第五章 再会と兆し(6)
大きな板に記された対戦表に、新たな対戦者達の名が書き連ねられる。勝ち抜き戦である為、当然回を追うごとに名は少なくなってゆく。初日と二日目は、王都の幾つかの場で次々と試合が行われたが、三日目に入り出場者が絞られると、都の中心に立つ神殿前の広場で試合が行われるのが定例であった。時に国王がお忍びで観戦に訪れる事もあるのだという。そしてまた時に、大会が長引き数日ずれ込む事もある。
「ちょっと、何なのさ!?」
ファランギスに手首を引っぱられながら、ロジェリンは分けも分からずに尋ねた。
「良い処に来たな」
「へ?」
「ここの女達は、しつこいので参る」
「...」
ロジェリンが後ろをちらりと振り返れば、今しがたまでファランギスを取り囲んでいた女達が、落胆の声と共に恨めし気にこちらを見送っていた。
ラドキースに促されロジェリンがファランギスの元まで来てみれば、五〜六人の女達にまとわりつかれ、辟易した態のファランギスがいた。
『あらま、だらしなく鼻の下でも伸ばしてるかと思いきや』
『ロジェリン!』
目が合うやファランギスは、素早く己の腕に絡み付いていた女達の腕を解いて、これ見よがしにロジェリンの肩を抱き寄せた。背に下ろされた豪奢な巻き毛の長身のロジェリンの出現に、ファランギスに纏わり付いていたトラジェクの女達には、悔し気な表情を浮かべる者もあれば、きょとんと目を丸くする者もあった。
『すまぬな、連れがいるんだ』
言うやファランギスは、ロジェリンの腕を掴んで女達から文字通り逃げ出したという分けであった。
「助け出せって、そういう事か...」
先程のラドキースの言葉に納得しながらロジェリンは呟いた。
「何だ?」
「いいや別に。あんなに引く手数多になる事なんて、滅多に無いだろうに、勿体無いと思っただけさ」
「引く手なぞ無くて結構。しつこい女は好かん」
「やれやれ、そんな事言ってると一生嫁の来手が無いよ」
「馬鹿にするな。そういうお前こそ、その口の悪さを何とかせねば一生嫁の貰い手がつかぬぞ」
「そりゃ結構。あたしは生涯独り身を通すつもりだからね」
「ほう? 若先生の後添えになりたいとは思わんのか?」
「へ!?」
「惚れてるのだろうに?」
「何言ってんだい?」
ロジェリンは声を尖らせ思わず立ち止まった。その手首を掴んでいたファランギスも、おのずと歩を止める。
「違うのか? エデワで私にあれ程邪険にあたったのは、若先生を取られたく無かったからでは無いのか?」
ファランギスは不思議そうに眉を上げる。わざとらしさを隠しもしない。
「何か誤解してやしないか? 確か、前にもそんな事を言っただろう? 全く嫌な奴だね、あんたは。ああ、そうだよ。若先生もエルも取られたく無かったよ。でも、だからって何で惚れた腫れたなんて話になるのさ? まあ確かに、若先生の人間性には惚れてるけどさ」
「人間性にか...」
「ああ、そうさ。あの人になら仕えてもいいと思ったんだ。仕えるならあの人以外にいないって、心から思ったんだ。だから追いかけて来たんだ。店を切り盛りするのも結構楽しかったけど、やっぱりあたしは剣を手放せない。物心付いた頃には木剣を振り回してた。それからずっと腰に剣があるのが当たり前だった、公国騎士団を辞めるまではね。四年ちょっとの間、町の女になってみたけど、やっぱりあたしは、騎士として生きたいんだ。悪いか?」
ロジェリンのきっぱりとした物言いとその潔さは、ファランギスに嫌悪の情を誘うものでは無かった。ラドキースに仕えんが為ロジェリンは、一夜にして故国への、そして平穏な生活への決別を決心したのである。その一種の清々しさに、ファランギスが心の奥底で感銘を受けた事は確かであった。
「いや...、全く悪くなど無い」
「そうか。だったら、いい加減手を放したらどうだい?」
未だロジェリンの腕を掴んだままであった事に気付いたファランギスは、ぱっとその腕を放し、取り繕うかの様に咳払いを零した。そんなファランギスに、ロジェリンはずいっと踏み込んでその顔を睨みつける。
「それから金輪際、惚れただ腫れただなんて事は口にするな。若先生に失礼だ。本来なら不敬罪にあたるぞ」
囁く程に低い声は、騎士の口調であった。どうやら本気で憤慨しているらしい。
「別段、不敬罪にあたるとは思わぬが?」
「しつこいな」
「すまぬ」
素直に詫びの言葉を口にしたファランギスに、ロジェリンはふいっと瞳を和らげた。
「さてと、次の対戦相手は誰なんだい?」
