第三章 泡沫(5)
翌日、目を覚ましてからの幼いエルは、父親の腕の中でずっと泣き続けていた。泣いて泣き疲れて眠り、そして目覚めては又泣いた。
ラドキースは逝ってしまった妻の傍らで、ずっと幼い娘を腕の中に抱いていた。これ以上の絶望があるであろうか。祖国を裏切る事を厭わぬ程に愛していたというのに、己が命を投げ出しても良いと思う程に愛していたというのに、こんなに早く彼女は逝ってしまった。奪われてしまった。失われてしまった.......。
今日もシュナは午前中に母の畑仕事を手伝うと、大急ぎで昼食のパンを呑み込んでエルの家へと駆け出した。いつもの様に家の前の丸太の上にエルの姿は無かったので、シュナは扉の前まで駆けて来ると小さな拳で叩いた。暫く待ったが誰も出て来ない。シュナは、エルの名を呼びながらもう一度扉を叩いた。すると、暫くしてからエルを抱き抱えたラディ先生が姿を現した。
「こんにちは、せんせい。きょうははやくかえってきたんだね」
いつもならまだ帰宅していないはずの先生の姿に、シュナは嬉しくて元気な声を上げたのだが、すぐに違和感に気付く。エルが先生の首にしがみついたまま顔を上げようとしないのである。そして時々しゃくり上げている事に気付く。
「エル? どうしたの? ないてるの?」
シュナはびっくりして仲良しの少女に声をかけ始める。
「シュナ、おいで」
先生は扉を閉めるとシュナに片手を差し出した。
「うん、ラディせんせい」
シュナは素直に手を伸ばし、ラディ先生の大きな手を取った。先生は言葉少なにシュナをセリーおばちゃんの寝室へと連れて来た。
「おばちゃん、ねてるね、ラディせんせい」
「ああ....」
蒼白い顔で静かに眠るセリーに、シュナは幼いながらにも気を使って声音を落とす。
「シュナ」
先生がシュナの手を放すと、胡桃色の頭の上にそっと手を置いた。
「セリーは、永遠の眠りに就いてしまった」
「えっ!?」
「もう、目覚める事は無いのだ。だから別れを告げてやってくれ」
先生の言った事がシュナには分からなかった。
「おばちゃん、おきないの?」
ラディー先生は答えず、唯小さく頷いた。それがどういう事なのかシュナには分かりたくなかった。良い事ではないと思ったのだ。分かりたくなくて寝台のセリーに手を伸ばした。
「セリーおばちゃん? 起きて、セリーおばちゃん?」
シュナは動かぬセリーの肩を揺さぶった。揺さぶり続けた。
ラドキースとエルは、セレーディラを家の傍らの丘の上に葬った。
身を清め清潔な服を着せてやり長い金褐色の髪を梳り整えてやると、ラドキースは彼女の手に守り刀を握らせた。嘗てラドキースがセレーディラに与えた一振りであった。そして沢山の野の花と共に大地に還した。シュナとシュナの母親、そして墓堀人達だけの寂しい葬儀であった。
「こんなに早く逝っちまうなんてねぇ...、セリー.....」
セレーディラと仲の良かったシュナの母親は、涙を零しながら野の花で編んだ花輪を真新しい墓に供えた。
やがて墓堀人達も去り、シュナとシュナの母も気を使いその場を去った。人のいなくなった墓の前に、ラドキースは幼い娘を抱えたままいつまでも跪いて項垂れていた。彼女を失った今、生きる気力さえ失いそうであった。エルも涙が涸れてしまったのであろう。無表情のまま父の肩に凭れたまま動かなかった。日が暮れた頃になって漸くラドキースは娘を抱き上げて丘を降りた。
シュナの母親は、父娘の為に夕食の仕度をしておいてくれたらしく、台所の鍋には煮込んだ野菜のスープがあった。それを器によそってみたが、とても食べる気にはなれなかった。幼いエルも同様で、全く食べようとはしなかった。父娘は互いにスープには全く手を付けぬままにテーブルに座っていた。
「エル、おいで」
ラドキースは項垂れたままでいた娘を抱き上げると、自分の膝の上に座らせた。そして娘の首に指輪の下がった銀の鎖をかけてやった。
「お前の母の形見の品だ」
「かあさまの?」
「ああ。母様がお前にと言って残した。これを母様だと思うが良い。だが決して人に見せてはいけない、エル。誰にも見せてはいけないし、誰にも話してはいけない。良いな」
「はい、とうさま」
エルは泣き腫らした目で父を見上げた。
「お前の母は逝ってしまったが、いつでもお前の事を見守っているであろう。姿は見えなくとも、いつでも近くにいるであろう、エル。だから元気を出そう」
エルは素直に頷いた。ラドキースは微笑み指輪を娘の服の中にしまってやると、抱き締めた。娘に言い聞かせた言葉は、そのまま己に言い聞かせた言葉であった。セレーディラが逝ってしまった今、彼女の残してくれたこの幼い娘だけがラドキースの総てとなった。
それから、日に一度は丘の上のセレーディラの墓へと足を運ぶのが父娘の日課となった。そしてまた、その墓の前がエルとシュナの遊び場となったのだ。