第一章 終焉と苦悩、そして.....(2)
「ユトレア王国の皇太子殿下がお越しになられます。粗相の無き様に、お持て成しして差し上げるのですよ、セレーディラ」
「はい、お母様」
セレーディラは母の言い付けに素直に頷いた。
すぐ上の兄と同じ歳だというユトレアの皇太子は、兄よりも幾分大人びて見えた。堅くなっていたセレーディラに、皇太子は控えめな笑顔を見せた。そして跪き貴婦人に対する最上の礼をとった。セレーディラはどきどきしながら仕来りに従って右手を皇太子へと差し伸べた。
父も五人の兄達も皆、自分を子供扱いしかしなかったというのに、皇太子はセレーディラをきちんと貴婦人として扱ってくれた。
皇太子に手を引かれて庭園を散策した時、セレーディラは様々な事をこの皇太子に話して聞かせた。父と母の事、五人の兄達の事、可愛がっている真っ白な仔猫の事、他にも様々な事。そして又、様々な事を皇太子に尋ねた。皇太子は笑顔でそれらの問いに答えてくれた。
何て綺麗な顔の王子様だろうと夢見がちであった少女は思った。皇太子の黒い瞳は、まるで星の様だと思った。黒い星などあろう筈も無かろうに、その時のセレーディラには皇太子の瞳がきらきらと輝いて見えたのである。
その皇太子が少し照れた様な表情をして、優しく囁く様に少女に言った。
「私の妃になってくれぬか?」....と。
「そなたを迎えた暁には必ず大切にするから」.....と。
セレーディラは笑顔で答えた。
「いいわ、お嫁に行って差し上げます」....と。
少女はいっぺんにこの少年に恋をした。
視界がはっきりすると、そこはユトレア王城の自分に宛がわれている寝室であった。
(....夢.....)
セレーディラは深々と溜息を吐いた。
「気付いたか?」
深みのある低い声にセレーディラははっとする。少し離れた場所に置かれた椅子に皇太子は腰掛けていた。日は暮れかけており室内は薄暗い。夢の中の少年は微笑んでいた。そう七年前にセレーディラが出会った少年は、あの優しい微笑みが強烈に印象に残っているというのに、再会してからまだこの皇太子の笑顔を見ていない。笑ったらどんな顔になるのだろう...。セレーディラはぼんやりと考え、そして哀しくなった。
「私がそなたの寝間にいる事は許して欲しい。あの後すぐ、そなたは倒れたのでな」
(倒れた....)
もう幾日も水以外のものを殆ど口にしていなかったのだ、倒れたとしても不思議ではないだろう。セレーディラはのろりと起き上がった。ラドキースは立ち上がると、寝台の脇のテーブルから杯を取り上げセレーディラに差し出した。
「滋養の薬湯だ、飲んでおくが良い」
セレーディラはラドキースを見上げ、そして目を背けた。
「結構です」
ラドキースはハーグシュの姫を暫し見詰め、やがて小さな溜息を漏らすや手にしていた薬湯の杯を徐に呷った。そして杯を脇へ置くや両手でセレーディラの両頬を捕らえ、有無を言わさぬ力で持って彼女の唇を己のそれで塞いだ。
あまりの事にセレーディラは暴れ、幾度も拳を振り上げてラドキースを殴った。口の中に苦い液体が流れ込み、あまりの苦しさにとうとう彼女はそれを飲み下した。
唇を解放されるやセレーディラは激しく咳き込んだ。
「許せ」
言ってラドキースはセレーディラの背を擦ってやる。
「触らないでっ!」
叫び声と共に肌を張る音が鳴った。セレーディラの右手がラドキースの頬を打っていた。唇を震わせ、目には涙を浮かべながらラドキースを睨みつけているセレーディラに、彼は再度溜息を吐いた。
「食事を摂らぬと申すのなら、今の様に口移しで食わせてやっても良い。それを厭うなら自ら食う事だ。良いな、姫」
ラドキースは静かに言うと寝室から出て行った。セレーディラの口から嗚咽が漏れた。
「王女のご様子は如何でしたか? 殿下」
皇太子ラドキースの私室を訪れるなり、ファランギスはそう尋ねた。
