第六章 黒将軍の密使(3)
エルとロジェリンは、招かれたルトの領主館の一室で清潔な寝間着に身を包み就寝の為の身繕いをしている処であった。香油入りの湯を浴びてさっぱりとし、豊富な料理で領主に持て成され、派手では無いが趣味の良いこの客間に通された。エルは父であるラドキースの隣室へと通されたのだが、独り寝を厭うエルをロジェリンが己にあてがわれた部屋に連れて来たのである。
「本当に綺麗な髪だね、エルの髪は」
ロジェリンはエルを鏡台の前に座らせて、その髪を丁寧に梳ってやっていた。ロジェリンが毎日欠かさず梳いてやるエルの髪は、緩く波打ち艶やかである。
「セレーディラ姫も、さぞ美しい髪をしていたんだろうね。エルの髪は母様譲りなんだろう? エル?」
浮かない顔をした少女は、髪を褒められ鏡ごしににこりと微笑む。だがその笑顔はすぐにゆがみ、少女は哀しそうに俯いた。
「エル...」
少女の胸の痛みの理由をロジェリンは知っていた。
ルモンド卿の心尽しの晩餐の席での事であった。
『セリーの事は残念でしたな、ラディ』
寂し気に言うルモンドにラドキースは微笑んだ。微笑んでいながら酷く悲し気であった。
『あれ程早くに私達を置いて逝ってしまうとは、正直思いもしませんでした。あの時程、深く絶望した事は他にありません。もしも娘がいてくれなかったなら私は、恐らく彼女の後を追っていたでしょう』
淡々とした口調で語られたラドキースの心情に、ルモンドは嘗てのラドキースとセレーディラの仲睦まじい様子を思い起こし痛ましさに重々しい溜息を吐いた。他の誰もが言葉を失っていた。幼い娘一人が泣きそうな表情で隣に座る父の衣服を掴んでいた。
『すまぬ、エル。あの頃の私には、お前とお前の母が総てであったのだ。お前がいてくれたお陰で私はこうして生きながらえている』
ラドキースはエルの頭を愛し気に撫でた。
『今では大切なものが増えたが、それでもお前は私の命そのものだ』
エルは父の大きな手で頭を撫でられながら必死に涙を堪えていた。
先程のラドキースの言葉を思い起こすとロジェリンは居たたまれない。幼いエルの胸の痛みを思うと、ロジェリンの胸も酷く痛んだ。
「父様、可哀想...」
か細い声で呟くエルの瞳は涙をたたえている。それでも少女は、頑に涙を堪えようとしているらしかった。
「うん、そうだね。若先生、可哀想だ」
ロジェリンも瞳を潤ませた。
「エルも、可哀想だ」
ロジェリンはブラシを置くと、エルの座る椅子の隙間に腰を落とし、そっとエルを抱き寄せた。
「泣いていいんだよ、エル。我慢しなくていいんだよ、今は」
ロジェリンの優しい声に促され少女は堰を切ったかの様に泣き出した。
ルモンド・フェビアン卿は、旅の途上であったラドキース一行にある申し出をした。このルトで越冬して行く様に勧めたのである。今日も今朝から雪が散らついている。いつ本格的に降り出したとしてもおかしくはない時期に入っているのだ。雪深くなれば足止めを喰らう。なればいっその事、卿の所有する狩猟の館でこの冬を越して行ってはどうかというのがルモンド卿の勧めであった。
「万に一つ、貴方が我々を匿った事が王国に知れれば貴方が困った立場に立たされましょう、ルモンド卿」
そう言ってラドキースはやんわりとその申し出を辞退しようと試みたのだが、ルモンド・フェビアンは静かな笑い声をたて、そんな心配は無用だと答えた。
「人目に付かぬ様、配慮致しましょう。私には、そんな事位しか貴殿方の力になれる事が無い。だからせめて...」
ルモンド卿の申し出にラドキースは即答しかねた。出来うる限りの処まで旅を進めたかった。だが既に雪の季節に入っている今、幼い娘の事を思うとそれも躊躇われる。
「殿下」
ファランギスが口を切った。
夕餉を饗されて後エルはロジェリンに付き添われ部屋に引き取り、三人の男達はラドキースにあてがわれた部屋に集っていた。
「このまま先を急いだとて、エレミヤ山脈を越えるのは無理でしょう。雪の山脈越えは、大の大人でも危険が伴う。ましてや姫には....」
ラドキースは無言のままであった。
「姫にはもう限界でしょう。泣き言も仰らずに良く耐えて下さってはおられるが...。それにロジェリンも、強がってはいますが....」
ファランギスの言は尤もであった。暫しの沈黙が流れた。
「致し方あるまいか...」
布ばりの長椅子に背を預けていたラドキースがやがて溜息混じりに呟いた。
「卿の申し出を有り難く受けよう」
ラドキースはそう決断した。嘗てひとかたならぬ恩を受けたこのルトの領主に、ラドキースは信頼を置いていた。そして又、過去に一度しか面識の無かったファランギスにしても、それに異を唱える事はしなかった。どちらにしろ何処かで冬を越さなければならないのなら、ルモンド卿の申し出はこの上ない程に有り難い事であった。
「私が早駆けに出ましょう。ご指示を、殿下」
