第五章 再会と兆し(9)
「それにしても、漁師になったお前が何故今時分内陸にいる? ズウォルデに住み着いたのではなかったのか? ユールス」
「うん、そうなんだけどさ。漁師は暫く休業したんだ」
ユールスはけろっとした表情で答えるも次の瞬間には意味ありげににやりと笑い、さも重大な秘密でも打ち明けるかの態でエルの背中越しにラドキースへと身を寄せて来た。
「何せ、あの黒将軍がいよいよ立ち上がるって貴重な情報を手に入れたんでな」
その瞬間、背後を歩いていたファランギスの榛色の瞳には、嶮しい色が浮かんで消えた。
「黒将軍が立ち上がる?」
尋ね返すラドキースの表情には、別段これといった変化も無い。
「そうよっ! 西から来た商人に聞いたんだ。ユトレアの残党がが動き出してるらしいって。黒将軍がいよいよ立ち上がるに違い無いってな。だから出て来たんだ。剣と無縁な生活もいいって思って漁師になったけどさ、黒将軍が立ち上がるとなりゃあ話は別だ。俺は、もう一度あの人の元で戦ってみてぇ」
「単なる噂では無いのか?」
「そんな事ねえって! 黒将軍は、きっと立ち上がるさ。あの人が、今のユトレアを見放すわけねえ。今のユトレアは酷い有様だって言うじゃねぇの。スラグじゃあ、ユトレア人達を完全に奴隷扱いしてるって聞いたぜ。知ってるか? スラグ領のユトレア人達は皆、手の甲に奴隷の刻印を押されてんだ。基本的な人権さえ与えられてねえ。それに黒将軍の妹姫が捕われてる。哀れな姫君は、うら若い時分から以来、あのくそったれ国王の妾にされてるって話だぞ。あの人が、そんな仕打ちをほっとく筈ねえ。このまま大人しく隠れてる筈ねえって」
力説してみせるユールスに一瞥をくれる事も無く、ラドキースはただ無言のまま歩を進めた。その件はファランギスに聞かされていた。スラグ王国のユトレア国民に対する扱いは、目に余るものがある。ユトレア分割後スラグ領に留まっていたユトレアの民達は、当然の如く私財は没収され使役に駆り出された。逃げ出す者は、捕らえられ次第処刑されるだけならまだしも、その家族ないし親しくしていた人物までもが処刑の憂き目へと追いやられた。ラドキースは、密やかに苦悩の溜息を洩らす。
「おじちゃんは、どうして “黒将軍” と一緒に戦いたいの?」
不意に、エルが無邪気な表情でユールスに尋ねた。その問いにユールスは満面の笑みと共に膝を打った。
「よくぞ聞いてくれましたっ!」
「そんなに聞いて欲しかったの?」
「まあまあまあ」
ユールスは、両掌を地に向け軽く上下させながら少女を宥める。
「聞きてぇんだろ、エル? 大人しく聞けって。あのな黒将軍っつうのはな、将軍の中の将軍なんだ。お子ちゃまなエルは知らねえだろうけどな、黒将軍は大陸一の軍略家なんだぜ。お前が生まれる前に、西じゃあ大きな戦が起こったんだけどな、あの人がユトレアの総大将んなって軍を率いた時、まだたったの十七歳だったんだ、エル。十七で、軍師もおったまげる様な知略を発揮したんだ。こいつぁ、すげえ事なんだぜ?」
ユールスの話に、エルは溜息に似た感嘆の声を洩らした。だが俄に引き締められたユールスの表情に、エルもつられて表情を改めた。
「それに、あの人は人格者だ。一国の王たるにそりゃあ相応しい人だ」
そのユールスの真剣な表情に、短い沈黙が流れる。
「まるで、“黒将軍” を良く知っているような口振りだな、ユールス」
暫しの後に、呆れとも自嘲的とも取れる笑みを口元に上せたラドキースが口を開くと、ユールスもぱっと顔を上げた。
「そりゃあ俺様は五年戦争の時、黒将軍の元で戦ったからな」
ユールスは、得意気に胸を張った。
「って、あんたユトレア人なのかい?」
先程の怒りを、ようやく納めたのか、ロジェリンが驚き尋ねた。
「うんにゃ違うけど」
「なぁんだ、じゃあ傭兵か?」
「悪かったな傭兵で」
肩を竦めるユールスに、ロジェリンは、ぷいとそっぽを向く。
「別に。でも雇われ兵だったあんたが、黒将軍の姿を拝める機会なんてあったのかい?」
「それが、あったんだよなあ。しかも目の前で!」
益々得意気に胸を反らせるユールスに、ロジェリンは冷たい視線を向ける。
「へえ〜? じゃ、どんな顔してたんだい?」
「黒い眼だったぜ」
「それから?」
「でっかかったぜ。あ、つうか、俺もまだ成長途中の十五のガキだったから、でかく見えたんだろうな」
「あのねぇ...、あたしは顔を聞いてるんだよ」
ロジェリンは呆れたとばかりに、荒々しい溜息を吐く。
「どんな顔って聞かれても、戦場だぜ。分かるわけねえじゃん。甲冑姿だったんだからさ。眼しか見えねえっつうの」
