第四章 風の盟約(10)
ラドキースは無言のまま再び娘を胸に抱き寄せると、総てを語るべき時が来たのだと悟った。
「いつかはお前に語らねばならぬ時が来るのであろうと覚悟はしていた。どうやら今こそがその時であるらしい....」
「父様?」
エルは不思議そうに父親を見上げた。そんな娘に対し、ラドキースは静かに口を開いた。
「西のユトレアという国を知っおろう? エル」
「はい、父様。三つに分かれている国でしょう?」
エルが答えれば、父は低く肯定した。
「そのユトレアが、私の祖国なのだ」
エルは驚きの表情を隠せず瞳を見開いた。父の祖国がユトレアだという事よりも、父の口から祖国の事が語られ始めた事にエルは驚いたのだ。
「お前が生まれる前の事だ。西のユトレアは、現在の様に三分割されてはおらず一つの王国であった........。私は、そのユトレア国王の次男として生を受けた。だが兄は私が生まれる前に幼くして毒害されたのでな、私は事実上、王の嫡子として生まれた事になる」
「王の嫡子?」
頭から降って来た静かな父の言葉を理解するのに、エルは暫しかかる。
「私は、嘗てユトレアの皇太子であった。そして、お前の母はハーグシュの王女であったのだ」
俄には信じられない両親のその出自に、エルは言葉も無く父の遠い目をそっと見上げた。
「お前の母が十二、私が十五の時、ユトレアとハーグシュは私達の婚約を正式に結んだ。お前の母は十六で成人した折りに、両国の政の一環の為ユトレア皇太子妃として私の元に輿入れする予定であった。だが、それより前に両国間で戦が起こった。当然婚約は反故となった。そしてお前の父は皇太子であった故、国軍を率いて戦に行った。私は、私の元に嫁いで来てくれる事を心待ちにしていたハーグシュの姫君の敵となった。お前の母の敵となったのだ」
淡々と続く話に、エルは息を詰めたまま聞き入った。
「戦が起こってより五年、お前の父の率いた王国軍はハーグシュ王都を陥落せしめ、そこにお前の母の祖国は滅びた。ユトレアはお前の母の父も五人の兄達も、その他のハーグシュ王家の男達も皆、命を奪った。そしてお前の母は戦利の証として敵であった私の元に嫁がされたのだ。その時、彼女は十九であった。哀れであった。自害しようとした事さえあった。皇太子妃となりながら、その実、自室の外へは一歩たりとも出る事を許されぬ囚人であった。国を滅ぼされ、父王や兄王子達の命を奪われ、母妃は自害へと追いやられ、自身は敵の王子に無理矢理嫁がされたセレーディラが哀れでな....、私はハーグシュの残党が動きを見せ始めた折りにファランギスの助けを借りて、セレーディラをユトレアから逃がしたのだ。それが何を意味したか分かるか、エル? 裏切りだ」
「父様....」
「一国の皇太子という身でありながら、私は祖国を裏切ったのだ。そして大罪人として捕われた。無論廃嫡されてな。そして王女を取り戻したハーグシュの残党は、その後間も無くユトレアに対し決起した。お前の母の名の元に散り散りになっていたハーグシュの民は集まり、又、スラグ王国とエドミナ王国がハーグシュと同盟を結び参戦した。私が幽閉されている間に、あまりにも呆気無くユトレアは落とされた。お前の母は国を取り戻し、そこにユトレアは滅びた」
エルはいつしか父に縋り付いて泣いていた。ラドキースは娘の背を撫でてやりつつも、黒曜石の様な瞳は依然空に向いていた。その口調も穏やかに流れる清水の如くであり、激する事も無かった。
「王都が落とされたその日の夜更けに、お前の母は獄中の私の元を訪れた。そして私の剣を差し出しながら共に逃げろと言った。折角国を取り戻し、これからそれを治めて行かねばならぬ身であったというのに、お前の母はそんな事を言ったのだ。私はとうに死の覚悟など出来ていた故、一度はそれを拒んだ。セレーディラの将来を奪う事など出来よう筈も無かった故な。だがお前の母は...、私が死ねば後を追うと言ったのだ.....。ハーグシュは取り戻したから、もう良いのだと....。治める者なら他にもいると....。総てを捨てて私と共にいたいのだと言ってくれた。私さえ側にいれば他の事などどうでも良いと、お前の母は私にそうまで言ってくれたのだ。だから共に逃げた。私が嘗て、お前の母の為に国を裏切った様に、お前の母も私の為に国を裏切り総てを捨てたのだ.....。祖国への裏切りを憶えば心苦しい。だが、あの時王城からセレーディラを脱出させた事も、ユトレア滅亡の折り彼女と共に身を眩ませた事も、そしてエル、お前を得た事も、私は何一つ悔やんだ事は無いのだ」
ラドキースの言葉はそこで途切れ、後にはエルのしゃくり上げる小さな声だけが流れた。
程近い処に、いつの間にかファランギスが立っていた。その頬には涙が伝っていた。
『やはり、戦を起こさねばならぬのか....私は.....』
どれ程の沈黙の後であったのか、泣きじゃくるエルを片手に抱きながら、ラドキースは乳兄弟へ目を向ける事も無く、独り言の様に母国語で呟いた。ファランギスは足早に近付くと、ラドキースの傍らに跪いた。
『命ある限りお伴します、殿下』
ラドキースは哀し気な瞳を、傍らで頭を垂れる乳兄弟へと向けた。
ロジェリンは激怒していた。ものすごい剣幕でファランギスに掴み掛かかり、責め立てた。
「許さないよっ! 若先生とエルを連れ出そうだなんて、絶対にあんたを許さないっ! この疫病神っ!」
「これ、よさぬか、ロジェリン」
見かねたウィスカードが止めに入る。
「師匠は良いのかい? エルも若先生も、いなくなっちまって良いのかい!?」
「良くは無いが仕方が無いじゃろうが....。ラディにも都合があるのじゃ」
「若先生っ! 皆、若先生が必要なんだ! エルがいなくなったら寂しいよ! 何故行かなけりゃならないんだよ!?」
「すまぬ、ロジェリン。退っ引きならぬ理由が出来たのだ」
ラドキースは理由は語らず、ただ忍耐強く詫びるばかりであった。酷く責められながら神妙な表情を保ったままのファランギスは言葉を返す事もせず、その隣ではエルが今にも泣き出しそうな表情で項垂れていた。
「あんたを心の底から恨んでやるからっ!」
ロジェリンは翠緑の瞳に涙を溜めながらファランギスに捨て台詞を吐くと、長いスカートを翻して駆け去った。
「やれやれ、聞き分けの無い奴じゃ。許してやってくれ、ファランギス殿。あれの気持ちも痛い程分かる」
「はい、老師殿」
ファランギスは心做しか申し訳無さそうに頷いた。
「誠に明日一番で発つのか? ラディよ」
「はい」
「何とも急な事じゃな...」
老師は淋し気に呟いた。
「引き止めたいが、それでも行くのじゃろう? お前達は」
「すみません、老師」
頭を下げるラドキースに、ウィスカードは分かっているとばかりに頷いた。