第一章 終焉と苦悩、そして.....(1)
五年に渡る戦が、その日終わった。
ユトレア王国とハーグシュ王国、隣接する両国間の戦いであった。ハーグシュはユトレアに敗れ、国王と皇太子は元より、その他の王族男子達に主立った有力貴族達も悉く処刑された。王家の女達は当然の如く囚われの身となった。
ユトレア王国民達は一様に終戦を祝った。心身共に疲弊していたが、戦が終わった以上これより状況の悪くなる事は無いと貧しい者達は考えた。
ハーグシュ王国の民達も又、命と生活が保障されると取りあえず胸を撫で下ろした。これ以上戦の為に飢えるのは沢山だと、誰もが思ったのだ。
ハーグシュ王妃は囚われの身となって後ユトレアへ護送され、宮殿の一室に監禁されたその日の晩に敷布を引き裂き縒って綱を作ると、それを寝台の天蓋と自らの首に絡めて縊れて死んだ。その事実は、まだ他の囚われの女達へは報されていない。
セレーディラは窓辺に佇んでいた。外を見下ろすと相変わらず衛兵達がこちらを見上げている。彼女はもう長い事、そうして窓辺に佇んでいた。昨日も一昨日も、そうして恐ろしく進みの遅い時をやり過ごした。
父である国王も五人の兄達も皆、首を落とされた。今ではセレーディラがハーグシュ王の唯一残された子であった。セレーディラは思い悩む。己は生きるべきなのか、死を選ぶべきなのか.....。誇りを捨て戦利品としての立場に甘んじるべきか、誇り高きハーグシュ王女として自害すべきか.....。ユトレアの侍女達に始終監視されてはいたが、死のうと思えば出来ない事も無い筈である。
誰かが部屋に入って来た様だったが、セレーディラは振り返りもしなかった。大方監視の交代に訪れた侍女であろうと思ったのだ。しかし床を打つ靴音と剣鞘の鳴る音に、それがどうやら男であるらしい事をセレーディラは覚る。硬質な靴音がセレーディラの背後で止んだ。
「ご機嫌は如何か? セレーディラ姫」
非常に素っ気無い口振りで機嫌を尋ねられ、セレーディラはゆっくりとその声の主を振り返った。そこには漆黒の髪に漆黒の双眸の青年が立っていた。見るからに剣を扱う者らしい締った体付きをしている。セレーディラに対し貴婦人への礼を見せるでも無く、にこりともしない表情は、整っていただけに酷く冷たく見えた。セレーディラは再び視線を窓外へと移す。
「わたくしの機嫌が良いと思われますか? 黒将軍様」
「思わぬ」
即座に率直な答えが返された。暫しの沈黙を置いて黒将軍と呼ばれた青年は再び口を開いた。
「報告があって来た。ユトレアはそなたを正式に皇太子妃として迎える事を決定した」
「七年前に交わされた婚約を違えずに、わたくしを娶って下さるのですか? ラドキース様」
セレーディラの低く澄み渡った静かな声が、痛烈な皮肉を言葉にした。
「今となってはわたくしが唯一のハーグシュ王の子ですものね....。それが一番王国民を刺激せずにハーグシュを手に入れる方法なのでしょうね、貴方方にとっては.....」
「如何にも....」
皇太子の声も低く抑えられたものであった。突如、背を向けていたセレーディラの緩やかに波打つ金褐色の髪が揺れ、押し殺したかの様な笑い声が起こった。
「覚えておられますか? ラドキース様、七年前のあの日、貴方がわたくしに仰った事」
「そなたを迎えた暁には、必ず大切にすると言った」
考える間も無くラドキースは答えた。
「その言葉、今一度そなたに贈ろう」
セレーディラが再び小さな笑い声を立てた。
「大切にして下さるのですか? 優しいお言葉です事.....。でも愛しては下さいますまい?」
ゆるりと振り返るセレーディラの澄んだ青空の瞳がユトレア皇太子を捉える。
「貴方は、貴方とこのユトレアを、死ぬ程に憎む女を愛する事など出来ますまい」
「分からぬ..、可能かもしれぬし無理かもしれぬ、努力はしよう」
ラドキースは寸分も表情を違えずに答えた。
「貴方はわたくしにとって初恋でした。幼い頃に恋した貴方が今は死ぬ程憎い.....。何の因果でしょう.....。わたくしは前の生で余程の悪行を行ったのでしょうか.....。その酬いがこれでしょうか.....」
セレーディラの頬に涙が一筋流れた。それを隠すかの様に囚われの姫は、再びラドキースに背を向けた。
ラドキースは、初めてこのハーグシュの王女に会った日の事を想った。屈託の無い生き生きとしていた少女を想った。澄んだ空色の大きな瞳を自分へと向け、物怖じする事も無く微笑みかけて来た愛らしい少女を想った。その少女に自分は惹かれた。少女が成人した暁には、自分の元に嫁いで来るものと信じて疑わなかった。それなのに....、何が何処でどの様に壊れたのか....。些細な事から両国間の修復は効かなくなり、戦の末がこれだ。自ら率いた軍が攻め滅ぼした国の王女を、自らが娶らねばならないとは。かつて嫁いで来る日を心待ちにした少女を。今はこの自分をこれ程に憎んでいる娘を......。
「母の最後をお聞かせ願えませんか? 殿下」
力無い小さな声にラドキースは顔を上げた。王妃の死は、未だ王女には報されていない筈である。
「母君は健やかだ、セレーディラ姫」
偽るラドキースに、亡国の姫は又小さく笑った。
「隠されずとも良いのです。あの誇り高き母が、父と兄達を殺され囚われの身となりながら、おめおめと生きていられる筈がありません。母の死に様をお聞かせ下さいませ、ラドキース様」
一瞬、真実を話してやるべきかとラドキースは考えた。しかし口をついたのは偽りであった。
「母君はご健在だ」
死に様を話したりしたら、この姫も同じ死に方を選ぶのではと怖れた。
「信じません」
セレーディラは肩を震わせた。震えを押さえようとでもしているのか、両腕で己の二の腕を掴んでいた。ラドキースは歩み寄り彼女の腕に手を掛けた。セレーディラは幾筋もの涙を流していた。それを隠そうとラドキースの手を振り払い背を向ける。
「涙など、もうとっくに枯れ果てたと思いましたのに...」
「そなたは食事を摂ってはおらぬそうだな? 飢えて果てようという魂胆か?」
責めるでも案ずるでも無い淡々とした口調に、姫は首を横に振った。
「まだ分かりません。生きるが得か死ぬるが得か、まだ迷っております。わたくしは母程誇り高くはありませぬ故....」
「なれば取りあえず生きろ。ハーグシュの残党が決起せぬともかぎらぬ。死ぬ事はいつでも出来る」
その言葉にセレーディラは振り返り、敵国の皇太子を見上げた。涙に濡れた瞳を驚いた様に見開いて.......。
「食事を....、届けさせよう」
そう言い残すと、皇太子は去った。
セレーディラは部屋にぽつりと取り残された。監視役の侍女の姿が無い事に初めて気付いた。数瞬の後に侍女が姿を現した。皇太子は人払いをしていたのだろう。セレーディラは張り詰めていた気が急に緩んだのか、身体から力の抜けるのを感じた。そして視界は暗転した。