第四章 風の盟約(11)
翌朝、まだ薄暗い内だというのに、町中の人々がラドキースとエルの見送りに集まっていた。
「どうして行っちゃうの?」
「いつ帰って来るの? ラディ先生」
「行かないでっ!」
ラドキースとエルを取り囲む子供達の中には、泣き出している子の姿もある。ラドキースは一人一人の頭を撫でながら言葉をかけてやっていた。
「ロジェリンは? 老師様?」
エルが落ち着かなげに尋ねた。
「それがなあ、先程呼びに人をやったんじゃが拗ねとるのか出て来んのじゃよ。良い年をしてしょうの無い奴じゃ、ロジェリンは...。別れが悲しくて泣いておるのかもしれん。許してやれ、エルや」
ウィスカードは俯くエルの肩に手を置いた。町の人々も淋し気である。
「老師、色々と世話になりました」
頭を下げるラドキースに、ウィスカードは、うんうんと頷いて見せた。
「いつでも戻って来い。お前達の家はきちんと手入れしておくからな、ラディよ」
老師の言葉に、回りの町人達も一斉に頷く。ラドキースは微笑み礼を言う。ファランギスは少し離れた処で傍観している。
「達者でなあ。道中気を付けるのだぞ」
「はい、老師も達者で。ロジェリンによしなに伝えて下さい」
「うむ、うむ、伝えよう。エルや元気でなあ」
エルは涙を浮かべながら老師の頬に別れの口付けをした。
エデワの人々に別れを惜しまれながら、ラドキースとエルはファランギスと共に彼等に背を向け旅立った。エルは幾度も幾度も振り返っては手を振った。ロジェリンはとうとう姿を現さず、エルはがっくりと肩を落としながら父に手を引かれエデワを去った。
「行ってしまったか...」
ウィスカードは大きな溜息を吐いた。人々は皆、朝靄の中にラドキース達の姿が見えなくなっても、その場から動こうとしなかった。
「行っちまったなあ...、じいさん...」
「がっかりだなあ...。淋しいよ....」
「そうだねえ...」
人々が溜息雑じりに言葉を交わし、子供達が皆むっつりと口を閉ざしたそんな時であった。
「あれっ?」
誰かが呟き、町の方を振り返ると目を凝らす素振りを見せた。つられたかの様に他の者達も口を閉じてそちらを振り返れば、朝靄の向こうから軽い足音と共に駆けて来る者がある。しんみりとした雰囲気が一瞬崩れる。
「あれぇっ!? ロジェリン姐さんっ!」
「遅いよぉ、今頃〜っ!」
駆けて来たロジェリンを、あっという間に町の者達が取り囲んだ。
「何をやっとったんじゃ、お前は? ラディもエルも、もう発ってしまったぞ」
ウィスカードは眉間を寄せながら、遅れて現れた弟子を残念そうな表情で叱る。
「いや、それよりもお前、その出で立ちは..」
見れば男装姿のロジェリンはマントを纏い旅支度をしている。
「師匠、あたしは若先生とエルに付いて行くよ」
「何じゃと!?」
ウィスカードは素っ頓狂な声を上げた。
「正気か!? 店はどうするのじゃ?」
「師匠にやるよっ。売るなり何なり好きにしておくれ。せめてもの孝行だよ」
ロジェリンは晴れ晴れとした笑顔で言うと、店の権利書をウィスカード老に押し付けた。町人達は皆、呆気にとられている。
「何を言うか馬鹿者が。大体、親には何と言うのじゃ?」
「あたしはとっくに親子の縁を切られてるんだよ、師匠」
言うやロジェリンは、けらけらと声を上げて笑う。
「でも、そうだね。もしも親父が何か言って来たら、よしなに伝えておくれよ」
「本気か?」
「勿論」
ロジェリンは迷いも見せずに頷くと、俄に表情を改め姿勢を正した。
「師匠、お世話になりました。お体、お厭い下さいますよう」
騎士らしい口調で言うと、ロジェリンはウィスカードに頭を下げた。周囲からは困惑の声が飛ぶ。
「皆も元気でね!」
明るく言い放つロジェリンに、ウィスカードは再び溜息を零す。
「頑固なお前の事だ。止めても聞く耳持たんのであろうな....。この権利書は、お前が戻るまで預かっておこう。それ故、いつか必ず戻って来い、ロジェリンよ」
その言葉に、しかしロジェリンは頷きはせず、いきなりウィスカードに抱きつくと頬に別れの口付けを降らせた。
「じゃあね、師匠! 皆! 又会う日まで!」
ロジェリンは笑顔でエデワの人々の顔を一人一人見渡すと、潔く背を向け一度も振り返る事無くエデワから颯爽と駆け去った。
「やれやれ、慌ただしい奴じゃ」
後には、力無い声で毒突く寂し気なウィスカードと、町の人々が取り残されたかの様に佇んでいた。
「貴方があれ程、子供に好かれる質だとは知りませんでした、殿下」
ファランギスの言葉に、ラドキースはただフッと笑いを洩らしたのみであった。心を決めたラドキースの行動は速かった。季節が既に秋へと移り変わろうとしている事も原因していた。大陸中原から北方地域にかけての冬の訪れは速い。馬での早駆けで行くならまだしも、馬はファランギスのユクラテ一頭のみ。新たに乗馬を手に入れようにも高額である馬を買える程の金子などある筈も無い。徒歩で、しかも子連れの旅ともなればその旅足も遅くなろう事は必然的であり、途中大きな山脈を越えて行かねばならない長旅を冬将軍の訪れ前に終える事を目的とすれば、一日たりとも無駄には出来なかったのである。その為、あの様に慌ただしくエデワを後にせざるを得なかった。
