第一章 終焉と苦悩、そして.....(4)
セレーディラが目を醒すと、傍らにラドキースの姿があった。寝台のすぐ傍らに椅子を寄せ、肘掛けに凭れる様にして頬杖を付いていた。セレーディラと目を合わせても何も言わなかった。唯無言のまま、哀し気にセレーディラを見詰めるのみであった。
「死ねなかったのですね......、わたくしは.....」
声が掠れた。その独り言とも取れる問いを、ラドキースは低く肯定した。
喉が痛む。目の奥も頭も左手首も右の掌も、何処もじんじんと痛んだ。セレーディラは左腕を翳して見た。手首にきつく包帯が巻いてあり、うっすらと血が滲んでいた。
「動かさぬ方が良い。傷を縫い合わせたばかりだ」
ラドキースは立ち上がり、そっとセレーディラを抱え起こした。セレーディラは大人しく、されるがままに任せた。皇太子は寝台に腰掛けセレーディラの背を支えながら、傍らのテーブルに手を伸ばし杯を取った。
「薬湯だ」
セレーディラは虚ろな瞳でラドキースを見上げた。拒もうかどうしようか迷っているのか何も答えなかった。
「又いつぞやの様に口移しで飲ませて欲しいのか?」
ラドキースの静かな声にセレーディラは小さく首を横に振る。そして震える右手で杯を取ろうとした。その掌の白い包帯が痛々しい。ラドキースが杯をセレーディラの口元に近付けてやると彼女は素直にそれに口を付けたので、杯を少し傾けてやる。こくりと一口飲んでセレーディラは微かに顔を顰める。苦いのであろう。そして又一口一口、ゆっくりと薬湯を飲み干した。ラドキースは空の杯を脇へと置くと再びセレーディラの身を横たえてやり、傍らの椅子に戻った。そして右肘を付いて掌で両目を被った。
「頼む....。もう...、こんな事はしないでくれ.....」
力無い声であった。
「そなたがこのユトレアを、この私を憎む気持ちは当然の物だと理解している。だが死に急ぐな。望むならば......私が死のう....」
囁く様に低いその声は痛切な懇願であった。この王女が生きるならば、ラドキースは本心からこの命を自ら終わらせる価値もある様な気がしたのだ。どちらにしろこの自分の死を望む者は、この城内においてさえも少なくは無い筈であった。二十二のこの年まで幾度暗殺されかかったか知れない。
「何故その様な事を......」
セレーディラは力無く呟いた。これがハーグシュの怖れたあの黒将軍の姿なのか......? そうだ、これが幼かったあの日、自分が恋したユトレア皇太子の姿であったのだ...と、セレーディラは思った。
「そなたは言ったな? 私はそなたの初恋であったと.....。私とて同じだ。あの日、生き生きとして明るかったそなたに私は惹かれた。そなたの生誕日を心待ちにしていた。そなたが十六になる日を.......。そなたに送った書状に記した事、あれは社交辞令や政治的思惑などでは無く、私の本心であった......」
セレーディラの瞳が揺れた。戦が起こるまでの間、セレーディラの生誕日にはユトレア皇太子から贈り物と書状が届けられたものであったが、それがどれ程夢見る少女を幸せにしたか皇太子は知っていたであろうかとセレーディラは切ない思いで彼を見詰める。
「そなたに再会して笑わぬそなたを目にしても、私を憎むそなたの気持ちを思っても、やはり私はそなたに惹かれる.......。昨晩、義務からでは無く私は...、心からそなたを抱きたいと思った」
淡々と紡がれるその言葉にセレーディラは運命を呪った。運命の女神を呪う者は、女神からも呪われるという。だが自分はもうすでに運命に呪われているではないか。ならば自分が呪ったところで変わりはしまい。涙で曇るラドキースの姿を見詰めながらセレーディラはそう思った。
「そなたが望まぬ限り二度と触れぬ。だからもう死のうなどとは考えてくれるな」
目を伏せるラドキースの肘に何かが触れた。
「その様な話.....、聴きたく無かっ......」
語尾は嗚咽の為に掻き消えた。まるで血を吐く様な苦し気な言葉にラドキースは顔を上げる。セレーディラは皇太子の肘に触れていた包帯の巻かれた右手を引っ込め、己の口元を押さえた。
「違うのです......。わたくしが死んでしまいたかったのは、そんな理由からでは無いのです......。貴方が.....わたくしに触れようとなさったからでは.....無いのです。あの日から...、貴方に嫁ぐ事を夢見ていました。.....戦さえ起こらなかったなら、わたくしは今頃、貴方の許で幸福だったであろうにと思ったら.....、悲しくて....。貴方に口付けられて嫌では無かった。貴方に抱き締められて嫌では無かった。一瞬でも.....、一瞬でもわたくしは、貴方のものになりたいと願ってしまったのです.....。それを罪と呼ばずに何と呼べましょう.....憎むべき貴方なのに.....」
セレーディラはまるで懺悔でもするかの様に訴えると、ラドキースに背を向けて苦し気に声を殺して泣いた。
「....お願いです。出て行って....」
そのか細い声にラドキースは成す術も無く、重く痛む胸を抱えて部屋を後にした。
ラドキースが自身の執務室へ赴くと、案の定ファランギスがそこにいた。足を踏み入れるなり乳兄弟は眉を曇らせた。
「死にそうな顔してますよ、殿下......」
