第四章 風の盟約(2)
弟子達への稽古はほぼ総てラドキースに任せ、悠々自適に近い毎日を送る老ウィスカードは、指南所の片隅で独り優雅に東国渡りの植木の手入れなどをしていた。植木鋏をぱちんぱちんいわせては数歩下がって植木の枝振りを確かめ、又ぱちんぱちんと鋏を鳴らす。
「我ながら見事じゃ。うむ」
独りご満悦の体で老人は雪の如く白いヒゲを撫でた。と...、ふと老ウィスカードの眉間が不機嫌に曇った。右手にしていた植木鋏をさりげなく左手に持ったかと思えば、次の瞬間には老人とは思えぬ俊敏な身ごなしで、腰の剣を抜き放ち様に振り返っていた。続いて鳴り響く鋭い金属音。一歩間違えれば斬られていたであろう。
老ウィスカードの剣は、背後から襲いかかって来た剣を見事に受け止めていた。老人の青灰色の鋭い眼光と、目も覚める様な鮮やかな翠緑の瞳とが睨み合った。
「まだまだじゃな。愚か者がっ」
老人の言葉に襲撃者の口から舌打ちが洩れる。
「隠居したんだから、一度位弟子に自信を付けさせる為と思って負けてくれたって良いだろうが」
相手は不満げに剣をひいた。後頭部でひとまとめに括った豪奢な巻き毛は鮮やかな赤。美の女神から余程の恵みを与えられたのであろうその豊かな胸に、細く縊れた腰。そして引き締まった臀部から伸びるすらりとした長い足。そのなりは艶やかさの欠片も無い男装であったにも拘らず、彼女の美しさを微塵も損なってはいない。
「そんな戯けた事を言っとる内は、わしには勝てんな、馬鹿者が」
そう叱りつけながら老師は剣を納める。今日はきちんと剣士らしく腰に剣を下げていた。外に出る時は剣を下げない変わり者の剣士が、自宅の指南所ではきちんと剣を帯びる。それはひとえに、この様な不測の事態の為である。
「早う鍛錬して参れ、ロジェリンよ」
「はいはい」
「返事は一度で良いっ」
「はーい」
昨日とは打って変わった剣士姿のロジェリンは、素直にくるりと踵を返して去るかと思いきや、一瞬後には再びその剣を振り被っていた。そして再び鳴り響く金属音。老師の左手で逆手に抜き放った剣がロジェリンの剣を受け止めていた。
「しつこいのう。しつこい女子は好かれぬぞ」
「ついでにデカい女も好かれぬと言いたいんだろうが? 師匠はっ!」
ロジェリンは憮然たる表情で、今度こそ剣を納めた。
「分かっとるなら、直したらどうじゃ?」
老師も辟易しながら剣を納める。
「デカいのをどう直せってんだい!?」
ロジェリンは女にしては大分背が高い。目の前の老師よりも拳一つ程は高いのである。
「お前のデカいのは、背じゃなくて態度じゃな」
老師に軽くいなされたロジェリンは、ふっくらと厚みのある唇を尖らせながら「むぅーっ!」と唸った。
「ほれ、さっさと行ってラディにその性根を叩き直して貰って来い」
老師は、あっち行けとばかりに片手をひらひらと振った。
かなり肉感的で蠱惑的な美女でありながら、このロジェリンは未だ独り身であった。婚期はとっくに過ぎていたが、それを本人が気にしていたかどうかは町人等の知る処では無い。このエデワ唯一の居酒屋の女主人は、夜はかなり婀娜っぽい姿をしているのだが、今は打って変わって化粧っ気すら無い男装姿であった。
ロジェリンの居酒屋にはうら若く魅力的な娘達が数人働いていたが、男達が悪さをしようにも、この剣豪が怖くて誰も手出しは出来ない。何せこのロジェリンは女ながらに、嘗ては公国でも名を馳せたウィスカード老の一番弟子なのである。そして.....、まだ若い時分に前のアルメーレ公の元での華々しい生活を切り捨てて、この片田舎のエデワに隠り、ほとんど金にもならぬ家業を始めて今に至る師匠が変わり者なら、この一番弟子のロジェリンも多分に変わり者であった。
ロジェリンの元々の生まれは、隣町の騎士階級の家であった。それ故、子供の頃からウィスカードの元に通って来た。そして十七の時に難関を突破し公国騎士団に入団した。
公都に旅立つ時、師はうら若かった弟子に諌めの言葉を送ったものであった。
『あまり喧嘩はするで無いぞ』
