第五章 再会と兆し(2)
「お前が沈み込んでどうする?」
ファランギスの声に、重い溜息をつきながら歩いていたロジェリンは顔を上げた。
「別に沈み込みはしないけどさ、エルがあんなにシュナに会えるのを楽しみにしてたってのに会えないなんて、可哀想じゃないか.....」
「仕方が無いだろう、行方が分からないんだ。彼を捜索している暇などこちらには無い」
素っ気無いファランギスの言葉にロジェリンは形の良い唇をむっと歪め、数歩先を行く背を睨みつけた。
「冷たいねぇ、あんた」
「そうか? 私はお二人の為に出来る事なら何でもする。だが、どうにもならぬ事は仕方無い」
ファランギスは、ロジェリンを見もせずに言う。
「そりゃあ.....、そうだけどさ。もっと優しい言い方は出来ないのかい? っとにもう...」
「率直さの塊の様な “若先生” よりは、優しい言い方だったと思うがな」
「何ふざけた事言ってんだいっ! 若先生は、あんたみたいな冷たい物言いはしないよっ!」
ロジェリンは肩を怒らせて憤慨した。
「...そうなのか?」
ファランギスが、ロジェリンを振り返った。榛色の瞳が、心做しか微かに見張られている。ロジェリンは呆れ返り、ファランギスへと詰め寄った。
「そうなのかって、あんた若先生の乳兄弟なんだろう? 付き合い長いんじゃなかったのかい?」
「まあ、確かに長いが....、私の知る殿下は、物言いが率直過ぎて冷たいと誤解されがちな人物だったぞ」
「そうなの? 確かに若先生は口数の多いほうじゃあ無いだろうが...、でも冷たい物の言い方はしない人だよ。じゃなきゃエデワでだってあんなに好かれやしなかっただろ? 良く考えなって」
「そうだな、確かに.....」
ロジェリンの言葉にファランギスは珍しく素直に頷いた。
「正直驚いた。殊、子供達にあんなに好かれていたのにはな....。以前はあまり人を寄せ付ける方では無かったんだが、殿下は変わられた様だ。大体、以前は笑う事も稀だったし.....」
「そんなに暗かったのかい? 若先生って」
「そうだな...、声を上げて笑う様な事は殆ど無かった。まあ仕方が無い、決して幸福な方では無かった故な...」
町からは遠ざかり、辺りに人通りは無かった。ファランギスはふと足を止めた。つられてロジェリンも立ち止まる。
「その殿下が、故国を出奔してからの十二年間は幸福だったと仰ったんだ。不便であろう逃亡生活であったにも拘らず.....。あの殿下の口から “幸福” なんて言葉を聞いたのは、初めてだった。何とも言えない思いをした。それなのに、故国再建の為に私は、殿下の犠牲を望んだんだ.....。残酷だな、私は....。お前に罵られたとて仕方が無い....」
「ファランギス....」
前を向いたまま、瞳を細めて自嘲するファランギスの表情が陰を帯びた。ロジェリンにはかける言葉も見付からず、ただファランギスの横顔を見詰める事しか出来ないでいた。
やがてファランギスが溜息と共に困惑顔のロジェリンへと目を向けると、その横顔を見詰めていたロジェリンは、何故か内心慌てる。
「急ぐぞ。出立が遅れる」
言うやファランギスはさっさと歩き出した。
「あ、ちょっと」
ロジェリンも足早に後を追う。
「ファランギス」
「何だ?」
「うん、あのさ...」
目を逸らしながら、らしくも無く口ごもるロジェリンを、ファランギスが不思議そうに振り返った。
「どうした?」
「罵ったりしないよ」
「ん?」
「だから、あんたを罵ったりしないって言ってんだよっ」
「ほお? 珍しく殊勝な事を言うな」
ファランギスは片眉を上げて見せると、ロジェリンへ向けていた瞳を細めた。
「何やら怖いな」
「なっ、何が怖いってのさ?」
「どんな裏があるのかと思って」
「何だってそうひねくれた受け止め方するんだいっ? ったく可愛く無いねえ」
「そんな年頃でもないからな」
今しがたのしんみりした空気など嘘の様に、ロジェリンがきいきいと罵り声をあげながら拳を振り上げれば、 ファランギスはファランギスで笑い声を上げながら駆け出した。
