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ユトレア年代記  作者: 秋山らあれ
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第四章  風の盟約(9)






 ファランギスは、主君とその姫君が出掛けるといそいそと家の掃除をし、洗濯などをし、夕食の仕度の為に市場へ買い物に出掛けるという生活を繰り返す事となった。

 やれやれ名門貴族であった筈の自分が、これではまるで市井の主婦の様だと内心苦笑しながらも、ファランギスの心は軽かった。この長年に渡り抱え続けて来た屈託が消えたのだ。乳兄弟であり彼の唯一の主君と、健やかに成長しているその姫君の無事な姿をとうとう見出した。彼等の安否を気遣い、それまでどれ程の眠れぬ夜を過ごした事か....。しかし本当の問題はこれからなのである。


 その日もそんな思いを胸に歩いていると、突如殺気立った視線が背中に突き刺さるのを感じた。視線を廻らせれば予想を裏切られる事無く、もの凄い眼光でファランギスを睨む、目の醒める様な翠緑の瞳にぶつかった。

 (やれやれ、又か...)

 ファランギスは心の内でぼやきながら、先日の昼下がりの出来事を思い起こした。思わず苦笑が沸き起こる。



 先日も、こんな風に背中に殺気を感じ身を翻すと、ものすごい目つきでこちらを睨む美女が立っていた。しかし...、目が合ったと当時に美女の眼光が何故か緩んだ。途端に戸惑う様な不思議そうな表情で首を傾げた美女は、数度瞬きをした。そして又、ファランギスの方でもそれまでとは打って変わった赤毛の美女の意外な姿に、榛色の瞳を丸く見開いた。

 「これは、ロジェリン殿...。今日は随分と勇ましい姿だな」

 驚きながらもファランギスは努めて笑顔を見せたが、相手からの反応は無い。

 「.....」

 見事な巻き毛を後頭部の高い位置で一つに括った男装姿のロジェリンは、言葉を失っている。無理も無い。昨日の無法者の様な髭面のファランギスと、身なりを整え騎士然とした今のファランギス、どうひいき目に見ても同一人物には見えないのだ。

 「....若先生の、乳兄弟殿か?」

 「ああ、如何にも」

 「本当に?」

 「ああ」

 ファランギスの肯定と共に、訝し気であったロジェリンの翠緑の瞳が据わった。

 「大した変装だな」

 「それはどうも。貴女こそ、大した変わり様だ」

 「悪いか?」

 喧嘩腰の答えが跳ね返って来る。

 「その姿...。貴女も道場に通う身か?」

 「悪いか?」

 「悪いとは言っていない」

 そんなやり取りが、延々と続いたのだ。 


 

 「ちょいと、何ニヤついてるんだい? 気持ち悪いね」

 今日もチュニックに長剣を下げた男装姿のロジェリンが、腕を組みながら刺々しい声をかけて来る。あれから毎日の様に、ロジェリンはファランギスの姿を見付けては突っかかって来る。

