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ユトレア年代記  作者: 秋山らあれ
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第四章  風の盟約(8)

* 文中の『 』は、ユトレア語での会話とお考え下さい。







 『酷い格好だぞ。尤も、その姿なら誰にもエトラ・ファーガス家の当主だと見破られる心配は無さそうだが』

 『はい。仰せの通りです、殿下。まあこれは言わば変装というやつですよ』

 『どうだか....、とにかく湯を使ってさっぱりしろ』 

 乳兄弟の軽口を苦笑と共にあしらい、ラドキースは彼の為に湯の仕度をしてやった。

 ファランギスは主君自ら用意してくれた湯を浴び、無精髭を綺麗に剃り、伸び放題であった髪を切り整えた。そして主君の衣服を借りて身に着けると、台所にいた主君と姫君の姿を見出した。主君はといえば、椅子に座り長い足を組みながら愛娘と共に楽しそうに芋などを剥いていた。


 「何だ? いちいち驚くな。私にだって芋の皮くらい剥けるぞ」

 戸口で固まって榛色の瞳を見張る乳兄弟に、顔を上げたラドキースはさらりと言う。

 「よもや...、貴方のそんなお姿を目にする日が来ようとは夢にも思いませんでしたよ、全く....」

 困惑顔を横に振りながらファランギスが父娘の元へ歩み寄ろうとすると、不思議そうにこちらを見上げている愛らしい黒の双眸とぶつかる。

 「エル様? 如何なされましたか?」

 「ファランギス伯父様なの?」

 「は...?」

 「別の人かと思っちゃった」

 目を丸くしている娘の一言に、ラドキースが肩を震わせて笑い出した。先程までの髭面とは打って変わったつるりとした頬に、背に垂らされた洗い髪も短くなっている。粗末ではあったが、清潔な衣服に着替えたファランギスは、先程よりも数十歳程若返っている。

 「誠、別人だな。お前の変装とやらも大したものだ、ファランギス」

 「若先生....、そんなにお気に召して頂けましたか、私の変身が....?」

 ファランギスの、年の割にはつぶらな瞳が据わった。

 「ああ。見事だ。なあ、エル?」 

 ファランギスの不満気な表情に気付いているのかいないのか、否、間違いなく気付いているラドキースは、さりげなく素直な娘に意見を求める。

 「はい、とっても、父様」

 父親の期待を裏切らずに、エルは黒い瞳を丸くしたまま大きく頷いた。


 心底驚いているらしい小さな姫君と、心底面白がっているらしい主君の様子に、ファランギスは複雑な思いを抱いた。心から喜んで良いものかどうか。しかし、主君が声を上げて笑う事など珍しい事であった。少なくともファランギスの知るラドキースは、滅多な事では声を上げて笑う様な真似はしなかった。それが十二年の時を経た今、彼が楽しそうに笑っている。


 「実に、貴重なものを見せて頂いている気がします」

 「ん? 私が芋を剥いているところか?」

 笑いを納めたラドキースが尋ねると、ファランギスは歩み寄りながら意味ありげな笑みを主君へと向けた。

 「まあ、それも含めて...。さて、私もお手伝いしましょうか」

 ファランギスはバケツから芋を掴んで軽く放ると、手近な椅子に腰をかけて自身の小刀を抜いた。

 「お客様なのに、手伝ってくれるの? ファランギス伯父様」

 「私は、客ではありませんよ、エル様」

 「違うの?」

 首を傾げる少女に、ファランギスは笑顔のままきっぱりと否定する。

 「それから、貴女に “伯父様” と呼んで頂くのは、大変心躍る事なのですが.....」

 そこでファランギスは、何やらうっとりとした表情で言葉を切る。

 「しかし “様” は不要です」

 「でも、ファランギス伯父様も、私の事を “エル様” って呼ぶでしょう?」

 「それは、私が貴女の臣だからです」

 「 “しん” ? 家来の事?」

 「そうです」

 「本当? 父様?」

 エルは答えを求めて父を見上げた。しかしラドキースは、娘には答えずに乳兄弟へと恨めし気な目を向ける。

 『余計な事は言ってくれるな、ファランギス』

 『余計な事だとは思いません、殿下』

 『私は最早、お前を臣だなどとは思っていない』

 『ですが、私は思っています』

 にやりと笑ってみせるファランギスに、ラドキースは溜息を零す。そんな大人達の様子をエルは不思議そうに見上げている。


 「エル様、本当ですよ。私は生まれた時から、乳兄弟として父君のお傍近くに仕えて参りました」

 「昔の話だ、エル」

 「いいえ、今でも変わりません、エル様。父君が何と仰ろうと、私は父君と貴女の臣です」

 エルは大人達の板挟みになり、何と答えて良いか分からなくなる。


 『忘れろ、ファランギス』

 『ご冗談を』

 『お前は独り身なのか?』

 『はい』

 『ならば、所帯を持って己の幸せを考えろ』

 依然激する事も無いラドキースの言葉は、静かに相手を突き放そうとする。 

 『......私の幸せなど』

 ファランギスが真剣な表情を露にする。

 『祖国再建が適うまではありえません、殿下』

 苦し気に紡ぎ出された真摯な言葉がラドキースの胸を突き刺した。榛色の眼差しに揺れる苦悩と哀しみがファランギス一人の物ではありえない事くらい、ラドキースにも分かっていた。そして彼等が己に望んでいる事も、無論分からぬ筈など無かった。 

