第五章 再会と兆し(8)
「ラディっ!? あんた、ラディじゃねぇかっ!!」
ラドキース一行の和やかな笑い声を遮った突然の叫び声に、一行は思わず足を止めた。ラドキースはその口元に苦笑を浮かべた。何者かなど、改めて誰何するまでも無かった。その次の瞬間、行く手の木々の高みからひらりと細身の人影が飛び降りた。朝日に照らされ、その金色の髪が白く瞬いた。
「お魚のおじちゃんっ!」
ファランギスとロジェリンが口を開くよりも早く、エルが満面の笑みと共に叫べば、“お魚のおじちゃん” こと、金髪頭のユールスも又、満面の笑みと共に再び素っ頓狂な叫びを上げていた。
「お前、エルかっ!? あの小生意気な俺のお姫ちゃんかっ!? でっかくなったなぁ」
「もう十歳だもん! それに私は、おじちゃんのお姫様じゃなくって、父様のお姫様なのっ!」
ロジェリンの止める間も無く、エルはユクラテからトンっと飛び降りると、ユールスの元へ駆け寄っていた。
「なあに相変わらず乳臭い事言ってんだぁ? 父ちゃんなんかと結婚出来ねぇんだぞ、嬢ちゃん」
大喜びではしゃぐユールスは、相変わらずの軽々しさである。
「父様は、“とうちゃん” じゃなくて “と・う・さ・ま” ! 私は、“嬢ちゃん” じゃなくて “エ・ル” !」
「はいはい。ちなみに俺様は、“おじちゃん” じゃなくて、“ユールス” だっつうのっ!」
二人は、顔を付き合わせながら、そんな昔同様のやり取りをしながら、嬉しそうに笑い声を上げる。そんな二人の様子にロジェリンは呆気にとられながらも馬を降り、やはり呆気にとられているらしきファランギスと目を見合わせた。
「久しいな、ユールス。達者であったか?」
「おうよっ! 達者も達者! こんな処でエルとあんたに会えるとは思わなかったぜ、ラディ! しかも何だぁ!? 昨日俺が負けちまった奴までいるじゃねえの。あんたの知り合いだったのか?」
「まあな」
ラドキースが答えてやると、ファランギスの姿に目を丸くしていたユールスは途端に脱力した。
「強えわけだぜ。何となく納得。お陰で俺は、賞金取り損ねてすっからかん」
「それは気の毒だったな」
「ああ、いいの、いいの。しょうがねえ、俺が弱かったんだから。それよか、あの乳でけえ美人な姉ちゃんもお仲間なのか?」
ユールスの言葉に、ロジェリンは弾かれた様に己の胸を両手で隠し、見る見る内に顔を真っ赤に染めて目を見開いた。あけすけなユールスの物言いに、ラドキースは小さな溜息を吐いた。
「そういった婦人を辱める様な言動は控えぬか、ユールス」
「そうだ、そうだーっ! おじちゃんのえっちぃ!」
父親の隣で、エルも少女らしい抗議の声を上げた。
「辱めるぅ? 冗談っ! 最高の褒め言葉だぜぇ、今のはよぉ」
ユールスは心外とばかりに反論するや、ああっ! と叫び、意味ありげな笑いと共にラドキースを指差す。
「ひょっとしてあんたの新しいかみさんか? 良く見付けたな、あんないい女。うらやましいぜ、このっ」
「残念ながら、そういうわけでは無い」
ユールスに肘で突つかれながら、ラドキースは再び苦笑を浮かべる。
「え? じゃあ俺に勝ったあんたのかみさんか?」
ラドキース父娘から数歩離れた処に立っていたファランギスは、尋ねられ首を横に振る。
「えっ、まじかよ!? なら俺が口説いてもいいか?」
ユールスの軟派な言動に、とうとう堪忍袋の緒が切れたらしいロジェリンが、ずかずかと進み出て荒々しくユールスの胸ぐらを掴んだ。
「若先生、こいつを一発殴らせてくれ」
