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ユトレア年代記  作者: 秋山らあれ
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第一章  終焉と苦悩、そして.....(3)

 





 ラドキースは花嫁を訪れる為に回廊を渡っていた。ゆったりとした室内着を身に纏った皇太子の後には数名の神官と重臣達が重々しく従っていた。部屋の前まで来ると皇太子はにこりともせずに振り返った。

 「さあ、もうここまでで良いであろう? 私は間違いなく花嫁をおとなう故、下がって良い」

 「そうは参りませぬ、殿下。慣例でございます故」

 重臣の一人がきっぱりと言った。

 「立ち会いは無用だと言い置いた筈だ」

 「慣例を曲げるわけには....」

 「譲歩せよ」

 ラドキースは重臣達の言葉を遮った。

 「私は、そもそもハーグシュ攻略に賛成などした覚えは無い。それを譲歩して軍を率いハーグシュ王都を陥落せしめた。そして譲歩して亡国の王女を娶った。そなたらも譲歩せよ。陛下には、そなた等の口からよしなに取り繕っておけ」

 「しかし」

 ラドキースの瞳に怒りの色が滲む。

 「斬られたく無くば去れ。私の堪忍袋の緒が近頃頓に短くなっている事をそなた等も知っておろう?」

 皇太子は手にしていた長剣の柄に右手を掛けた。その怒りを含んだ不機嫌な眼光に、怖れ戦いた重臣達もそれ以上の事は何も言えず深々と頭を下げると退いた。


 ラドキースは出迎えた侍女等にも朝まで戻らぬ様に命じると、花嫁の寝室へと足を踏み入れた。ほの暗い室内に純白のガウンを纏った亡国の王女の姿が浮かび上がる。香の焚かれた室内の良い香りの漂う中、ラドキースはセレーディラへと歩み寄り、充分な距離をおいて歩を止めた。室内に灯された幾つかの灯りが彼女の容貌に微かな陰影を付けている。

 「立ち会いの者はいない。侍女かしずき等も朝までは戻らぬ」

 セレーディラはラドキースを見詰め、やがて言葉も無く瞳を俯けた。そこには唯一つを除いて何の感情も見られなかった。拒絶も嫌悪も無い変わりに、歓喜も恥じらいも無い。唯有るのは.....、強いて言えば諦めにも似た感情か.....。ラドキースは物言わぬ花嫁との距離を縮めると、その表情の無い頬にそっと手を伸ばし触れた。ラドキースの手は何の反応も示さない王女の頬を撫で、その親指は彼女の唇をそっとなぞる。突如、憂えも屈託も無い輝く様な少女の笑顔が過った。


 『いいわ、お嫁に行って差し上げます』


 輝く優しい光の中で交わされた七年前の約束.......。確かに国と国との契約ではあった。しかし、己は確かにあの時少女に恋をした。そして少女も、あの約束をくれたのだ。

 七年という歳月の下で美しく成長した初恋の少女が今、目の前にいた。輝くあの笑顔とは無縁の表情をして.......。つきんとした鋭い痛みを胸にラドキースは身を屈めセレーディラの唇をそっと塞いだ。拒む事も答える事もしないセレーディラの背を抱き、ラドキースは幾度も優しく唇を重ね、やがて深く重ねた。練り絹のガウンをその細い肩から床に落とすと、薄い夜着一枚の彼女を抱き上げ寝台へそっと下ろした。再び彼女の唇を深く味わいながら、その細い身体を抱き締めた。豊かで柔らかな髪を撫で、指を絡め梳き、首筋に口付けを落とした。彼女を心から欲しいと思った。

 やがて夜着の釦の一つ一つに手をかけながら、その華奢な肩に唇を寄せると、それまで何の反応も示さなかったセレーディラの両手がそれを拒絶しようとした。はだけられた夜着の前を握り締めるその両手は微かに震え、見開かれた瞳は見る見る内に涙に被われた。 

 「お許し.....下さいませ....」

 小刻みに震える唇は、それだけを言うのが精一杯の態であった。

 「....分かった。無理強いはせぬ。そなたの心が定まるまで気長に待つ事にしよう」

 ラドキースは静かに答え、それ以上の事に及ぶ事もせずに、唯、セレーディラの髪を一撫ですると寝室から出て行った。


 独り寝台に残されたセレーディラは、夜着の胸元を布が裂ける程にきつく握り締め身体を震わせながら涙を流し続けた。敵国の王子に口付けられ抱き締められ髪を撫でられた事が、全く厭わしいと思わなかった自身にセレーディラは混乱しおののいた。故国を滅ぼした敵国の皇太子だというのに......、敵軍を率いた名高き将だというのに.......。


