第六章 黒将軍の密使(6)
それから後、胸の湿布が効いたのかエルの呼吸も静かな物に落ち着いていた。明け方までには頻繁に打っていた寝返りも止み、エルはぐっすりと眠っていた。小さな額にそっと手を当てたファランギスに安堵の表情が浮かび、夜通し我が子の小さな手を握っていたラドキースの表情にも同様の色が伺えた。
目を覚ました時、エルはこちらを覗き込む三人の大人達の顔に小首を傾げた。
「具合はどうだ、エル?」
父にそう尋ねられて初めてエルは昨夜の事を思い出す。具合はあまり良く無い。
「頭と喉が痛いです、父様」
少し思案し正直に答えるが、声を出すのが酷く辛かった。
「痛々しい声だな」
「喉に良い薬湯を作って参りましょう」
ファランギスが、そう言い残して部屋を出て行った。ロジェリンも又、エルの湿った寝間着を着替えさせる為に湯を取りに飛び出して行った。ラドキースは咳き込む娘をそっと抱え起こすと白湯を飲ませる。エルは大人しく白湯を飲み干すと、ほっと小さな息を吐いて父親を見上げた。ラドキースはそんな娘の頭を優しく撫で、その額に口付けを落とした。
「まだ熱がある様だな、エル。長旅で疲れもたまっていたのであろう。暫くはゆっくり養生する事だ」
父親の腕の中でエルは大人しく頷く。
「お前にはいつも不憫な思いをさせているな」
しんみりとした声に、エルは小さく身じろいて再び父親を見上げた。
「すまぬと思っている」
影のある父親の黒い瞳に、エルは慌てて首を横に振った。
「エルは全然不憫じゃないわ、父様」
酷い掠れ声で訴える娘に、ラドキースは胸を突かれながらも微笑む。
「お前は健気な子だ」
「本当です、父様」
「話さなくて良いぞ。声を出すのも辛かろうに」
「本当なのに...」
「分かっている。お前は強い子だ」
ラドキースは苦笑しながら娘を宥めると、再び抱きしめた。
「何だか足の裏がひりひりする...」
ロジェリンに汗ばむ身体を拭って新しい寝間着を着せてもらいながら、エルは幼い表情に訝し気な色を乗せて呟いた。ロジェリンがその分けを説明してやると、エルは黒い瞳を丸くした。
「さあエル、薬湯をお飲み。もう冷めてるよ」
エルの肩にショールを巻き付けると、ロジェリンは先程ファランギスが煎じて来た薬湯の杯を少女に手渡した。エルは臭いを嗅ぐと、昨夜飲まされた薬湯の不味さを思い出しながら恐々と杯を傾けた。
「...甘い。昨日のより不味くない」
不思議そうに瞬くエルに、ロジェリンはふふっと笑いを零す。
「蜂蜜を多めに入れたってファランギスが言ってたよ。それからアニス果とラベンデュラの乾花と薄荷だったかな、喉に良いそうだよ」
ロジェリンは寝台に腰掛けながら、薬湯を飲むエルの様子を見守った。男達はといえば、つい先程ロジェリンに有無を言わさず部屋から追い出されていた。今頃はそれぞれ部屋に引き取り休んでいる筈である。
「思い出すよ、エルと若先生に初めて会った時の事」
薬湯を飲み終わったエルを再び横たえてやると、ロジェリンは言った。
「わたしが麻疹になった時の事?」
「ああ。あの時も、エルは顔を真っ赤にして苦しそうでやきもきしたもんだったよ」
ロジェリンはエルの頬にかかる髪を整えてやりながら静かに微笑む。
「早いもんだね。あれからもう四年か...」
ロジェリンはしみじみと呟きながら桶の中の手巾を堅く絞ると、エルの額にのせてやった。
その後ロジェリンはエルに粥を食べさせ、眠りに就いたのを見計らってから、ぬるまった桶の水を換える為に部屋をそっと出た。幸い外は一面の雪景色である。ロジェリンは雪を取る為に階下へと降りて行った。
