第四章 風の盟約(1)
* 王子は、その名を偽り、その身を偽り、風の如く大陸を流れゆきた。
ユトレア年代記 第五十五章其の四より抜粋
北国アルメーレは、アルメーレ公が国を治める公国であった。その然程大きくも無い公国の外れに、エデワという小さな町があった。
エデワは片田舎の小さな目立たぬ町ながら、そこで長らく剣の指南所を構えている者がある。何故その人物が、貴族や騎士達の多く暮らす様な公都やその他の大きな町では無く、この様に辺鄙なエデワなどに指南所を開いたかといえば、それはその道場主の変わり者たる所以であろう。本人曰く、 “鼻持ちならぬ貴族のぼんぼんなんぞに指南してやる剣は無い” のだそうである。かく言う本人も、元々は貴族の出自であったのだが.....。
彼の望みは、平民達に自己防衛の為の剣技を授ける事であった。しかしその道場主も近頃ではめっきり年を取った。変わり者であったせいか妻も娶らずに、よって跡を継がせる子もいない。
その父娘がエデワにやって来たのは、かれこれ三〜四年程前の事であったか...、町の者達が、あの変わり者で天の邪鬼で、しかし愛すべき道場主の跡継ぎの心配を深刻にし始めてから間もない頃の事であった。
市場の喧噪の中を、真っ白なひげを携えた痩せた老人が、両手を後ろに組みながらゆっくりと歩いていた。頭には殆ど髪は残っていなかったが、その真っ白なひげは中々に立派であった。その皺深い顔は、老人がかなりの高齢である事を伺わせたが、背筋はぴんと伸び、その足取りは何ら危ういところも無くしっかりしたものであった。騎士の様な身なりをしていたが、剣は下げていない。これが町の中では知らぬ者の無い変わり者の道場主、ウィスカード老人であった。
「おっ、じいさん。何だい? 女物の髪飾りなんぞに興味示したりして」
ウィスカードがふと足を止めて覗いた屋台の主人が気さくな声をかける。
「じいさんとは何じゃっ、失敬な」
「隠居したんだから、じいさんでいいだろうがよ?」
機嫌を損ねる老人に、銀細工屋の主人は平気で軽口を叩く。
「うるさいわいっ! つべこべ言わず、ちょっとそいつを見せてみろ」
口をへの字に曲げたまま、老人は髪飾りの一つを指差した。
「へっ? これ? はいよ。またエルちゃんの機嫌取りかい? ったく、エルちゃんには甘いんだからなあ、じいさんは」
「それが師匠に向かって言う物言いか? この馬鹿者がっ」
毒突きながら老人は髪飾りを手に「う〜む」とうなり、他の髪飾りへと目を移してみる。
「どうも分からんのう....。エルにはどんなのが良いのかのう?」
「そうだなあ、じいさんの趣味はちょっと年寄り臭いよなあ。エルみたいな年頃はなあ、こういうのを喜ぶんだよ」
そう言って、店主はリボンに小花をあしらった細工の髪飾りをつまみ上げた。
「うむ、悪く無いのう。エルに似合いそうじゃ。それにするぞ。綺麗に包んで、リボンもかけてくれ。エルの誕生日の贈り物なんじゃからな」
「え? 何っ? エルちゃんの誕生日なのか? 止めた、これ売らねっ。俺からプレゼントしよっと」
「何を言うか、お前は!」
「何だ、うるさいと思ったら先生か。何揉めてるんですかい、今日は?」
隣の店の主人が顔を覗かせた。
「おお、今日はエルちゃんの誕生日なんだってさ」
細工屋の主人は答えにならない言葉を返す。
「え、そうなんかい? 祝い事すんですかい? 先生」
「うむ、わしの家でな」
老人は重々しく頷いた。
「へえ、俺も行っていいですかい、先生?」
「おっ、俺も俺も」
「俺も行きてえ!」
「何だ何だ、俺もっ!」
耳聡い者達が回りから口々に叫んだ。
「やれやれ」
老ウィスカードは呆れ顔で溜息を零した。
日が傾いた頃合いに数人の人影が、思わず胸一杯に吸い込みたくなる程の良い香りを漂わせながら、この小さなエデワの唯一の道場へとやって来た。
「おや? 何だか騒がしいね」
道場の中から洩れ来る喧噪に、豪奢に渦巻く赤毛を背に垂らした婀娜っぽい女が呟いた。
「まだ練習してるのかしらね? ロジェリン姐さん」
可愛らしい口調で、傍らのうら若い娘もまた呟いた。
「そんな筈は無いんだけれどねえ。今日は早くに切り上げるって師匠も言っていたし....」
ロジェリンと呼ばれた艶やかな長身の女は、柳眉を不審気にひそめて、鎧戸の開け放たれた窓越しから道場を覗き込んだ。
「ありゃりゃっ!?」
美しい顔立ちには何やらそぐわない間の抜けた声が、その整った赤い唇から発せられた。付き従って来たうら若い娘と、もう一人の寡黙な青年が、両手で鍋やら大皿やらを大事に抱えたままロジェリンの後から道場を覗き込んだ。
「わぁ〜? 何だか、皆さん勢揃いね。子供達まで...」
うら若い娘の弾んだ声に、背後の寡黙な青年も頷いた。
「何をそんな処から不審者みたく覗いとるのじゃ、お前達は?」
窓に並ぶ三つの雁首に真っ先に気付いたのは、道場主のウィスカード老であった。
「何だい? 今年は随分と人を呼んだんだね、師匠」
窓から入り口に回り道場に足を踏み入れたロジェリンは、両手にバスケットを抱えたまま、出迎えた老人に呆れ顔を見せた。
「呼んだ覚えはないわいっ。あやつらが勝手に押し掛けて来たんじゃわい」