 「今日も可愛く無いな。そんなんじゃ男が寄って来ないぞ」

 しかしファランギスもファランギスで、何か言われれば軽い調子で皮肉を返すものだから始末に負えないのだ。案の定、美女の目が吊り上がった。

 「可愛く無くて結構! 男が寄って来なくて結構! とっくにとうが立ってるよっ! ふんっ!」 

 「そこまで言ってないだろうが...」

 ファランギスは呆れながら再び歩き始める。すると何故かロジェリンも後から付いて来る。

 「それで、一体いつまでエデワにいるつもりなんだい?」

 「さあ...? 若先生に聞いてくれ。私にも分からない」

 ファランギスは屋台に山と積まれた様々な野菜を物色しつつ答える。

 「若先生とエルは渡さないよ。連れ出そうなんて、絶対に許さないからね」

 美女のドスのきいた低い声に、ファランギスはにやりと意地悪く笑った。

 「成る程、それで貴女は私にきつくあたるのか? 成る程」

 「何さっ、にやにやするな、気持ち悪いって言ってるだろうが」

 「若先生に惚れてるのだろう?」

 ファランギスはロジェリンの耳元に囁いた。

 「なっ!? 何を言うかっ! ど阿呆っ!!」

 「顔が赤いぞ。そうか、そうか。男やもめの若先生は、顔も性格も良いもんなあ。だが、貴女のその性格は絶望的だな。若先生は、もっと優しく嫋やかな女が好みだぞ。まあ、せいぜい頑張れ、無理だとは思うが。ではな」

 ファランギスはくるりと踵を返した。

 「ちょっと、待てっ!」

 ロジェリンの怒りの声にファランギスが振り返ると、拳が飛んで来た。遠巻きに様子を伺っていた恐いもの見たさの見物人達が一斉に目を覆った。しかし案に反して、当然響くかと思われた音は聞こえて来なかった。人々が恐る恐る目を開けてみると、そこには猛烈に怒っているロジェリンと、その手首をがっちりと掴んでいるファランギスの姿があった。

 「放せ、放さんかっ!この、ど阿呆!」

 「だめだめ、暴力を振るう女も若先生の好みじゃない。私もごめんだ。ではな」

 ファランギスは実に意地悪い笑みを残してさっさと行ってしまった。

 「くそっ! 覚えてろっ....! 何、見てんだいっ!」

 ロジェリンに怒鳴られ、見物人はさっとちりぢりに散った。





 『私は諦めません。貴方が決心なさるまで、私もここにおります』


 その宣言通り、乳兄弟は再会を果たしたその日からラドキース父娘と共に暮らし始めた。ラドキースの方も、それをごく自然の事と受け止めていた。物心付く以前からラドキースの遊び相手を務めていたファランギスは、昔から実の親兄弟以上にラドキースの近くにいたのだ。十二年の空白があろうとも、この小さな家に共に暮らす事に何ら違和感など湧かない。

 ラドキースの乳母を務めたファランギスの母は、元々はラドキースの母の側仕えであった。それが、たまたま王妃と同じ時期に身籠った。彼女は臨月も近くなった頃に城を辞し、ファランギスを産んだが、王妃の信任の厚かった彼女は、その後間も無く城へと呼び戻される事となった。そしてほんの数ヶ月の後に誕生した皇太子の乳母の役目を任される事となった。尤も、一国の王子の乳母ともなれば一人とは限らず、複数の女達がその役を仰せつかった。乳を与える者、身の世話をする者、そして養育役の筆頭となる乳母...それが当時のエトラ・ファーガス家当主の奥方であった。そして、エトラ・ファーガス家の跡取りである乳母の息子を、王妃は好んで息子の遊び相手にさせ、共に学ばせたのである。


 ファランギスがラドキースに対し誠実で無かった事などない。だが己はどうだ? ラドキースは自問する。

 

 『ユトレアの民を見捨てるんですか? 虐げられている者達を?』


 胸を突かれる様なファランギスの言葉が、繰り返し木霊していた。ラドキースの瞳は娘の姿を追う。他の子供達に雑じり素振りをしている娘には、何の屈託も無い。

  

 「どうした、ラディよ?」

 突如、物思いを打ち破られた。途端に道場内の喧噪が耳に飛び込んで来る。

 「老師...」

 いつの間に道場に入って来ていたのか、ラドキースのすぐ傍らにはウィスカード老の姿があった。

 「この処、心ここにあらずだな。お前らしくも無い。あのファランギス殿とやらのせいか?」

 ウィスカードの気遣いに、ラドキースは否定しかけて思いとどまる。この老師には、ごまかしなど通用しない。

 「稽古は代わろう。少し表で考えて来るがいい」

 「しかし...」

 「良いから、行け、行け」

 「はあ...。忝い、老師」 

 しっしと手を振られ、ラドキースは素直に頭を下げると表へと出た。庭の木の根元に座り寄りかかると、涼しい木陰から夏の終わりの青空を見上げた。


 『立ち上がって下さい』


 再びファランギスの言葉が甦る。

 「私に...戦を起こせと言うのか...?」

 ラドキースは呟き目を閉じる。 

 

