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ユトレア年代記  作者: 秋山らあれ
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第三章  泡沫(4)

 





 「綺麗な髪だ事.....」


 フフフっと、少女の様に可憐な笑い声を零しながら、セレーディラはエルの少し癖のある金褐色の髪を梳いてやっていた。愛おしげな眼差しで、愛おしげな優しい手付きで、丁寧に丁寧に幼い娘の己と同じ色をした柔らかな髪を梳いてやっていた。寝台の上に座って母に髪を梳いてもらうエルは嬉しくて仕方が無い。



 エルの母が寝台を離れられなくなってから、もう一年にもなる。エルの物心付いた頃から、線の細かった母は時たま気分が優れずにうずくまる事があった。そんな時の母の顔色は決まって真っ白で、エルはとてつも無く恐ろしくなり母に縋って泣き出したものであった。

 『泣かないで、エル。母様はちょっと目眩がするだけなのよ』

 母は目を閉じ俯いたまま手探りでエルを抱き寄せると、決まって弱々しい声でそう言ったものであった。父は市場で鳥の肝などを買い求めて来ては母に食べさせ、シュナの母親も心配し、その頃から畑で取れたほうれん草やチシャや蕪などをちょくちょく持って来てくれるようになった。だがエルの母が目眩を起こしてうずくまる頻度は増してゆき、気を失う事さえも起こって来た。父は幾度か母を医者へと連れて行ったが、ほんの数度の事であった。何故なら、その後は医者を家まで呼ばなければならなくなったからであった。ある日突然、母は鼻から夥しい量の血を流し倒れ、そして寝込む様になったのだ。


 父はある朝、長剣を鞘ごと腰から外すと、その柄にきつく巻き付けてあった布を外し始めた。エルは、父のする事を大人しく見ていた。父の手が剣の柄の布をするすると解いて行くその様が、幼いエルには何やら魔法めいて見えた。

 『とうしゃま、なにしてるの?』

 今よりもさらに拙く舌っ足らずであった口調でエルが父に尋ねると、父は微笑んだ。

 『さて、何をしているのだろうな....?』

 『なあに? なあに? おしえて、とうしゃま!』

 せがむエルに、父はただ微笑みながら作業を続けた。そして、やがて布が取り払われると、その下からまるで空の星の様な石が現れた。

 『わあ、おほししゃまだぁ!』

 エルの感嘆の声に、父は喉の奥から短い笑い声を洩らした。

 『みしぇて、みしぇて、とうしゃま!』

 エルが父の膝に駆け寄ると、父は露になった剣の柄に嵌め込まれていたきらきらと輝く大きな石を見せてくれた。

 『わあ〜、おほししゃま、きれ〜い』

 『これは金剛石という石でな、とても堅くて強い石なのだ』

 『どうして、こんなにきれーなおほししゃま、かくしてたの? とうしゃま?』

 『人に見せるべき物では無かった故だ』

 『どうして? とうしゃま?』

 『この石はとても貴重な物でな』

 『 “キチョー” ってなあに?』

 『とても珍しく、なかなか手に入らない品という事だ。それ故、金に換えればなかなかの額になろう。そういった品は、むやみやたらに人目に曝すものでは無いのだ』

 『ふう〜ん』

 小さなエルには今一つ良く分からない点もあったが、父の言う事である。それは正しい事なのだと小さなエルは納得した。

 『この石を売って母様の薬代にしようと思うのだ』

 『かあしゃまの、おくしゅりだい?』

 『ああ。お前の母は毎日薬を飲まねばならぬ。それに、滋養のあるものを食べねばならぬのだ。母様に早く元気になって欲しかろう? エル?』 

 『うん!』

 『これを売れば、当分の間は母様の薬代に困る事も無かろうし、滋養のある物を沢山食べさせてやれば病もきっと良くなろう』

 『うんっ! とうしゃま!』

 エルは瞳を輝かせて大きく頷いた。


 そして.....、ほんの数ヶ月前に、父は馬をも売った。エルとシュナの大好きな栗毛の馬であった。父は馬を売りに行く前に、エルとシュナの小さな身体を抱き抱えながら馬に乗せてくれた。そしてその後に、二人の小さな肩を両手に抱きながら静かに詫びた。もう彼とはお別れなのだと告げて......。エルもシュナも、ぐっと我慢した。幼いながらに、その別れの理由を悟ったからであった。込み上げて来るものを必死で堪え、曇る瞳を幾度も幾度も拳で拭い、エルとシュナは小さな手と手を繋ぎながら、父に連れられて行く大好きだった馬を見送った。だが病に伏せる母にはその事は一切告げなかった。



 病に伏せる母も身体の調子の良い時は、半身を起こしてエルの髪を梳いたり綺麗に編んだりしてくれた。そして今日も気分が良かったらしく、エルを寝台の上に引っ張り上げると丁寧に髪を梳かし綺麗に編み下げにし、そして粗末ながらも可愛らしい刺繍の入ったリボンで結んでくれた。