わいわいと賑やかにテーブルを出したり何だりしている男達や、パイをつまみ食いしようとした子供達の手を、片端からぴしゃりと叩いている女達や、叱られ逃げ回る子供達の様子を横目に、老人は眉間に皺を寄せた。
「はははっ! 今年は賑やかでいいや。エルもきっと喜ぶよ、師匠」
大柄な美女は朗らかに笑うと、連れ達とともに町人達が用意したテーブルに持参した料理を並べ始めた。
父娘はその宵、ウィスカード老から招待を受けていた。ラドキースが師範代を務める指南所の主は、毎年エルの誕生日をささやかながら祝ってくれた。エルは今年も楽しみにしながら父と手を繋いで道場へと向かった。だが父娘が老師を尋ねると、今年は随分と賑やかな歓待を受ける事となった。今年は老師の住居の方では無く、道場へと招き入れられた。そしてそこには老師とロジェリン達だけでは無く、顔見知りの町の人々や、エルの友達も集まっており、そろって父娘を出迎えてくれたのである。エルはびっくりしてしまった。
あちこちから “おめでとう” という声が飛び交って来る。こんなに大勢の人々に誕生日を祝われるなど、エルには生まれて初めての経験であった為、頬を染めすっかり照れてしまったが、それでもエルは総ての人々の頬に可愛い口付けを降らせて回った。
「忝い、老師、娘の為に」
ラドキースがウィスカードに礼を述べると、老人は何の何のと手を振った。
「わしは何もしておらん。こやつ等が勝手に押し掛けて来よったのじゃ。全く呆れた連中じゃ。内緒事もおちおち出来やせんぞ、ラディよ」
そんな憎まれ口を叩きながらも、ウィスカードの機嫌は上々である。
「老師様っ! どうもありがとうっ!」
エルが駆けて来て両手を広げたので、ウィスカードは身を屈めて少女をぎゅっと抱き締めた。普段は怒ってばかりの偏屈な老人も、このエルを前にすると途端に目尻を下げる。
「誕生日おめでとう、エルや。これはわしからの心尽しじゃ」
そう言って老人は懐から小さな包みを取り出すと少女に手渡した。
「老師様...」
「早う開けてみろ、エル」
老人に急かされ少女は父を見上げた。父は微笑みながら頷いたので、エルは嬉しそうに包みを開けた。
「わあ....、きれい.....」
つるりと輝く銀細工の髪飾りに、エルは溜息混じりの呟きを洩らした。
「気に入ってくれたかのう?」
エルは、父譲りの艶やかな黒い瞳を輝かせて大きく頷くと、老師の首に抱きついた。
「ありがとう、老師様! 大切にします!」
「はっはっはっ! そうか、良かった良かった」
老師は上機嫌に笑い声を上げた。
「へえ〜、可愛いじゃないか、エル」
婀娜っぽい女がエルの手元を覗き込んでいた。
「師匠にしては趣味が良いじゃないか」
「わしにしてはってのは、余計じゃ」
「ちょいと、付けてごらんよ」
言うやロジェリンは、エルの肩よりも心持ち長い金褐色の髪を手櫛ですいすい梳かすと、エルの額と左右の髪だけを後ろに纏めて、真新しい髪飾りでささっと留めてやった。
「いいよ、可愛いよ、エル」
「ありがとう、ロジェリン」
回りの者達も、しきりに可愛い可愛いと褒めちぎる。
「父様、どう?」
エルは父の前でくるりと一回転して見せる。嬉しそうに顔を輝かせる娘に、初めて会った日の妻の面影が重なりラドキースは目を細めた。
「若先生ったら、何か言っておあげよぅ」
ロジェリンに突つかれて、ラドキースは低い笑い声を零しながら 「すまぬ」 と呟く。
「出会った頃の、お前の母を思い出した」
「母様を?」
「ああ...。そうしていると良く似ている。その飾りはお前の髪によく映えるな、エル」
「そうじゃろう、そうじゃろう? わしもそう思ったのじゃよ」
そう言って老師が笑い声を上げれば、回りの面々から様々な突っ込み声と笑いが沸き起こった。
「父様、今日は本当にびっくりしました」
「そうだな、私もびっくりした」
父娘は楽しい時を終え、暗闇の中を手を繋ぎながら家路についていた。灯りといえば、ラドキースの手にしている松明のみである。
「お前にとって、あんなに賑やかな誕生祝いは初めてであったな、エル」
「はい」
「楽しかったか?」
「はい、とっても! 父様は?」
「私もだ。楽しかったよ、エル」
二人は町外れの林の中の、小さな煉瓦造りの家に住んでいた。廃屋になっていた物を、ウィスカードのツルの一声で町の人々が綺麗に直してくれたものであった。
家に帰ると、父は粗末な獣脂の蝋燭を灯し娘の名を呼んだ。
「なあに、父様?」
父は布に包んだ細長い品を取り出して来ると、首を傾げている娘の前のテーブルの上に置いた。
「父からの贈り物だ、エル」
エルはたちまち嬉しそうな笑顔になり、その布を剥ぐった。それは小振りな長剣であった。
「そろそろ、剣を持っても良いであろう。鋼の重さに慣れる意味でもな」
エルはうっとりと剣を取って、そうっと鞘から抜いてみた。練習用の刃先を潰した剣などでは無かった。乏しい炎の灯りを受けた鋭い刃先に、エルは感動の眼差しを落とした。そして、そうっと剣を鞘に戻すと父へと駆け寄りジャンプした。
「父様、ありがとう!」
ラドキースは笑いながら娘を受け止めて抱え上げると、頬にちゅっと口付ける。
エルはこの日、十歳になった。