ロジェリンは師の諌めに元気な返事を返すと旅立って行った。しかし騎士団に正式な入団を果たしたその日の内に、彼女は派手な喧嘩を一発かましていた。騎士団の上司であった父と兄に大目玉を食らった事は言うまでも無い。その後は心を入れ替え品行方正に務めたかというとロジェリンにそんな事が可能な筈も無く、騒ぎが起こればその中心にいるのは十中八九はロジェリンであった。ロジェリンは姿も派手なら喧嘩も派手であったのだ。
休暇で里帰りした彼女は、晴れ晴れと師匠に言った物であった。
『師匠があまり喧嘩するなって言ったから、あまり喧嘩はしていないよ』
言外に喧嘩をしていると言った様な物であった。
公国騎士団の問題児と呼ばれたロジェリンは、どう言う訳か二十二の時に突然騎士団を辞めて、何を考えたのかエデワで居酒屋などを始めた。当然の如く激怒した父親は、彼女を勘当した。これにはウィスカードも呆れ果て、この弟子に尋ねた物であった。何故誰もが憧れるという華々しい公国騎士団を辞めたのかと.......。それに対してロジェリンはけろっと答えたものであった。
『金が貯まったから辞めたんだよ』
あまりに予想外の答えであった。
『まさかとは思うが、飲み屋なんぞをやる為にか?』
『ああ、そうだよ、師匠! その為にあたしは、あのけったくそ悪い騎士団で五年も我慢したんだ!』
拳を握りしめて力説する弟子に、ウィスカードはそれ以上何も言う気は起こらなかった。
剣を弾かれたとほぼ同時であった。ロジェリンはその場に固まった。喉元の急所すれすれの処に禍々しく光る剣先があった。
「ま、参ったよ、若先生」
ラドキースが目元を和らげ剣をひくと、ロジェリンは大きく息を吐き額の汗を拭った。
「又、負けちまった。これで幾度目だろうね」
「まだ無駄な動きが多いな」
「そうかい? 努力するよ、若先生」
ロジェリンはからっと言うと、姿勢を正した。
「お相手、ありがとうございましたっ!」
礼儀正しく、きびっと頭を下げるロジェリンのその身ごなしと口調は、彼女が確かに元公国騎士であった事を伺わせる。
「でもさ、若先生」
しかし口調は又ころりと元に戻る。
「あの食えないじいさんに負けるとやたらと腹立つんだけどさ、若先生に負けても全く腹が立たないのは不思議だねぇ、何でだろ」
「誰がじいさんじゃ?」
「あっ! 立ち聞きなんて汚いじゃないか、師匠!」
「お前程じゃないわいっ」
ラドキースは手巾で汗を拭きつつ、思わず笑いを零す。
「ラディよ、この馬鹿者の腐れた根性を叩き直してやれい。手加減は無用じゃ」
「腐れた根性は師匠に似たんだよっ」
「何を言うかっ、このっ」
拳を振り上げる短気な師匠からロジェリンはからからと笑いながら身を躱し、素早く己の剣を拾い上げて腰に納めた。
「じゃあね、あたしは帰るよっ。今晩あたりメシでも食いに来なよ若先生、エルと一緒にさ。良い魚が入ったんだ。師匠はどっちでもいいけどね〜。じゃあね〜」
ロジェリンはひらひらと手を振る。そして道場の端の方で他の子供達に交じり、張りぼてに向かって練習用の剣を振るっていたエルに大声で声をかけると、足取りも軽くさっさと出て行った。
「全く。年々無礼に磨きのかかる奴じゃ。腹立たしいから今宵はただメシでも食らいに行ってやるかっ」
ふんっと、鼻息を荒くして老人は言う。
「老師とロジェリンの言い合いは、いつも絶妙ですね」
ラドキースが笑いながら思った事を口に出せば、老人は憤慨する。
「なぁーにが絶妙じゃあ。一番どっかへ行って欲しかった問題児が、一番ここに長く居座っとる。あれが公国騎士団に片付いた時のわしの喜びがどれ程のもんだったか分かるか、ラディよ? ああ〜、これでやっとあの問題児から解放されて平穏な日々を送れると思ってなあ、それはそれは天にも昇る程の喜びであったよ。でもって、あれが騎士団を飛び出して舞い戻って来おった時のわしの落胆......。分かるか、ラディよ? 地獄に落とされた様な心持ちじゃったよ....。あれだけが未だわしの頭痛の種じゃ....」
「はあ.....」
終いには泣き出しそうな程の情けない声音になる老師に、ラドキースも返す言葉が見付からなかった。