを迎えに来るであろう。望むならば私がそなたを逃がそう」
セレーディラは空色の瞳でラドキースを見詰め、やがて頷いた。
深夜、セレーディラはラドキースの指示通り手渡された小姓の仕着せに着替え、髪を一つに括り、寝台の中でじっと待っていた。皇太子は何故この自分を逃そうなどと考えたのだろう....。セレーディラは切ない思いで考えていた。万が一失敗すれば、いかな皇太子といえど罪は免れ得ぬであろうに。否、失敗せずとも事が明るみに出た時には、皇太子は捕われ廃嫡され、最悪の場合は命の保障も無いのではないか........。セレーディラは暗闇の中、葛藤に苦しんだ。
ラドキースは物陰から、鼻と口を布で被いながらセレーディラの部屋の扉を伺い見た。先程焚いた眠り薬が効いたらしく、扉の前の衛兵達は床で眠り込んでくれている。ラドキースは足早にセレーディラの部屋へと滑り込んだ。そこで鉢合わせした不寝の役の侍女達に当て身をくらわせた。その内の一人に顔を見られた。それが昨日町中でサダガルドに声をかけられていた侍女である事に気が付いたが、そんな事は気にしてはいられなかった。ラドキースは気絶した侍女等を長椅子に横たえてやると、寝室の扉を叩くやそっと開いてセレーディラの名を呼んだ。するとすぐ様、小姓姿のセレーディラが姿を見せた。
「準備は良いな?」
セレーディラはそれには答えずに緊張の面持ちでラドキースを見上げた。
「....何故、貴方にとってこの様な危険な事をなさるのですか、ラドキース様?」
「....そなたが望んだからだ、姫。私はそなたに生きて欲しい。そなたが生きてくれればそれで良い」
精彩を欠いたラドキースの瞳に見詰められ、セレーディラの瞳は揺れた。敵国の皇太子の言葉にセレーディラの心は酷く惑った。その彼女の胸の内を知る由も無く、ラドキースはセレーディラの羽織った小姓用マントのフードを被せてやると彼女の手を取った。
「行こう」
二人は密かに回廊へと出た。ラドキースは上手く夜勤の衛兵達の目を避けながらセレーディラを自室まで連れて来た。そして、その扉前の光景にラドキースは表情を険しくした。口止めをしていた衛兵が二人、床に正体もなく転がっていたのだ。ラドキースは素早く衛兵達の無事を確かめる。斬られた様子は無かった。何があったかなど、ラドキースには訝しむまでも無かった。倒れ臥す衛兵達をそのままに、ラドキースは立ちすくむセレーディラを抱える様にして自室へと足を踏み入れた。既に人を避けてあった筈の自室の居間には、果たして人影があった。
「勝手に失礼しましたよ、殿下。取り次ぎを頼もうにも、貴方は既に就寝されたからと衛兵等は頑として取り次ごうとしませんでしたので」
「そう命じておいた」
「ええ、そうでしょうとも。剣を突き付けてさえ、実に忠実に貴方の命を守り通してましたよ、あの者等は」
「それであんな暴挙に出たのか?」
「已むを得ませんでした故。お陰で拳が酷く痛みます。おまけに室内には不寝の番はおろか、就寝された筈の貴方さえもおられぬときた....」
厳しい表情の乳兄弟の言葉は、暗に皇太子を責めていた。