指示....、それが何を意味するかなど尋ねるまでも無かった。真剣な眼差しを向けてくるファランギスに、ラドキースは頷いた。
「今から馬を飛ばしたって、エレミヤ山脈を超える頃には結構な雪だと思うぜぇ。大丈夫かよ?」
それまで床に座り込んで大人しく剣の手入れをしていたユールスが突然口を開いた。
「大体、ユトレア育ちのあんたに、雪山越えの経験なんてあんのか? 雪山を甘く見ると、いっくらあんたでも死ぬぜ、ファランギス」
声に幾らかの呆れを滲ませるユールスに、ファランギスは片眉を上げた。
「お前にはあるのか? 雪山越えの経験が」
ラドキースが尋ねると、ユールスは当然とばかりに鼻を擦って見せる。
「へっ! 俺はスラグ育ちだぜ。スラグの冬の雪深さは、この辺りの比じゃねえっての。
ちなみに、俺は真冬のエレミヤ越えの経験もあるぜ。何なら俺が行ってやろうか? そのお使いってやつ」
「行けるか?」
「おうっ。雪山の知識なら、ファランギスには負けないね」
ラドキースの問いに、ユールスは自信たっぷりに笑って答えた。
ユールスが部屋に引き取って後、ファランギスも欠伸を噛み締めながら己にあてがわれた部屋へと足を向けた。
扉の把手に手をかけた時、壁の慎ましやかな明かりの向こうで扉が密やかに開く気配がした。小さな燭台を手にしたロジェリンが音も無く滑り出て来ると、扉は再び密やかに閉まる。そしてそのままロジェリンはその場に佇み目元を拭った。
「こんな時刻に、そんな格好で部屋を出て来る奴があるか」
ロジェリンがはっとしたかの態で振り返った。その手の炎が揺れる。
「何だ、ファランギスか。厠へ行こうと思ったんだ」
寝間着姿にショールを巻き付けただけのロジェリンは肩を竦めた。
「お前は...、もう少し、慎みを持てないのか? それでも一応は女だろう?」
貴婦人ならば凡そ口にはしないであろう応えに呆れて見せるファランギスに、ロジェリンはむっと口を尖らせる。
「女である前に私は騎士だ」
「騎士である前に女だろうが...」
「あんたとくだらない言い合いする気分じゃないよ。じゃあね、お休み」
「待て」
背を向けようとするロジェリンの腕を、ファランギスの手が掴んだ。
「何だい? しつこいね」
「...どうしたんだ?」
「え?」
ファランギスは少し屈み、ロジェリンの顔を覗き込む様に見た。
「泣いていただろう?」
「泣いてなんかないよ」
ロジェリンは目を逸らした。頬に朱が走る。
「何があった?」
心做しか、低く抑えられたその声音は優しかった。ファランギスが手を放すと、ロジェリンは居心地悪そうに肩からずり落ちかけたショールを片手で首元まで巻き直す。そして小さな溜息と共に、傍らのファランギスへと目を向けた。
「エルがね、ずっと泣いてたんだ」
「姫が?」
ロジェリンは、先程の事をファランギスにかいつまんで話した。
「あの子は母親を早くに亡くして、若先生と一緒に逃亡しながら育って、幼い頃から苦労して我侭一つ言わない、いや言えない子に育って...、だからたまには思い切り泣かせてやらなきゃならないんだよ。あの子はいつも我慢してる。胸を痛めても若先生の前ではいつも我慢してる」
ロジェリンの瞳が再び濡れた。
「さっきまでさんざん泣いて泣き疲れて眠った。エル、若先生の言葉が悲しかったんだよ。あの子の胸の内を思ったら哀れでさ、つい....」
「そうだったか...」
ロジェリンの言う “若先生の言葉” というのが何を指すのかは、ファランギスにも分かった。ファランギスとて衝撃を受けた言葉であったのだ。主君が命がけで祖国を裏切り、そして又その祖国を捨てる程に愛した女性だ。彼女を失った時の主君の絶望は、ファランギスにとて想像はついた。彼女の忘れ形見がいなかったなら、主君は生きる意味を失っていたのであろうと。
「あの頃のあの方の生きる意味は、妃殿下と姫の存在以外には見出せなかったのだろう...。姫がいて下さって誠に良かったと思う...」
ファランギスの言葉にロジェリンの翠緑の瞳が雫を落とした。蜜蝋の炎に照らされたその目元に、ファランギスは思わず手を伸ばしてそっと涙を拭っていた。
「な、何するんだ!?」
ロジェリンが慌ててその手を払い飛び退いた。頬が染まっている。
「何を意識してるんだ、お前は?」
「なっ、いっ、意識っ!?」
目を白黒させてのロジェリンの慌てように、ファランギスはふと笑みを零す。
「きっ、気っ、気持ちよ〜い勘違いだね、全くっ! 私を女扱いするなっ! 気色悪い」
言うやロジェリンは、「ふんっ!」 と鼻息も荒く踵を返すと薄暗い回廊をもの凄い勢いで歩いて行ってしまった。全身に怒りを発しながら遠ざかるその背を見送りながらファランギスは声を殺して笑う。
「女扱いするなったって、女だろうがお前は....」
その呟きは、無論ロジェリンに届く事は無かった。