「おいおい、何だよ、暴力反対! エルの教育上、良くねえぞ」
「貴様の方が、余程良く無いだろうが!」
ロジェリンは怒り心頭に発したらしく、低く抑えられた声音は騎士の口調に変わっていた。気圧されたユールスは降参のつもりででもあるのか、両手を上げ愛想笑いを浮かべている。ロジェリンの怒りの表情は、その美貌だけに中々に迫力があるのだ。
「何とかしてくれよ、ラディ」
「さて、どうしたものかな、エル?」
久々に再会したユールスに気弱な声で縋られたラドキースが、静かな笑顔を娘に向けると娘は、「う〜ん」と愛らしいうなり声を洩らした。
「おじちゃんは、ロジェリンに謝らなくちゃいけません!」
「分かった、分かった。悪かった、俺が悪かったって。だから暴力反対! なっ、なっ」
ユールスは即座に謝るも、笑いを浮かべたその表情が軟派な事は否めない。ロジェリンは忌々し気な溜息を吐きながら腕を緩めた。
「何だってこんな軽々しいのと知り合いなんだい!? 若先生とエルは」
言葉遣いは戻ったものの、腹立ちの収まろう筈もないロジェリンはぶつくさと毒突いた。
「同感だな...」
ロジェリンの憤慨の言葉に、ファランギスは人知れずぽつりと呟いた。
「なあなあ、“若先生” って、一体何の先生様だよ、ラディ?」
ロジェリンの怒りなど、数瞬の後には忘れ去ったかの様に、ユールスは興味津々な瞳をラドキースへと向けていた。
「剣だ」
エルの手を取りながら歩いていたラドキースは、短く答えた。
「へえ〜。成る程なぁ。あんた、すげえ強かったもんな」
ユールスは大仰すぎる程の態で納得して見せると、ヘヘッと笑って少し遠い目をする。恐らく、出会った時の事を思い起こしたのであろう。
一行は、立ち話も何だからと街道を共に南下していた。どちらにしろ、行く方向は同じである。ならば時を無駄に使う術も無い。もう、この時期ともなると日も大分短いのだ。
「ユールスよ。お前は漁師にはならなかったのか?」
エルが気にしてい疑問を、ラドキースが口にした。
「へ? なったぜ」
「なったの!?」
エルが問い返した。
「おお、なったよ、エルに言われた通り。それも、ちっちぇ〜川でちまちま摂るんじゃなくってよ、船で海に出てな、でっけえ網をばっと投げて、いっぺんに山程魚を捕る漁師になったんだぜ、俺様はよっ!」
「海に行ったの?」
まだ一度も海を見た事の無いエルは、瞳を輝かせた。
「行った、行った! 海を見た事あるか、エル?」
少女は首を横に振る。海に面するアルメーレ公国にいた時も、結局、海沿いまで出掛けた事は一度も無かったのである。
「でっけえぞ〜、海は。感動する位、でっけえぞ。お前に見せてやりてえなぁ、エル。あんたもねえのか? ラディ?」
「昔、幾度か見た」
「そっか。でっかくて、あんたも感動しただろう?」
「ああ」
ラドキースは、微笑み首肯する。
「懐かしいな、ファランギス」
振り返る主君に、背後でユクラテを引きながら歩いていたファランギスも、微笑み 「そうですね」 と、相槌を打った。
ラドキースが、生まれて初めて海を見た時、この乳兄弟も共にいた。二人がまだ、エルよりも大分幼かった日の事である。二人とも、あまりの水の量と、その止まる事無く引いては寄せる波の動きに目を見張り、駆け寄り逃げ惑っては、はしゃいだものであった。ファランギスの一族、エトラ・ファーガス家の領土であったユトレア南岸、ファーガスの地を訪れた時の事であった。その地も今では、ハーグシュの領土となっている。