 『貴方だけが我々の唯一の希望なんですよ!』


 ラドキースは迷う。どうすべきなのか...。

 自身が呪わしくなる。この出生が呪わしくなる。何故娘と二人、静かに暮らす事が許されないのか....。

 

 「父様? 寝ているのですか?」

 娘の声にラドキースは目を開いた。心配そうな瞳がこちらを見ていた。

 「おいで、エル」

 手招くと、娘は駆けて来て父親の隣にちょこんと腰を下ろした。

 「どうしたの? 父様? 具合が悪いの?」

 「いや、物思いに耽っていただけだ」

 ラドキースは娘を安心させる様に、微笑みその小さな肩を抱き寄せた。

 「どんな考え事をしていたの? 父様?」

 「お前といつまでも静かに暮らしたいと...」

 少女はくすっと笑って父親の胸に抱きついた。

 「エルはずぅ〜っと父様の側にいます。だから安心して」

 そうか...とだけ呟き、ラドキースは口を噤んだ。時折吹く穏やかな風にのって道場の喧噪が届く。


 エルは思う。父の様子がいつもと違うのは、あの父の乳兄弟であるファランギスのせいに違いないと。

 父の家は騎士の家であったのだとエルは信じていた。その様なものだったと父が嘗て語ったからだ。だが父が過去をあまり語りたがらない事を、エルは幼い頃より知っていた。そこへ父の家臣だというファランギスが現れた。父の物思いの種は、きっとファランギスのせいに違いない。


 「エル...」

 父がエルの頭を撫でながら口を開いた。

 「例え話をしよう」

 「例え話?」 

 「ああ」

 父の腕の中でエルが顔を上げると、父は遠い瞳をして青空を見上げていた。

 「お前が、さる国の王女であったとしよう。ある日、戦が起きてお前の祖国は滅ぼされてしまう。王であるお前の父は殺されるが、嫡子であるお前は幸い逃げ延びるのだ」

 父は、そこで一旦言葉を切った。だが、その漆黒の瞳はどこか遠くへと馳せられたままエルへと向けられる気配は無かったので、エルは再び父の胸にぽてんと頭を預けた。

 「そしてお前は総てを捨てて、新たな土地で穏やかな生活を手に入れる」

 父の静かな声は続く。

 「今の様な? 父様」

 「....ああ...、今の様な..な」

 父の返答には、暫し間があった。

 「だが...他国に滅ぼされたお前の祖国の民達は、虐げられ重税に苦しんでいる....。お前なら、どうする? エルよ....。そのまま見過ごすか? それとも戦を起こして、祖国を取り戻すか?」

 父の、まるで寝物語を語るかの様な口調にエルは素直に考え込む。

 「お前の国の民達は、どちらにしろ苦しむのだ。お前が国を取り戻さねば、民達は敵国からの仕打ちに苦しみ、お前が戦を起こせば、やはり一番苦しむのはお前の民達であろう。敵国は更に重い税をお前の民達に課すであろうし、男達は更に重い労働を課せられる事になるであろう。兵に徴収されるやもしれぬ。お前はどうする?」

 「う〜んと.....」

 エルは少しの間考え込むと、父の腕の中で顔を上げた。

 「国を取り戻す為に戦を起こせば、祖国の民は苦しむけれど、何もしなければ民は敵国からの重い税金にずっと苦しむのでしょう? それなら、民の為に国を取り戻してあげる」

 「平穏な生活を捨ててもか?」

 ラドキースはエルの頭を撫でながら尋ね、エルは迷いも見せずに頷いた。 

 




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