「良いわけが無い」
布張りの長椅子に座りテーブルの上に長い足を投げ出していたラドキースは、入室して来た乳兄弟の姿に目を向けもせずに答えた。
「まあ、そりゃあそうでしょうが.....。お倒れになられたと伺ったので」
そう言いながらファランギスは、許しも待たずにさっさとラドキースの向かい側に座る。
「薬湯だけは無理矢理飲ませて来た。食事の方は摂る気になったかどうか分からぬ。自害しなければ摂るかもしれない...」
それだけ答えると、ラドキースは深々と憂鬱気な溜息を吐く。
「殿下」
「ん?」
ラドキースが顔を上げると、ファランギスが何とも言えない心配そうな瞳を彼に向けていた。そして何か言おうとして俯いた。
「いや.....、何でもありません」
ラドキースは、フッと小さく笑った。
「そんな顔をするな、お前らしくないぞ。気晴らしに剣でも合わせるか?」
ファランギスは両眉を上げると、にこりと微笑んだ。
「そうですね、良い考えだ、殿下」
二人は立ち上がると練武室へと向かった。
既に日が落ちていたので、練武室内にも灯りを焚かせた。それでもやはり日中の明るさとは比べ物にもならないその薄暗がりの中で、二人の青年は真剣に剣を合わせていた。この二人は練武の際も決して刃先を潰した訓練用の剣は握らない。この暗がりの中でも真剣での勝負であり、平気で寸止めをしてのける。この王国内でもかなりの腕の持ち主達であった。広い練武室に鋼のぶつかる音が鳴り響く。真剣を合わせている間は憂い事など考えずにすむ。否、考える隙など無い。首下に鋭く突きつけられた剣に、ファランギスは息を飲んだ。
「六本」
ラドキースがにやりと笑う。ファランギスは悔し気に表情を顰め、後ろに飛び退くと剣を構え直す。
「何のまだまだっ!」
叫ぶやラドキースに襲いかかる。もうどれ程、そうして二人は剣を合わせていた事か。夕餉の刻など、とうに過ぎている。ここまで来て既に二人の息も上がっていた。更に数合、金属音が響いた後、ファランギスは片手で額の汗を拭った。
「殿下? 腹、減りませんか?」
「減ったな、これ位にするか?」
「ええ、そうしましょう。腹が減っては何とやらです」
ファランギスの顰め面にラドキースは苦笑しながら、華麗な身ごなしで剣を納めた。
「殿下が六つで、私が四つか...。もうちょっとで五分五分だったのになあ」
ファランギスは大仰に溜息を吐いた。
「まあ、殿下から四つ取れただけ良いか...」
言いながら、皇太子の又従兄弟にして乳兄弟である彼は汗に濡れた榛色の髪を掻き揚げると、ちらりとラドキースの様子を盗み見た。そして皇太子の微笑む様子に少しだけ安堵した。
皇太子は言葉で言い表した事は一度も無かったものの、幼い頃から誰よりも傍近く仕えて来たファランギスは知っていた。皇太子がハーグシュの姫君にほのかな恋心を抱いていた事を....。その姫君に、この様な形で再会し、攻め滅ぼした国の戦利品としてその姫を娶らなければならないとは何と皮肉な運命であろうか。
翌日の昼下がり、ラドキースがセレーディラを訪れると、彼女はやはり窓辺に佇んでいた。人払いをすると彼は亡国の姫君へと歩み寄った。
「食事は摂られたか? セレーディラ姫」
皇太子の問いに、セレーディラは外に目を向けたまま微かに頷いた。幾日も胃に物を入れていなかった為に重い物は入らず、水溶状の粥をほんの少し食べただけであったが、食べた事にはかわり無い。
「そうか....」
溜息混じりの呟きであった。
「他の姫御方の件だが、皆、神殿に預けられる事となった。近々移されるだろう」
「左様ですか」
王妃とセレーディラの他に、セレーディラの従姉妹にあたる姫君が三人囚われとなっていた。まだ年端も行かぬ幼い姫達であった。神殿に移されるとはいえ、やはり監禁されるのであろう。男の兵士はいないと聞いていたが、神殿は霊力を持つ女戦士達に守られていると聞く。