口調を戻したロジェリンは、身を翻しファランギスの前を歩き出す。
「知らん」
「なら確かめに行くよ」
「別に誰でも良いが」
「つべこべ言わずに、さっさと来たらどうだい?」
対戦表の方へと、すたすたと歩いて行くロジェリンの後を、ファランギスは一人肩をすくめながら素直に付いて行った。
神殿の石段に腰を下ろし、柱に凭れつつラドキースは、傍らで片足飛びに石段を飛びながら無邪気に独り遊びに興ずる娘を眺めていた。エルが刎ねる度に、金褐色の柔らかく波打つ髪と背に流したマントが刎ねる。マントの下の菜の花色のスカートは少女らしく愛らしかったのだが、腰に下げた小振りな剣が違和感を醸し出していた。ふと、エルの姿に亡き妻の姿が重なる。出会った頃の、まだ、ほんの少女であった頃の妻。背に垂らされた金褐色の髪は、やはり柔らかそうに波打っていた。思わず手を伸ばしてその髪に触れると、彼女は少しはにかみ頬を染めたものであった。
「父様?」
気が付けば、あの頃の妻かと見紛う程に良く似た娘が、すぐ横に立っていた。ラドキースは、目を細めその幼い顔を見詰めた。黒目がちな瞳の色だけが妻とは異なる。ラドキース譲りの黒曜石の如き瞳だけが、血を分けた父娘の証の様にも思えた。
「父様、どうしたの?」
エルは、しゃがみこみフードの中のラドキースの顔を覗き込んだ。
「お前は、日に日に母に似て来ると思ってな」
「母様に?」
「ああ」
「そんなに似ている?」
「そっくりだ」
ラドキースは微笑み、手を伸ばしてエルの頭を撫でる。
「母が恋しくなったら、お前は己が顔を見れば良い」
「私の顔を見ていたら父様も寂しく無い?」
「ああ、寂しく無いとも」
「じゃあ、エルはずうっと父様の傍にいてあげます」
「嫁にも行かぬつもりか?」
「はい」
一瞬の逡巡も無しに大きく頷く娘に、ラドキースは微かな笑いを零した。
「それも困るな、エル。孫の顔が見られないではないか」
「孫?」
可愛らしいうなり声を上げながら真剣に悩み始める娘の小さな肩を、ラドキースは笑いながら抱き寄せた。
「ここにいたのかい。何だい、エル? 難しい顔して」
ファランギスと別れて戻って来たロジェリンは、ラドキースの腕の中で悩んでいるエルの表情に目を丸くした。
「エルには、ちょっとした難題が持ち上がったのだ」
「難題って?」
「あのね、私はお嫁に行かないでずっと父様の傍にいてあげたいのに、父様がそれだと孫の顔が見られないから困るって...」
ラドキースは笑いながら、膨れっ面のエルの頭をあやす様に幾度も撫でた。
「なあんだ、そんな事かい?」
ロジェリンは豪快に笑い飛ばす。
「そんなの婿を取れば良いだけの話じゃないか、エル」
「お婿さん?」
「そうさ。婿を取れば、ずっと若先生の傍にいられるさ」
「そうかぁ」
途端に顔を綻ばしたエルは、嬉しそうに父親の胸に抱き付いた。
「父様! 私、お婿さんを取ってずうっと父様の傍にいてあげます!」
「それは、良い考えだな、エル」
「はい!」
まだまだ当分、父離れなど出来そうも無いエルの様子に、ラドキースはロジェリンと目を見交わし苦笑した。
「ところでファランギスは?」
「ああ、ちゃんと助け出してやったよ。今、控えのテントで休んでる」
「そうか」
「次の試合に勝ったら準決勝だよ、若先生、エル」
ロジェリンは瞳を輝かせている。
「この二つ後がファランギスの試合だって。ユールス=アゼリアルドってのが次の対戦相手さ」
広場で行われている試合を親指で示しながらロジェリンが言えば、エルがぱっと顔を上げた。
「ユールス? お魚のおじちゃんだ!」
エルが嬉しそうに叫んだ。
「えっ? そうなのかい? あの金髪頭!?」
「ああ。無事勝ち進んでいたのだな」
「お魚のおじちゃん、すごいね、父様」
「そうだな」
嬉しそうに言葉を交わす父娘の様子に、ロジェリンは複雑な思いで指を食んだ。
「でも、ファランギスには勝って貰わないとねぇ」
控えめに口を挟んでみれば、即座にラドキースからの言葉が返る。
「それは案ずるに及ばぬであろうよ、ロジェリン」
その言葉に、ロジェリンは満面の笑みと共に頷いた。
新たな対戦者達の名が呼び上げられると、一斉に観衆達の鼓舞の声が上がる。広場を囲む観客の数は多い。その中をファランギスは進み出た。方や前方から進み出て来た対戦相手の姿に、ファランギスは方眉を微かに上げた。ラドキース父娘が嘗て共に旅をしたという、あの金髪の男であったのだ。相手が剣を抜くのに合わせて、ファランギスもすらりと剣を抜く。そして、審判のかけ声に合わせて双方構えた。