 『戦...か? 一体どれ程の者達がそれを望み、どれ程の者達がそれを望まぬであろう...?』

 『分かりません。ですが苦しむ民達が、解放を願う民達がいる事。貴方の生存を信じ、いつか祖国は取り戻されると信じている者達がいる事だけは確かです。』

 ファランギスは目を伏せた。


 張りつめた空気にエルは居心地が悪く、大人しく芋の皮を剥きながらも大人達の様子を伺っていた。言葉は分からずとも、雰囲気のおかしい事くらいは分かる。

 エルは場の空気に敏感で、やたらと周囲に気を使う子供であった。幼い頃に母が病に倒れた事が原因していたのかもしれない。

 憂いを帯びた父とその乳兄弟の表情へと、エルは時たま盗み見る様に目を向けた。そして幾度盗み見た時であったか、鋭い痛みにエルは思わず小さな声を洩らし、手から剥きかけの芋を取り落としていた。

 「どうした、エル? 切ったのか?」

 赤い血の吹き出た親指に咄嗟に口を寄せる娘に、父も彼の乳兄弟もすぐに反応した。

 「大丈夫ですか、エル様? 傷口を洗いましょう」 

 惨めな思いで頷くエルに、ファランギンスは優しく微笑んだ。 

 あっという間に傷を洗われ薬を塗られ、包帯を巻かれた。

 「痛むか?」

 父の優しい声に、エルは笑顔で首を横に振る。

 「いいえ、父様。ほんのちょっと切っただけだもの」

 大人達の間の張りつめていたものが霧散し、楽に呼吸が出来る様になった事に、エルはほっとしていた。

  




 夕食の後、エルが寝てしまうとラドキースとファランギスは、二人静かに葡萄酒の杯を傾けていた。

 『ハーグシュとスラグの仲が思わしく無い事をご存知ですか、殿下?』

 『いや。そんな話はここまでは届いて来ない』

 ファランギスの切り出した話題に、ラドキースは表情を変えもせずに答えた。

 『条約の不実行、分割後のユトレアの領地争いと、理由は複数ある様です』

 『人とは、どこまでも貪欲になれるものだからな』 

 ラドキースは皮肉な笑みを洩らした。

 『仰せの通りです。近々、また戦になるやもしれません、殿下。戦が起これば戦地はユトレアになる可能性も大きい。ユトレアの民も征服者達の戦に駆り出されるでしょう。今でさえ彼等は重税に喘いでいる。スラグ領に至っては、奴隷として過酷な労働に使役されていると。生きて行けずに死ぬる者も多いと聞いています』

 ラドキースは聞いているのかいないのか、何も言わない。

 『トーラン将軍やハイデル始め、ユトレアの残党は、決起に向けてずっと活動を続けて来ています。皆、ユトレア再建の為に涙を飲んで耐えています。皆、貴方を待っているのです、殿下』

 『何が言いたい?』

 『立ち上がって下さい』

 押し殺した様な声と共に、ファランギスが恐ろしく真剣な眼差しで懇願した。

 『貴方が立ち上がって下されば、同胞は更に集まります』

 『断る』

 『貴方だけが我々の唯一の希望なんですよ、殿下!』

 『私は、国を捨てた身だ、忘れたか?』

 ラドキースは鋭くファランギスを見た。

 『私は国を裏切った身だ。忘れたわけではなかろう?』

 『ユトレアの民を見捨てるんですか? 虐げられている者達を? 貴方はエル姫の心配をしておられるのでしょう? エル姫は、ユトレアとハーグシュ両国の正統なる王位を継ぐべき血筋の姫だ。だから貴方は姫の為に逃げたいとお考えなのでしょう、殿下? ですがハーグシュがエル姫の存在を知らぬとでもお思いか? 姫の存在はとっくに知られています。ハーグシュは血眼になってエル姫の行方を追っている。貴方にお分かりにならないわけが無い。姫は、もうとっくに巻き込まれておいでなのですよっ』

 ファランギスのその内に押さえ込んだ叫びに、ラドキースは無言のまま瞑目した。


 ファランギスの言う事は痛い程に分かっていた。彼の指摘通り、エルを巻き込みたく無かった。娘の幸せだけが彼の願いであった。責められ様が罵られ様が、それまでのラドキースにとっては娘が総てであったのだ。それを、一体誰が責められよう。



 一体誰が責められよう.....。否、それが甘い考えである事など、ラドキースは無論心の奥深くより知っているのだ。王家に生まれた事を覆す事など所詮は出来ないのだと。その事により己にかけられた枷から逃げる事も、所詮は出来ないのだと....。どれ程に目を背け逃げ回ろうとも......。

 




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