「何だい、顔も見てないのに知ったかぶってんのかい?」
「うるせえやい。あの黒眼を拝んだってだけで充分だろうが? しかも俺様は、お声まで頂戴したんだぞ!」
「へえぇ〜、どんな?」
「その眼、信じてねえだろ?」
疑いの白い眼差しを微塵も隠そうとしないロジェリンに、ユールスは憮然とする。
「信じるわけ無いだろうが、あんたの話なんか、このドスケベっ!」
「まだ怒ってんのか? あれは褒め言葉だったのに....」
「それで、どのように声をかけられたのだ? ユールス」
ラドキースが、二人の険悪になりつつあったやり取りを遮った。途端にユールスの表情が緩む。
「さすがラディだぜっ! あんたは信じてくれるだろ? 俺の話!」
「いささか興味はある」
「だろ? だろ?」
さり気なく問いを躱されながらも、ユールスの方はてんで気にも留めずに語り始める。
「あれは、ハーグシュ王都が落ちるちょっと前の事だ。黒将軍の本隊と、俺のいた隊が合流した事があったんだ。俺は黒将軍が馬で通るのを眼の前で見たんだぜ。その時なんだ。黒将軍が、急に俺の傍で馬を止めて話しかけて来たんだ。俺は、あの時の黒将軍の言葉を一言一句覚えてる。何て言ったか聞きたいか?」
「何と言ったのだ?」
ユールスは、へへっと照れ笑いを零すと、わざとらしく厳めしい表情を作って見せた。
「 “そなた、歳は幾つだ?” って、聞かれたんだ」
ユールスは、黒将軍の口調を真似ているつもりなのであろう、厳かに言葉を続ける。
「 “傷は痛むか? 無理はするな” ...って、俺、そん時ちょこっと手負いだったんだよな。その前の戦役で、ちょこっとやられちまってさ。で、俺は、こんなの大した事ねえって答えたんだ。そうしたら黒将軍は、“そうか、ならば良い。そなた、その歳で死ぬなよ” って、お言葉を下されたのさあ。すげえだろ!?」
ユールスの嬉しそうな声を複雑な思いで聞いていたラドキースの脳裏に、荒くれた傭兵達の間に立ってこちらを見上げていた、あどけない少年の姿が甦った。申し分程度の武具をしか付けておらず、頭には血の滲む包帯を巻き付けていた。何故こんな子供がと、思わず足を止めたのだ。顔立ちも髪の色も、何も記憶には残っていない。ただ大柄な傭兵達の中で一人だけ、ひょろりと細く頼り無げな印象であった事だけが思い起こされた。
「なあ、あんたは信じてくれるだろ? ラディ?」
「ああ、信じよう」
ラドキースは、頷いた。
「なあ、考えてみりゃ、あんたも黒眼黒髪なんだよな」
「別段、珍しくも無かろう?」
「まあ、この辺りじゃなあ。でも西じゃあ結構珍しいんだぜ。何でも、黒将軍のお袋さんが内陸の出だったらしい」
そこでユールスは、俄に口を噤んだ。何かを考えるかの様な態でラドキースをじっと見詰めたかと思うと、背後で聞いていたファランギスがひやりとする様な事を口走った。
「あんた、何か、黒将軍みてえだな」
「彼の顔を知らぬのに、何故そう思えるのだ?」
ラドキースが一笑にふせば、ユールスも笑いながら頭を掻いた。
「そうだよな。大体、天下の黒将軍が子持ちの根無し草なんて、あんまりだよなあ」
秋晴れの空に、ユールスの陽気な笑い声が響き渡っていった。
その後ユールスは、ラドキース一行と共に街道を進み、日暮れ頃に辿り着いた町の城門の前で一行と別れた。
「俺様、路銀稼ぎそこなっちったからな、くそ真面目に通行税なんか払ってらんねえの。今夜は路銀稼ぎしなくっちゃだぜ。じゃあな」
陽気に笑いながら軽く手を振り、行ってしまった。誰も別段別れの言葉などは口にしなかった。近々、再び顔を合わせる事が容易に予想出来たからである。
ユールスは、大陸南部に位置するイスヴァイクのワーゲニン自由市へ行くのだと言う。そこでなら、きっと欲しい情報が手に入る筈だと言う。
「いささか厄介ですね」
ファランギスは、ラドキースに洩らした。何故なら、ラドキース一行が向かう先もワーゲニン自由市であったからである。目的地が同じとなれば、嫌でも同じ行路を取る事になるだろう。黒将軍に心酔している模様ではあったが、信用に足る者かどうかは分からない。敵の者で無いとは言いきれないと、ファランギスは主張した。現に彼は、ユトレアとは長年にわたり敵対していたスラグ王国の出身である。
ファランギスは、今朝方ユールスがぽつりと洩らした言葉を思い起こした。
『あんた、何か、黒将軍みてえだな』
主君の正体が人知れる処となるのは、当然の如く得策では無いとファランギスは考える。それ故にユールスの鋭い勘を、ファランギスは怖れた。
「いざという時は...」
つぶやくファランギスの左手は、腰の得物に置かれていた。