第六章 黒将軍の密使(1)
* 冬将軍にその背を追われながら、密使は日夜駆け続けた。そして冬将軍に捕らえられて尚、真白い吹雪の中を密使は命がけで進んだのである。
ユトレア年代記 第五十五章其の六より抜粋
「伯父さん! 伯父さん! これをっ!」
イスヴァイク、ワーゲニン自由市の豪商スレイガ家のやり手であるイザの許に、甥のシーバが駆け込んで来た。普段はどちらかというと物静かで大人しい質の彼が珍しい事であった。
「たった今、さる傭兵が早駆けでこれを。北国で、ある男に雇われたのだと言っていました」
興奮した面持ちでシーバ・スレイガは一通の書状を伯父に差し出した。イザはそれを受け取り、何の押し印も無い封鑞を剥がした。文面は、これと言って何の変哲も無い機嫌伺いの挨拶状であるかに思えた。イザはその書状に記された最後の一文に息を呑んだ。
「北方アルメーレにて貴重なる宝玉を二粒入手、土産として持参する心づもりにて....」
イザは、その一文を今一度声を出して読み上げた。その瞳には歓喜の色が宿っている。知人からの機嫌伺いの書状。知らぬ者が読めば、ただそれだけの物であった。だがイザ・スレイガにとって、それは違った。
「イザ伯父さん、それでは...」
シーバは半信半疑で眼を見張っている。その年若い甥に、イザは力強く頷いた。
「いよいよだ。いよいよ立ち上がるべき時が到来する、シーバ」
イザは拳を強く握り締め、祈るかの様にその拳を胸に置いて瞑目した。
雪が散らつき、野宿には凍死の危険が伴う季節に突入していた。その為に旅足も遅くなり、宿代もかかる。これで雪が本格的に降り出せば、足止めを喰らう事となる。屈強の男だけならまだしも、幼い子供連れでの真冬の山脈超えはあまりに危険だ。今はまだ、雪の散らつく程度で旅は続行可能ではあるが、足止めを喰らうのも間も無くの事と思われた。このウォーデン王国で冬越えをせねばならぬか、それともティルブール王国まで進めるか、といった処である。
「ユールス、お前、今宵あたり路銀稼ぎをしてくれぬか? 恐らく賭博場はあるだろう」
「ああ、いいぜ。でも摩っちまっても文句無しだぜ」
「摩るな、勝て」
「無茶言うないっ! 俺様は、全能じゃねぇーぞっ!」
ファランギスの非情な言葉に、ユールスは威勢良く抗議する。だがファランギスの方は、それが耳に入っているのかいないのか、歯牙にもかけない。
「路銀稼ぎって難しそうね、フェイ」
「なあに、貴女が心配なさる程ではありませんよ。お嬢様」
細い首を傾げるエルにフェイと呼ばれたファランギスは、ユールスに対する態度とは打って変わった優しい表情でそう答えた。
ラドキースとエルは、ユールスに正体を知られたあの日から名を変えていた。二人の名が少しでも広まっている以上、危険を冒す分けにはいかなかった。
ラドキースはアランという偽名を、そしてエルはミーナという、内陸では然程珍しくも無い偽名を名乗った。そしてユトレアの有力貴族であったファランギスも又、フェイと名を変えていた。加えるならば、それらの名を付けたのはロジェリンであった。
ファランギスへ抗議の声を上げていたユールスが、ふと傍らを歩いていたロジェリンに眼を向ける。
「大体、俺の博打なんかより確実に稼げる奴がいるじゃねぇの、この中に。なあロジェリン」
ユールスがぽんっと、ロジェリンの肩を叩く。
「あたしかい? あたしに何か出来るかい?」
「出来る、出来るっ。あんた自身が売りもんだって! 金持ちでも引っ掛けりゃ一晩でたんまり稼げるって」
「なっ、なななっ!」
ロジェリンが舌を縺れさせながら、たちまち顔を真っ赤に染めた。へらへらと笑うユールスにロジェリンの拳が飛んだ。否、飛ぶかに見えたのだが、それよりも早くファランギスの拳が飛んでいた。ゴキッという音と共に、哀れなユールスは後ろにひっくり返っていた。
