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ユトレア年代記  作者: 秋山らあれ
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第六章  黒将軍の密使(5)






 「わあ、弓がいっぱいっ!」

 その部屋へ足を踏み入れるなり、エルは歓声を上げた。桃色の少女らしい衣装の裾を翻して壁へと駆け寄る少女の後を追って、深緑色の衣装を纏ったロジェリンも現れた。 

 「そういえば、狩猟用の館だって言ってたっけね」

 呟きながらロジェリンも興味深そうに辺りを見回した。広々とした部屋の壁には大小の弓が処狭しと掛かっていた。無論、矢と矢筒もきちんと揃っている。剣よりも弓の方が得意だと言うだけあり、時たま感嘆の声と共にロジェリンはそれらの弓に触れる。

 館は好きに使う様にとのルモンド・フェビアン卿よりの申し出を、一行は有り難く受けていた。そこで暇に任せ、二人は館内を隅無く探検して回っている最中なのである。エルにとって、この様な貴族の館に滞在するのは生まれて初めての経験である。王族の血を引きながらも、生まれてこの方質素な庶民の暮らしをしか知らなかったエルには、この館の様々が物珍しかった。そして卿が急ぎ都合してくれた仕立ての良い衣装もまた、エルには初めて身に着ける上質の品であった。布地はてらりと輝く絹のベルベットであり、それに毛皮で縁取りされた上着。今までエルが身に纏うどころか、手で触れた事も無い様な衣装である。ロジェリンの衣装も卿の心尽しであり、鮮やかな赤毛が良く映える色合いであった。 


 「どうやら、この部屋は練武室も兼ねてる様だね。有り難い。身体が鈍らないですみそうだよ、エル」

 ロジェリンが目敏く練武用の剣に目を留め、板張りの床へと目を馳せつつ嬉々として言う。

 「ねえ、ロジェリンっ! あれ取って」

 「ん?」

 少女が壁の一点を指差していた。多くの弓の中からエルのせがむ弓に手を伸ばしつつ、ロジェリンは思わず声を上げる。

 「へえ、可愛らしい弓だね。エルにぴったりな大きさだ」

 ロジェリンが弓を取ってやると、エルは嬉しそうに弦を引っ張った。




 

 その頃、ラドキースとファランギスはというと、居間の暖炉の前に敷かれた獣の毛皮の上に広げた大陸地図を挟んで座り込み、互いに厳しい表情をしていた。羊皮紙に描かれたその大陸地図は、この館の書斎らしき部屋からファランギスが拝借してきた物であった。彼等の故国ユトレアは、地図上でも無惨に三分割されている。

 どれ程の間、沈黙が流れていたであろうか....。ラドキースは、その大陸地図を凝視したまま微動だにしなかった。そしてファランギスも又、そんな主君の様子に声を発する事も無く見守っていた。


 事を起こすには兵力に問題があろう事は口にするまでも無かった。そして、その大半が傭兵に頼らざるを得ない事になるであろう事も.....。運が好ければ職を求めるどこかの貧乏領主が騎士団をまるまる率いて参戦する可能性もあるであろうが、その可能性は低い。領民達の生活に責任のある領主達が、亡国に付く様な危うい賭けに出るとは考えられなかった。なれば、せいぜい一匹狼的な傭兵達が集まってくれれば良い方であろう。そういった傭兵達ならば腕自慢も多い。だが軍としての統制を取るとなればどうか...。訓練された国軍には適うまい....。余程の出方で無ければ、一発で潰される事になろう。ラドキースは微かな溜息を洩らした。


 「父様っ! ファランギスっ!」

 重苦しい空気を、少女の明るい声がふいに破った。少女が弓を片手に元気よく駆け込んで来たのだ。

 「これを見てっ!」

 エルは、手にしていた可愛らしい弓を二人に示した。

 「ほう、これはこれは愛らしい弓をお持ちですね、姫」

 ファランギスが即座に笑顔で答える。

 「エルにぴったりな大きさだろう?」

 後から入って来たロジェリンが言葉を続ける。

 「誠だな」

 ラドキースも微笑みながら娘の差し出す弓を手に取って眺める。

 「これでロジェリンに弓を習うの」

 「ふむ、それは良い考えだ、エル」

 年相応の表情ではしゃぐ娘に弓を返しながら、ラドキースは頷く。スカート姿のまま早速ロジェリンに弓の引き方を教わり始めるエルの真剣な様子に、大人達は互いに目を見交わしながら微笑んだ。その様に元気一杯に見えたエルであったのだが、その日の晩には寝込む事となった。




