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ユトレア年代記  作者: 秋山らあれ
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第四章  風の盟約(7)

* 文中の『 』は、ユトレア語での会話とお考え下さい。





 亡国の皇太子親子の約しい住居をファランギスは複雑な思いで眺めつつ、かつてのユトレア王城内の厩でさえ、ここよりは広かった事を思い起こす。調度も必要最低限の物しか置かれていないと見えた。実にささやかな住居であったが、掃除は行き届いておりこざっぱりと整っていた。

 この世に生を受けてより故国を出奔するまで、常に従者達や侍女達にかしずかれる立場にあった王子が、これまでどの様な生活を送って来たのか。ファランギス自身にとってでさえ、市井の生活に慣れるまでには様々な苦労があったのだ。ましてやラドキースならば、尚更の事であっただろうとファランギスは思う。そんな胸の内に過る思いに、彼は暫し捕われた。

 

 「エル、茶でも入れてくれぬか?」

 「はい、父様」

 「火を起こす時、気を付けるのだぞ」

 エルは、にっこり笑って頷くと、ぱたぱたと軽い足取りで奥へと駆けて行った。ファランギスは我に返る。

 『そんな事は、私が』

 慌て、小さな姫君の後を追おうとするファランギスを、ラドキースは静かに制し座る様に促した。

 『良いのだ。あれは何でも良くこなす。そうやって生きて来た。あれには何も話してはおらぬ。何も知らぬのだ。己の国も、言葉も、己の立場も。知らずにすむなら、その方が良い』

 『殿下.....』

 短い沈黙が流れる。ファランギスは、己と同様に十二年分の歳を経た主君の顔を見詰め、痛ましさで一杯になる。ともすれば表情に出そうになるそんな思いをごまかすかの様に、彼はマントを脱ぐと主君の向かい側の椅子に腰を下ろした。そして服の中から銀鎖を引っ張り出して、それを外した。

 『これを貴方にお返しせねば....』

 言いながら、鎖に通された指輪をラドキースの前に置いた。ラドキースは懐かし気な瞳でその指輪を手に取った。王冠に蔦の絡んだ剣の紋章。彼自ら捨て去った地位。彼自ら裏切った祖国。その祖国もとうに失われている。


 『ハイデルとカリナに会ったのだな?』

 『はい』

 『ウルゲイルとエヴェレットは?』

 『トーラン将軍は戦を生き延びました。ですがフォンデルギーズ卿は、敵に放たれた火矢に焼かれ討ち死にされたと....』

 『そうか...』

 指輪を見詰めるラドキースの漆黒の双眸が、微かに揺れた。

 『お前とウルゲイルだけでも.....、無事で良かった....』

 消え入りそうな声で呟くと、ラドキースは指輪をファランギスの前に置いた。

 『殿下?』

 『処分してくれ。私は総てを捨てた身だ。それは最早私の持つべき物では無い』

 『何を戯けた事を、殿下。ユトレアの民達は、貴方が立ち上がるのを今か今かと待っているのですよ』

 『ユトレアは滅びたのだ、ファランギス』

 『殿下!』

 『そして、私は裏切り者だ。忘れたか?』

 乳兄弟を真っすぐに見据えたまま紡がれたラドキースの言葉は、酷な物であった。ファランギスは、胸を強く突かれたかの様に顔色を失った。

 