「あーにすんだよっ! 冗談も通じねぇのかよ、あんたはっ! 痛ぇなぁ、もうっ」
ユールスは顎を押さえながら叫んだ。ロジェリンはユールスへの怒りを一瞬忘れ、目を丸くしてファランギスを見詰めた。ラドキースとエルも思わず足を止めている。ファランギスはロジェリンのきょとんとした視線に曝され、何かを取り繕うかの様に軽く鼻を鳴らした。
「くだらぬ事を。そんな粋狂な人間などいるものか」
「何だって?」
ロジェリンの目が据わった。その顔が再び怒りの形相に変わる。但しユールスにでは無く、ファランギスに対してであったが......。
「どういう意味だい?」
ロジェリンが低くドスの利いた声で尋ねれば、ファランギスは榛色の瞳を細めてにやりと口角を上げる。
「その通りの意味だが。お前の様な男女を好む者がいるなら、その顔を拝んでみたいものだ」
「あんたに、そんな事言われたく無いよ、この性格破綻者」
ファランギスとロジェリンの嫌みの応酬が始まった。
「フェイは、素直じゃないですね、父様」
「全くだな、娘よ」
父娘は共に小さな溜息を零しながら苦笑した。
「あ〜、痛かったぜ〜」
ぼやきながら顎を擦るユールスの姿に、エルはたちまち頬を膨らませた。
「ユールスなんか嫌いっ!」
「え!?」
少女は、両手を腰に当ててユールスを睨んでいる。
「お前も、あれは冗談が過ぎるぞ。婦人を貶める様な事を言うものでは無いと、以前注意した筈だが、ユールス」
「違うってぇ。あれは一種の褒め言葉だって。美しく魅力的だって褒めてやったんだってば」
「ユールスのえっち!」
「えっち? 男なんて皆えっちだぞ、嬢ちゃん」
エルの冷たい瞳がユールスを見据えている。
「ユールスなんか嫌いっ!」
「そんな事言うなって」
エルはぷいと顔を背けた。
「嬢ちゃん? ミーナお嬢様?」
ユールスが顔を覗き込もうとすると、エルはすかさずぷいっと顔を背ける。ラドキースは、くすっと笑いを零した。
「嫌われたな、ユールス」
「ええっ! ちょっと待て。分かった、悪かった。俺様が悪かったって、嬢ちゃん」
すたすたと歩き出すエルの後ろを、ユールスが背を屈めながら追いかける。
「もうあんな事言わないから許して。ゴメンナサイ、この通り」
エルは、ちらりと冷たい一瞥をユールスへと投げる。
「反省するから許してっ。お前にしかとされんの、俺、一番応えるんだって」
大の男が十歳の少女に頭の上がらぬ図というのも、なかなかに情けない物があった。
そんな時、ファランギスが突如口を噤んだ。日課の様になっていた毎度の口論を中断され、ロジェリンは訝しむも、ファランギスの目眴せに表情を引き締めた。
「招かれざる客の様だな...」
ラドキースが、エルとユールスに囁いた。
「お嬢様、ユクラテにお乗り下さい」
ファランギスが素早くエルを馬に乗せた。
「ロジェリンお前も乗れ。すぐにこの場を離れろ」
「分かった」
ロジェリンはエルの後ろに飛び乗ると、勢い良く馬の腹を蹴った。まるでそれが合図にでもなったかの様に、周囲から奇声が沸き起こった。街道脇の林から飛び出して来た人影に、三人はあっという間に取り囲まれた。その数、十数人。長剣を握る者、短剣を握る者、湾曲した禍々しい半月刀を握る者、様々であったが皆一様に目つきが剣呑であった。
「ちぇっ、女を逃がしやがったか。まあいい、有り金を出して貰おうか」
半月刀の髭面の男が荒々しい声で言った。
「さて、どうするか?」
ラドキースが穏やかに連れの二人へと問いかけると、まずユールスが剣を引き抜いた。
「この処、剣を振るって無かったからちょうどいいぜ。若先生さんよっ」
「私も同感です」
ファランギスもにこりと楽し気に笑いながら剣を抜いた。
「やれやれ、無闇に殺すのでは無いぞ」
ラドキースは念を押すと、最後に剣を抜いた。それを合図に三対十五の戦いが始まった。