 「ほうら出来上がり。とても可愛らしいわ、エル」

 「ありがとう、かあさま。こんどは、あたしがかあさまのかみをすいてあげる」

 「まあ、嬉しい」

 母は静かに微笑みながら、一つにまとめていた髪をほどいた。エルは櫛を握り、母の背に回り込んだ。エルは、母の緩やかに波打つ長い髪に触るのが大好きであった。

 「かあさまのかみ、なが〜い」

 母の腰の辺りまである髪に、エルははしゃぎ声を上げる。

 「そうね、少し切った方が良いかしら?」

 「ううん! きっちゃだめぇ」

 「そう?」

 「うん。だって、とってもきれいなんだもん」

 フフフっと、母がまた笑い声を零した。エルは一所懸命に母の長い髪を梳かした。母にしてもらった様に、幾度も幾度も梳かした。そして小さな手でエルは母の髪を編み始める。編んではほどき、ほどいては編み、小さな手でそれを幾度も幾度も繰り返した。母は娘が飽きるまで、嬉しそうな表情のままじっとしていた。娘の好きな様にさせてやりながら、母は他愛も無い言葉を娘にかけた。

 「かあさま、やっぱりじょうずにあめない....」

 やがてエルは、いつもの様に音をあげた。

 「もう少し大きくなったら、きっと上手に編める様になりますよ、エル」 

 母は身を捻って、少ししょんぼりと肩を落としている娘を抱き寄せた。

 「エルは優しい子ね。ありがとう。大好きよ」

 「あたしも、かあさまだぁ〜いすきっ! とうさまもっ!」

 エルは、ころっと顔を輝かせて母に抱きつく。母の胸は今日も薬湯の香りがした。

 「次の生でもエルと父様に会いたいわ...」

 母はエルの額に頬ずりしながら、うっとりと言った。

 「 “つぎのせい” って、なあに? かあさま?」

 「次に生まれて来る時もって事よ、エル」

 「ふうん。エルも “つぎのせい” でも、かあさまととうさまにあいたい」

 「じゃあ約束しましょうか、エル」

 「うん、かあさま」

 母は幸せそうな微笑と共にエルをぎゅっと抱き締めた。



 その日の夜、エルが寝た後にセレーディラは自分の首から下げていた鎖を外してラドキースに手渡した。

 「これをいつか、エルに渡してあげて下さいませんか?」

 鎖には小振りな指輪が下がっていた。ハーグシュの星に羽と百合の交差する紋。ハーグシュ王女の紋であった。指輪の内側にはセレーディラの本名が刻まれていた。

 「そなたが渡してやった方が、エルも喜ぶであろうに....」

 セレーディラは答えずに、ただ微笑む。それがあまりにも儚く見え、ラドキースの胸を締め付ける。

 「貴方にお会い出来て、本当に良かった、ラドキース様」

 「私もだ、セレーディラ」

 ラドキースは横たわる妻の髪をそっと撫でながら、その血の気の無い唇に口付けを落とすと、優しく囁く様に答えた。

 「国を後にして後のわたくしは、とても幸せでした。とても、とても.....。貴方のお陰です、ラドキース様....。来世でも、貴方にお会いしたい...」

 「探すとも、そなたを。必ず」

 「約束して下さいますか?」

 セレーディラもまた囁く様な声で言葉を紡ぎ微笑んでいた。まるで少女の様な無邪気な微笑であった。

 「ああ、剣に誓って」

 ラドキースは微笑みながら答える。すっと涙が零れた。セレーディラの折れそうな程に細い腕が伸び、夫の頬に触れた。

 「愛しているわ....心より...、これからもずっと.......、ラドキース様....」 

 消え入りそうな甘い声音であった。

 「私もだ、セレーディラ....。未来永劫、そなたを想っている」

 ラドキースの囁きに、セレーディラは幸福そうにゆっくりと青空色の瞳を閉じた。そして静かに息を吐き出したかと思うと、ラドキースの頬から力無くその細い手を落とした。

 「セリー? セレーディラ?」

 ラドキースは力尽きた妻の手を握る。

 「眠ったのか? セレーディラ?」

 だがしかし、セレーディラからの息の音は最早聞こえては来なかった。

 「もう暫し、声を聞かせてはくれぬのか? セレーディラ?」

 ラドキースは瞳を隠したままの妻の身体を抱え、口付けを落としながらその名を幾度も呼ぶ。動かなくなった蒼白い頬を優しく撫で、髪を撫で、話かけ名を呼び続ける。妻の頬に音も無く落ちる透明な水滴を、幾度も幾度も優しい手付きで拭ってやりながら、震える声で名を呼び続けた。

 「私達を....、置いて逝くのか...? セレーディラ?」

 幾度呼んでも、鮮やかに美しかったあの青空色の瞳を見せてはくれぬ妻の首筋に、やがて顔を埋めてラドキースは声を殺して泣いた。

 「置いて逝くな....、セレーディラ....」

 掛替えの無いものが一つ、指をすり抜け奪われてしまった。

 「置いて逝くな.....私達を.......」

 

 ラドキースはセレーディラの亡骸を夜通し抱き締め、その豊かな髪を涙で濡らし続けた。神などいないのだと思った。




 

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