 夕食の折り、無口なエルの様子を真っ先に気に留めたのは少女の真向かいに座っていたロジェリンであった。

 「エル、どうしたんだい? 大人しいけど...」

 ロジェリンは、心配そうに身を乗り出す様にして少女の顔を覗き込んだ。

 「それにちっとも食べて無いじゃないか?」

 「お腹がすいていないの....」

 ほんの心持ち手を付けただけの皿の前でエルは力無く呟いた。

 「具合が悪いのか、エル?」

 傍らでラドキースが問うと、娘は顔を上げた。

 「何だか、とても寒いです、父様...」

 おずおずと訴えながら毛織りの肩掛けごと己の両腕を抱えるエルに、ラドキースは手を伸ばすとその額に触れた。顔色の悪いのは乏しい燭台の灯りのせいでは無いのであろう。

 「熱があるな」

 ラドキースの呟きに応えるかの様にファランギスは立ち上がると、エルの傍らへ歩み寄った。

 「姫、失礼を」

 そう断ると、ファランギスもエルの額に触れる。

 「結構熱が高そうですね....」

 言いながらファランギスは燭台を手に取ると、それを翳しながら少女の目を調べ、喉を調べた。

 「この分では喉も痛むのでしょう、姫?」

 ファランギスの問いかけに、少女はまるで酷くいけない事をしでかしてしまったかの表情で頷いた。

 「身体も痛いの..あっちこっち全部...。頭も痛いの....」

 少女は消え入りそうな声で答えた。今にも泣き出しそうな顔である。

 「我慢をしていたのか? 今、急に悪くなったわけでも無かろう?」

 ラドキースは立ち上がり娘を抱き上げる。

 「ごめんなさい、父様...」

 エルは父の首に抱きつき、ぐったりと顔を伏せた。寒いのであろう、小さな身体の小刻みな震えがラドキースにも伝わる。

 「謝る事など無い。何故言わなかったのだ、エル?」

 「だって皆が心配したらいけないと思って...」

 「馬鹿な事を...エル」

  頭を撫でる父の手と微かな笑いを含んだ父の優しい声に、エルはくすんと鼻をすすり上げた。 

 「恐らく風邪を召されたのでしょう。薬が無いか尋ねて来ます、殿下」

 そう言い残すと、ファランギスは足早に部屋を出て行った。この屋敷の管理を任されている老夫婦の元へ行ったのであろう。彼等二人とその息子夫婦が、この一行の世話をしてくれているのである。ラドキース一行の事情を知るルモンド・フェビアン卿は、不用意に使用人等を付ける事はしなかった。長年の付き合いから揺るぎない信頼をおいているその老夫婦一家のみに一行の世話を任せたのである。

 エルは、薬湯を飲まされるとそのまま静かに寝かされたのだが、その夜更けに具合は酷く悪化する事となった。

 


 時は既に深夜であった。表は酷く吹雪いていた。荒々しい風の神の暴れる音が室内にまで聞こえて来る。そんな中、水が密やかな音を立てて桶に落ちた。ロジェリンは雪混じりの水で絞った手巾を広げると、しきりと寝返りを打とうとする少女の額の上に乗せてやった。呼吸もままならないのであろう。苦し気な息づかいも痛々しく、ロジェリンはやるせなく少女の頬をそっと撫でた。酷く熱い。

 「若先生」

 炉に薪を足すラドキースの背にロジェリンが呼びかける。

 「やっぱり医者を呼んだ方がいいんじゃないか? こんなに苦しそうだよ。可哀想で見ていられないよ、若先生」

 訴えるロジェリンの声は、今にも泣き出しそうに弱々しかった。

 「町まで行かねば医者はいない。この時刻にあの吹雪の中を出れば、辿り着く前に凍え死ぬのが落ちだ」

 ロジェリンとは対照的に、ラドキースの声は冷静すぎる程に冷静であった。愛娘がこれ程苦しんでいるというのに何故.....。ロジェリンは思わず非難の声を上げそうになる。ラドキースは立ち上がると、そんなロジェリンを慰めるかの様に肩に手を置いた。

 「案ずるな。ファランギスがいる」

 「ファランギスがいるからって....」

 「あれは多少医術に通じている」

 「えっ....?」

 驚くロジェリンに微笑むと、ラドキースは娘の伏せる寝台へと歩み寄った。そしてその傍らへと腰を下ろし、娘の顔を覗き込む様にして頭を優しく撫でた。ロジェリンは問い返そうと口を開いたが、扉を軽く叩く音にそれを阻まれ結局思いとどまり扉へと歩み寄った。

 ロジェリンが扉を開くと片手に盆を、もう片手に麻布と油紙の束を持ったファランギスが入って来た。たちまちに涼やかな香りが室内を満たす。

 「如何ですか? 姫の御様子は?」

 ファランギスは、手にしていた盆と麻布の束を壁際の小卓に置きながら尋ねた。

 「先程よりも熱が上がっている様だ」

 「そうですか、熱冷ましの薬湯は効きませんでしたか」

 ファランギスは寝台に歩み寄り、エルの額に触れその苦しそうな息づかいを確かめる。

 「それにしても熱が高い...」 

 夕食の途中で具合の悪くなったエルが、解熱と滋養の薬湯を飲まされ寝かされてから既にかなりの刻が過ぎていた。その間、熱の下がる様子は無かった処か、むしろ悪化している。