「三人とも同じ神殿に移されるのですか?」
「ああ、取りあえずは。幼いうちは、ある程度の当人達の接触も許される筈だ」
セレーディラは少なからず安堵した。幾分ましであろう。
「それと婚礼の日取りが決まった」
「....左様ですか」
セレーディラは一瞬おいて相槌を打った。
「大々的には行わぬ。内輪だけの物だ。そなたをなるだけ見せ物にはしたくない」
セレーディラは振り返ってラドキースを見上げる。何かを言おうとして思い留まった。いや、実際には何を言おうとしたのかなど分からなかった。少女の頃、この黒い瞳を見て星の様だと思った事を思い出す。何故そんな事を思ったのだろうかとセレーディラは思う。こんなに哀し気な星など無いであろうに....。ふと、昨晩無理矢理唇を奪われた事を思い出し、セレーディラは見詰めていた黒の双眸から目を逸らした。
「今でも、神話は好きなのか?」
「え...?」
顔を上げたセレーディラにラドキースは手にしていた本を差し出した。
「昔、神話が好きだと言っていたであろう?」
セレーディラは本を受け取り見詰める。
「そんな....、昔の事を.....」
少女の頃に話したそんな他愛も無い事を、この皇太子は覚えていたのかとセレーディラは哀しくなる。
「北方神話集だ。慰みになるかもしれぬ。他に欲しい者があれば侍女にでも言うが良い。凶器になる物以外は届けさせよう」
静かな声音を残し皇太子が去った後、セレーディラは布ばりの椅子に背を預けながら、その神話集を開いた。北方言語かユトレア王国語で記された物かと思いきや、驚いた事にハーグシュ語で記された物であった。わざわざ取り寄せてくれた物なのか......。それから毎日セレーディラはその本を開いて過ごした。北方神話は少女の頃に読んだ事があった。だが、今改めて読んでみると、あの頃心惹かれた説話よりも少女の頃は全く興味を覚えなかった話の方に心惹かれた。北方神話の神々は非常に人間臭い。中でもセレーディラが強く心惹かれたのはエルディアラの話。神の娘エルディアラは人間の青年に恋をして、永遠の命も若さも美しさも人間の羨むであろう総てのものを捨てるのである。神である父の逆鱗に触れ捕らえられ殺されそうになる愛する青年を、エルディアラは神である父を裏切ってまで助け出す。二人は人間界へと逃れ、永遠の命を失ったエルディアラは人間となり、青年と共に限られた生を全うするのである。
少女の頃は総てを捨てるなど考えられなかった事なのに、今こんな立場に落とされて、その事に強く憧れる自分に気付く。この身分を捨てる事が出来たら、と。総てを捨てて、総てから逃げて、村娘になって羊を追ったり畑を耕して暮らせたら.....と。
婚礼の儀は確かに内輪のみで執り行われた。他国からの賓客は無く、列席したのはユトレア国王始め王妃、王家の面々に重臣達、そして儀式を執り行う神官と巫女達のみであった。すでに神殿に送られた幼い従姉妹達の姿など無論無く、ラドキースが健在だと偽り続けるハーグシュ王妃の姿も無論無い。
ユトレア風の裾を長く惹く婚礼衣装を着せられた亡国の王女は、数人の未婚の侍女達に介添されながら城内の礼拝堂を進み、正装姿の皇太子の横に並ぶ。
正装姿の皇太子の額には、ユトレア王国皇太子の身分を示す金の冠があった。その中央に嵌め込まれた宝石の、その透明感のある紺碧の色をセレーディラは覚えていた。あの時の少年も付けていた。あの時自分は無邪気にも、その石の美しさを褒めた事をセレーディラは覚えていた。でも鬱陶しいので冠を付けるのはあまり好きでは無いのだと、あの時の少年は言っていた。
皇太子は少ない観衆の見守る中、誓いの口付けをセレーディラの唇に落とした。花嫁の顔には、幸福も希望も恥じらいも歓喜も無く、唯、絶望の色だけがあった。