「おお、寒っ。相変わらず良く降るな。アルメーレとそう変わらないじゃないか」
祖国を憶い出しつつ外気の冷たさに身を震わせながら、ロジェリンは灰色の空を見上げた。最早吹雪いてはいなかったものの、依然雪は降り続けている。ロジェリンは手早く純白の新雪を手桶に掬い入れると、屋内に駆け戻った。
「おや?」
居間を通り過ぎようとした時、扉がわずかに開いている事に気付いてロジェリンは足を止めた。覗き込んでみれば休んでいる物とばかり思っていたファランギスが独り、長椅子で肘掛けに頬杖を付いていた。そろそろ午を回ろうかという頃合いである。
「何を惚けてるんだい?」
突然起こった声に思考を遮られファランギスは我に返った。振り返れば扉からロジェリンがこちらを覗き込んでいた。
「きちんと休んだのかい?」
「ああ」
「まさかここでじゃないだろうね?」
「いや、寝台できちんと休んだぞ」
「そうかい? もっとゆっくり寝てて良かったのに」
ロジェリンはつかつかと歩み寄ると、ファランギスの向かい側に腰を下ろした。
「エルは食事を摂ったよ。粥と林檎をほんの少しだったけど....。さっき眠ったところさ」
「そうか」
ファランギスは安堵の表情で微笑む。
「ねえ、ところで何であんな事に詳しいのさ?」
ファランギスは片眉を上げた。
「貴族のあんたが、まさか薬師だったわけじゃないだろう?」
「まあ、違うが...。昔、何と無しに覚えただけだ」
「何と無しにねえ...」
ロジェリンがこれ見よがしに呟いて見せれば、ファランギスは物憂げな溜息を吐いた。
「古今東西、王族というのは命の危険に晒される事も多いだろう。あの方もそうだ。物心付く以前より命を狙われた事など数知れない。殿下の兄君も我らが生まれ出る以前、幼少の折りに毒害されたし、母君もまた殿下の為に供された杯を口にして命を落とされた」
おさえた声で語り始めるファランギスの瞳は閉ざされていた。
「私も殿下の側近くに仕えていた事もあってか身の危険を感じる事もあったしな、それでそういった類の事に多少明るくなったというだけの事だ。殊、毒の種類と解毒にはな」
自嘲気味な笑みを浮かべるファランギスに、ロジェリンは痛まし気に眉根を寄せた。
「生き延びる為の知恵だったわけかい?」
「そういう事だ」
「全く、やんごとない人達ってのは難儀だ」
「仕方あるまい」
さらりと受け流すファランギスの瞳が、ふと翳る。
「この先、殿下のお命は再び危険に晒される事になる。今はまだ我々だけのこの人数だ、追っ手をまく事もそう難しくは無いだろう。だがこの先殿下の周囲に人が集えば、それだけ危険も増す事になる。そして姫の身もしかりだ。殊に姫は、ユトレア、ハーグシュ両王家直径の血筋故、その利用価値は高い。狙われるのは目に見えている。お前はいざという時、己が命を盾に出来るか、ロジェリン? 己が命を捨てる覚悟はあるか?」
ファランギスの真剣な表情に、ロジェリンも又、憮然としながらも真剣な騎士の面持ちで頷いた。
「無論だ、私は忠誠を剣に誓った騎士だぞ。剣の誓いは絶対だ」
騎士の口調であり声音であった。その言葉にファランギスは表情を和らげた。
「お前なら、必ずそう答えると思った、ロジェリン」
「なら聞くな、信用されてないのかと思うじゃないか」
鼻白んだ様子のロジェリンに、ファランギスは小さく笑う。
「まあ、怒るな。お前の事は信用している」
「怒らせてんのはどこの誰だっての」
ロジェリンは、眉間を険しくゆがめながら立ち上がった。
「そんな顔をするな。皺が増えるぞ」
「余計なお世話だよっ!」
毒突きながら出て行くロジェリンの背を、ファランギスは満足げな表情で見送っていた。