ファランギスの心配そうな声音にラドキースは軽く目を見張る。
「何を大袈裟な....」
一笑に付そうとするも、乳兄弟の心配そうな榛色の瞳に言葉は空虚に流れた。死にそうな顔.....、そうなのかもしれないとラドキースは漠然と思う。胸の奥が痛む。セレーディラの歎く様を見るのがこんなに辛い事だとは.......。ラドキースは執務の椅子に座り背を預けた。
「身を引き千切られる思いというのは、ひょっとしてこういうのを言うのだろうか......?」
「殿下....?」
ラドキースの呟きに、ファランギスは驚愕を隠せずに目を見開いた。しかしすぐに気を取直すと、彼は椅子を一つ掴んで皇太子の座る執務机の傍らに置いて座った。
「さあ殿下、心の内を吐き出しなさいっ。剣に誓って他言はしませんから」
己の腰の剣をポンと叩くファランギスに、ラドキースは物憂げな目を向けた。
「貴方は昔から御自分の事となると多くを語りたがらない。悩みや心配事を自分一人で抱え込む癖がある。悪い癖ですよ。話して御覧なさい。多少は楽になる筈です」
ファランギスに目を向けていたラドキースは、溜息を吐く。
「溜息じゃなくて言葉を吐きなさい、言葉を! 殿下」
優しく諭すというよりも、ファランギスのそれは強制に近い。このユトレアにあって天下の黒将軍にこんな口を利けたのは彼の実父である国王と、この乳兄弟位なものであっただろう。尤も、これくらい強く言わなければ、この皇太子は己の憂い事など口にはしない事をファランギスは長年の付き合いから知っているのである。
今回など自分の方から気弱な事をぽろりと洩らした位である。余程に辛いのであろうとファランギスは考えた。この乳兄弟の眼差しを浴び、ラドキースはやがて渋々と口を開く。
「彼女は、私に口付けられた事が嫌では無かったと....、一瞬でも私のものになりたいと願ってしまったと言ったのだ。それは罪以外の何ものでも無いと.....。私は憎むべき者だからと......」
ラドキースは宙に目を据えていたが、その実何をも見てはいないようであった。
「それで死のうとなされたんですね.....?」
「戦さえ無かったら、今頃は私の許で幸福であったろうにと......、泣いたんだ....、苦し気に.....」
ラドキース自身も眉根を微かに寄せ苦し気であった。
「セレーディラ姫に心を寄せておられるんですね? じゃなきゃ、そんなに苦しい筈は無い、殿下」
ラドキースは突如笑った。自嘲的な低い声であった。
「何の因果か....」
「思えば殿下は、昔からあの愛らしい姫君に恋心を抱いておられたものなあ......」
しみじみと言うファランギスに、ラドキースは驚き振り返る。
「何ですか? 私が知らぬとでもお思いだったのか? 殿下」
「お前......」
「見てりゃ分かりますって。私を誰だと思ってるんです?」
心外とばかりの口調であった。
「殿下、ユトレアがハーグシュを滅ぼした事実は変えられません。妃殿下の苦しいお気持ちも変わらぬかもしれない。けれど、時がそれを和らげてくれるかもしれない。貴方次第だと私は思いますよ。惚れているなら根気よく妃殿下を慰めて差し上げなさいって。辛いでしょうがめげずに」
ファランギスは微笑んだ。
「成る程な....、お前の言う通りだ、ファランギス。少しは楽になった」
ラドキースも俯き加減に微笑んだ。
侍医からの許可が下り、セレーディラが床から出て通常の生活に戻らんとするまでには暫しかかった。ろくに食事も摂らずにいた為、体力も落ちていたのだろう。その間、皇太子からはしばしば見舞いの品が届けられたが、彼本人が訪れる事は無かった。
床を払ったその日の事であった。セレーディラが長椅子に座り、膝の上に北方神話の本を載せて静かに繙いていると、ラドキースが訪れた。何やらみーみーと細い鳴き声がするのでセレーディラが顔を上げると、ラドキースは片手に小さな純白の仔猫を抱えていた。セレーディラは本を傍らに置き、ゆっくりと立ち上がった。空色の瞳は仔猫に奪われている。
ラドキースがセレーディラの前に立つと、彼女は顔を上げ彼を見上げた。目が合うとラドキースは自然と微笑んだ。セレーディラは少し驚く。皇太子が笑顔を見せたからだ。まるで冬の終りの雪解けを感じさせる。暫し見詰めていると、皇太子は照れたのかすっと目を逸らして口を開いた。
「まだ名は無い。そなたが付けてやると良い」
セレーディラは再び仔猫に目を向け、おずおずと手を伸ばし撫でてみる。仔猫は小さなふわふわの前足でセレーディラの細い指に戯れ付いた。セレーディラは自身では気付いていなかったのであろうが口元に笑みを浮かべていた。
「手首はどうだ? 痛むか?」
セレーディラは皇太子を見上げ、すぐに仔猫に視線を戻す。
「はい、少し......、我慢出来ぬ程ではありません」
「そうか、ならばこの仔を抱いてみるか?」
セレーディラはラドキースを見上げると、口元を微かに綻ばせ頷いた。仔猫はセレーディラの腕の中に移ると、彼女の胸元に垂れる金褐色の巻き毛に魅力を感じたらしくすぐに戯れ始めた。セレーディラは小さな笑い声をたてた。ハーグシュ王都陥落から実に初めての事であった。
それから、ゆるりとではあったが徐々にセレーディラは笑みを見せる様になり、状況は良くなるものと思われたのだが、その後、皇太子ラドキースは不穏な話を耳にする事となる。