 セレーディラの目からは涙が流れ続け、一睡もしないままに夜が明けていた。燭台の灯りはとっくに尽きていた。表から爽やかな小鳥のさえずりが聞こえて来る。セレーディラは立ち上がり、ふらふらとおぼつかない足取りで化粧台へと近付いた。目の前の泣き腫らした空色の瞳が自分を見詰めた。ふらついた拍子に台に手を付くと、何かにあたってカタリと音をたてた。銀製の背のブラシが転がっていた。セレーディラはブラシを取り上げ、その背の銀の意匠を撫で、そして顔を上げた。蒼白な表情の惨めな亡国の王女がこちらを見ていた。セレーディラは手にしたブラシを渾身の力でもって目の前に立つ自身へと叩き付けた。




 皇太子妃となったハーグシュ王女付きの侍女かしずき等は、新婚初夜を慮って通常よりも心持ち遅い時刻に寝室の扉を叩いた。室内からの応えは無かったが侍女達は構わずに扉を開くと、膝を折り頭を下げながら機械的に挨拶の口上を口に上せる。そして面を上げた瞬間、異常を目にした侍女達はそれぞれに息を呑み硬直した。床に横たわる王女の純白の夜着に深紅が散っていた。初夜の祝福すべき深紅であろう筈も無かった。純白の夜着を染める毒々しい血の色と、割られた鏡に走る禍々しい罅の形状。死人の様な王女の周りに散る鏡の破片と、王女の血に濡れた手元に落ちている血まみれの破片。

 侍女達は悲鳴を上げた。





 ファランギスは深刻な面持ちで皇太子の私室へと足を運んでいた。ひょっとしてまだ寝ているであろうか.....と思い、すぐに考えを改める。あの王子の事だ、婚儀の翌日とて常と変わらぬ時刻に起床しているであろう。そんな事を思いつつ案内を乞うと、果たして皇太子は既に身支度を整えていた。朝の挨拶もそこそこに、ファランギスはハーグシュ王女が自害を試みた件を皇太子に耳打ちした。

 ラドキースは、瞳に浮かんだ哀しみを隠そうとするかの様に瞳を閉じ息を吐いた。

 「侍医が傷口を接合しました。幸い発見が早かったですので命に別状は無いと.....」

 「そうか......」

 ラドキースは長椅子に腰を下ろすと肘掛けに肘を付いて額を支え、もう一度溜息を吐いた。ファランギスもそれに倣い向かい側に座ると、ぽつりと呟いた。

 「今になって手首を切るとは、初夜を苦にされたのか.....」

 「......抱かなかった」

 ラドキースは乳兄弟に目を向けぬままに呟く。ファランギスは顔を上げ、然程驚いてもいない眼差しを主君に向ける。

 「.......そう、だったんですか...? だって立会人達は?」

 「部屋には入れなかった」

 やはりか.....と、皇太子の乳兄弟は心の内で思った。

 「実は....、殿下はそうなさるのではと思いましたが本当にそうなさったんですね.....」

 「あれ以上傷付けたくは無かった....」

 その告白にファランギスは、皇太子を労るかの様に小さく数度頷いた。

 ラドキースは優しい。その優しさが彼の短所であり長所であるのだとファランギスは考えていた。愛想の無い率直さで誤解されがちではあったが、その心の奥底に優しさを秘めている事をファランギスは良く理解していた。

 一体何時から、こんなに翳りを帯びた人物になってしまったのであったか....。ファランギスは考える。きっかけの一つは、さきの王妃_____つまりは皇太子の実母が毒殺された件にあっただろう。前王妃は、皇太子の為に用意された瑠璃の杯を口に含んで息絶えた。狙われたのが皇太子であった事は疑いようも無い。杯が瑠璃では無く毒に反応する銀杯であったならば、前王妃は命を落とさずにすんだであろうに....。その時の騒動では、例の杯を運んだ侍女と、さる下級貴族の出の妾妃が首を刎ねられ一件は片付けられたのだが、真実は謎に満ちている。それ以前も、それ以降も皇太子の暗殺騒動は度々あったが、首謀者を特定するのは困難であった。何せ国王には現王妃の他にも数多くの妾妃がおり、その幾人かが男子を儲けているのだ。ラドキースの同腹の兄王子も、ごく幼少の頃に暗殺されていた。

 少年の頃、皇太子は侍医の下で数種の毒に身体を慣らす訓練をした事があった。死と紙一重の所業に、ファランギスは幾度彼に止める様に懇願したか知れない。剣の腕とて自己防衛の為、必然的にそうならざるを得なかったのである。

 ハーグシュ王国との五年戦争が始まってからは、軍師が舌を巻く程の知略の才と恐ろしいまでに肝の座った冷静さが広く知れ渡るところとなった。戦が勃発した時、彼はまだ顔立ちに幼さの残る十七の少年でしか無かったというのに。 総大将として軍を率い、それが名ばかりの飾りでは無かった事を間も無く証明して見せた。


 彼は、その漆黒の髪と身に纏った黒鎧に因み、いつしか黒将軍の名で呼ばれる事となった。王国には無くてはならない将と認められた為か、幸い近頃では暗殺騒ぎも無い。





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