二人が戻ると、皇太子父娘は朽ちかけた小さな家の前の丸太の上に仲睦まじそうに座っていた。家の横手には、木に繋がれたユクラテがのんびりと草を食んでいるのが見えた。平和な光景であった。
どうやら小さな姫君はラドキースからユトレア語を習っていたらしく、地面にはいくつかの単語が書き散らされていた。ユトレア語を知らぬエルとロジェリンは、暇を見てはラドキースに言葉を習っている。だが人前では決してユトレア語を口にはしない。四人の間で交わされる会話は、大方が北方語であった。
「只今戻りました、殿下」
「ああ」
「お帰りなさいっ!」
エルは、素早く立ち上がると駆け寄ってロジェリンに抱きついた。
「何か分かった? ロジェリン?」
期待のこもった瞳で見上げてくる少女の髪を、ロジェリンは優しく撫でた。その期待を打ち砕かなければならない心苦しさに、ロジェリンの柳眉は曇る。だが隠し様も無く、意を決して口を開く。
「シュナは、三年程前にお母さんを亡くしたんだそうだ。それで孤児院に引き取られたんだけど、一年程前にそこを逃げ出したそうだ」
「母親を亡くしたのか....」
呟いたのはラドキースであった。ロジェリンは頷く。
「行方は分からないのか?」
「残念ながらね」
ロジェリンの腰に抱きついたまま、エルは黙りこくった。
「どこかで達者にしていると良いが....」
「孤児院を逃げ出す程の根性の持ち主だよ。きっと達者でいるさ、若先生」
「そうだな」
ロジェリンは微笑み、両手でエルの頬を挟み込んで上向かせる。
「エル、元気をお出しよ。シュナはきっと元気だよ」
「うん....」
エルは寂しそうに頷いた。
「いい子だ。そうだ、髪を編んであげようか、エル」
ロジェリンが艶やかな笑顔で少女の顔を覗き込むと、少女もにこりと微笑み頷き返した。
結局一行は、嘗てハーグシュの姫君が息を引き取ったその朽ちかけた小さな家に、ラドキース父娘の思いの詰まったその家に、もう一晩留まる事となった。あの後、一行はシュナの母親の墓に花を手向けに出掛けたのだ。
町外れの共同墓地に葬られていたシュナの母親の墓を見出すのは、そう容易い事では無かった。墓石も無い様な、削られた板が突き立てられているだけの貧しい墓が処狭しと並ぶ墓地である。その板に彫り込まれた名も、朽ちて判読出来ないものの多かった中で、シュナの母の墓を見つけ出せた事は、幸運であったと言えよう。
「父様、シュナのおばちゃんは、どうして死んじゃったの?」
野で摘んだ秋の花々を手向け祈りを捧げると、エルは傍らの父を見上げて尋ねた。
「事故であったらしい。詳しい事は分からぬ」
「シュナ、可哀想....。独りぼっちになっちゃったんだ.....」
ラドキースは片膝をついたまま手を伸ばし、泣き出しそうな表情の娘の肩を抱き寄せた。
「シュナは賢しい子だ。今頃何処かで強く生きている筈だ。仲間を得て、きっと独りでは無かろう」
「そうかな....?」
「そう願おう、エル。シュナの為に...」
「うん、父様」
エルは、父親の胸に顔を埋めながら頷いた。そんな様子を、ファランギスとロジェリンは背後から静かに見守っていた。
エデワを発ってからより、一処に二泊もするのは初めての事であった。先を急ぐ旅ではあったが、旅足は決して早くは無かった。仕方も無い。健気に不平一つ零さなかったものの、年端もいかないエルには、それが精一杯であっただろう。
ファランギスの愛馬ユクラテの背に乗るのは、専らエルであった。尤も、ファランギスが必ず手綱を握ってはいたのだが、お陰でエルもすっかり乗馬に慣れた。
「姫は、馬がお好きですね」
ファランギスが話しかけると、エルはユクラテのたてがみを撫でながら嬉しそうに頷いた。
「うん、大好き。だって、とっても可愛くて、とってもお利口なんだもん」
「そうですね。馬は、実に美しくて賢い。殊、このユクラテは、どうやら姫を甚く気に入っている様ですよ。姫が可愛がって下さっている事を、良く理解しているのでしょう」
ファランギスの言葉に、馬上の少女は実に嬉しそうな笑顔を晒した。
「ああ、ほら国境だよ。トラジェクだ」
ロジェリンが前方を指差し嬉々として言った。皆が一斉に前方の標識に目を向けた。
その日、一行はトラジェク王国へと入った。