ラドキースはしょんぼりと肩を落としている娘を見下ろした。エデワに滞在した四年近くもの間、毎日の様に顔を合わせていたロジェリンに、エルは実に良く懐いていた。そのロジェリンに別れを告げる事もせずに旅立って来た。娘の心の内を思うとラドキースの胸も痛んだが、この先の事を思えば致し方も無かった。
「エル、元気を出せ。生きておれば再び会う機会もあろう。ロジェリンにも事情があったのだ」
エルは父を見上げ、力無くこくりと頷いた。だが大好きなロジェリンに見送ってもらえなかった事が、少女には酷く悲しかった。俯きながらラドキースに手を引かれて歩く少女の萎れた姿に、ファランギスも後ろめたさを禁じ得ず、気がかりそうな瞳を向けていた。
そんなファランギスに、ラドキースは気にするなとでも言う様に目で合図を送り、そして、ふと何かを感じたのか後ろを振り返った。
「......」
ラドキースは足を止めた。釣られて足を止めたエルとファランギスも、ラドキースに倣って後ろを振り返る。朝靄のなかに薄らと、こちらへ駆けて来る人影が見えた。
「あっ!」
一目散に駆けて来る何者かの、宙に躍る髪が紅葉したハゼノキの如き鮮やかさである事が見て取れた時、エルは声を上げ一瞬にして顔を綻ばせていた。
「ロジェリンっ!!」
エルは父親の手を離れると駆け出した。目も覚める様な赤毛の美女は、あっという間に追いつくと満面の笑みで両手を広げて駆け寄る少女を抱きとめた。荒い息で膝を付きながらも、ロジェリンは笑顔のままエルをぎゅっと抱き締めた。
「もう、もう会えないかと思った、ロジェリンっ!」
言うやエルは、とうとう泣き出した。
「泣かないで、エル。あたしも一緒に行く事にしたから」
ロジェリンの優しい口調にエルは、小さくしゃくり上げながら顔を上げた。濡れた瞳は見開かれている。
歩み寄って来るラドキースに、ロジェリンは立ち上がった。
「そのなりは? ロジェリン...」
明らかに旅支度であるロジェリンの出で立ちに、ラドキースは内心戸惑う。
「あたしも連れてっておくれ、若先生」
間髪入れぬロジェリンの言葉にラドキースは小さな息を吐き、後方で愛馬と共に立ち止まったファランギスは片眉を上げた。
「すまぬが、断る」
ラドキースは静かに拒絶した。
「何故さ? あたしが足手まといになるとでも思うのかい?」
「そういう分けではない」
「じゃあ何故さ? 若先生」
「お前こそがエデワの人々にとっては必要な者であろうに」
「もう決めたんだ。若先生達に付いて行くって」
「祖国を捨ててか? 戯けたことを...。お前を連れて行く事は出来ない。帰れ、ロジェリン。行くぞエル、ファランギス」
ラドキースはロジェリンに背を向け歩き出す。
「若先生が何て言ったって、あたしは付いて行くよ」
ロジェリンも後に付いて歩きながら、頑として考えを曲げるつもりの無い旨を訴えた。
「迷惑だ。聞き分けろ、ロジェリン」
「嫌だね。迷惑だって言うなら、その理由を言ったらどうだい? 若先生」
「長旅だ。危険も伴おう。それが理由だ」
「そんな事、承知の上だよ」
「こちらは迷惑だと言っている」
それまでのラドキースらしからぬ厳しい拒絶の態度に、ロジェリンは我知らず歩を止めていた。エルはどうして良いかも分からず、濡れた瞳を拭う事も忘れてその場に立ち尽くしている。
「ならば尋ねるが、お前は何故共に行きたいと望む?」
ラドキースは歩みを止め、背後のロジェリンを振り返る。しかしロジェリンは唇を噛み俯いて答えようとしない。そんなロジェリンの様子に、傍観していたファランギスは俄に哀れみを覚えて密かに溜息を洩らした。
(そんなの、貴方に惚れてるからでしょうに、殿下...)
そんな思いを危うく口に出しそうになりながら、ファランギスは密かに口元を押さえた。何と酷な事を尋ねるのかなどと内心思いながら、ファランギスはすぐに考えを改める。あの堅物な王子の事、恐らくはあの美女の気持ちになどてんで気付いてはいないのであろうと。
「確たる理由も無しに祖国を捨てたりするな。ではな、ロジェリン、達者で」
ラドキースは酷な程に、きっぱりとロジェリンを切り捨てると、再び背を向け歩き出した。ロジェリンが弾かれた様に顔を上げる。
「待って!」
ロジェリンが意を決したかの様に口を開いた。
「あたしが若先生達に付いて行こうと決心したのは、若先生になら仕えてもいいと思ったからだ!」
「仕える?」
ラドキースは訝し気に呟くと、数歩進んだ処で再び足を止める。
「若先生があたしを迷惑だって言う理由は、若先生の正体のせいなんだろう? だからあたしを連れて行けないって言うんだろう?」
ロジェリンは、思い詰めた様な表情で言葉を吐き出していた。