 「はい、どうぞ。ファランギス様」

 言葉を失っていたファランギスの前に、良い香りの立ち上る器が置かれた。気付けば、傍らに微笑む少女の姿があった。

 「あ...、かたじけなく、エル様」

 愛らしい主君の娘の笑顔に、ファランギスも微笑みを返した。

 「ですが、エル様。私の事は、どうぞファランギスとお呼び捨て下さい。“様” は、不要です」

 少女は不思議そうに首を傾げたが、少しはにかんだ様子で 「いいわ」 と、答えた。そして父の前にも、茶の器を置く。

 「良い香りだ。お前は茶を入れるのが上手いな、エル」

 「父様よりはね」

 娘のこまっしゃくれた言葉に、ラドキースは静かな笑いを零しながらその頭を撫でた。

 「エル様の誠の名は、何とおおせになるのです?」

 ファランギスに尋ねられたエルは父を見上げた。物心付いた頃から、誠の名を人に告げる事を禁じられていたのだ。

 「告げても良いぞ、エル。ファランギスはお前からすれば伯父の様なものだ」

 「伯父様?」 

 「うむ。我らは生まれた時からの付き合いなのだ。実際彼は、私の大叔母の孫にあたる」

 エルは驚きに目を丸くした。何せ、縁戚に会うなど初めての事であるのだ。

 父ゆずりの黒い瞳を見開いて驚く少女のあまりの愛らしさに、ファランギスは思わず目を細めて微笑む。

 「父君のお許しを頂けました故、誠の名をお聞かせ下さいましょうか? エル様」

 「あ」

 少女は我に返ると、ぽかんと開いていた口を閉じて頷く。

 「エルディアラと申します」

 「エルディアラ...」

 礼儀正しく名乗る小さな姫君の名を、ファランギスはゆっくりと口に乗せてみた。

 「美しい響きだ」

 名を褒められた少女は、無邪気な笑みを満面に乗せた。

 「母様が、北方神話からつけてくれたのです」

 嬉しそうに話す少女に、ファランギスはふと昔を思い起こした。

 「そういえば昔、貴方はセレーディラ様に北方神話集を贈られた事がありましたね、ラドキース様?」

 「良く覚えているな、そんな他愛も無い事を」

 確認をとるかの様に尋ねられたラドキースは苦笑する。

 「お前は、神話の中のエルディアラがどんな娘か知っているか?」

 「いや、私は、神話の類いはあまり..」

 「父を裏切る娘の名だ」

 「え....!?」

 ファランギスは面食らう。

 「大丈夫よ、父様。エルは父様を裏切ったりしないから。エルは、ずっと父様の側にいるもの」

 縋り付いて来る娘の肩を抱きながら、ラドキースは可笑しそうに肩を竦めて見せる。

 「何故なにゆえ、セレーディラ様はまた、そんな....」

 普通なら娘に付ける様な縁起の良い名では無い。

 「母様はわたしが大きくなったら、母様のように本当に好きな人のお嫁さんになれるようにって、この名前をつけてくれたのです。ねえ、父様」

 娘に同意を求められたラドキースは笑いながら頷いてやると、娘をひょいと膝の上に抱き上げた。そして、乳兄弟の為に神の娘エルディアラの話を簡単に語ってやる。

 「はあ、成る程...」

 ファランギスは複雑な心境のまま頷いた。恋した青年の為に父を裏切った娘と、ラドキースの為に祖国を捨てたセレーディラの姿が重なる。我が子にそんな名を付けたハーグシュの姫君は、恐らく後悔など微塵もしなかったのだろう。

 (成る程....)

 ファランギスは、再度心の内でそう呟いた。

 『妃殿下がお隠れになられた事、人づてに聞きました。御遺体が三年程前にハーグシュに運ばれ、手厚い葬送の儀が執り行われたという事も』

 姫君を気遣いファランギスは母国語で告げる。

 『そうか...、では彼女は祖国に帰る事が出来たのだな。レワルデンのあの丘の上で独り寂しく眠るよりは良いであろう...』

 ラドキースもまた微笑したまま母国語で答えた。

 『お隠れになられたのは、いつ頃だったんです?』

 『五年前だ。病を得てな』

 『そうでしたか。もう、そんなになるんですか....』

 突如理解の出来ない言葉で話し始めた大人達に、エルは目を瞬いたが、父の膝の上に大人しく収まりながら茶を飲んでいた。その娘の頭をラドキースは撫で、そっと引き寄せ頬を寄せる。

 『これがいなかったら、私も今、ここいたか分からぬ』

 『殿下...』

 表情も変えずにさらりと恐ろしい事を吐露するラドキースに、ファランギスは胸を詰まらせる。

 『エル姫がおられて、本当に良かった』

 ファランギスの呟きに、エルが顔を上げた。父とファランギスの交わす言葉は理解出来なかったものの、自分の名前くらいは分かる。エルは自分の事を話されているのかと、父を見上げた。

 仲睦まじい主君親子の様子に、ファランギスは瞳を曇らせ、とうとう目元を被った。

 『どうした、ファランギス?』

 『殿下と小さな姫君が、不憫でなりません』

 『馬鹿な....』

 涙を零す乳兄弟にラドキースは低い笑いを零す。

 「私達は幸せだ。なあ、エル?」

 ラドキースが北方語で娘に尋ねれば、娘は大きく頷く。

 『国を捨ててからのこの十二年間、私はずっと幸せであった。セレーディラを失った時は絶望したが、それでも彼女の残してくれたこの娘がいたから私は救われた。不憫がってくれる必要など無い、ファランギス....。尤も、国を裏切り捨てた私が幸せだなどと、祖国を憶えばそれはきっと罪な事なのであろうが....』

 『何をおっしゃいますか! 貴方が妃殿下と共に王城から出奔された時、どれ程の同胞達が胸を撫で下ろしたと思うんです!? 貴方の出奔は、多くのユトレアの民達に希望を与えた。今も尚、多くの者達が貴方の生存を信じて希望を持ち続けているんですよ』 

 ファランギスの言葉の内の底知れぬ苦悩を理解しながらも、ラドキースはそれには答えずに、ただ瞳を伏せた。

 




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