ファランギスは、袖を捲りながら盆を置いた卓の元へ戻ると、手慣れた手付きで何やら始めた。ロジェリンは興味を惹かれて近寄ると、ファランギスの手元の一連の動作を見守った。

 その手は、掌大の麻布に深緑色の泥状の何かを塗り付けていた。どうやら湿布薬の様である。

 「それ...、何だい?」

 ロジェリンは、辺りを憚るかの様に小声で尋ねた。

 「メグサと朝露花とアカ芋を混ぜた物だ。姫の胸に湿布してくれ。呼吸が楽になる筈だ」

 ファランギスも又密やかに答えると湿布役を油紙と共にロジェリンに手渡す。湿布薬は暖かかった。

 「これ、あんたが作ったのか?」

 「ああ」

 「ひょっとして、あの熱冷ましの薬湯も?」

 「姫の口に入る物だ、人任せには出来ん」

 ファランギスは素っ気無く答える。

「そうか...、そうだよな....」

 ロジェリンは言われた通りにエルの胸を開けて湿布をし、その上から油紙で被って寝間着を整えてやった。

 「楽になると良いけど...」

 「ファランギスの薬学の知識は馬鹿に出来無い。私も幾度か助けられた事がある」

 「そうなのかい?」

 心持ち目を見張るロジェリンに、ラドキースは微笑み頷く。ファランギスは依然壁際で何やら手を動かしている。ロジェリンは興味を惹かれてそちらへ戻ると、ファランギスの手元を覗き込んだ。彼は小さなすり鉢で何やら小さな粒を砕いているところであった。

 「それ、芥子の実?」

 「ああ」

 ファランギスは手際よく芥子の実を砕くと、傍らの小さな薬壷の軟膏を少量混ぜ込んだ。

 「それ、どうするんだい?」 

 「これで熱を吸い取ろうと思う」

 不思議そうに尋ねるロジェリンに尋ねると、ファランギスはエルの寝台へと歩み寄った。

 「姫のおみ足を、殿下」

 「ああ」

 ラドキースが羽毛の詰まった掛布をそっと剥ぐった。エルの可愛らしい小さな両足が露になる。

 「水ぶくれが出来るとは思いますが、これで幾らかは熱が下がる筈です」

 そう断ると、ファランギスはエルの足の裏に芥子の軟膏を薄く延ばした。

 「忝い、ファランギス。お前がいてくれて助かった」

 「幸いここには薬草が揃っていましたので」

 「あんた、お貴族様のくせに良くそんな事知ってたね、ファランギス」

 「 “お貴族様” は、余計だろうが...」

 ファランギスが片眉を上げてロジェリンを見た。

 「褒めたんだけど」

 「それは光栄だ。褒められた気は全くしないが...。ところで殿下、不寝ねずの番なら私が致します故、お休みになられては?」

 「いや、お前達こそ私にかまわず休め、何かあれば呼びに行く故」

 ラドキースがエルを見つめたまま穏やかに言えば、ロジェリンは心配そうに眉を曇らせた。そんなロジェリンの腕を取って、ファランギスは扉まで引っ張った。

 「ロジェリン、お前は休め。私が朝までお傍に付くから、明日の朝に替わってくれ」

 「でも..」

 「頼む」

 ファランギスに背を押されたロジェリンは、渋りながらも素直に自室へと引き取った。

 

 

 「かあさま...」

 荒い息使いを繰り返していたエルがふと細く掠れた声で母を呼んだ。

 「かあさま....ふぇっ..」

 寝返りを打っては母を呼び、ついには泣き出した。ラドキースは掛布の中に手を差し入れると、娘の手を探り当てて握り締めた。

 「これが母を呼んで泣くのは久しく無かった...」

 ラドキースはエルの目尻から零れ落ちた涙を拭いながら呟く様に言った。ファランギスは痛々し気な瞳を父娘へと向けた。

 「夢でも、見ておられるのでしょうか」 

 「そうかもしれぬな。だが楽しい夢ならまだしも、涙を零さねばならぬ様な夢を見ているのかと思えば胸が痛む....」

 エルはえぐえぐと細い声を洩らしながら涙を零し続けている。

 「これには、物心付いた頃より苦労をさせて来た。セレーディラが病に倒れてからは殊更に.....。エデワに住み着くきっかけとなったのは、旅の途上でこれがはしかにかかった事であったのだが、あの時も、これは泣き言を言おうとはしなかった」

 「そうでしたか...」

 エルが再び母を呼びながら、愛らしい顔を歪めて弱々しい泣き声を洩らした。

 「母を呼ぶばかりで父を呼ばぬか...。少し妬けるな...」

 ラドキースは微苦笑を浮かべた。 

 





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